青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ブラック・ダリア』 ジェイムズ・エルロイ

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第二次世界大戦が終わって間もないころ、元ボクサーのバッキー・ブライチャートは、同じく元ボクサーでロス市警セントラル署巡査部長リー・ブランチャードのパートナーとして、ミラード警部補の下で捜査にあたっていた。バッキーと、リーは警察内部のボクシング試合で対戦し、互いに相手の力を認め合い、親友となった。リーの恋人ケイ・レイクは以前からバッキーのファンで、三人は意気投合し、友情を深めていった。

1947年1月15日、その事件は起こる。39丁目とノートンの角にある公園で女性の死体が見つかった。死体は胴体を二つに切断され、口は耳から耳まで切り裂かれていた。後の調べで分かったことだが、女の名はエリザベス・ショート。女優に憧れてハリウッドに出てきたが、夢破れて娼婦まがいの仕事で食いつないでいた女の成れの果てだ。女が好んで黒い服を着ていたことからアラン・ラッド主演の映画『ブルー・ダリア』に因んで「ブラック・ダリア」殺人事件と呼ばれることになる、現実にあった迷宮入りの事件である。

ちょうどその頃、リーが強盗殺人事件の犯人の一人として逮捕したボビーが、出所することになった。ボビーはケイの昔の男で、麻薬で縛りつけたケイをいたぶっていた。リーは、彼女を守るためボビーを罠にかけ強盗犯に仕立て上げたのだ。報復を恐れたリーは過敏になり、捜査途中で単独行動に走り、捜査から外され、ついには行方をくらましてしまう。

バッキーは、ミラード警部補の指揮の下、操作を続行するが、次々と出てくる重要参考人にもかかわらず捜査は難航する。失踪したリーの代わりに組まされたヴォーゲルの暴力的な尋問に我慢ができず、警報装置を作動させたことで、バッキーは特捜課を外されてしまう。そんな時、金持ちの娘マデリンと出会い、関係を持つ。事件を通じて<ブラック・ダリア>に魅せられたバッキーは、ケイを愛していながら、エリザベス・ショートに似たマデリンを抱いて欲望を満たすのだった。

実際にあった事件を小説の一要素として採用しながら、事件を解決してみせるというのは、ポオの『マリー・ロジェの秘密』を嚆矢とする、ミステリにはよくある手法。エルロイは、耳から耳まで切り裂かれた口やその他の常軌を逸した殺害方法を一つの仮説の下に解決して見せる。もとより迷宮入りの事件であるから、犯人は分かっても公には明らかにできない理由が必要になる。ユゴーの『笑う男』という文学作品まで引用した謎解きは、少々陰惨に過ぎて好みではないが、どんでん返しに次ぐどんでん返しは、最後まで気をゆるせない。

大金持ちの豪邸に招かれた探偵が、エキセントリックな姉妹に翻弄されたり、ポルノ映画が強請りのネタに使われたり、とチャンドラーの『大いなる眠り』を持ち出すまでもなく、ハードボイルド探偵小説のモチーフをふんだんに取り入れた書きぶりで、スタイルも今のエルロイ調とはちがった、どちらかといえば落ち着いたトーンで、LAには似つかわしくない湿り気を感じさせる。後に「暗黒のLA四部作」と呼ばれることになるシリーズの第一作にあたる作品だが、はじめからシリーズ化する気があったのだろうか。そう感じさせるほど、この一作は完結している。

とはいうものの、最新作『背信の都』で、エルロイを知った評者のような不案内な読者にとっては、どこか狐につままれたような気にさせられる作品なのだ。バッキーがヒデオ・アシダをたれ込んだことや、徴兵逃れのために警察学校に入ったことは、これを読む前から知っていたのだが、実はこっちの方が先に書かれていたわけで、ちょっとした既視感にとらわれてしまう。作家というのは、そんなにまで先を見通して構想を練っているのものなのか、と信じられない思いに襲われる。

「シェルシェ・ラ・ファム(女を探せ)」というセリフは、リーがバッキーに残したアドバイスだが、事件解決のためのキイ・ワードでもある。確かに事件の最奥部には女が隠れている。しかし、誰よりも蠱惑的なのはケイ・レイクだろう。このファム・ファタルは二人の男の間にあってどちらも夢中にさせながら、最後には均衡を崩し、男を破滅させずにはおかない。それでも、男はそういう女に惹かれてしまう。四十年近く時間を置いて書かれたはずの物語であるのに、ケイはどちらの作品においても別の男を頂点とするトライアングルを描いてみせる。

ブラック・ダリア事件を描いているために、猟奇殺人事件を主眼とするクライム・ノベルのように評されがちな作品だが、今では古典的に見えるほど、一貫してバッキー・ブライチャートの一人称視点で書かれている。そのため、読者は主人公の若い巡査がとんとん拍子で出世して、私服刑事になり、やがて組織の中で生きるために、自分を裏切るか、出世の道を放棄して自分に忠実に生きるか、という実社会で生きる者の誰にも覚えがある問いを前にして、悩み、悶え、自棄を起こし、女との情事に逃げる、という切実な姿を目にし、ああ、これは自分のことを書いているのだな、と気づくことになる。

たしかに、事件の概要は陰惨を極め、ハリウッドの成功者の家族は病んでいて、暴力は凄まじく、組織はすべてを隠ぺいする。まさに「暗黒のLA」だが、よくよく考えてみれば現実の日本に生きる我々の人生もどこが違うというのか。主人公バッキーはもちろん、その相棒のリー、恋人ケイの人生には、すべてをその人のせいにしてしまうにはあまりに残酷な不幸が影を落としていて、一つまちがえたら誰の人生においても、こんなことは起きるかもしれない、と思わせるものがある。すべてが終わってケイからバッキーに届く手紙に、再生の希望が託されていて、暗黒の中に一筋の光が見えたように感じられた。

『煉瓦を運ぶ』 アレクサンダー・マクラウド

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同じシリーズだし、マクラウドという名前だし、もしやと思って手に取ったら、帯にちゃんと書いてあった。あのアリステア・マクラウドの息子である。アリステア・マクラウドは、好きな作家の中でも特別な位置にいて、同シリーズから刊行されている三作はどれも傑作だと思っている。でも、父と息子はちがう。勝手に期待して裏切られても作家のせいにはできない。おっかなびっくり読みはじめたが、正直なところ、その完成度の高さに驚いた。上出来の短篇集である。

「ミラクル・マイル」は1500メートル走のランナーの「僕」が、小さい頃からの友人であり、ライヴァルでもあるバーナーと出場する競技会の一日をドキュメント映画のように追う。ホテルの部屋で交わされる二人の会話や回想される昔の記憶から二人が切っても切れない仲だということが分かる。それが結末の災難を呼び起こすことになる。ランナーとしてのピークを過ぎようとする者と今まさに頂点に達しようとする者、二人にしか分からないヒリヒリした感情の機微が伝わってくる。

まるで筋肉や腱の一本一本と会話するかのように描かれる肉体についての克明な描写が、この作家の持ち味である。暴力描写を得意とするのとはちがう意味での「肉体派」なのだ。観念より肉体によって、いま置かれている状況の切迫していることを読者に伝えようとする。しかも、それがスピ-ド感を持って精妙に書かれる。これは並みの才能ではない。見たものや聞いたことを書くことは誰にでもできる。しかし、肉体の内部に起きる変化とそれが引き起こす心理の推移をトレースするのは容易ではない。たくさん本を読んだら書けるというものではないからだ。

影響を受けた作家として父アリステア・マクラウドの他に、アリス・マンローウィリアム・トレヴァーの名が挙がっている。話の運び方や、回想視点の挿入、リズミカルでテンポのいい会話などは父やその他の作家からでも学べる。しかし、「神は(肉体の)細部に宿る」といった態の独自のスタイルは、やはりこの人ならではというものを感じさせる。その一方で、実体験でしか得られない特殊な肉体感覚の詳述という武器は、いつか消費されてしまいはしないかという危惧も覚える。まあ、その時はその時で、別の武器を手にしているだろうが。

子どもが持ち帰ったシラミとの闘いの渦中にある父親が、クリスマス休暇の帰郷を思い出す「親ってものは」。生まれて間もない子に熱のあるのを承知で十時間以上もかかる雪中ドライブを強行した挙句、嘔吐に下痢、高熱という結果に見舞われる。親と子という永遠のテ-マに若い父親の視点で切り込んだ悲喜劇だ。泣きたくなるほど悲惨な状況にある主人公を読者は苦笑と哄笑とで見守ることになる。幕間に挿入されるシラミの蘊蓄が楽しい。

表題作「煉瓦を運ぶ」は、「ミラクル・マイル」に似た味わい。煉瓦職人である主人公とその相棒二人のところに若いアルバイトが入ってくる。一日しかもたない他のアルバイトとは違って、ロビーは音を上げなかった。夏休みが明け、アルバイトの最後の日、「僕」らはロビーを誘って酒場に。そこにはお定まりの喧嘩沙汰が待っていた。変化してゆく街の姿を背景に語られるちょっと困った男たちの物語。よく晴れた真夏の太陽に違和感を感じる「僕」の想いが心に沁みてくる、いいエンディングだ。

河沿いに建つホテルの屋上から夜の川にダイブするのが、その当時の流行りだった。仲間とその場に立ったステイスは初めて海に行った時のことを思い出す。大きな波にさらわれ死ぬところだったのだ。苦手意識を克服したのはブラッドのレッスンのおかげだった。ステイスは最後のステップでつまずき、バランスを崩して落ちてゆく。走馬灯のように蘇るそこに至るまでの出来事。チェーホフ的な終わり方は読者に解釈をゆだねるもの。さて、どうなるのかと気を揉ませる「成人初心者Ⅰ」。表題は水泳のクラス名。

薬局に来れない老人や障碍者に自転車で配達する少年の目を通して、顧客たちの人物像をスケッチした「ループ」。雪の日の配達の困難さの描写にこの作家の特質が光る。老人の相手をしてやる優しい「僕」だが、厄介な客であるバーニーには近づかないようにしていた。ある日、いくら呼んでもバーニーが玄関に出てこなかった。窓から覗くと床に倒れている。心優しく賢い少年の巣立ちを描く清々しい一篇。

その界隈でただ一軒の貸家にはろくな客が入らなかった。レジーの家を除けば。八歳から十二歳の少年たち五人の出会いから別れまでを回想視点で描いた「良い子たち」。大人びた雰囲気を持つレジーという少年と「僕」たち四人兄弟が、初めは遠くから、そして次第に近づき、やがて家族の一員のような関係になるまでを、ホッケーというゲームを通して生き生きとと描き出す。

オンタリオ州ウィンザーという町はデトロイトに近く自動車工業で栄えた町。男は自動車工場に就職し、順調に仕事をしてきた。家族とともに休暇の旅行に出かけた時、事故に遭い妻と息子をなくした。明日は命日。事故現場に出向きたいが自分も脚に深手を負い、今は車に乗らない。男は娘に電話するが娘は忙しいのか出ない。彼は家のドアにメモを挟むと五十キロ近い距離を歩き出す。人生を賭けた仕事である自動車に家族を奪われた男が過去を振り返る。この徒労感と悲哀は他人事とは思えない。男が辿るルートが題名の「三号線」である。

アリステア・マクラウドの世界とは異なるが、短いセンテンス、無駄のないきびきびした叙述スタイルは、すぐれた短編作家の資質に恵まれている。モーパッサン風の凝ったオチに頼らず、チェーホフ風の余韻を残した終わり方に惹かれる読者も多いだろう。アリステア・マクラウドはもとより、ウィリアム・トレヴァーアリス・マンローの愛読者にも是非一読をお勧めする。

『人形つくり』 サーバン

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まず文章がいい。翻訳でこれだけの味が出せるのだから、もとの英文もきっと雅趣あふれる文章に違いない。1951年刊「リングストーンズ」、53年刊の「人形つくり」の中篇二作が収められている。どちらも、幻想文学の本道を行く格調高い作風で、この種のものを読む喜びをあたえてくれる。ただし、本を読む場所や時間に注意が必要だ。通勤電車での読書には向かない。炉端に火が燃える部屋まで用意せよとは言わないが、静かな夜半、お気に入りの椅子に腰かけ、シェードのかかったスタンドに灯りをともして読むくらいのことは心がけたい。何を御大層に、たかが本を読むくらいのことでと思われるかもしれない。しかし、この書物のかける魔法は繊細極まりないものなので、それくらいの配慮をしなければ、かかるはずの魔法にかからずに読み終えてしまうことになりかねない。

「リングストーンズ」は、いわゆる枠物語の形式を採用している。つまり、話者がはじめと終わりの語りを受けもち、中心部は別の作者あるいは話者が担当するという、古くからある物語形式である。その目的とするところは、合理的な精神を持つ通常の生活人を、信じられないほど不思議な物語世界に導き、ことが終わった後無事平穏な日常に帰還させるためである。逆に言えば、一昔前は、異様な物語の世界に身を浸すことは二度と帰ってこられなくなるほどの精神的ショックを読者に与えるものと考えられていたのかもしれない。

「わたし」は、友人のピアズと夏季休暇を過ごすため、ノーサンバーランド地方を訪れていた。イングランド最北端のこの辺りは、スコットランドとの境界に位置し、いまだに荒野の残る荒涼とした地帯である。楽しい食事も終わり部屋でビールを飲んでいると、ピアズがダフニという女性の話をはじめる。しっかりした女性で体育教師になるために大学で学んでいるが、夏休みに外国人の子どもに英語を教えるためこの地方に来訪中。ところが、ダフニから送られてきたノートには信じられない話が書かれていた。ピアズはノートを「わたし」に託す。読んでみろ、というのだ。

この夏ダフニが暮らしているのは、リングストーンズという電気も通わない谷間の僻地に建つ、塔屋のある石造りの館。そこには考古学を専門とするラブリン博士の他、アルメニアからきた三人の子どもと家政婦夫婦が住んでいた。子どもというのは二人の背の低い双子らしき女の子とすらっとした体躯のヌアマンという男の子だった。ダフニはすぐに仲良くなり、イギリスにも似合わぬ晴天続きの毎日を野外を駆け回って過ごすのだったが、次第にヌアマンによる支配を感じるようになる。

泥濘と羊歯とヒースに覆われた岩石だらけの崖に囲まれ、環状列石や戦車競技のコース跡といった古代の名残りを感じさせるリングストーンという土地が醸し出す独特の神寂びた雰囲気。雨の多い土地にもかかわらず毎日続く青空、とヌアマンが命じるレスリングや競走には何か隠された意味があるのか。そんなある日、ダフニはヌアマンが何かを作っている厩跡に足を踏み入れる。ダフニがそこで見たものとは。

ダフニの身に起きたことを調べるためピアズと「わたし」は、リングストーンズを訪ねるのだが、なんとそこは…、という怪異譚。ダフニがノートに残した物語と二人の捜索隊が迷った道筋が二重写しになり、ギリシア神話とイギリスに伝わる妖精の物語が重なり、荒れ果てたイングランド北部地帯と遠く離れた東方的異教的な香りが混然一体となった独特の世界が描かれる。ダフニの物語には合理的な説明があたえられ、物語が平穏の裡に閉じられようとするとき、世界にわずかに綻びが生じる。支配する者と支配される者との間に生まれる官能的な紐帯の強さを時計のバンドでほのめかす幕切れが鮮やか。

「人形つくり」は、文字通り人形制作にまつわる怪異譚。オックスフォード進学のためクリスマス休暇の間も学校に残ったクレアは、指導者であった若い女教師アン・オッタレルの突然の死で、すっかりやる気をなくしていた。ある夜、学校を抜け出したクレアは隣の森の中をちらちらする灯りに気を取られ、上っていた塀の上から落ちてしまう。灯りの主は隣家パストン・ホールの息子ニールだった。アンに代わり、その母親ミセス・スターンにラテン語を教えてもらうようになったクレアはいそいそとパストン・ホールに通うようになる。

ある晩、クレアはニールが作った人形たちによって演じられる芝居を見せてもらう。窓のすぐ外にある斜面に作られたミニチュアの森を舞台に髪型から服装まで精密に作られた人形たちは首を回したり、腕を曲げたりと、まるで人間のように動くのだった。魂の封じ込められた人形が命あるもののように動き出す、というのは今までにも多く語られてきた幻想怪奇小説のお気に入りの主題の一つ。

本作がそれらと異なるところは、人形つくりの視点でなく、人形のモデルとなる女性の視点で語られていること。人形つくりの過程が進んでゆくにつれて、クレアは自分の将来や新しく入ってゆく世界に目を向けることがなくなり、ただ人形の作り手であるニールの傍に留まりたいという思いが強くなってゆく。これも、支配、被支配の関係におけるマゾヒスティックな恋愛感情を描いたものである。

少女から女性に変わりつつある時期の女性に強いオブセッションを抱く男性がいることは少女監禁事件の例を引くまでもない。相手の意志を尊重せず、自分の思い通りに支配することでしか満足できない感情はおよそ恋愛感情とは言えない。ただ、そのような形でしか思いを遂げることができないパーソナリティというものが存在する以上、どこかでそういう欲動を昇華する必要がある。思うにサーバンという作家には、その種の性向が支配的だったのではないか。小説を書くことで社会に認められない行為に走らずにすんだのだろう。

ただし、創作意欲がどんなところから生じているにせよ、出来上がった作品の価値に何の関係もない。キワ物めいた主題を扱いながら、日本の盆栽に想を得た、ミニチュアの森をつくるというアイデアを生かし、他の作家にはない美しい奇想を出現させているところや、危ういイメージを醸し出しながら、読後に希望を感じさせる終わり方を大事にしているところなど、この作家には良質の作品を作り出す資質を感じさせられる。残された作品の少ないことが惜しい。

『背信の都』上・下 ジェイムズ・エルロイ

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1941年12月6日。いうまでもなく日米開戦前夜のアメリカ、ロサンジェルス。日系二世の市警鑑識官アシダは、自作の写真撮影装置を取り付けたばかりのドラッグストアで強盗事件に遭遇する。現場で捜査能力の高さを見込まれたアシダはその後に起きた日本人家族四人のハラキリ事件現場にも立ち会い、捜査に深く関わっていくようになる。その直後日本海軍による真珠湾奇襲攻撃が起き、アシダの立場は極端に悪くなる。米人からは卑怯なジャップ、日系人からは親米の裏切り者という烙印を押されてしまったのだ。市警からジャップを放り出せと吼える市長。アシダは次期本部長の座を狙うパーカー警部に取り入ることで当面の危機を回避する。

ビル・パーカーは市警改革の旗を振る切れ者だが、深刻なアルコール依存症に苦しんでいた。原因は過去の女性問題にあるらしく、妻がありながら街で金髪長身の赤毛女を見かけると振り向かずにはいられない。駆け出し時代、上司に賄賂の入った鞄運びをさせられた過去があるパーカーは署内にはびこる悪を一掃したいと考えている。規律に煩く、手を汚すことを嫌う性格は、上司や部下からは煙たがられ、"偽善者ビル”と呼ばれている。

同じアイルランド系ながらパーカーとはウマが合わないダドリー・スミス巡査部長は、ウィンク一つで人を味方につけ、必要があれば汚い仕事も平気でやる。チャイナタウンを仕切るボスの一人とは義兄弟の契りを交わし、店の地下にある阿片窟の常連で、仕事中はベンゼドリン(覚醒剤)を常用する。ハリウッドの大物にも顔が利き、政界入りする前のJ・F・ケネディには女優を斡旋し、人気女優ベティ・デイヴィスの恋人でもある。アイルランド独立戦争時に殺された父と兄の復讐のために十六歳で英国人を殺した過去を持ち、躊躇なく人を殺す悪徳警官であるのに、犯罪捜査においては優れた捜査手腕を発揮し、アシダの好敵手となるなど一筋縄では行かない人物。

この二人の狭間に立って翻弄されるのがアシダだ。本来なら捜査の第一線に立つことのない鑑識官でありながら、パーカーやダドリーに重用されるのをいいことに秘かに現場に侵入し、証拠品を奪うなど、アシダもかなり警察官として逸脱している。時節柄日本人に対する悪感情は常軌を逸しており、成績を挙げなければ母や兄ともども強制収容所入りになることは見えているからだ。米人からはトマトを投げられ、邦人からは唾を吐かれ、バーでは無視される、市警に唯一人残る日本人アシダの苦衷を察するに余りある。

男たちに混じって一人気を吐くのが元ボクサーの巡査リーの愛人ケイ・レイク。優れた才能や相手を魅了する容姿をもちながら、主義や信条と無縁で、どん底の人生を歩いてきた。その才能を見込んだパーカーは、リーの犯罪の暴露をネタに、ケイに“アカの女王”と呼ばれるクレアに近づき、共産主義シンパの仲間に潜入せよと脅す。戦後を見据えているパーカーは、ケイを共産主義シンパ内のモグラに育てるつもりだった。パーカーに反撥を感じながら惹かれあうものも感じるケイは、自らすすんでその任務に就く。

能力と資質は買いながら、あるいはそれ故に日本人を敵視するアメリカ。日本人嫌いの中国人と中国人嫌いの日本人。ヒトラーのナチズムに喝采をおくる反ユダヤやファシストのアメリカ人。太平洋戦争が勃発した時代の緊張した空気感がビンビン伝わってくる。そんな中、第五列(スパイ)を恐れ、日本人を強制収容する計画が進んでいた。空いた住宅や広大な農地を転用して濡れ手に粟の金儲けを考える男たち。イデオロギーレイシズムを利用して資産運用を図る巨悪を暴こうとする者。計画を知り、儲け話に加わろうと考える者。犯罪のプロたちの闘いの火蓋が切って落とされる。

大風呂敷を広げすぎて収拾がつかなくなったきらいがなきにしもあらず。あまりに大勢の登場人物に、誰が誰だったか巻頭に付された「主な登場人物」を参照しようとするのだが、それだけで4ページもある。名前だけ出てくる人物が重要な役割を果たしていても、あまりピンとこない。警察小説とはいっても、ミステリの一種。ちゃんと謎解きや、お定まりのどんでん返しが用意されている。何度も太字で挿入される「藤色のセーターを着た男とは誰だ?」が、それだ。分刻みの時系列で起きる同時多発事件を記述するために、作家は極端な手段をとる。まるでシナリオのような、身も蓋もないブツ切れの記述。話者の心の中で話される会話、いわゆる心内語は太字で現し、地の文に混入させる。読者は自分の頭で考える余裕を持たされず、あれよあれよという間に一気に大団円に放り込まれる仕掛けだ。

「巻末の登場人物名鑑」を見て驚いた。事件に関係する多くの著名人が実在の人物とされているではないか。主たる登場人物であるビル・パーカーがその人。アルコール依存症に悩み、前夫人を殴打、傷害の事実に加え、汚職への関与まで書かれている。それだけではない。ラフマニノフバーンスタインのような音楽家はいいが、映画俳優に至っては、ほとんどホモかレズビアンで、女優は実名で中絶経験を暴かれている。ハリウッドに対するオブセッションがあるのかもしれない。

ケネディ一家の醜聞については、公然の事実とされているから、今さら書いても暴いたことにはならないのだろうが、ジャックのご乱行など、娘である駐日大使が目にしたら、いい気分ではいられまい。同じ警察小説でも、日本の場合、首相などの仮名は当然、今話題の『64』など、事件の舞台となる県名まで「D県」だ。映画に出てくる外国名も架空の国になっているのが普通だ。何かと差しさわりがあることを考えてのことかもしれないが、この種の忖度自体が諸外国と比べ異様に感じる。報道の自由度の低下が話題になっているが、表現の自由自体がもともと低いということではないか。

切腹という儀式についての半可通な認識や、歌舞伎の面などという珍妙なものが披瀝されるのが片腹痛いが、エルロイほどの作家にして日本文化理解がこの程度なのだな、とあらためて思い知らされた。連日、素晴らしい日本を煽り立てるテレビに処方する丁度いい解毒剤となった。ただ、作家の日本人に対する姿勢はあくまでも公平で、アシダに向ける視線も正等かつ共感のこもったものである。あの時勢の中で、日本人に対する不当な扱いに対して抗議するFBI特別捜査官ウォード・リテルの存在はアメリカの良心を代表している。

これだけでも立派な長篇小説だが、この作品、映画にもなった『LAコンフィデンシャル』を含む《暗黒のLA四部作》の前の時代を描いた《新・暗黒のLA四部作》の第一作だという。この実在の人物と虚構の人物が絶妙に交錯する濃密な世界がまだ続く、ということがうれしくなる。と同時に、未読の《暗黒のLA四部作》を読まねば、という気が起きてくる。この壮大なクロニクルの入口をくぐったからには、最後まで行くしかないか。

『テラ・ノストラ』 カルロス・フェンテス

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冒頭の老婆の突然の出産に象徴される現代パリでの出来事が異様すぎ、これはSFなのか、それとも何かの寓話なのだろうか、と混乱をきたしそうなので、小説に限らず映画でも絶対はじめから順に見ていくのだ、という強いこだわりをお持ちでない読者は第二章「セニョールの足元」から読み始めることをお勧めする。そして、めでたく最終章まで読み終えたあと、第一章に戻ればいい。この驚嘆すべき物語は時間と空間を飛びこえた無数の挿話群がねじれ縺れあったあげく織り成す一つの円環構造を描いており、第一章と最終章は、三連の真珠のネックレスを首の後ろでとめるためについている金具のようなもので、それがなければ上手くまとまらないから存在しているだけで、物語で重要なのは、光り輝く真珠のほうなのである。

セニョールとは、慎重王ともあだ名されるスペイン王家のフェリペ二世のことで、カトリックに深く帰依し、異端思想を持つ各派をフランドルその他で撃破した後、今のマドリード郊外に霊廟と修道院を兼ねたエル・エスコリアル離宮を建てたことで知られる。このフェリペ二世の治世をもって旧世界におけるスペイン絶対王政は衰退してゆくが、その一方で大西洋を渡ったヌエバ・エスパニア(メキシコ)という新世界を統治することになる。

この小説は、代々続く近親婚の結果として病弱な体を持ち、また女と見れば片端から手を出した父美男王から梅毒をうつされ、その他通風やら横根やらありとあらゆる病魔に悩まされるセニョールが、神への祈りの中で自分の命と世界を終わらせるために、三十に及ぶ先祖の遺体を国中から移送させ、礼拝堂や地下墓所、修道院を併設する巨大な王宮を計画・造営してゆく間に起きるできごとを描く。絶対王政専制君主として、権力をふるうセニョールだが、彼は書面を読み、命じるだけ。それを実行しているのはグスマンという名の勢子頭である。このグスマン、後半では病を得たセニョールに代わり、新世界にスペインの威光を示す役割を果たすところからエルナン・コルテスに擬せられている。

こう書いてくると、なんだか大河歴史小説ででもあるかのようだが、とんでもない。セニョールの母は、女狂いの夫を墓地に埋めることを許さず黒塗りの馬車に棺桶を載せ、葬送の行列を仕立てて国中を回ったという、あの狂女ファナ。怪我の治療を許さず壊死した四肢を切断され、輿に乗って移動した。最期は、群衆に踏まれて襤褸屑のようになった姿で、目だけを残して壁のニッチに塗りこまれ、代々の王の墓所を見張るという壮絶な人生を生きる。

また、イギリスから嫁いだセニョールの后イサベルは、中庭で倒れたところ金属製のフープが重くて起き上がれず、王以外の誰も手を触れることが許されないという理由から、異端掃討の旅に明け暮れる王が帰国するまで三十三日間の間、そのままに捨て置かれる。その際経血の臭いで集まってきたネズミによって処女膜を食い破られるという憂き目に会う。その後イサベルは、マンドラゴラを育てたり、歴代王家の墓を暴いて遺体の欠片を収集しミイラのような人体を作り、悪魔の力を借りてこれを動かそうとしたり、次々と若い男を部屋に引き入れたりと、したい放題の放埓を尽くす。

ゴシック・ロマンスめいた奔放な奇想は、抹香臭いセニョールの聖遺物蒐集と対をなしている。セニョールがイサベルを抱かないのは、梅毒に冒された自分の穢れた肉体ゆえだが、近親婚による病んだ血統を残したくないという思いもある。若い頃、城から逃れたフェリペは森に住む仲間と将来の夢を語り合ったことがある。船に乗って新世界を目指したいというペドロ。世界から病をなくしたいシモン。神などない世界を目指すルドビーコ。自由に愛し合うことが幸福な世界を創るというセレスティーナ。彼らはフェリペに夢を問うが、彼は答えない。それどころか異端思想を奉じる大集団を組織して王宮に闖入させ、門を閉じて大虐殺させてしまう。
時は過ぎる。ルドビーコは、奇妙な縁によって王家の血を引く三人の子を養い続ける。肩甲骨の下に肉色の十字の傷跡を持ち、足の指が六本ある三人は、イサベラやセレスティーナ、狂女ファナとの出会いから王宮に出入りするようになる。

スペインを代表する文学作品といえば、セルバンテスの『ドン・キホーテ』だが、それに『ドン・ジュアン』、『ラ・セレスティーナ』という二つの戯曲を換骨奪胎して、三人の若者の物語に織り込んでいる。セルバンテスらしき人物は年代記作者という名で、この小説の執筆者の一人に名を連ねてもいる。もう一人はフリアンという修道士であり、画家である。フリアンは、イサベラの聴聞僧としてお傍に仕え、王宮の事情に通じている。オルヴィエートから運び込まれた絵画についてセニョールと語らう仲でもある。

第一部「旧世界」がセニョールやイサベルたちの話だとすれば、第二部「新世界」は、三人の若者の一人「巡礼者」が語る新世界メキシコにおける冒険譚。金髪の白人であることからアステカの伝説上の神ケツァルコアトルの再来と思われ、種族の長となり、数々の冒険をくり返しながら、神話的世界を生きるこの部分は、第一部とはまったく趣きを変えた異世界冒険譚となっている。この神話の世界が、スペインに伝えられ、グスマン(コルテス)らコンキスタドールを呼び寄せるきっかけとなる。

スペインは経典の民であるユダヤ教イスラム教、キリスト教徒が共に暮らす国であった。民族や宗教が異なっていても、あるいは異なっているからこそ、得意の分野を発達させ、利益を共有してきたのである。それが、ユダヤ教信者を排斥し、十字軍によってイスラム教と闘い、果ては同じキリスト教であっても、カタリ派やアダム教信者を異端として迫害、糾弾していたのが、フェリペの時代である。カトリックによる専制政治ではなく、他の宗教、宗派に寛容なゆるやかな国家を選ぶことはできないのか、という問いがルドビーコの視点として旧友であるフェリペに問いかけられる。

思弁的であり、哲学的でもある対話や晦渋なモノローグが多用され、紙面がびっしり活字で埋め尽くされた二段組1079ページという重量級の超大作は、正直なところ読むのに骨が折れた。飛躍も多いし、カバラ数秘術を用いた数合わせ的なところもあって、ついてゆくのがやっとである。ただ、小説的には魅力的な開かれたテクストを目指していて、人物造形も巧みである。新世界を夢みる若者集団に参入することができない、旧世界の申し子たるフェリペの鬱屈し沈潜し病み衰えてゆく自我の終焉も、おぞましすぎるほど書き込まれている。

これほど面白い小説が本邦初訳というのだから、まだまだ世界には読まれてしかるべき本が訳される日を待っているにちがいない。苦心の訳業にケチをつける気は毛頭ないが、誤字脱字と思われる箇所が散見される。訂正された版が出るように是非多くの人に読んでもらいたい。

六月に読んだ本

ひと月に15冊ということは、二日で一冊読んだことになる。書評を書くのにも時間をとられるから、実際は一日半で一冊くらいの見当になるか。後半、急いだせいか、書評があまり書けていない。一ヶ月に15冊というのはどんなものだろう。書評サイトなどを見ていると、皆さん、ものすごいペースで読書し、書評を書いておられる。速読術でもあるのかしらん、と思ってしまうほどだ。
仕事にしている人もいるから、素人の読書と比べるのもおかしいのだが。気になる作家が見つかると、つい続け読みをしてしまう。今月はイーユン・リーとオルハン・パムクが多かった。ダレルは、パムクの『黒い本』つながりだ。パナマ運河が拡張されたニュースが飛び込んできたのは、ル・カレの『パナマの仕立屋』を読んでいたとき。時々、こういうことが起きる。ユングのいうシンクロニシティだろう。『パナマの仕立屋』からはグレアム・グリーンの『ハバナの男』につながる。またいつか図書館の閉架書庫を漁ることになるのだろう。
今はカルロス・フェンテスの『テラ・ノストラ』という千ページ以上もある大冊に取り組んでいるところなので、とてもそんな余裕がない。なかなか手強いが面白くなってきたところ。読みでのある本だ。この後にはエルロイの『背信の都』上下巻が待っている。こちらも二段組で一巻四百ページをこえるが、警察小説は、スピード感があって読み出すと速い。
いわゆる文学書を読み続けていると、息抜きにミステリやスパイ小説が読みたくなる。息抜きのつもりで読んでいても、面白いと書評が書きたくなってくる。それで読書の時間が削られるのだから、あまり息抜きになっていない。もっとも仕事じゃないんだから、息をつめて読むほどのこともない。気楽にやればいいのだ。そこはありがたい。暑くなってきた。七月は何冊くらい読めるだろうか。
 
abraxasの本棚 - 2016年06月 (15作品)
白い城
白い城
オルハン・パムク
読了日:06月21日
評価4
楽しい夜
楽しい夜
-
読了日:06月27日
評価4
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『裏切りの晩餐』 オレン・スタインハウアー

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これぞエスピオナージュと呼ぶにふさわしい一作である。作者はジョン・ル・カレの後継者と呼ばれているというから、その評価のされ方がどれくらいのものかが分かる。読後の印象をいえば、ル・カレから英国人臭さと、独特の文章のあやを取り去ったらこんな感じになるのかもしれない。慎重な構成、巧みなプロット、彫りの深い人物造形、恋愛や結婚に対するシニカルな視線等々、後継者を名のる資格はじゅうぶんにある。

主人公は二人。そして、その二人が交互に話者となって、過去の事件と現在二人が陥っている状況について語る構成になっている。巻頭に置かれた「謝辞」でもふれているように、作者はドラマを見ていて「レストランのテーブルですべてが起こるスパイ小説」を書いてみたいと思いついたという。たしかに、すべてではないにせよ、ほとんどがレストランのテーブルで起こっている、という点で、きわめて珍しいスパイ小説といえる。ル・カレにもこんな手法の小説はなかったのではないか。

ヘンリーは現在はオフィスで働いているが、六年前のウィーン時代はバリバリの外回りのスパイだった。当時、大使館のオフィスで働いていた同僚のシーリアとは互いの部屋でベッドを共にする関係だった。その後二人は別れ、シーリアは引退した実業家と結婚してアメリカに帰り、今では二人の子の母親となっている。物語は、ヘンリーが、すでに現役を退いた元スパイであり、かつての恋人シーリアのもとを訪ねようとする機上から始まる。

ヘンリーは飛行機で眠れない。六年前ウィーン空港で旅客機がテロリストに乗っ取られ、乗客全員が死亡するという悲惨な事件が起きた。当時直接その事件に関係していたからだ。実は、事態がそこまで悪化した原因として、大使館の中の誰かがテロリストに情報を漏らしたのではという疑惑があった。事実は疑心暗鬼のまま闇に葬られていたのだが、ここに来て内部調査の手が入った。ヘンリーはそのためにシーリアに会おうとしているのだ。

裏切り者は誰だったのか、という謎を追ってスパイと元スパイの闘いが始まる。しかし、闘いの場はウィークデイのためか閑散としたレストラン。元恋人同士の久しぶりの再会を祝す晩餐である。表面上は穏やかに近況を報告しあいながら、少しずつ間合いを詰めてゆく二人。運ばれてくる料理やワインも味わいながら、過去に何があったかを細大漏らさず数え上げてゆく。バーテンダーとウェイトレス、二組の相客という限られた数の登場人物で進行していく緊迫のドラマは、まるで舞台を見ているようだ。

その間に過去の回想シーンが挿入される。舞台は大使館のオフィス。登場人物はそこで働くスパイ仲間とやはり人数はしぼられている。情報漏洩の電話の出所は指揮を執るビルの部屋だが、ドアはいつも開いていて、事件の最中、すべての者が出入りしていた。シーリアがつかんだ手がかりは通話記録にあった通話相手がアンマンにいることを示す数字と、試しにかけてみた相手のロシア語らしき言葉だった。

スパイという仕事はひとつ誤れば命が危ない。たとえ相手が愛する人であったとしても自分の命を守るためには裏切ることさえためらわない。そんな非情な仕事に携わる男と女の文字通り命を懸けた闘いを、アクションではなく言葉で、路上や秘密のアジトではなく、一般客もいるレストランでの晩餐を舞台にして描くという、作者の苦心の試みは成功したといえる。晩餐の席上、真相が少しずつ明かされてゆくのだが、合間合間に回想や通話記録を挿入して謎解きを進めていく手際は上質のミステリにも通じる鮮やかさ。

しかし、最後に明らかになる真実は、やはりエスピオナージュならではの苦い味わいだ。それまでのいかにも西海岸風の明るさが背後に遠のき、男と女の相容れない世界が暗く冷たい相貌を現す。このあたりの風合いは、まさにル・カレの後継者という呼び名を首肯せるものがある。それまでに張っておいた伏線がピリッと効いたいいオチが待っている。