青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『四人の交差点』 トンミ・キンヌネン

f:id:abraxasm:20161015155154j:plain

フィンランド北東部の村で暮らす家族四代の1895年から1996年にわたる世紀をまたぐ物語。その間には継続戦争と呼ばれる対ソ戦とその後のヒトラーによる焦土作戦や物資の欠乏に苦しめられた戦争の時代をはさむ。助産師として自立し、女手一つで娘ラハヤを育てたマリアは、一軒の家を買うと蓄えた金で次々と家を増築していった。戦争でその家が焼かれると、娘の夫となったオンニは、家を再建し、湖を臨む土地に新たに家を建てる。

人生は建物だと、マリアは思っている。多くの部屋や広間を持ち、それぞれにいくつもの扉がある。誰もが自分で扉を選び、台所やポーチを通り抜け、通路では新たな扉を探す。正しい扉も、間違った扉も、ひとつとして存在しない。なぜなら扉は単に扉でしかないからだ。時には、初めに目指していたのとまったく違う場所にいることに気づいたりもする。

増築に次ぐ増築で長屋のように横に細長い平屋の家の主であるマリア、戦争から帰還したオンニが建てた地下室や屋根裏部屋のある二階建ての家の主であるラハヤ、そして姑が実権を握るその家に圧迫を感じ、舅が建てた湖のそばの夏小屋を愛するカーリナという三人の女の、これは家と家族をめぐる年代記でもある。

フィンランドという北の国の中でもさらに北方にある起伏のある森に囲まれた小さな村が舞台。人々は旧弊で、男は女の体のことなど考えず、次々と子どもを孕ませる。しかもどの家でも助産師など呼ばず取り上げ女に任せていた。女たちは相次ぐ妊娠で体を弱らせ、難産で母子ともに死ぬことも多かった。そんな中、マリアは懸命に力を尽くし、無駄な妊娠を避けるよう説得し、女たちの信頼を得てゆく。二百キロも離れた町にある店に注文した自転車を馬車でもらい受けに行き、帰りには乗って帰るという進取の気性に富む娘だった。

この小説に登場する女性たちはみな強い。男に頼ることなく自立し、周囲からどのように見られても超然と生きている。その一方で、感情が激すると、洗い桶は投げつけるし、皿は叩き割る。手にした猫は壁に叩き付けて息の根を止める。反対に男のオンニは、家族思いで、子どもにも大人と同じように接するよき父親である。自分の子ではないアンナにもわけへだてのない愛を注いでいる。そのオンニが戦争から帰って以来、妻と夜を共にしなくなった。夫婦の間にできた距離は次第に広がり、ラハヤはマリアから見ても無慈悲な女になる。

いったい、オンニに何があったのか、というのがこの小説を前へ前へと進ませてゆく推進力になる。小説は四人の視点で語られる。時系列は、それぞれの視点人物の中では一貫しているが、人物が交代するごとにもう一度過去へと戻り、少しずつズレを含んで繰り返されることになる。同じ場面、あるいは前後する場面が、異なる人物の視点から語られることで、出来事の意味がまったくちがって見える。それまでは意味不明であった手紙の内容や、記憶の断片が少しずつ姿を現し、最後のピースが嵌められることで夫婦の不和、ラハヤの非情を生んだ原因が明らかになる。

秘密をかかえているのは、一人だけではない。マリアはラハヤに、ラハヤはオンニに、オンニはラハヤに対し、決して口にすることのできない秘密を胸にかかえ込んでいた。マリアが家を増築し、オンニが次々と家を建てていったのは、秘密を抱え続けるという息の詰まる事態に耐えるために、家族の中にあっても一人でいられる部屋を必要としたのではないか。そこにいさえすれば、息がつける、そんな部屋が。

ハンサムで人当たりがいいオンニの秘密は、出会ったときからラハヤに明かされていた。はじめ、そこでひっかかって変な気がしたのだが、オンニの良き父親ぶりを見ているうちにいつの間にか忘れてしまっていた。あれが伏線だったのだ。とはいえ、どんな鈍感な読者でもオンニの秘密はだいたい見当はつく。最後までわからないのは、ラハヤのかかえる秘密である。嫁と姑の中がうまくいいかないのは、よくあることだが孫に背を向けられる祖母というのはめずらしい。

ラハヤの人を寄せつけない性格が他人をしてそうさせるのだ。ではなぜラハヤはそんな非情な性格になってしまったのか。誰にも言えない秘密をずっと心の中にかかえてきたからだ。終章でようやくそれが明らかになる。読者は、そこを読み終えると、あわてて冒頭に置かれた「一九九六年 病院」のページを繰る。再読して初めてそれが何のことだったのか分かる。本当の終章は冒頭にある「一九九六年 病院」の章だったのだ。

森と湖の国、フィンランドという一昔前の観光用コピーを覚えているが、フィンランドと日本にはもっと生臭い因縁もある。第二次世界大戦勃発当時、フィンランドは日本がソ連と戦端を開くことを強く期待していた。そうなれば、ソ連は西に侵攻するだけでなく東へも戦力を向ける必要に迫られる。しかし、日本は日ソ不可侵条約を結び、アメリカとの戦いに勢力を傾注した。フィンランドは日本を恨んだにちがいない。この小説の背後にはそんな歴史も潜んでいる。

川沿いに建つ小屋で浴するサウナをはじめ、セルフビルドによる家作りなど、森と湖の国フィンランドならではの風物が、ともすればぎすぎすした家族間の諍いに傷んだ読者の心を優しく撫でてくれるようで、ずいぶん助けられた。

『無限』 ジョン・バンヴィル

f:id:abraxasm:20161009133813j:plain

グローブ座で演じられていた頃のシェイクスピア劇は、幕が上がる前に語り手が登場し、これから始まる芝居について観客に説明する形式をとることがあった。語り手が地の文の中に自在に登場しては言いたいことを言う、この小説を読んでいて、当時の舞台劇を思い出した。観客(読者)にはその存在が知られているが、登場人物には感知されない、この語り手というのが、なんと神なのだ。それもキリスト教の神ではなく、ギリシア神話のヘルメス神である。

ギリシア神話といえば、白鳥や鷲に姿を変えては美女を抱き、妊娠させるゼウスが有名だが、小説の中でもアダムの美しい妻ヘレンに欲情し、アダムの姿に身を変えてヘレンを抱く。その時間を作るため、息子であるヘルメスに、夜明けを一時間遅らせるよう命じるなどやりたい放題。まあ、ヘルメス自身も館に出入りする牛飼いに身をやつし、家政婦の気を引いてみたり、といたずら好きの片鱗を垣間見せたりもする。

それだけでも相当へんてこな設定なのに、読んでいるとつじつまの合わない記述がやたらと出てくる。海水淡水化装置を載せた自動車だとか、シュレーディンガーならぬシュレースタインバーグの猫だとか、史実とは異なる出来事が、この世界では起きているようだ。SFでいうところのパラレルワールド。どうやらそれは、脳卒中で倒れて以来昏睡状態となり、今はベッドに横たわって死を待つばかりの天才数学者アダム(息子と同名)が発見した世界を実体化して見せたもののようだ。

難しい数学理論にはついていけないので、詳しい説明は省略するが、通常の世界ではあるものが存在するとき、同時にその空間に別のものが存在することはできない。ところが、老アダムの説くところでは、あるものは空間を占有することはなく、別のものと絶えず重複し無限が無限を生んでいる、という。まあ、理論はそれくらいにしておき、現実に戻るとしよう。

舞台はアイルランドの片田舎。鉄道の駅からそんなに遠くない、周りを森や湿地帯に囲まれた土地に奇妙な屋敷が建っている。かつては世界を驚かせた天才数学者アダムは、その屋敷の最上階に置かれたベッドに横たわっている。東屋に壁を張ったようなつくりの家は、中央部は吹き抜け構造で、バルコニーでつながった角部屋が居住スペースになっている。妻と娘が暮らす家に、父を見舞うために息子のアダムと妻ヘレンが町から帰ってきている。

そこに老アダムの伝記を書く目的で妹に近づいたロディ、と老アダムの旧友ベニー・グレイスという男がやってくる。なにしろ姿を見せない神が語り手なのだから、すべてが筒抜けの全知視点。昏睡状態のアダムの中にも入り込み、数学の難解な理論や過去の女性遍歴、ベニーと連れ立っての悪所放浪の披歴。また、長男とのよそよそしい関係、妹への偏愛、義理の娘に対する欲情、若い妻に寄せる思い、と体の自由は失っているが、老学者の頭は活発に働き続けている。

小説は、ある夏の一日、病床の家長を見舞いに訪れた家族、友人の間に起こる騒動ともいえない小さな感情のもつれや衝突、とその解決を描く。一家の主人に寄せる家族の心遣いは、外縁にいるヘレンやロディの無関心な態度と対比的に描かれている。小津の映画でおなじみのパターン。いかにもジョン・バンヴィルらしいエンディングには心和むが、懐妊したヘレンのお腹の中の子どもは誰の子?という謎を残すあたりが心憎い。

神は細部に宿るという言葉通り、スカイルームのガラス天井を流れる雨や、くさび型の先細りの所に窓と洗面器、広がった部分に琺瑯引きのバスタブを置いたバスルーム、とまるでその目で見てきたようにディテールを精妙に描き出す文章に圧倒される。話などあってないような小説を読ませるのはその筆力あってこそだ。クロウタドリが舞い、鶏が色とりどりの糞をまき散らす田園風景も見事だが、リストカットを繰り返す心を病んだ妹や、舞台で幾つもの役をこなすうちに自分というものが作られると考えるヘレン、外見は完璧だが中身は空っぽのロディといった人物造形の鮮やかさもさすがだ。

なかでも、圧巻なのは、最後まで正体が判然としないベニーという人物だろう。同じ学者仲間で、アダムがどんな突拍子もない説を発表しようが、驚きもしないこの男は、アダムのもう一つの自我ではないだろうか。自分の中にあって自分が破棄したい部分。しかし、まちがいなくそれがあってこその自分であることを自分は知っている、そんなアルター・エゴ。個人的な解釈でしかないが、自分という個体が危機に瀕しているときだからこそ、出現した別人格と考えるとすっきりする。

人は誰でも死を迎える。ここのところ、ジョン・バンヴィルの書く物には、老境に入った人物が過去を顧みて、来し方行く末を思うという趣きの作品が多いように思うが、これもその一つ。次に引用するヘルメス神の言葉に老いを迎えつつある作家の思いが託されている。

われわれがなによりも諸君に認めさせ、受けいれさせようとしているのは、人生は悲劇的なものだということである。人生が残酷で悲しいものだからではなく――悲しみや残酷さがわれわれにとって何だというのか?――、人生はあるがままのものであり、運命を免れることはできないからであり、そして、なによりも、人間はやがて死んで、あたかも存在したことがないかのようになるものだからである。それこそが当たり障りのない話ばかりをする諸君のいわゆる救世主とわれわれの違いなのだ――われわれは慈悲深さを装ったりはしない。われわれはいたずら好きであり、諸君の内省や魂の苦悩を飽くことなく面白がっているだけなのである。

いたずらを仕掛けたり、面白がったりしているが、死ぬことを許されていない神は、われわれ人間の限りある生を、案外うらやましく思っているのかもしれない。

『海に帰る日』 ジョン・バンヴィル

f:id:abraxasm:20160930092950j:plain

妻を病気で亡くして間もないマックスは夢を見た。夢のなかで自分は今の歳でありながら少年だった。自転車が壊れ、足を怪我し、誰もいない田舎道を歩いていた。「日が暮れかかっているのに、雪のなかをひるむことなく歩き続ける哀れなでくの坊。行く手には道路しかなく、帰っても歓迎される保証はないのに」。まさに、日暮れて途遠し。この夢は、長年連れ添った伴侶を亡くし、これからどうしたらいいのかと呆然自失する男の心象風景そのものだ。

というのも、マックスは、もともと何者でもない人間だった。彼には個性がなかった。個性の代わりに、生まれや育ちによって彼に与えられたもの――感受性や性癖や考え方や階級的な癖の寄せ集め――を彼は嫌っていた。彼の願いは何者かになることだった。彼は美術史家になった。だが、それは、結婚によって妻アンナの資産が得られたからであった。彼はアンナによって、自分自身になれたのだ。そのアンナを喪失したことで、マックスはアイデンティティ・クライシスに襲われる。

わたしたちは、もし自分自身でなかったら、だれだったのか?哲学者たちによれば、わたしたちは他人を通して定義され、他人を通して存在するのだという。バラは暗闇でも赤いのか?音を聞く耳が存在しない遠い惑星の森のなかでも、木が倒れるときには凄まじい音を立てるのか?

今のマックスは暗闇の中のバラであり、聞く耳のない森で倒れる木だった。この頼りなさは、ある年齢を経て、人生の下り坂に入った人でなければ分からないかもしれない。一生の仕事を持っていて、やるべきことが常にある人ならいいが、多くの人間はそうではない。社会から切り離され、夫婦という単位が唯一の拠り所となり、いつまでも一緒に余生を過ごすつもりでいた。その世界がある日突然崩壊してしまう。

マックスは夢に誘われるように、妻と暮らした家を売りに出し、少年の頃一家で夏休みを過ごした海沿いの町を訪れる。当時、海食崖の上に別荘が立ち、ゴルフ場を隣接したホテルの建つ町にはいろいろな人がやってきた。月単位で借りられるサマー・ハウス<シーダーの家>を借りたのは、グレース一家だった。マックスははじめ、肉感的なミセス・グレースに恋し、やがてその娘であるクロエを愛するようになる。みずみずしい少年期の性の眼ざめであった。

今はミス・ヴァヴァソーが管理する<シーダーの家>の一部屋を借りたマックスは、そこで書きかけているボナール論の原稿を前に回想に耽る。クロエとの出会い、映画館でのキス、海辺の小屋での出来事。またある時は、アナとの出会い、そして別れ、と次々に浮かび上がる過去の情景。娘クレアの言う通り、マックスは過去に生きていた。

彼女を通して、わたしは初めて他人の絶対的な他者性というものを経験した。つまり、クロエを通して、わたしは初めて客観的な他者として現れたといっても過言ではないだろう。(略)それまでは世界は一つでしかなく、わたしはその一部だったが、いまやわたしがいて、わたしでないすべてがあった。

他者性を獲得するということは、ひとくちにいえば、無垢な時代を脱したということだ。マックス少年は、自分の育つ環境を厭い、親を疎ましく思い、サマー・ハウスに長逗留するグレース家に憧れ、近づく。倦怠期にある夫婦と男女の双子、そしてまだ若い家庭教師のミス・ローズ。広場に立つ小屋を借りている自分との階級差に恥ずかしさを感じながらも、ピラミッドの上の方に上りつめたいと願うのだった。

わがままで、同じ年頃の少年たちを見下しているクロエにつきまとい、しだいにグレース家に出入り自由の位置を獲得してゆくマックス。ある日、木登りをしていたマックスは木の下に立って泣くローズとそれを慰めるミセス・グレースの姿を盗み見る。ローズはミスター・グレースに叶わぬ恋をしていたらしい。それがクロエの知るところとなり、二人の関係は以前より険悪なものとなる。そして、あの日がやってくる。

回想のなかで、少年の日の淡淡としながらもそれなりに官能的な経験を思い描きながら、ともすれば崩壊に向かおうとする自己と真摯に向き合う初老の男。こう書くと何やら格好いいが、正直なところ、いい歳をした男の正直な告白というのは読んでいて楽しいものではない。むしろ、読むほどにいやな気持ちにされる。どこがいやかといえば、自分に似ていると思わされるところだ。

美術史家といえば聞こえはいいが、要するに他人の褌で相撲をとっているわけで、自分の書くものに独創性のないことは自分がいちばんよく知っている。自分が何者でもないのは、個性の代わりに生まれや育ちによって自分に与えられた感受性や性癖その他のせい。確立した自分などなく、自分以外の何かによって再生産された自分があるだけだという考えは、ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオンⅠ』を読んで、文化資本という存在に気づいて以来とり憑いて離れない。

謎めいた過去の出来事に引きずられるように最後まで読んでくると、そこには思いがけないどんでん返しが待っている。謎は最後まで明らかにされることはないが、一抹の救いの残る結末は悪くない。自分を洞窟の聖ヒエロニムスに擬するマックスには微苦笑を誘われる。「ああ、そうさ、人生はじつにさまざまな可能性を孕んでいるのだ」から。

『いにしえの光』 ジョン・バンヴィル

f:id:abraxasm:20160929171211j:plain

初老の男が遠い夏の日の初恋を思い出す。相手は友だちの母親。美しくも狂おしい過去の回想をさえぎるように、愛する家族を喪った記憶から立ち直れないでいる今の暮らしが挿入される、とくれば、あのブッカー賞受賞作『海に帰る日』を思い出す人も多いだろう。子どもの頃の習慣をなぞるように、大きくなった娘と海岸沿いをドライブする場面などほとんどそのまま使い回しだ。

数年前に発表し、賞までとった話題作に酷似したモチーフをあえて使って書かねばならないほど、材料不足なのか。それともまだ描き足りないものが残っていたのだろうか。たしかに、性への目覚めを主題の一つとした『海に帰る日』では、初めは遊び仲間である少女の母親に寄せていた関心を、早々とその娘に対する欲望へと切り替えることで、成熟した女性との性交渉に至る寸前で、危ういところを免れたような気配が漂っていた。

少年時代に萌した母親と同じ年頃の女性に対する強い執着が一種の強迫観念としてとり憑いているのだろうか。愛する家族と死に別れることへの恐怖が作家を捉えて離さないのだろうか。同一の主題、同種のモチーフに固執する作家は他にもいる。同工異曲というとたとえが悪いが、逆に言えば同じ材料で異なる作品をつくり上げるのだから、かなりの技術が必要となる。自信のない作家なら、まず手を出さない。自分の小説に対する並々ならぬ自負を感じる。

アレクサンダー・クリーヴは引退も考えている老舞台俳優。屋根裏部屋に籠もり、過去の思い出に浸っているところを電話で映画出演のオファーがあったことを妻に知らされる。近頃妻はキッチン、自分は屋根裏からめったに出ない。十年前に学者だった娘のキャスが自殺してからというもの、妻は悲嘆を抱えたままだ。キャスはリグーリア海岸に身を投じた時、妊娠していた。残されたノートにはスピドリガイロフという名で呼ばれる男の名があった。

映画はアクセル・ヴァンダーという言論人を主人公とするもので、「わたし」がその男を演じることになっていた。相手役は今を時めく人気女優。ところが、完成間近になってその女優が自殺未遂を起こす。娘のことを思い出した「わたし」は、気分回復にと女優をイタリア旅行に連れ出す。実は、キャスが自殺したころアクセル・ヴァンダーもまた、リグーリア海岸にいたのだ。偶然の一致といえばそれまでだが、気にはなる。その検証も兼ねてのイタリア行きだった。

傷ついた女優と老優の一風変わった逃避行が現在進行中の物語だが、『いにしえの光』という表題通り、話の主筋はミセス・グレイと「わたし」の出会いから別れに至る「ひと夏の経験」の方にある。町で眼鏡屋を経営する夫がありながら、息子の友だちである「わたし」に、裸でいるところを覗き見させたり、ステーションワゴンの中で「キスしたい?」と誘惑したり、とミセス・グレイは十五歳の少年には刺激的すぎる。

大きな街から引っ越してきたこともあって、田舎暮らしに退屈し欲求不満だったのかもしれない。しかし、グレイ家の洗濯室に敷いたマットの上で一度禁断の味を知ってしまった「わたし」は、ミセス・グレイに夢中になってしまう。それはそうだろう。男の子なら誰だって憧れる境遇だ。ステーションワゴンの後部座席で、後には林の中にある廃屋の中で、二人は愛し合う。性急で一途な少年の求愛に応えてくれる三十五歳のミセス・グレイの態度には、「わたし」ならずとも疑問を感じる。

自分で火をつけてしまったのだから、一度の過ちは仕方がない。しかし、狭い町のことだ。誰が見るかもしれない。夏休みの間中、人の目を盗んで逢い引きし、「わたし」の欲しがるままに体を与えるなど狂気の沙汰だ。しかし、林の中を流れる小川に足を浸し、木漏れ日を浴びて笑う裸のミセス・グレイには背徳の翳りが見えない。その幸せそうな様子を見ていると、夫人もまた二人の情事をただの火遊びとは考えていないのでは、とも思えてくる。

この二人の情交を描く筆は流麗かつ繊細で、何より官能的。文学は言葉でできているのだから当然といえば当然なのだが、雨音や雷鳴、光のうつろい、肌の色、皮膚のざらつき、匂い、それらを伝えるための工夫を凝らした比喩、と数え上げればきりがない描写のなんという美しさ。ポルノグラフィーとは対蹠的な文章によってはじめて描くことのできる性の営みのめくるめくような悦びがここにある。文章家で知られるというが翻訳でどこまでわかるものかと思っていたが、翻訳でも伝わるものは伝わるのだ。無論、村松潔の訳も素晴らしい。

いつまでも見ていたい夢のような夏も、季節がうつろえば、いつかは覚めねばならない。二人でいるところをビリーの妹に見られ、ミセス・グレイは姿を消してしまう。ミセス・グレイのその後を知りたいと思い続けてきた「わたし」の願いは結末近くで適うことになる。あの夏の奇蹟のような光あふれる日々が何故「わたし」に訪れたのか、その謎が解けることで、「わたし」の「彼女を充分に愛さなかった」「彼女はそのせいで苦しんだにちがいない」という思いは少しは癒されただろうか。

年若い読者にこそ読んでほしいのだが、いくら名文とはいえ、少々刺戟がきつすぎるかもしれない。それとも、今の若い人はこれくらいは刺戟とさえ感じないか。老いを迎えた男が、いたずらに過ぎた自分の過去を振り返りながら、滔々と流れる文章に酔い痴れるというあたりが無難なところか。

『メモリー・ウォール』 アンソニー・ドーア

f:id:abraxasm:20160929091858j:plain

短篇集なのだが、一篇一篇がとても短篇とは思えない重量感を持つ。短篇が高く評価されている作家だが、短篇向きではないのかも。ありふれた人物に起きる些細な出来事を絶妙の切り口ですくいとってみせる、そんな短篇の気安さを期待すると裏切られる。限られた紙数の中に、人の記憶と、そこに生きるしかない人々と世界が抱える問題を投げ入れ、人がどう生きたか、今をどう生きるかを問う。これは長篇小説の書き手に与えられた資質ではないか。

表題作「メモリー・ウォール」は、一見するとSF。ケープタウンを見下ろす郊外住宅地に住む七十四歳のアルマは、深夜家に誰かがいるのに気づく。夫は巨大恐竜の化石発見を妻に伝えるやその場で息を引き取った。昼間は使用人がいるが、夜は一人。アルマは近頃記憶が覚束ない。壁には覚えておきたいことのメモや写真と、四桁の番号とともにカートリッジがピンで留めてある。

記憶を読み取り、保存する技術が開発された近未来。電子レンジ大の機械につながれた三本のコイル状ケーブルがついたヘルメットをかぶると、頭蓋に埋め込まれた四つのポートに接続され、カートリッジに保存された記憶が頭の中に蘇る。記憶は個人のものでなくなり、カートリッジと、ポートさえあれば誰でも閲覧可能になった。化石売買は金になる。妻の記憶から化石の発見場所を探ろうと夜な夜な忍び入る男たち。

記憶は美化されがちだが、機械は嘘をつかない。本人に不都合な記憶が山と保存される。記憶を読み取るために頭にポートを埋め込まれた少年ルヴォが見たアルマは、使用人に冷たく、夫に対する不満を抱えた女だった。近未来SFに見えた小説が、『宝島』を下敷きに、ディケンズ的な解決へと結着する展開は、正直呆気にとられた。新作長篇『すべての見えない光』に顕著な物語性は、この辺りにも顔をのぞかせている。

「生殖せよ、発生せよ」はワイオミングを舞台に最新の不妊治療に賭ける夫婦の愛情と苦闘を描く。教え子によろめきそうになる夫、周囲の何気ない言葉や態度に傷つく妻のリアリティが痛い。

「非武装地帯」は、南北朝鮮国境が舞台。高圧電線に触れて落ちたツルの遺骸を埋めるため、立ち入り禁止の柵をこえ、軍法会議にかけられたアメリカ軍兵士が故郷で待つ父に出す何通もの手紙。クリスマスを迎える準備をする父は、男と逃げた妻のことを息子にどう伝えようかと悩んでいる。この一篇もそうだが、アンソニー・ドーアの視点は常に弱いもの、小さいものに寄り添う。その姿勢は揺らぐことがない。

「113号村」は、中国三峡ダム建設によって水没する村の話。移住話の進む中、種屋の女の一人息子でダムの保安員をしている李慶(リーチン)が帰郷してくる。一人また一人と村を去る人が増える。反対する者を李慶が殺しているという噂に、まさかと思いながらも疑いを捨てきれない母。大規模開発の陰で人々の記憶に残る土地が消されていく。最後まで村に残った種屋と柯先生が蛍の群舞を見る情景が心に残る。

孤児となった十五歳のアリソンは、リトアニアの祖父の家に引き取られる。慣れない土地での生活で唯一の慰めは近所のサボおばあちゃんと行く魚釣りだ。アリソンが狙うのは昔ネムナス川にいたというエルケサス(チョウザメ)だ。古いアルミのボートに乗った少女と老婆、それにプードル。「大きな悲しみ」を抱く孤独な少女の生と格闘する姿が凛として静かな感動を呼ぶ「ネムナス川」。

なぜ自分だけ助けられたのか?「来世」は、収容所送りにされた十二人のユダヤ人少女の中から、一人生き残った少女の晩年を追う。エスターには生まれつき癲癇の持病があった。発作に襲われると汽車がトンネルを通過するときのような轟音に続き、幻視が来る。見えるはずのない世界が見える。その力を惜しんだ医師がアメリカの伯父に手紙を書き、エスターは命拾いをする。

息子夫婦が、双子の養子を引き取るために中国に旅行している間、八十一歳のエスターの面倒を見るのは孫のロバートだ。ロバートは祖母の語る戦争の記憶をICレコーダーに録音する。ロバートは入院中のクリニックで薬づけにされた祖母の願いを聞いて家に連れ帰る。自転車につないだトレーラーに祖母を乗せ、月明かりの野道を行く情景がたまらなく美しい。

現在のエスターの暮らしと十五歳当時ハンブルクのヒルシュフェルト孤児院での暮らしが交互に語られる。外から見れば死に近づきつつあるのだが、エスターにとってはちがう。記憶に残る懐かしい世界の中へ帰ってゆくかのようだ。そのエスターの記憶に蘇るのは、時の経過とともにユダヤ人を取り巻く状況がどんどん悪化してゆく様子だ。

「最初にわたしたちは死ぬの」と女は言う。「そのあとで体が土に埋められる。わたしたちは二度死ぬのよ」(略)「そして」と女はつづける。「生きている世界に折りこまれた別の世界で私たちは待つ。子どもだったころのわたしたちを知っている人が、みんな死ぬまで待つの。その最後のひとりが死んだら、わたしたちはついに三度目に死ぬのよ」(略)「そしてそのとき、私たちは来世へ解放されるの」

幻視の中で語る女の言葉だ。今のオハイオの暮らしと記憶の中にある十五歳当時の過去の暮らし。そして幻視の中で見ている収容所に送られてゆくユダヤの人々の姿。さらに、死んだはずの十一人の少女たちの語らい、といくつもの異なった世界が重層的に描かれることで、現実の穏やかな生活と対比され、大戦下のユダヤ人の悲劇がより強く訴えかけてくる力を持つ。

南北朝鮮問題、ソ連、ロシアという大国に隣接する小国リトアニアの苦悩、躍進する中国が抱える環境汚染、と広く世界に目を向けつつ、過去から現在につながる民族差別の歴史に眼を据える。これが短篇集であることが信じられない。しかも、その一方で、物語性への傾斜は濃厚だ。記憶に残る美しい情景とともに、悲惨な状況下にあっても希望の萌芽を見逃さない、透徹した視線に救われる。長篇になるべき素材を凝縮し、短篇に仕立てた力技の短篇集。一篇一篇、心して読みたい。

『最終目的地』 ピーターー・キャメロン

f:id:abraxasm:20160928084215j:plain

一通の手紙がウルグアイのオチョ・リオスに暮らす、作家ユルス・グントの遺族宛に送られてくる。差出人はカンザス在住の大学院生オマー・ラザギ。オマーは、グントについての博士論文ですでに賞を得ており、副賞として大学から自伝の出版に対して研究奨励金が付与される。出版には遺族の公認が必要であり、早急に承認を求める手紙である。

遺言執行人三人の話し合いの結果、自伝の出版は認めないとの返事にオマーは狼狽した。すでに奨励金は使っていて、公認が得られなければ返却を迫られる。自分で直接現地に行くしかないと恋人のディアドラに背中を押され、オマーは思い切ってウルグアイに飛ぶ。

静かな湖面に投げ込まれた小石が初めは小さな円の波紋をつくり出すが、それは次第に大きく何重にも広がっていく。緊張をはらみながらも、時が止まったかのように静穏な暮らしが続いていたオチョ・リオスは、降ってわいたように飛び込んできた青年の登場で、残された人々がそれまで抑え込んできた過去や欲望が再び目を覚まし、活発に動きはじめる。

グント家の屋敷には、妻のキャロライン、グントの娘ポーシャ、その母であるアーデンの三人が今も住んでいた。キャロラインとアーデンはかつては一人の男を争う競争相手だったが、遺された屋敷で互いに干渉せず棲み分けるようにして暮らしてきた。兄のアダムは、近くの石造りの製粉所を改装し、タイ人のピートと暮らしていた。

実務能力に欠けるが、人のいいオマーはオチョ・リオスの人々の暮らしにすぐ溶け込んだ。当初は自伝に反対するキャロラインに与していたアーデンだったが、オマーの人となりを知るにつれ承認に傾いていく。そんな時、菜園の仕事を手伝っていたオマーが蜂に刺されたショックで昏睡状態に陥る。アーデンから連絡を受けたディアドラは勢い込んでウルグアイにやってくる。

人里離れた土地に建つ広壮な館。バイエルン鉱業を営んでいたグント家はヒトラーのユダヤ人差別に遭い、使い物にならない鉱山を買うことを条件にウルグアイへの移住が認められた。故郷に似せて植林したカラマツやノルウェイトウヒに囲まれた館は昼なお暗い。絵を描く妻のために夫が増設した屋根裏部屋に夫の死後もキャロラインは今も独り住み続ける。

両親に甘やかされて育った挙句、弟が生まれると掌を返したように拒否されたアダムは、人と素直に口を利くことのできない偏屈な老人となった。シュトゥットガルトから連れてきたピートは同性愛のパートナーだが、今では足の悪くなったアダムの介護者になっている。アダムはピートを解放してやりたいが、ピートは愛するアダムを一人にしておけない。

オマーもまたイラン革命の余波でカナダに移住した両親とともに国を出ている。親は後を継いで医学部に進めというが、本人は文学の道を選んだ。親の援助に頼れないため奨励金はぜひ欲しい。グントは、『ゴンドラ』という小説一作しか残しておらず、研究対象として有利だったのも事実だが、その境遇が自分に似ていることも選択に影響していた。

小説は人物間の会話を中心に進んでいく。内輪の食事にも蝶ネクタイを締め、プルーストを読むアダム。プライドが高く、自分に創造的な才能がないのを自覚し、模写しかしようとしないキャロライン。若く美しいアーデンは、新しい出会いに胸を躍らせながらも足を踏み出せない。人物の輪郭がくっきりしているのは、焦らしたり、からかったり、上げ足をとったり、と興趣に富む会話によるが、岩本正恵による訳は各人の性格を描き分けていて秀逸。

過去が現在を支配し、麻痺したように動き出せないでいる人々。しかし、何かをきっかけに人は過去を見つめなおし、今を生きたいと願うようになる。人と人との出会いが、澱んでいた水に動きを与え、それは勢いよく流れはじめると、あとは堰を切ったように迸る。何かに流されるように生きてきたオマーが、自分は本当は何がしたいのか真剣に悩みだすことで事態は思いもかけない展開に。

印象的なシーンには事欠かないが、死んだ妹のアパートの整理のため、グリニッジ・ヴィレッジを訪れたキャロラインと妹の愛犬パグとの出会いが個人的には好み。犬など飼ったことのないキャロラインの困惑をよそに、散歩に連れ出し、眠る際にドアを開けるようねだり、ちゃっかりベッドに飛び乗っては足元に丸くなるヒューゴが、なんともかわいい。頑なだったキャロラインの心がほぐされていくのが手に取るように分かる。

実に古典的、正統的なロマンスで、気恥ずかしいほど衒いがない。冒頭、まるでモネの絵から抜け出て来たかのような装いで、蝶が雲のように群れ、ワイルドフラワーが咲く野原をキャロラインとアーデンが歩いてゆく場面など、一昔前のフランス映画を見ているようだ。そこから、あっと息をのむようなラストまで一気に読まされてしまう。巻を置く能わず、というのはこういうことかと実感した。

読み終わった後、いい映画を見た後のような余韻が心の中に揺曳している気がしたが、それもそのはず。訳者あとがきに、ジェイムズ・アイヴォリー監督で映画化、という話が紹介されていた。ジェイムズ・アイヴォリーといえば、『眺めのいい部屋』や『ハワーズ・エンド』など、異なる価値観に出遭い、その壁を乗り越えようと試みる人々の姿を描く、E・M・フォースターの小説を好んで取り上げている。なるほど、これはジェイムズ・アイヴォリーが手掛けるにぴったりの小説かもしれない。

『大いなる不満』 セス・フリード

f:id:abraxasm:20160927101153j:plain

一歩まちがえたら真っ逆さまに墜落しそうな崖っぷちのようなところで、曲芸を演じている道化。セス・フリードにはそんな雰囲気が濃厚に漂っている。下手を打ったら寓話になってしまいそうなぎりぎりのところで危なっかしく小説を書いている。ところが、いつまでたっても華麗な技が続くばかりでいっこうに墜ちる気配がない。

そこで、ようやく見ている者にもわかってくる。この若い演者は、今は亡きカルヴィーノボルヘスのいる世界からこの地上にやって来たにちがいない、と。寓話的な手法を用いる作家は少なくない。ただ、成功するのは難しい。数少ない才能のある者だけが、寓話的手法を駆使して完成された小説を生み出すことができる。セス・フリードはまちがいなくその一人である。

「フロスト・マウンテン・ピクニックの虐殺」は、毎年死者が出ることで反対運動が起きているピクニックに参加する「私たち」のアンビヴァレンツな心理を克明に描いている。マウンテン・ゴリラにばらばらに引き裂かれた小さな女の子の死は、「ルイーズを忘れないで」というTシャツを作らせた。しかし市民集会が下火になると、翌年のピクニックの宣伝が何か月も執拗に続き、「私たち」の態度は軟化する。

誰も自分からはっきりと口にしないが、集団的な思い込みとして、あれほどまでに大々的にピクニックの宣伝がされているからには、様々な問題は解決されたに違いないと思ってしまうようだ。(略)怒りの炎を絶やさない少数の市民たちは、必然的に、前進していくことを拒み、不和を生きがいにする者とみなされる。(略)つまるところ、こうした反対派が私たちを納得させるのはただ一点、ピクニックに参加しなければ、「正常な」世界から外れてしまう、ということだけだ。

実は「私たち」も気づいている。できたら行きたくないと。しかし、「同調圧力」は、それを許さないほどの強さで迫る。無料のソフトクリームやフェイス・ペイント、遊園地の遊具といったいかにも平和な仮面をかぶりながら。毎年何十人もの死者が出るピクニック会場に行くためのフェリー乗り場で、船を待つ「私たち」の感じるものは、アメリカ人だけのものではない。

地震や大雨でズタズタにされた道路やずれた断層、崩壊した山地から雪崩落ちる土砂の映像を最低でも半年に一度は眼にしながら、日本人の多くが原発再稼働を容認する政党に投票しているのだから。原発は決してコントロールなどされていないのに、オリンピックどころではない貧しい国なのに、またぞろ東京で開催することを認めてしまう。これは「私たち」のことではなく私たちのことを描いているのだ、と思えてくる。

と、こう書けば、読んでいるあなたは、なんだやっぱり寓話じゃないか、けっ詰まらない。そんな説教は聞きあきた、と思うかも知れない。それはちがう。上の解釈は私が感じた個人的な感想だ。「フロスト・マウンテン・ピクニックの虐殺」は、そのハチャメチャさが半端ない。ピクニック現場で肢体は引きちぎられ、爆弾はさく裂し、マウンテン・ゴリラ二十五頭が走り回る。その悲惨極まりない実態を知りながら、毎年フェリー乗り場に並ぶ「私たち」の心理が次第に分かってくるところに凄いリアリティーがある。設定は極めて不条理なのに、その心理は条理を兼ね備えているのだ。

「ハーレムでの生活」は、異性愛者である王の命令でハーレムで暮らす女たちの仲間に入れられた事務官の心情を綴ったもの。なぜ自分が?という疑惑。いつお呼びがかかるかという不安。王という権力者でなくては味わうことの不可能な「欲望」の正体を追うのが本筋だが、一人称の語りのせいで、王のお召しを待つ男である「私」に感情移入している自分に気づく。この異様な設定は何だ!文学的コスプレではないか。

表題作「大いなる不満」も示唆に富む。エデンの園で樹上の猫は目の前のオウムを見つめながら煩悶する。血の流れることのないエデンの園では動物たちはお役御免だ。ただ、猫の本能はかすかに残っているせいで、目が放せない。「完全に掌握できない何かがおのれの本性にはあると、猫は気付き始める。猫はそれに苛立つ。なぜこの体を与えられ、意志に反する欲望に苦しまねばならないのか?そして、この体がおのれのものでないなら、猫であることはどこで始まるのか?」

寓話では動物は人間に擬されている。暴力的な欲望が自分の中にあることに気づいた猫は、なぜ本性を隠す必要があるのか、と苛立つ。これって、最近の世界の有様に似ている。なぜ不法入国者に壁を立ててはいけないのか?なぜ移民を受け容れなければならないのか?押しつけ憲法をいつまで後生大事に守っていなければならないのか?

そこがエデンの園だからに決まっている。エデンの園を選んだのは我々人間の叡智だからだ。確かに、エデンの園から出れば、猫はオウムを仕留められるかもしれない。しかし、そこには、猫を襲う動物が待っている。本性のままに生きる獣であふれたそこが現実世界だというなら、それは御免こうむりたい。木の上で煩悶しながら、歯噛みしながらも、私ならそこから出ていきたいとは思わない。もちろん、あなたがどう考えようとそれはあなたの自由だ。

私なら、とつい考えさせられてしまう巧妙な、それでいてたまらなく蠱惑的な仕掛けに満ちた短篇集だ。突飛な設定、意表を突く視点人物、思索へと誘う開かれた終わり方。暴力的な、それでいてどこか静穏なセス・フリードの描き出す世界に魅せられた。これは、ちょっと他では見つからない類の短篇集である。巻末の「微小生物集」も文句なしに傑作。思弁的SFやショート・ショートのファンなら、きっと気に入るはず。