青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『エスカルゴ兄弟』 津原泰水

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新聞の日曜版にある書評欄で見つけた。ふだんはあまり日本の小説を読まないので、どんな小説を書く人なのかも知らなかった。読んでみる気になったのは、作品のモチーフがエスカルゴと伊勢うどん、という点にあった。実は、エスカルゴの養殖については隣の市のことなので前から知っていた。三重県という極めて地味な地方都市でエスカルゴの養殖なんか手掛ける奇特な人がいるなんて、という程度の認識でしかなく、興味はあったが、現地を訪ねることもしなかった。

エスカルゴ自体は好物で、パリでも食べたし、英国女王御用達の鳥羽のホテルでもいただいたことがある。まさか、あれも全く別物のアフリカ・マイマイだったのだろうか?本物のエスカルゴを養殖している松阪市鳥羽市は伊勢を挿んで隣同士だから、鳥羽の某有名ホテルで供されるエスカルゴは松阪由来のものと信じたいのだが、小説を読んでいると、ほとんどの日本人が食べているエスカルゴは本当のエスカルゴではないということになる。

もう一つの伊勢うどんのほうだが、これは郷土のソウルフードで、小さい頃はあれが「うどん」というものだと思っていた。浪人時代、京都の町で立ち食いうどんを食べに入り、出てきたつゆの薄さに驚いた。まちがってそばつゆを入れたのではないか、と本気で訊こうとしたくらいだ。

小説の中では、卵の黄身をのせて食べる食べ方が何度も出てくる。今は知らないが、伊勢うどんといえば、子どもの頃から、ごく少量のたまり醤油主体のたれをからませた上に小口切りにした青葱と一味をふりかけ、うどんがたれの色に染まるまでかき混ぜてから食べるものと決まっている。卵の黄身でカルボナーラ状にした伊勢うどんなど気味悪くて食べられない。

主人公が讃岐うどんを商う店の次男坊で、伊勢うどん店の娘と恋に落ちるというロミオとジュリエットをパクった設定。腰の強い讃岐うどんを愛する一族と茹ですぎたように腰のない伊勢うどん命の一族の互いに相容れないうどん愛の悲劇を描いている。全国区となった讃岐うどんに対するに、伊勢うどんのほうは、遷宮とサミットで少しは知られるに至ったが、まだまだ全国的にはローカルな食べ物である。その意味で、郷土食を宣伝してくれる小説をちょっと推してみたく評など書いている次第。

今、人気のアニメが売れるべき要素を全部詰め込んでいるだけ、という評価が玄人筋から出されているが、この小説にもそんなところがある。就職難の時代、やっともぐりこんだ職場が出版社で、仕事が編集業というのは、マンガ原作でテレビ化された『重版出来』や『地味にスゴイ!』を思い出させる。

それがすぐリストラされ、社長が送り込んだ次の就職先がモツ煮込みが売りの吉祥寺にある立ち飲み屋。ところが、マスターの事情で写真家の長男が後を継ぎエスカルゴ専門のフレンチレストランに模様替え。調理師免許を持つ主人公にはうってつけの職場だと料理通の社長は考えたらしい。

物分かりはよいが適当すぎる上司、スパイラル(螺旋)に固執する変人写真家、といった男たちに、味は分かるが料理を作ることはできない女店員、写真家の妹で高身長の女子高生、酒豪の伊勢うどん店の娘、といった女たちがからんで、ストーリーは軽快に展開する。

ちょっと昔の音楽にイージー・リスニングというジャンルがあったが、あの毒にも薬にもならない聴き心地のいい音楽に似て、読んでいて楽しいが、特に後に何も残らないイージー・リーディングな読み物である。

料理が主題なので、いろいろ美味そうな料理が出てくるのがご愛敬だ。油揚げを斜めにカットした中にチーズを挿んで弱火で焼いたチーズキツネという酒肴は、ちょっといけそうで作ってみたくなった。しかし、伊勢うどんにエスカルゴを併せたウドネスカルゴはいただけない。ましてや、スパイラル好きの店主の気を引こうとグルグルに巻いて出すなど狂気の沙汰だ。

軽妙な会話のノリを楽しんでいるうちに、あっという間に読み終えてしまう。ちょっと重いものが続いた時など、口直しに手に取るにふさわしい一冊といったところだろうか。深夜に読むと食テロと化すので要注意。

『冬の夜ひとりの旅人が』 イタロ・カルヴィーノ

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宮沢賢治に『注文の多い料理店』というよく知られた一篇がある。森のなかにある西洋料理店にやって来たハンター二人が、やれ、クリームをすり込めだの、金属でできたものを外せだのという小うるさい注文に、納得するべき理由を自分たちで見つけ出しながら店の奥に進むうち、ようやくその注文が、料理を食べるためでなく、自分が料理されるために出されていたことに気づく、やっつける側がやっつけられるという皮肉風味の香辛料をたっぷり効かせた上出来のコントである。

イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を読みはじめたとき、その話を思い出した。というのも、語り手は、これから本を読もうと身がまえている読者相手に、やれ小用をすませておけ、足は机の上に投げ出せだのといった注文をやたら繰り出すからだ。まさに注文の多い小説家そのもの。そうして、早く本文を読みたいとあせる読者を焦らしながら、ようやく語りはじめた『冬の夜ひとりの旅人が』という話は、話の途中で突然打ち切られてしまう。

第一章が終わり、第二章へと歩を進めた「あなた」は、そこにまたしゃしゃり出た語り手が本の乱丁を指摘する文章に出会う。十六ページ折りの造本で三十二ページ分がそっくりそのまま同じページが綴じられていたというのだ(確かめてみたが、そんな事実はない。出版社はそこまで馬鹿正直にテクストをなぞらないということだろう)。腹を立てた「あなた」は、本屋に駆けつけ苦情を言う。本屋の言によれば、製本上のミスにより、ポーランド人作家タツィオ・バザクバルの新刊小説『マルボルクの村の外へ』と入れ替わっていたというのだ。

つまり、それまで「あなた」の読んでいた小説は、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』などではなく、ポーランド人小説家の手になるまったく別の小説だったわけだ。しかし、本好きの常として一度読みはじめた小説はその続きが読みたくて仕方がない。「あなた」は、カルヴィーノの小説など放り出し、バザクバルの小説はないかと本屋に聞く。本屋はさっき別の女性も同じことを言ったと答え、その若い女性ルドミッラを指さす。こうして、男性と女性二人の読者は出会う。

これ以降は、この二人の読者が、小説の続きを読もうと悪戦苦闘するストーリーが展開する。もうお気づきのように、どこまでいっても、『冬の夜ひとりの旅人が』という小説は完結しない。ポーランド人作家が書いたノワール風の小説が、チンメリアという相次ぐ領土分割のため、今は地上から消えた幻の国の言語で書かれた小説へと変わり、その名も『切り立つ崖から身を乗り出して』という別の作品が新たに登場し、というふうに次から次へと別の言語で書かれ、あるいは翻訳された別の小説に姿を変え続ける。

その題名だけ紹介すれば、『風も目眩も怖れずに』、『影の立ちこめた下を覗けば』、『絡みあう線の網目に』、『もつれあう線の網目に』、『月光に輝く散り敷ける落葉の下に』、『うつろな穴のまわりに』、『いかなる物語がそこに結末を迎えるか?』という、人物も筋も舞台背景も全く異なる十の小説が、その冒頭部分だけを、文学好きには分かる著名作家の文体模倣を施され、目もあやに展開される仕掛けだ。アルゼンチンのパンパを舞台に、ガウチョの登場する一篇はボルヘスだろうと見当をつけたが、あとは不勉強で知る由もない。

それだけでも愉しい仕掛けだが、カルヴィーノの愛読者にとって、もっとうれしいのは、その合間合間にはさまれる、作家イタロ・カルヴィーノの小説論だろう。自分の考える理想の小説とは、どういうものか。一度は書きたい究極の小説の形とは?読者として知りたい作家ならではのアイデアを、こんなに明かしてしまっていいのだろうかと思うほど、嘘も隠しも衒いもなく、あからさまに語ってみせる。こんなカルヴィーノ、見たことがない。

自身の分身として登場する作家サイラス・フラナリーは、自分が書けなくなった理由を「あらゆるものを含む」本を書くという「とんでもない野心、おそらくは誇大妄想的錯乱」のせいだという。マラルメ以来、文学者の抱く見果てぬ夢、すべてを包含した「一冊の本」というやつだ。しかし、そんなものはあり得ない。カルヴィーノはだから瞞着的手段に訴える。偽作者や剽窃者、怪しい翻訳家の姿を借りて、世に知られた世界文学の作家から日本人作家やソ連の反体制作家小説に至るまで、すべてのありそうな小説の断片をでっち上げたのだ。

おのれの外にあるものに言葉を与えるためにおのれ自信を抹消しようとする作家には二つの道が開かれている。そのページの中にあらゆるものを汲み取り尽して、唯一の本となりうるようなものを書くか、それとも部分的なイメージを通じてあらゆるものを追求しうるように、あらゆる本を書くかである。あらゆるものを含む唯一の本とは完全無欠な言葉が啓示された聖なる書物以外にはありえないだろう。しかし私はそうした完全無欠さを言葉にこめうるとは思わない、私の問題は外にあるもの、書かれていないもの、書き得ないものを扱うことにある。私にはあらゆる本を書くよりほかにありうる限りのあらゆる作家の本を書くよりほかに道は残されていないのだ。

このフラナリーの言葉をそのままカルヴィーノ自身の認識と重ねて読むほどナイーブな読者もいないと思うが、作家晩年の作品の中に披歴されていることを考えると、これまで様々な手法を試してきた実験的作家であるイタロ・カルヴィーノの考える集大成的な書物の姿と考えたくなる気にはなる。

一方で、この作品から分かるのは、カルヴィーノがただ作者が書きたい作品にのみ拘泥する独りよがりの作家ではなく、「理想の読者」を想定し、その読者が読みたいと思う「本」を書くことを突きつめようとする、読者との対話を愉しむ作家だということである。そういう意味では、読者の側も心して読みにかからねばなるまい。足を載せるのに適当な台を用意するのはもちろんのこと、小用などは読書にかかる前にすませておくのは作者に対する当然の儀礼と心得ておかねばなるまい。さて、準備万端を整え、そうしてはじめて「あなた」は、『冬の夜ひとりの旅人が』という小説を読みはじめることになる。

『とうもろこしの少女、あるいは七つの悪夢』 ジョイス・キャロル・オーツ

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ノーベル文学賞候補の一人、ジョイス・キャロル・オーツの短篇集。ほぼ中篇といっていい表題作「とうもろこしの乙女」が、半分近くのぺージ数を占める。アンソロジーに入れると、スパイスの効いた作風がアンソロジーの風味を一段と高める役割をするジョイス・キャロル・オーツだが、本人の作品ばかり集めると、さすがに読んでいて辛いのではないかと思ったが、作品の選び方がいいのか、それほどでもなく、語りのうまさにつられて一気に読み終えてしまった。

読後、やはりノーベル文学賞は無理じゃないかな、と思った。文学的に問題があるわけでもなく、技量からいえばとって当然とさえ思えるのだが、主題となるのが、「(暗い)情念、嫉妬、孤独、劣情、欲望、残虐性」といったネガティブなものばかりで、それをいかに効果的に表現するかという点に作家的使命をかけているようなところのあるジョイス・キャロル・オーツに、近年の傾向を考えれば、財団側が賞を贈るとは思えないからだ。まあ、作家のほうも欲しいとは思ってもいないと思うけれど。

「とうもろこしの乙女」というのは、さらってきた少女を生け贄にするオニガラ・インディアンに伝わる儀式の一種。犯人は歴史博物館でその展示を見て犯行を思いついた。とうもろこしのひげを思わせる美しい金髪の少女の誘拐と拉致をモチーフに、関係する三者、被害者の母親、犯人グループのリーダーの少女、その少女の片思いを無視したことから標的にされ、警察から容疑者扱いを受ける教師の視点が交錯し、意外な結末を迎える、という倒叙ミステリである。

被害者は学習障害を持つ少女で、シングル・マザーである母親が充分な教育を施すため裕福な子女が集まる私立高に転校してきたばかり。そのため、母親は娘を一人にして夜間も働いている。一方、加害者の少女も注意欠陥症候群でリタリンを処方されている。両親を知らず、地元の名士の妻である祖母の豪邸で暮らしている。頭はいいが、素行不良で成績は下降気味、協調性がなく周囲を見下している。少女同様見かけの冴えない二人の手下を使って犯行に及ぶ。

教師は父も祖父も資産家だが、自身は一家のはぐれ者で一匹狼を任じている。他者と関わらず自身の欲望を満たすことに精力を傾ける独身貴族。少女たちにも関心はなく、なぜ犯人扱いされるのか理由が分からない。被害者の母親は、職場の上司と不倫関係にあることが、警察に被害届を出したことで明らかになり、子どもを放っておいて、男と情事にふける悪い母親という評が広まるのを恐れ、恥じるが、娘の救出を願って警察の介入を受けいれる。降ってわいた事態に見舞われ一気に周囲から指弾される身に陥った二人の困惑が他人事とは思えない。

なぜ、少女は誘拐されねばならなかったか?それは加害者の少女の劣等感、孤独、嫉妬心、肥大した自尊心、その他もろもろの心情に起因する。被害者とその母がキスするシーンを、孤独な少女は羨望の目でとらえたであろうし、コンピュータ教室の教師に一方的に好意を寄せながら、無視されることで傷つけられたプライドが一挙に復讐心にコード変換されることも、奇妙な話だが、理解可能だ。

普通だったら、理解不可能な犯罪者心理が、ジョイス・キャロル・オーツの手にかかると、まるで自分がその立場にいるように手に取るように分かる。少々困った気持ちにさせられるほど、犯罪者の側に寄り添うことができるのだ。実際、誘拐拉致を企て実行するジュードの視点で事態を見ているうちに、この少女の孤独が見に迫り、抱きしめてやりたくなってくる。被害者よりも加害者の方がいちばんかわいそうに思えてくるのだ。凄絶な事件解決の後に来るラストは、中篇ならではの余韻の残るものだが、この結末のつけ方を見るにつけジュードの孤独がいや増さる。どこまでも救いようのない人生の不条理を感じさせる一篇である。

その他の六篇。見知らぬ女性から誘いをかけられ、鼻の下を長くして待ち合わせ場所に出かけると、相手は別れた妻のもとに残した娘だった。誘われるままに車に乗って出かけた墓所で、思わぬ仕打ちに見舞われる太った中年男の危機を描いた「ベールシェバ」。こんな事態に至ったのが娘の一方的な思い込みなのか、それとも身に覚えがあるのか。そこがよく分からないのと、誰もいない場所で身動きが取れなくなった糖尿病患者ならではの恐怖がじわじわと迫る。

「私の名を知る者はいない」、「化石の兄弟」、「タマゴテングダケ」の三篇は、兄弟姉妹の近親憎悪を主題にしている点で共通している。「私の名を知る者はいない」は、新しく生まれてきた赤ちゃんに一家の関心を独り占めされた姉の嫉妬や羨望を姉の視点から描くよくあるもの。それに大きなグレーの猫をからませ、ポオ由来の恐怖小説の古典的手法で読ませる。

「化石の兄弟」、「タマゴテングダケ」は、双子の兄弟の愛憎を描いて酷似する。外向的で精力的、人を虜にする魅力を持つ兄と、内向的で見かけもさえない弟との支配被支配の関係を、虐げられる弟の側の視点から描く。どれだけ、弟がひどい目にあわされても相手の兄の側はそれを何とも思っていないという点で、いじめの加害者と被害者の関係をなぞっているが、被害者の側の愛憎が、加害者が他人ではなく実の兄という点で微妙な陰影を帯びる。ラストの決着のつけ方が秀逸。

湾岸戦争で戦死した男の妻が、遺品を役立てようと寄付しに寄った店で出会った若い男に一方的に思いを寄せ、裏切られる「ヘルピング・ハンズ」。裕福な中年女性と、戦争で生涯を棒に振った男の出会いと別れが凄まじく暴力的に描かれる。酒を口にした男の口吻に現れる変貌が生々しく、直接暴力に訴えなくても、相手を震え上がらせるのに充分な恐怖がたっぷりと用意されている。ベトナム戦争以来たて続けに戦争に見舞われたアメリカの世情不安が色濃い一篇。

「頭の穴」は、文字通り頭に穴をあける頭蓋穿孔手術の恐怖をこれまでかと描く血まみれスプラッター。公私ともに進退窮まった美容整形外科医がDIYで買った電動ドリルで、高額で手術を依頼してきた老婦人の頭に三角形の穴をあけるのだが、思いがけない出血量の多さに手が滑り、患者が死んでしまう。その始末をどうするか、遺骸を車に乗せながら考えていることと実際に行われていることが混じり合って異様な風景が現出する。どこか滑稽でいながら怖い。ジョイス・キャロル・オーツの真骨頂といえる。七篇いずれも絶妙の語りで読ませる極上の短篇集である。

『堆塵館』 エドワード・ケアリー

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暗雲立ち込める空の下、塵芥の山の上にそびえたつ城のような館を背に、沈鬱な表情を浮かべた半ズボン姿の少年が懐中時計状のものを手にして立つところを描いた表紙画が何ともいえない味わいを出している。著者自身の手になるものだそうだ。アイアマンガー三部作と銘打ったシリーズの第一巻。表題はディケンズの『荒涼館』を意識したのだろう。貧しい人々が生きていくために屑拾いをし、親を亡くした孤児が売り買いされるロンドンの街外れを舞台に、まさにディケンズ張りの世界を描く。

主人公のクロッド・アイアマンガーは、堆塵館という大きな館に住むアイアマンガー一族の一員。先祖のセプティマスは土地を持たない屑拾いからはじめ、屑山に捨てられた不用品の中から金目の物を探し、他人の借財を買い集めて財を成した。その資金を元手にロンドン中のゴミの山を一か所に集めたのがここ、フィルチングだ。アイアマンガー家の力が大きくなるにつれ、人々はそれをそねみ、憎んだ。一族を不浄の者と蔑み、フィルチング区の壁の中に閉じ込め、区外へ出ることを禁じた。

アイアマンガーの者は、人々が見捨てた物、壊れた物、汚れた物に愛情を注いだ。それは自分たちと同じ臭いがするからだ。そして、屑の山の上に、ごみの中から使えそうな扉や窓枠を探し出し館を建てるに至った。それが地上六階、地下五階に及ぶ広大な堆塵館だ。地下にはロンドン直通の蒸気機関車が走り、騾馬を動力とする昇降機を備えた近代建築でもある。地上には純血種のアイアマンガー一族が暮らし、地下には、どちらか一方の親がアイアマンガーの血を引くものが、純血のアイアマンガーたちの世話をする役として雇われ、居住している。

水平的平面では、その職業に対する差別意識によって、他のロンドン市民から差別され、隔離されているアイアマンガー一族は、垂直的には、地上階と地下階で、支配する者と隷属する者とに二分されている。同じ地下にあっても、執事や家事頭には名前があるが、下働きの女たちは館に来るまでは所有していた固有の名前を取り上げられ、ただアイアマンガーと呼ばれることに甘んじなければならない。事ほど左様にこの物語は差別被差別、支配被支配の関係の上に成り立っている。

アイアマンガーの支配するフィルチングには、ロンドン市内でやっていけなくなった貧しい者、病人、罪人、借金取りに追われる者、異国の者が集まってきた。彼らはごみの選別の仕事を与えられたが、そのうち奇妙な病気が流行り出した。それに感染すると人が物化するのだ。それはやがて区外にも派生し出した。壁近くに住んでいたルーシーの両親もその病で死に、ルーシーは孤児院に入れられた。ところが、親のどちらかがアイアマンガーの血を引いていたらしく、ルーシーは館に迎え入れられ暖炉係として働くことになる。

ディケンズの小説で描かれているように、当時のロンドンの下層階級に位置する人々の暮らしは貧しく悲惨なものだった。ルーシーは、その階級を代表するヒロインだ。一方、市民からは白眼視されながらも、経済的には富裕層である純血のアイアマンガーであるクロッドは、上流階級とはいわぬまでも中流程度の階層に位置している。この二人の身分ちがいの恋が、主題になっている。階層社会がそれなりに保たれるのは、互いの不干渉が前提である。そこに亀裂が走れば、あとは革命まで一直線だ。

物語は、当然のように二人の出会いに始まり、禁忌の侵犯があり、安定していた構造に揺らぎが起こる方向へ動き出す。そのための仕掛けが、「誕生の品」と呼ばれるものである。アイアマンガー一族が、人が物化してしまう病気から免れているのは、誕生すると同時に、贈られる「誕生の品」をいつも身近に置いておくことにある。まあ、言ってみればお守りのようなものだ。屑の中から選ばれるそれは、蛇口であったり、浴槽の栓であったり、というものだが、ロザマッド伯母の誕生の品であるドアノブが紛失したことが、アッシャー家ならぬ堆塵館の崩壊の契機となる。

誕生の品には、それぞれ名がついている。たとえば、クロッドの誕生の品である栓は、ジェイムズ・ヘンリー・ヘイワードという。一族の中で、誕生の品の名前やその他の物の話す声が聞こえるのは、イドウィド伯父を除けば、クロッド一人だった。いつも家族から疎んじられているクロッドには「聴く人」の力が備わっていたのだ。みじめな少年が異界からやってきた王子様ならぬみすぼらしい孤児の力を借りて、輝かしい騎士に変容する。このあたりのみそっかすがヒーローに変身するあたり、典型的な昔話のスタイルである。もともと児童向けに書かれた絵入り小説らしく、堆塵館に吹きつのる嵐の中、物たちが反乱を起こす場面など、血沸き肉躍る痛快冒険小説のノリで、手に汗握る展開はまるで映画を見ているよう。

いわゆる幻想小説を期待すると、ちょっとちがうかな、という気にさせられるが、見捨てられたものが力を結集して群体を作るという発想など、手塚治虫の『鉄腕アトム』にあったエピソードを思い出した。口髭用カップが走り出すのにつられて、いろんな物が次々と命を授かったように動き回るあたり、日本の付喪神を髣髴させる。屑となった物や、社会から振り落とされ、無用の烙印を押された者を支配する頂点に立つアイアマンガー一族の長である祖父を向こうに回して、虐げられた者や物の側に立つクロッドとルーシーがどう闘うのか、次巻の刊行が待たれる。

『セカンドハンドの時代』 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

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さすがにドストエフスキーの国の話らしく、読んでいる間は鬱々として愉しまず、時おり挿まれる笑い話は苦みが過ぎて笑えず、読語の感想は決して愉快とはいえない。しかし、景気悪化がいっこうに留まることなく、それとともに戦前回帰の色が濃くなる一方の、この国に住んでいる身としては読んでおいた方がいい本なのかもしれない。副題は「『赤い国」を生きた人々」。歴史的にも何かと因縁のある国でありながら、戦後アメリカ一辺倒でやってきた日本にとって、ソ連、そして最近のロシアという国は、近くて遠い国といって間違いはないだろう。

筆者は、昨年(2015年)のノーベル文学賞受賞者で旧ソヴィエト連邦ウクライナ共和国生まれ。このぶあつい書物は、テープ・レコーダーを肩にかつぎ、街頭や個人の家に出向いては無数の人々の声を録音してきたインタビューを文章に起こしたもの。文中にたびたび(沈黙)、と記されているように、筆者は聞き役に徹し、ほぼ相手の話した通り忠実に書き起こしたものと思われる。それだけに、読みやすくはない。内容が内容だけに、感情的になりがちな話し手の息づかいまで聞こえてくるような書きぶりに、こちらのほうまで息苦しくなってくる。

タイトルにある「セカンドハンド」とは、中古品のことで一昔前には、それを略した「セコハン」という言葉はあたりまえのように使われていたものだ。では何がセカンドハンドなのか。ゴルバチョフ主導により行われたペレストロイカ以後、共産主義国家であったソヴィエト連邦が崩壊し、ゴルバチョフの後を受けたエリツィンにより、かつてのソ連ロシア連邦となって資本主義国家への道を踏み出した。しかし、民主主義や自由という言葉にあこがれ、よりよい生活を夢見ていた人々を襲ったのは、失職、預金封鎖、ハイパー・インフレの嵐だった。

かつては技師や研究者であった人々が、国家の方針転換で職をなくし、食べ物を手に入れるために、物売りや清掃人の仕事をして食いつながなければならなかった。そして、その子どもたちの時代、現代ではスターリンの肖像をプリンしたTシャツを着た若者の姿が目立つという。かつて、目にしたものが、批判され打倒されたはずのものがいつの間にか復権し、大手を振って町を席巻している。昔を知る人々にとっては、まるで美しく輝いていた共産主義が中古品になって出回っているという気にもなる。タイトルの由来である。

それにしてもである。人々の口にする言葉が画一的というか、人はちがっていてもまるで同じフレーズを唱えることに驚く。ペレストロイカで皆が夢見たものはソーセージ、それにジーンズ。そして、一時期の混乱を経て、今、ソーセージは確かに街に氾濫しているが、人々の頭にあるのはカネ、カネ、カネだ。人よりうまくやって金を得ることが何よりも大事なことになった。キイチゴ色のスーツを着て、金の鎖をじゃらつかせ、メルセデスに乗った勝ち組が大通りを闊歩する。

昔はこうではなかった。みんな貧しかったが、そのかわり大金持ちが威張りくさるということもなかった。スターリンは偉大だった。ソヴィエトは立派な大国だった。ゴルバチョフは、CIAの手先で、ユダヤ人たちに国を売り渡してしまった。あの偉大なソヴィエト連邦は、一発のミサイルも撃つことなしに共産主義国家を雲散霧消させてしまった。91年のクーデターを阻止するため、広場に集まった人々の口にする言葉は、みなおどろくほど似かよっている。

インタビューに応じる多くが、当時のインテリ階級で共産主義の理念に賛同し、熱心に活動してきた人たちだ。文学好きで、チェーホフプーシキンの全集を備え、劇場に足を運び、舞台を楽しんでいた人々が、ペレストロイカ以後は、生きるために、まずは食べる物を獲得することに自分の全エネルギーを費やすことになる。その空しさを、切々と訴えるのだが、子どもたちには理解してもらえない。ジェネレーション・ギャップは、世界共通でもあろうが、彼らの言うように互いが異なる国に住んでいるというほどの認識までにはさすがに至らないだろう。

べネディクト・アンダーソンによれば、国家とは「想像の共同体」であって、地政学的な概念ではない。そういう意味では、かつてのソヴィエト連邦と、現在のロシア連邦は地理的には共通する部分が多いが、同じモスクワに住んでいても、ソ連当時のモスクワに暮らしていた人々と、現在のモスクワに住む人々は、まったく異なる国の国民であるといえる。ずっと故郷を離れていたモスクワっ子が、ペレストロイカ後のモスクワを見てその様変わりに「ここはモスクワではない」とつぶやいても無理はないのだ。

軍によるクーデターを阻止した人々が狂喜の後、激しい落胆に襲われた理由は、民主主義は突然やってきたりはしないということだった。ヨーロッパは二百年にわたって民主主義を育んできた。ロシアは、一朝一夕には変わらない。アメリカとの軍拡競争に明け暮れ、リベットを打って兵器を作ってきた多くの工場や研究所の閉鎖は大量の失業者を生んだ。おまけに軍縮はこれも大量の失業軍人を輩出した。「自動小銃と戦車しか知らない男たち」は、なすすべもなくウオッカを飲んで女を殴った。

政府の上層部は、共産主義を廃止すれば、民主主義や資本主義が、自然成立するとでも考えていたのだろうか。目端の利いた者が早いもの勝ちにパイを奪い合い、かつてそれなりの秩序の下にあったロシアは、ならず者が力で牛耳る国家になり果ててしまう。目を覆いたくなるような悲惨な状況が、次から次へと語り継がれる。まるで悲劇的作風の短篇小説を大量に集めたものを読まされている感じだ。しかし、これは小説ではなく事実。KGB出身のプーチンが、それなりの支持を得たのは曲がりなりにも治安を回復させたことにある。

西側からは歓喜の声を持って迎えられたペレストロイカの実態が、かくまでひどいものだったのかと、改めて思い知らされた次第。煮え湯を飲まされた世代と、過渡期の地獄を知らない世代にとってスターリンは英雄なのかもしれない。第二次世界大戦の生き残りは言う。「スターリンのことを悪く言うが、スターリンヒトラーに勝利しなかったらロシアはどうなっていたんだ」と。年よりは、スターリニズムの恐怖を知らないわけではない。彼らは彼らの国家の夢をいまだに見ているのだ。想像の共同体である偉大なロシアの夢を。

国家が想像の共同体であるなら、この国にだって憲法に象徴される戦後民主主義の理念を共有する人々の共同体がある一方、戦前の価値観をセカンドハンドで手に入れ、ほこりをかぶったそれを今風に飾り立ててさも素晴らしいものであるように見せる人々がいる。この国もまたセカンドハンドの時代に入りつつあるのではないか。とても他山の石として見過ごせるような本ではない。

全編を通じて感じるのは、人々の語彙が単色であることだ。何人の人の口から唯物的な暮らしを意味するものとして「ソーセージ」という単語が出るか。新興成金の着る服はみな「キイチゴ色」で、他の色はない。言葉がプロパガンダ化しているのだ。この同調圧力の強さは、いったん戦時ともなれば強みだろうが、事態の急変を乗り切る際には弱みとなろう。レミングの暴走と化すのだから。この本から学ぶことがあるとすれば、そこではないか。道を誤らないためには、他人任せにせず、自分の目や耳をつかって、今起きていることを自分の言葉で語り、書きとめていく必要がある。それを反語的に教えてくれているのがこの本ではないのだろうか。

『転落の街』上・下 マイクル・コナリー

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<上下二巻を併せての評>

『転落の街』は、ロス市警強盗殺人課刑事ハリー・ボッシュが主人公。下巻カバー裏の惹句に「不朽のハード・ボイルド小説!」のコピーが躍るが、御年60歳で、15歳の娘と同居という設定では、どう転んでもハード・ボイルドになるわけがない。事実、射撃の腕は娘にも負け、視力の衰えや観察力、推理力が以前ほど働かなくなったことを認めてもいる。なにしろ引退を考えるほど自信をなくしかけている。

シリーズ物の作品をはじめから読まずに途中から読むのは厄介だ。キャラクター設定がのみ込めていないし、人間関係にも疎い。それでも、どうにか読めるのは、作家がそのあたりを配慮して、一話完結でも読めるようにしてくれているからだ。年をとり、一度は年金生活者となった主人公が再雇用され、「緊急呼び出しやできたてホヤホヤの殺人事件」を待たない未解決事件班に配属されているところから話がはじまる。

昔は使えなかった技術が可能となり、DNA解析が犯人割り出しの決め手となる。古い事件のDNAが、全米のデータベースに登録されている遺伝子プロファイルに該当し、特定の個人に合致したものをコールド・ヒットと呼ぶ。その報告書をたよりに犯人の身柄を押さえる未解決事件班は、荒っぽい現場に不似合いな年寄りや、血を見るのが苦手な刑事には似つかわしい職場だ。

今回の事件にはおかしな点があった。被害者から採取された血痕のDNAは、性犯罪の逮捕歴を持つペルという男のものだったが、事件発生当時の年齢は八歳。八歳児が十九歳の女性を拉致監禁後レイプし、死体を遺棄できるものだろうか?捜査をはじめるボッシュに呼び出しがかかる。別の事件を担当せよという本部長命令だ。元刑事で今は市議のアーヴィングの息子が昨夜ホテルのバルコニーから転落死した。自殺説を認めない市議はかねてから因縁の仲であるボッシュに白羽の矢を立てたのだ。

互いに関係のない二つの事件の捜査が同時に進行していく。ボッシュは相棒のチューとレイプ殺人事件の犯人を追いながら、アーヴィング・ジュニアの死の真相を追う。警察内部から情報が漏れたり、かつて警察にいながら職場を追われて遺恨を持つ、市議を含む複数の元刑事がからんでいたり、と転落事件は警察と市議会を巻き込む政治的事件の様相を呈してきていた。

冷静で有能なボッシュの捜査や尋問を通して捜査はすすめられてゆく。組織の中の力関係を見すえ、危うい均衡を操りながら動くボッシュの姿は、クライム・ノヴェルの緊張感に溢れている。話の途中にたびたび顔を出しては、鋭い観察眼を披歴する娘のマディとのかけあいも緩急のテンポを生んでいる。性犯罪者相手にセラピーを行う社会復帰訓練施設勤務の女医ハンナとの間にはロマンスさえ生まれ、上巻は地味ながら落ち着いた警察小説の色合いが強い。

転落死したアーヴィングの背中には特徴的な傷跡があり、落下する前に着いたものであることが分かる。床に落ちたボタン、不自然な目覚まし時計の位置、目撃証言、監視カメラの映像を手掛かりに、アーヴィング父子と利害関係のある巡査や元刑事を尋問し事件解決に近づいてゆくボッシュ市議である父の力を利用してロビーストとしてのし上がってきた息子が何故死なねばならなかったのかを追う、こちらのほうの展開はハード・ボイルド調で楽しめるものになっている。

一方、未成年者の拉致監禁、レイプ殺人という陰惨な事件の解決は、ハンナがセラピーを担当するペルの記憶にかかっていた。母の情人によって虐待を繰り返された少年は、満足に学校にも通えず過酷な人生をたどるうちに、かつての被害者が今は加害者になっていた。救いようのない事案は、それにかかわるハンナとボッシュの関係にも影を落とす。未成年者のからんだ性犯罪というモチーフは、どう扱っても後味が悪い。ノワールに猟奇事件を持ち込むのはそろそろ止したらどうだろうか。

二つの事件が最後にどうからんでくるのかという興味があったのだが、DNAの二重螺旋構造よろしく、結局二つは最後まで交差することはない。どんでん返しに慣れすぎて、普通の解決の仕方では裏切られた気がするのだが、これは無理な注文というものだろう。ただ、転落死の解決は、動機が弱い。美人妻はハード・ボイルドでは謎を解くカギというのが定番。せっかく美しい妻を登場させておきながら出番が少ない。ハード・ボイルド色を薄めてしまった原因だろう。

かつてのパートナーが出世して上官になっていたり、現在のパートナーとの関係に齟齬が生まれたり、と警察小説ならではの人間関係を基軸としたサイド・ストーリーが、小説に厚みをもたらしている。惜しむらくは読後にスッキリ感がない。巧緻なプロットで有名な作家が二重螺旋構造というアイデアに固執し、二つの事件を同時に扱おうとしたところに無理があったのでは。一粒で二度美味しい、というキャラメルのように甘くはなかったというところか。

『世界の8大文学賞』 都甲幸治他

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芥川賞直木賞なんて世界の文学賞のうちに入るのだろうか?日本の作家が書いた日本語の小説しか対象になっていないのに。なんてことを思ったけれども、読んでみました。今年も話題になっているのは、もちろんノーベル文学賞村上春樹さんがとるかどうか、メディアで騒がれました。この本を読むとわかるのですが、その根拠になっているのがカフカ賞。この賞をとった人が二人、ノーベル文学賞をダブル受賞しているんだそうで、まだ受賞してないのが村上春樹なんだそうです。カフカ賞チェコ語の翻訳が一冊は出ていないと受賞できないそうで、村上春樹がとった2006年は『海辺のカフカ』が翻訳された年。タイトルがよかった?

そのノーベル文学賞。世界的に開かれているような気しますが、実はヨーロッパの主要言語しか読めない人が選考委員なので、そうした言語で書くか翻訳版が優秀であること、北欧諸国出身だとさらに有利、とのこと。タイトル関連でいうなら『ノルウェイの森』に分がありそうなものだが、どうなっているんでしょう。それはさておき、8大文学賞として取り上げているのは次の賞です(開始年)。ちなみに、受賞対象が作品になっているのが、*のついている賞で、何もついていないのが、作家に与えられる賞です。<>内が本書で取り上げている作家名。

ノーベル文学賞(1901年)<アリス・マンローオルハン・パムク、V.S.ナイポール
ゴンクール賞(1903年)*<マルグリット・デュラス、ミシェル・ウェルベックパトリック・モディアノ
ピュリツアー賞(1918年)<ジュンパ・ラヒリスティーヴン・ミルハウザー、E・P・ジョーンズ>
芥川賞(1935年)*<黒田夏子小野正嗣目取真俊
直木賞(1935年)*<東山彰良船戸与一車谷長吉
エルサレム賞(1963年)<J・M・クッツェーイアン・マキューアン、イスマイル・カダレ>
ブッカー賞(1968年)*<ジョン・バンヴィルマーガレット・アトウッド、ヒラリー・マンテル>
カフカ賞(2001年)<フィリップ・ロス、閻連科、エドュアルド・メンドサ>

この本は、都甲幸治さんを中心に、「小説家や書評家、翻訳家など本にまつわる様々な職業の人々に、一つの賞につき一冊ずつ、合計二四冊読んでもらい、全てを読んだ上、鼎談の形で論じてみたもの」。談話形式なので、口調がくだけていてとても読みやすい。鼎談の間には、都甲さんと、僕が翻訳本を選ぶ時の目安にしている翻訳家のひとりの藤井光さんのコラムもある。外国文学って、よく分からないけど、どんな本があるのだろうと考えている人には役に立ちそう。

で、はなから外国文学好きの人たちには、もっと面白いんじゃないかな。というのも、それぞれの賞の特徴についてふれたあと、その賞の受賞者たちの小説について三人が語るんだけれど、選ばれている作家の顔ぶれが、いいんです。今までにたくさんの人が受賞しているはずだけれど、この人たちを選んでくるあたりがすごいな。本当に本のことがよく分かっていて好きなんだなあ、と思います。

それぞれの賞につけたタイトルが、その賞の特徴を表していると思うので、下手に解説するより、それを紹介します(日本の賞は省略)。「これを獲ったら世界一?」(ノーベル賞)、「当たり作品の宝庫」(ブッカー賞)、「写真のように本を読む」(ゴンクール賞)、「アメリカとは何かを考える」(ピュリツアー賞)、「チェコの地元賞から世界の賞へ」(カフカ賞)、「理解するということについて」(エルサレム賞)。

今年ノーベル文学賞の受賞者に選ばれたボブ・ディランから音沙汰がないので、財団はさぞ気を揉んでいることだろうと思います。それもこれも、この賞の選考基準としていちばん全面に押し出しているのが「人類にとっての理想を目指す、世界でも傑出した文学者」というものだからです。「最近の受賞者の傾向を考えると、どうやらこの「人類にとっての理想」というのは、「人権擁護」や「国内で迫害されている人を描く」という意味」らしい。で、ボブ・ディランなわけです。そんなノーベル文学賞ですが、都甲さんがこう言っています。

今回紹介する三人はある意味「間違って獲っちゃった」人たちです(笑)。マンローはカナダのド田舎に住んでる普通のおばさんだし、パムクは『無垢の博物館』(早川書房、全二巻)のように変態的な話を面白く書く人だし、ナイポールはそもそもどの国の作家だと言いきれない。ノーベル文学賞を獲った立派な国民文学作家について国別対抗で語り合うんじゃなくて、「ノーベル文学賞獲ったにも関わらず、別の理由でいい作家です」という人たちを紹介したいです。

すべてにおいてこの調子。マンローもパムクもナイポールも、けっこう読んでいるので、都甲さんの言いたいことはよく分かる。特にマンローはすごい。「短篇一本を読んだだけで、長篇を一冊読み切ったくらいの気持ちにさせてくれる」(都甲)という評がすべてを語ってくれています。本当にその通り。パムクについて訳者の宮下遼さんがいう「それだけで短篇、中篇になりそうな話を、一つの長篇のなかに惜しげもなくいくつも投入していく気前のよさが、僕は好きです。こんなに西欧風な人間のくせに、そこだけトルコ的な御大気質を感じてしまって。ディテールの作り込まれた奇想こそが、物語の要諦だと思います」というのもまさにその通り。

この調子で紹介していると引用だらけになりそうなので、このへんでやめますが、ブッカー賞のところで、ジョン・バンヴィルの文章についていい話があります。毎日九時から一八時までオフィスで執筆に専念し、一日英語で二百語書けたらその日は成功だというのです。「バンヴィルはベンジャミン・ブラックという別名でミステリーも書いていますが、その時はパソコンを使って書くそうです。そのときは筆が速いらしい。バンヴィル名義は手書きで、極端に遅くなる」(都甲)。このこだわりがあの美しい文章を生むのですね。ブラック名義でチャンドラーの名作の続編を書いた『黒い瞳のブロンド』。チャンドラーには及びもつかないけど、ミステリとしてはけっこういけますよ。