青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『物が落ちる音』ファン・ガブリエル・バスケス

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カバが射殺された話から始まる。閉鎖されて久しい動物園から逃げ出したカバが畑を荒らすので撃たれた、という記事を読んだ「私」は、昔つきあいのあった男のことを思い出す。リカルド・ラベルデと会ったのはビリヤード場だった。当時、最優秀の成績で法学士の資格を得た二十六歳の「私」は、最年少教員として大学で教えており、試験期間で講義がない日はそこで暇をつぶしていた。

廃墟となった動物園の映像を流すテレビを見ながら、誰に聞かせるでもなくリカルドが呟いた。「動物たちはどうするんだろう。(略)やつらにゃ罪はないだろうよ」と。動物園は麻薬王パブロ・エスコバールが作らせたもので、1993年に殺された後は放置されていた。その後しばらくして二人は一緒にプレイするようになる。

リカルドは四十八歳。二十年間入っていた刑務所を出たばかりで、歳以上にくたびれて見えた。もとは飛行機のパイロット。アメリカにいる妻を呼び寄せてやり直そうとしていた矢先、そのエレーンが乗った飛行機が墜落した。カセットを聞くために一緒に出掛けた建物の近くでリカルドは射殺され、「私」もまた重傷を負う。カセットの中身は墜落機のフライトレコーダーの記録だった。

襲撃によるPTSDのせいで講義中に涙を流したり、教え子との関係を揶揄う卑猥な落書きを書かれたり、と「私」は教師の権威をなくしかけていた。アウラとの間に娘が生まれたばかりだったが、事件以来勃起不全となったことで家庭生活にも軋みが生じていた。そんな時、リカルドの娘だというマヤから手紙が届く。こちらへ来て父の話を聞かせてほしい、と。

高地にあるボゴタから、遠く離れたマグダレーナ河近くのラス・アカシアスへ車を走らせた「私」は、マヤがほぼ同い年であることに気づく。自分の知るリカルドの思い出を話す代わりに、マヤから柳行李に詰められた両親についての資料や手紙を見せてもらった。そこには、70年代当時のアメリカとコロンビアの間に生じた公にできない関係が記されていた。話は、ここから時をさかのぼり、雑誌の記事や手紙をもとにして「私」が組み立てたマヤの両親の物語へと変わる。

エレーンは、大学卒業後ジョン・F・ケネディが主唱した平和部隊に応募し、コロンビアにやってくる。下宿先の息子がリカルドだ。リカルドの祖父は軍の英雄で、孫もまたパイロット志望だった。二人の仲は急接近し、妊娠したこともあって結婚。セスナで貨物を運ぶ仕事に就いたリカルドは、妻の仕事先に近い村に土地を買って我が家を建てる。幸せな暮らしは三年間続くが、ある日を境に夫は帰らなくなる。

『コスタグアナ秘史』では、パナマ運河建設の時代を歴史的背景に用いて、小説に厚みを加えることに成功したバスケスだが、今回は、ベトナム戦争ウォーターゲート事件のあった70年代に的を定めている。当時、アメリカはメキシコからの麻薬密輸を撲滅しようと躍起になっていた。だが、密輸業者は、需要があればどこからか供給先は見つけてこなければならない。それがコロンビアだった。

国家による開発途上国支援のためのプロジェクトを隠れ蓑に隊員の一部が麻薬の密輸を考えた。配属先の奥地の住人に麻薬の栽培と抽出法を教え、製品を小型機に乗せてレーダー網にかからないルートで運ばせ、現地に待機した買い手に直接手渡すというものだ。それには、セスナ機を飛ばすことのできる人間を必要とした。飛行時間が少なく、家の建設資金を稼ぎたくても人を乗せることができないリカルドにとって、それは渡りに船だった。

妻と子のためを思ってした行為が裏目に出てしまう。しかも二十年後、人生をやり直そうとしたところへ妻を乗せた飛行機が墜落する。普通では絶対に手に入れることのできないフライトレコーダーの録音カセットを手に入れるためにリカルドの払った代償が、あの襲撃だったということか。しかも、それは最愛の娘から残されたたった一人の肉親を奪うことになってしまう。なんという虚しさ。なんという徒労感だろう。

それだけではない。冒頭の「私」の、四十になろうとしたばかりなのに、すっかりくたびれ果てた中年男の疲れ切った様子はどうだ。回想から始まった物語は、ふつう語り出した時点に戻って終わるものだ。そうすることで、たとえどんなに酷い時間を過ごしたにせよ、過去は過去として葬られ、今はこうして現在を生きている、という安堵のようなものがそれまで語り手と共に物語を生きていた読者の心のうちに生じる。

ところが、この小説は「私」がマヤの家からボゴタに帰った時点で終わっている。時はそこで止まったままなのだ。生きている者には時間が過ぎてゆくが、死んだ者にとって時計はそこで止まったままだ。マヤと訪れた動物園で見たカバの記憶が、雑誌の記事によって想起されるまで、「私」はリカルド・ラベルデのことを思い出すことさえなかった。人は忘れられることで二度死ぬ、と言われているのに。

「世界はひとりきりで歩き回るにはあまりにも危険な場所だと、だから誰かが家で待っていてくれないと、そして帰りが遅くなったら心配して探しに出てくれる、そんな人がいないとやっていけないのだと言い張ってみようか?」というのが無人の部屋を見たとき「私」の心をよぎった最後の思いである。読者は「私」がこれから歩くだろう人生を知っているが、語り手は知らない。惨い結末である。

『風の丘』カルミネ・アバーテ

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丘は、海の手前で逆さにひっくり返された舟を連想させる湾曲した細長い形をしていて、スッラ(マメ科多年草。フレンチハニーサックル)の緋色で一面彩られていた。そのまわりを、果樹、乳香樹の茂み、月桂樹、金雀枝(えにしだ)、ローズマリー、庭常(にわとこ)、ぶどう畑、オリーブの巨木、ところどころに群生するフィーキ・ディンディア(ヒラウチワサボテン)などがぐるりととり囲み、陰になった斜面は常盤樫(ときわがし)の森に覆われ、たわんだ半円の冠のようだった。

ローマ神話ではゲニウス・ロキ(地霊)と呼ばれるが、ある種の土地には時に人を縛りつけて放さない力のようなものがある。『風の丘』は、緋色のスッラで埋め尽くされ、風の止むことのないロッサルコと呼ばれる丘を四代にわたり守り続けてきたアルクーリ家の物語だ。

自らを「僕」と呼ぶ、アルクーリ家の最も若い跡継ぎが語りはじめるのは、祖父アルトゥーロが子どもの頃、ロッサルコの丘で出会った忘れられない出来事。兄と弟と三人で水浴びをしていると丘の上の桜林で銃声が響く。兄弟が丘の上に出ようとしたところで野良仕事を終えた母と出会う。不審がる子どもたちをなだめ、帰り支度を急がせる母を振り切って一人丘に駆け上がったアルトゥーロは見てしまう。二人の男が血に染まって死んでいるところを。

「僕」がこの話を知っているのは、父に聞いたからだ。アルクーリ家の跡を継ぐ者は、次代に伝える時が来るまで固く秘密を守りつづけねばならない。そして、自分が死ぬ前に、一家の物語を語り伝えてゆくことを約束させた上で、秘められた物語を語って聞かせる。父もまた祖父のアルトゥーロから、こうして話を聞かされたのだ。

母の死後、父は村にある家を出て、丘にあった小屋を改装して独り暮らしを始めた。ある日、父から電話がかかる。父には語り継ぐべき家族の物語の他に、誰にも話していない自分と妻の間に秘された物語があった。こうして、「僕」が父から話を聞く現在の物語と、曾祖父母、祖父母、そして父ミケランジェロと母マリーザの過去の物語が、時に交錯し縺れ絡まりあうようにして家族の物語が紡ぎ出される。

長靴の形をしたイタリア半島の爪先のあたりに位置するカラブリア。大地主が土地を所有し、人々は高い小作料を払って小作人となるしかない貧しい土地。曾祖父アルベルト・アルクーリは硫黄鉱山で日雇い仕事をしながら、先祖から受け継いだちっぽけな土地に、合衆国に渡るため急いで土地を手放したい農民から少しずつ買い足してロッサルコの丘一帯を手に入れたという。しかし、村人は信じていなかった。何か裏があるにちがいない、と。

カラブリアは貧しい。地代と重税にあえぐ村人の目には、岩だらけの不毛の地を切り拓き、オリーブや葡萄の木を植え、家畜を育てる自作農になったアルクーリ家は、アルビノの白燕のようなものだ。おまけにアルトゥーロは反ファシストの闘士ときている。白燕は色の違う仲間の燕によって巣から追い落とされる。硬貨には必ず裏表がある。ロッサルコの丘は一家にとって大事な宝になるとともに危険な火種ともなった。

冒頭の二人の若者の死は一家に暗い影を投げかける、硬貨に喩えるならその裏面にあたる。第一次世界大戦中曾祖父アルベルトは、二人の息子を戦争で奪われる。独り生還したアルトゥーロは丘を買い占めようと圧力をかけてくる大地主ドン・リコと対立し、讒言によって流刑にされる。釈放後、家族とともに丘に木を植え、小麦を育てて家を盛り立てるが、第二次世界大戦末期、不時着した英兵を匿ったことが災いしたか、行方が分からなくなる。

父の代になると、リゾート開発や風力発電の風車建設地にと丘を手に入れようとする者たちが次々と現れる。首を縦に振らないミケランジェロに脅しをかけるため、犯罪組織の手を借りて木を伐ったり、森に火をつけたりとしたい放題。そのすべての原因となるのが、代々の親から語り継がれた丘を絶対に守れ、という言葉に縛られる男たちの頑なな性格だ。

対比的に女たちは、生命力にあふれ、快活で自由だ。料理上手の曾祖母ソフィー、祖父に代わって丘を守ってきた祖母リーナ、絵が上手で家に縛られない叔母ニーナベッラ、考古学者で家を空けてばかりだった「トリノっ娘」の母マリーザ、と丘の磁力に引きつけられ、土地に縛りつけられ続ける男たちが飲まされる苦汁を味わうことがない。

アモーレ(愛)、カンターレ(歌)、マンジャーレ(食)の三つを大切にするのがイタリア人、とイタリアを旅した時に聞いたことがある。まさにその通りで、この物語の中でも人々は何かといえば、食べ、歌い、愛し合う。食卓には南イタリア特有の食材を使って女たちが調理した美味そうな料理が並び、男はキタッラ・バッテンテをかき鳴らして小夜曲(セレナータ)を歌って女を口説き、男と女は丘の草上で愛を交わす。

トロイア戦争の英雄ピロクテテスによって建てられた古代の都市の遺跡が埋まっているとされるロッサルコの丘。トロイア戦争に向かう途中、踵の傷の痛みに呻くピロクテテスは仲間であるオデュッセウスに島に置き去りにされる。しかし、ヘラクレスの弓を持つピロクテテスの腕なくしてはトロイアは落ちず、十年後島から呼び戻されたピロクテテスの放った矢は見事パリスを射止め、戦争はギリシアの勝利に終わる。

村人の恨みによって島に流されながら、かえって以前より思想も身体も強靭になって帰還したアルトゥーロがピロクテテスに喩えられていることからも分かるように、紀元前の世界から連綿と続く文化・自然遺産を表面に、戦争や人間同士の権力闘争、嫉妬からくる讒言、因習的な土地に蔓延る犯罪組織、といった現代に至るまで連綿と続く負の遺産を裏面に描いた、作家の郷土カラブリアのワインさながらの濃厚な味の物語である。

男と女、北の開かれた都市トリノに対し、南の因習に囚われ貧しさにあえぐカラブリア、土地と夫第一の昔の女性に対し、自由に各地を飛び回る現代女性、古代から伝わる自然を保護し、そこで生きようとする地元民に対し、金になるなら自然破壊も辞さない観光開発ありきの資本、と二項対立を際立たせることで、物語をぐいぐい引っ張ってゆく、カルミネ・アバーテストーリーテラーぶりに圧倒される。

冒頭の引用に見られるように、訳者が植物の名にルビ振りの漢字を多用しているのもうれしい。料理名や食材の場合、タラッリ(リング状の堅焼きパン)、ソップレサータ(豚の足、耳、舌などを煮詰めてゼラチンで固めたもの)、カピコッロ(豚の首から肩の肉を使用したサラミ)、などと懇切丁寧な紹介ぶりも食欲をそそって曰く言い難い読み心地に誘う。パンツゥイア(豚の頬肉の塩漬け)やサルデッラ(シラスの唐辛子漬け)など、引用するだけで生唾がわいてくる。罪な本である。

『内面からの報告書』 ポール・オースター

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少し前に出た『冬の日誌』に続く自伝的な色彩の強い書物である。前作と同じように「君は」と二人称で語られる。『冬の日誌』が、小さい頃から今に至る身体の履歴について時間軸に沿って述べた物語であるのに対し、本書の体裁は少し異なっている。四部構成で、その第一部が表題作「内面からの報告書」で、主に十二歳までの自分に関する記憶を頼りに、自分というものが発生するに至る経緯をたどっている。

第二部は、やはり少年期の自分が影響を受けることになった二本の映画について語る「脳天に二発」。その映画とは『縮みゆく人間』と『仮面の米国』。前者はSF映画で、文字通り体が徐々に小さくなっていく男の恐怖を描いたもの。後者は第一次世界大戦の帰還兵が、帰国してから職を探すものの不況下に職はなく、果ては監獄に入れられてしまう。脱走に成功し、別人となった男に過去の罪が再び迫るという暗澹たるストーリーの映画である。

第三部の「タイムカプセル」は、著者の最初の妻で作家、翻訳者として知られるリディア・デイヴィス宛に書かれた手紙と、それについての作家のコメントによって再構成された、十代後半から二十四歳までの作家志望の青年の内面の赤裸々なリポート。相手と離れて暮らす若者が書いた手紙であるから、普通にはラブレターと解される類のものだが、そこは「君」らしく、今とりかかっている小説の進展具合や、友達との交友、教授に対する反目といった誰にでも覚えのある若き日の心情があふれている。

面白いのは第四部の「アルバム」だろう。「君」が心躍らせたアニメーションや、野球選手、ユダヤ人俳優からはじまって、のちに何度も悪夢となって襲い掛かるナチスの歩兵隊や、先に触れた二本の映画のスチール写真、パリ時代の街角のスナップなどが、ふんだんに配された文字通りの写真帳になっている。

「君」は、自分の内面を探ることについて、自分を特別だと思うからでなく、ごく普通の人間の代表としてとらえている。だからなのか、十二歳までの記憶に、特に印象的なものはない。地球を平面だと信じたり、コナン・ドイルやスティーヴンソンを読みふけったり、と少年期の男の子あるあるといった感じの話が続く。

一つちがうとすれば「君」ががユダヤ人であるということ。「君」の両親は、ディアスポラ以来ヨーロッパに渡ったユダヤ人の子孫で、その多くはユダヤ人に対して保護的な政策を掲げていたポーランドに住んでいた。ナチスによって迫害を受け、大量虐殺に遭う前にアメリカに渡ってきた祖父母のお陰で、この世に誕生することができた「君」は、物心ついて以来、事あるごとに自分がユダヤ人であることを思い知ることになる。

二人の親友が「君」の住んでいた地区から引っ越したのは、芝生のある家に住むために多くのユダヤ人が引っ越してきたので、元からいた人たちが出て行ったのだ、と母から聞かされる。まちがって友達に怪我を負わせたときは、「お前らのような種は」と罵声を浴びせかけられる。アメリカは素晴らしい国で、自分はアメリカ人だと信じていた「君」にとっては容易に理解しがたい事態であった。

メジャー・リーグをはじめ、ユダヤ人のスポーツ選手は稀で、ギャング映画の顔役として知られるエドワード・G・ロビンソンは本名エマヌエル・ゴールデンバーグ。あの妖艶な美人女優ヘディ・ラマーはヘートヴィヒ・キースラー。役者として売れるにはユダヤっぽい名を捨てる必要があった。近くに住んでいたので憧れの対象だったエジソンは、同じ床屋に通っていたが、自社で働いていた社員である「君」の父がユダヤ人だと分かると即刻解雇した。

そう考えると、『縮みゆく人間』や『仮面の米国』の主人公を自分だと感じる「君」の内面がどのように形成されつつあったのかも理解できる気がする。それまで、難なく同調できていた周囲から、あるとき不意にズレていく自分という存在についての自覚。どれほど努力して、周囲に溶け込もうとしても執拗に正体を暴こうと迫る者たちがいることへの恐怖心。ただ、「君」はそれに負けはしなかった。仮令孤立しようともユダヤ人として生きてきた。

個人的に懐かしかったのは、コロンビア大学における紛争に「君」も参加し、逮捕されていたことを知ったことだ。いうまでもなく映画『いちご白書』として描かれ、一躍有名になった1969年のあの紛争である。今の人たちにとってはバンバンが歌った『「いちご白書」をもう一度』の方が、まだ記憶に残っているのかもしれないが、当時大学生活を送っていた者として、ニール・ヤングやCS&Nの名曲に彩られたあの映画は忘れられない。

当時ソルボンヌに留学していた「君」は、頑迷な担当教授とぶつかり、授業をボイコットしてしまう。中途退学となれば、徴兵猶予の待遇を失うこととなり、ヴェトナム戦争が激しさを増していた当時、アメリカに帰国すれば、徴兵されるか、拒否することで逮捕されるか、またはカナダに向かうしか手段はなかった。人生最大の難問にぶつかった「君」の心の揺れを示すリディアへの手紙は読んでいても痛々しい。

「君」の内面ともいうべきものが生まれ、両親の不仲やユダヤ人という境遇を背負い、果敢に戦い、時には崩壊寸前にまで追い込まれながらも、青年期の危機を乗り越え、やがて成熟した大人となるまでを描く。大人になるということは、何かを喪失することでもある。日記を書かなかった「君」は、覚束ない記憶を手探りし、昔の写真や、妻宛の手紙を手掛かりに今はもう失われてしまったものを再現することに成功する。六十も半ばを過ぎた作家の手になる内面への遡行の旅の何というみずみずしさであることか。

『コスタグアナ秘史』 ファン・ガブリエル・バスケス

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フランスによる運河建設工事が破綻して混乱の極みにあるパナマ共和国。その北部にあってカリブ海に面した港町コロンからロンドンに逃れてきた男ホセ・アルタミラーノが語る物語。語りの中で時おり呼びかける可愛い盛りの娘エロイーサを独り故国に残して、何故男はイギリスに来なければならなかったのか。それには驚くべき理由があった。

秘史とついているから、南米かスペインあたりにある地名と思うだろうが、実はコスタグアナという国はない。ジョゼフ・コンラッドが南米を舞台にして書いた長編小説『ノストローモ』に出てくる架空の共和国である。そのモデルになっていると男が主張するのがパナマ共和国。男は、コンラッドが自分の物語を盗んで『ノストローモ』を書いた、というのだ。何故そんなことが言えるのか。その訳というのが一口では言えない複雑な話で、だからこそこんな小説が書かれたわけだ。

コロンビア人の作家といえば、『百年の孤独』を書いたガルシア=マルケスが有名だが、大風呂敷を広げたがるのは詩と演説を好むという国民性だろうか。ホセが語るパナマ運河にまつわる一族の小さな出来事と、何度も繰り返される革命と反乱に揺れるコロンビアとパナマの大きな出来事を聞いたコンラッドが、勝手に換骨奪胎して自分の小説にしてしまった。『ノストローモ』は、自分の話した内容とは似ても似つかない代物だ、とホセは言う。

それなら、自分で語ってみせるしかない。ホセはまず、自分の出自から語り始める。これがまたとんでもない話。ホセの父ミゲル・アルタミラーノは、反カトリック自由主義者として一世を風靡していたが、司祭とトラブルを起こして破門され、抗議に出かけた教会で人を殺す羽目に。時を同じくして起きたクーデターのお陰で殺人犯として告発は免れるものの、今度は叛乱軍から粛清されそうになる。

イギリス船に乗り込んだミゲルは停泊中のオンダという町で知り合った人妻アントニア・デ・ナルバエスと船上で一夜限りの愛を交わす。その後二人は二度と出会うことはなかった。年若い妻の腹の中の子が自分の種でないことを知った夫は銃で自殺。大きくなったホセは、自分の実の父について母から聞き、父を探す目的でコロンに向かう。

その昔自由主義者として新聞に健筆をふるっていた父だったが、運河建設事業のためにパナマを訪れたレセップスの知遇を受けたことをきっかけにパナマ運河についての提灯記事を新聞に書き続けることで、その見返りに住む所や食事その他の厚遇を得る御用記者となる。息子もまた父に連れられて現場を踏むうちにパナマ運河建設事業に深くはまり込んでしまう。

フランス主導のパナマ運河建設は洪水や地震という天災と風土病に見舞われ続け、フランス人技師の多くを失い、見込みを大幅に上回る費用をつぎ込んだ挙句、レセップスが自分の過ちを認め事業から撤退する。ただ、その陰で大規模な汚職が発見され、その主犯格が長年にわたり事態を歪曲した内容の記事を現地から報告し続けてきた新聞にあることが明らかになる。アルファベット順の記者名一覧の筆頭に挙がったのがミゲル・アルタミラーノだった。

引退したミゲルは町中の人間から後ろ指をさされる境遇となる。ホセは、父の友人だった死んだフランス人技師の妻シャルロットと暮らし、一人娘を得る。コロンの町は何度目かの戦争状態に陥っていたが、ホセは自分の家庭の幸せに酔っていた。だが、一人の脱走兵が放った弾がシャルロットの命を奪う。ホセは何故かシャルロットを失った悲しみを娘と共有しようとせず、エロイーサを一人残したたまま逃げるようにイギリスに渡るのだった。

時間軸に沿ってあらすじを書けばこういう話になる。ところが、話はそう簡単に進まない。いたるところに、語り手のドッペルゲンガーのように、若き日のジョゼフ・コンラッドが登場してくる。ホセとコンラッドはほぼ同い年で、船乗りであったポーランド出身の青年とホセは、何度か港町ですれ違っている。若い頃、真っ白な地図にあるアフリカ領コンゴを指さし、「ぼくここに行くよ」と宣言したコンラッドと同じように、ホセもまた運河建設中のパナマ地峡を指さしていたのだ。

訳者あとがきによると、ファン・ガブリエル・バスケスコンラッドの伝記を執筆している。その際に『ノストローモ』執筆中、現地をよく知らないコンラッドが、共和国元大統領の息子で、イギリス公使でもあった人物の手になる書物から知識を得ていた事実を知る。おそらく、それが本作を書こうと思った理由だろう。『パナマ秘史』ではなく、コンラッドが創り上げた架空の国家コスタグアナを表題にしたのも、コロンビア人作家として、コンラッドが奪ったコスタグアナ=パナマを奪還しよう、という思惑があってのことにちがいない。

果たして本作はコンラッドの長編小説として、ここのところ重要視されつつある『ノストローモ』を超えることができたのか?それは『ノストローモ』を読んでみなければ、何とも言えない。これを読んで読みたくなったのも確かだ。ただ、『ノストローモ』未読でも、この小説は面白い。絶えず蚊の攻撃に悩まされ、雨季の雨量がまるで洪水のようなパナマ地峡の気候風土や、自由派と保守派が交互に政権を奪い合うコロンビアという国家についてのポスト・コロニアル批評、と読ませどころに事欠かない。

読者をその気にさせておいて、それはまだ早いと迂回し脱線を繰り返すはぐらし方など、物語の造り手としてなかなかの曲者と見た。先輩作家であるガルシア=マルケスへの挨拶と見られる言及、『白鯨』の作者や女優サラ・ベルナールなどの現地訪問の史実を取り交ぜながら、ジョゼフ・コンラッドの評伝としても読める、巧みな構成にすっかり魅了された。ラテン・アメリカ文学の有望株として今後が期待される作家の輝かしい登場である。

『アルファベット・ハウス』 ユッシ・エーズラ・オールスン

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人気シリーズ「特捜部Q」で知られる北欧ミステリの雄、ユッシ・エーズラ・オールスンの初期の作品。嗜虐的な人物による陰湿で執拗ないじめと長い時間をおいて反撃可能になった被害者の苛烈な復讐という人気シリーズに繰り返し現れる主題は、作家活動初期段階から顕著であった。

二部構成。第一部は第二次世界大戦末期の1944年。第二部は1972年。場所はドイツ、フライブルク近辺。主人公は、イギリス空軍パイロット、ブライアン・ヤング。ブライアンとその親友のジェイムズ・ティ-ズデイルは、アメリカ軍から協力要請を受け、ドイツにあるV1飛行爆弾基地を撮影する任務を受けた。クリスマス休暇中でもあり、ブライアンは渋ったが、ジェイムズは否やを言わなかった。

複座のP51Dムスタングに搭乗した二人は、予想通りドイツ軍の反撃に遭い、パラシュートで降下。追撃する兵と犬から逃げようと運良く来かかった列車に辛くも乗り込んだ。それは傷病兵を帰郷させる列車だった。二人は、高級将校に成り代わることに。だが、連れていかれた先は何と精神病院だった。ジェイムズはドイツ語が分かるが、ブライアンは分からない。連合軍の進撃が迫る中、終戦まで偽患者に成り果せることができるのか。

Rhマイナスのジェイムズが、同じA型でもプラスの血液を輸血されてアレルギー・ショックを起こしかけたり、電撃治療や服薬で意識が朦朧となったりするのも危険だったが、それより怖ろしいのは、患者の中に敗色濃厚なのを知り、隠匿した美術品を山分けすることを目論む四人の偽患者が紛れ込んでいたことだ。彼らは、ジェイムズを疑い、食事に糞便を混ぜるなどをして、正気かどうかを試す。彼がためらいを見せると、密告を恐れて夜ごと暴行を加え、瀕死状態に追い込む。

逃亡を企てるブライアンは、ジェイムズの様子を窺うが、とても同行できる状態ではなく、一人で逃げる。それを知って追いかけて殺すために偽患者たちも逃亡。厳寒の北ドイツ、闇の中、水中での格闘劇。口に突っ込まれた木切れが頬を突き破ったり、眼球に突き刺さったり、とハードなアクションを描かせるとこの作家は巧い。痛みの感覚を刺戟する筆致に、作家自身に嗜虐性があるのではないかと疑いたくなるほどだ。

第二部。平和になったドイツではミュンヘン・オリンピックが開催中。アメリカ軍によって救出されたブライアンは、その後医師の資格を取り結婚。今ではいくつもの特許を持つ製薬会社の社長だ。帰国後手を尽くして探したもののジェイムズは消息不明のまま現在に至っている。戦後ドイツを訪れることを避けてきたブライアンだったが、思わぬことが相次いで起きたのをきっかけに、かっての地を訪れることになる。

第一部では、戦争当時の精神病院における人体実験の様子や、ナチスが戦利品として収奪した美術品その他の物資の隠匿、といったエピソードで興味をそそりながら、様々な悪を体現する偽患者たちが消灯後の病室でひそひそ話す、殺人や拷問の自慢話が披露される。隣のベッドで耳を澄ませて聞き入るジェイムズがあまりの残酷さに反応を悟られてはならないと必死で息を殺す様が凄絶だ。

戦後、偽患者たちは隠匿物資を元手に財を成し、過去の身分を隠して一般人として暮らしている。そこへ、ジェイムズの安否を尋ね、過去からブライアンが現れる。悪人たちは、ブライアンの目的を知らないが、危険を察知し始末しようと行動を起こす。魔の悪いことに、夫の行動に不信を感じたブライアンの妻ポーリーンがドイツに飛んでくる。第二部は、ジェイムズの消息を探るブライアンの探索行と悪人たちの知恵比べ、というミステリ仕立てになっている。

少年時代、ジェイムズとブライアンは熱気球でドーヴァー海峡を飛ぶという冒険を試みる。空気が漏れだした気球から飛び降りたブライアンは崖の上に着地できたが、最後まで降りなかったジェイムズは、突風にあおられて崖に激突。気球は木の枝に引っかかって、崖の途中で宙吊りになりながら、ジェイムズは、ブライアンをなじり罵倒する。危機の最中に親友を見捨てて逃げるという本作の主題の、これが伏線になっている。

小さい頃からの遊び友だちで、そのまま戦友となった二人だが、性格はちがう。すべてにおいて、決定権を握るのはジェイムズの方だ。ブライアンは、いつもジェイムズの「だいじょうぶだよ。うまくいくさ」という言葉を信じて一緒に行動してきた。熱気球が膨らみきっていないのに飛ぼうとした時も、偶然通りかかった列車に乗りむ時も、ジェイムズが仕切ったのだ。ブライアンが自分で離脱を決めた時、ジェイムズはそれをなじる。

三十年近く、ブライアンはそれを恥じてきた。どうすればよかったのか。著者あとがきのなかで、作者は「これは戦争小説ではない。『アルファベット・ハウス』は人間関係の亀裂についての物語である」と述べている。絶え間ない暴力に見舞われる精神病院からの脱走、葬ったはずの過去からの反撃、とスリルとサスペンス溢れるストーリー展開に魅せられながらも、やはりこれは作者の言う通り、亀裂した人間関係の回復とその難しさを描いた物語なのだ、と思う。余韻の残るラスト・シーンに胸打たれた。

『ふたつの海のあいだで』 カルミネ・アバーテ

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詰め物をしたナス、辛味のペペロナータ(パプリカの炒め煮)、土鍋で煮込んだインゲン豆にソラ豆にヒヨコ豆、ラザーニャか、ヤギや仔ヒツジのミートソースで味付けした手打ちパスタ、シーラ山地特産のアニスで風味をつけたリコッタチーズ入りラヴィオリ。そして、お祖母ちゃんの自慢料理もあった。ポテトとズッキーニを添えたムール貝、カボチャの花のフライ、そしてカブの芽のオレッキエッテ(耳たぶの形をした小さなパスタ)。

イタリアを描いた小説らしく、料理の名前がこれでもか、というくらい次々出てくるので参った。こういうのをフード・テロというのか。特に大好きなトリッパ(牛の胃)まで登場すると俄然食べたくなって困った。いつでも食べられるというものではないのだ。主な舞台になっているのはカラブリア。長靴にたとえられることの多い半島の爪先にあたる部分である。

イオニア海ティレニア海、二つの海に挟まれた丘のうえに、蹄鉄のような形でちょこんと乗ってい」るロッカルバという村に、その昔アレクサンドル・デュマも訪れたことのある《いちじくの館》という旅館があった。火事に遭って、今では恐竜の門歯が虫歯になったような壁が残っているだけだが、館の主と同じ名前をもつジョルジョ・ベッルーシは、いつかは旅館を再建するという強い意志を持っていた。

物語の中心人物は、燃え盛るように気性の激しいことから炎のベッルと綽名されるジョルジョ・ベッルーシ。語り手であるフロリアンというハンブルク生まれの少年の祖父にあたる。少年の母ロザンナは若い頃、父の旧友で有名な写真家ハンス・ホイマンに会うため、ハンブルクを訪れ、息子のクラウスに出会う。クラウスは、何年も経ってから映画『ゴッドファーザー』を見て、アル・パチーノが結ばれる褐色の肌の娘にかつてのロザンナを思い出し、二千五百八十一キロの道をひたすら飛ばして、結婚を申し込みに来る。ロマンティックな話だ。

今はハンブルクに住むフロリアンたちは、長い夏休みを過ごすため南イタリアにある母の故郷を訪れる。はじめは、蠅の多さや熱風にうんざりするフロリアンだが、女友だちも出来て次第になじむ。そんな時、祖父が逮捕されるという事件が起きる。肉屋を営んでいた祖父のところに、みかじめ料を要求する男が現れたのだ。きっぱり拒否すると、その後家の戸に火をつけられたり、羊や犬が殺されたりという嫌がらせが続いた。祖父は再度訪れた男を犬や羊がされたのと同じように殺して鉤にぶら下げたのだった。

祖父が監獄にいることは少年の耳には入っていなかったが、薄々は感じていた。写真家の祖父は弟が生まれたときに一度立ち寄ったきりで世界中を飛び回るのに忙しかった。殺人者と薄情者の血を受け継いだことを憎んでいたフロリアンだったが、ある年のクリスマス、ロッカルバの教会の前の篝火に照らされた髭面の男に祖父の帰還を知る。帰ってきた祖父は、早速《いちじくの館》再建に取り組むが、旅館が姿を現し始めた矢先、ダイナマイトによって爆破されてしまう。

工事資金は、自分の店や祖母の土地まで抵当に入れて作ったものだった。もう一度初めからやり直すための資金はどこにもなかった。ギムナジウムを卒業し、進学か就職かを決める前に一年の留保を得たフロリアンは、祖父の夢を実現するために旅館建築の手伝いを始める。祖父の家には、デュマが《いちじくの館》を訪れた時に忘れていった書巻が大事にしまわれていた。その書巻を携えてフロリアンはスイスに飛ぶ。父方の祖父に借金の相談に出向いたのだ。

ロリアンの貢献もあって、見事に完成した《新・いちじくの館》。完成披露パーティの後、祖父は旅館の鍵束を孫に手渡すとその足で旅に出る。行く先々から孫に送られる絵葉書には祖父たちの笑顔が見えるようだ。輝く太陽と紺碧の海。相好を崩した二人の祖父がかつてともに旅した思い出の地を巡る旅程の背後には、しかし、影のようにつき纏う者の姿が。『ゴッドファーザー』についての言及は、周到な作者の目配せだった。

一つの家系の核となる建築が、諸国を往来する人々の憩いの場となり、盗賊の集会場となる。それが原因で火事に遭い、長く放置された末にやっと再建されるかと思ったら爆破される。《いちじくの館》にまつわる逸話と家族の物語が、時を超えて結び合わされる。季節が変わるたびに咲く花、祖母の作る料理の数々、性を知りはじめた少年の悶々とした思い、熱風がよどむ南イタリアの夏の炎暑の日々。精緻で華麗な自然描写のなかに、傲慢と思えるほど、自分の意思を貫こうとする男たちの気概に満ちた生き方が点綴され、何とも言えない詩情を漂わせる。美しい自然と人間の過酷な生の相剋に圧倒された。

『特捜部Qー吊された少女ー』ユッシ・エーズラ・オールスン

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特捜部Qシリーズ第六作。きっかけはボーンホルム島に勤務する警官からカールにかかってきた一本の電話だった。退職を前に心残りの事件の再捜査を依頼するものだったが、相変わらずやる気のないカールはすげなくあしらう。翌日、定年退職を祝うパーティーの席上で、電話の相手ハーバーザートが拳銃自殺してしまう。むげに拒否したことが引鉄を引かせたのだろうか。カールは重い腰を上げるしかなかった。

事件は十七年前に自動車事故として処理されていた。ハーバーザートは、そのために家族を失ってまでも、なぜかその事件について長年独自の捜査を続けてきた。主を失った家には捜査資料が山のように残されていた。ローセはそれを署に持ち帰り、捜査を開始。前作から殺人課の課長になったビャアンの肝いりで、ゴードンという新人が仲間に加わる。即戦力とはいえないものの要員だけは着実に増えている。

アルバーテという少女は、男の子の間で人気者だったが、早朝自転車で走っているところを轢き逃げされ、木に逆さ吊りになって発見された。車体の屋根に曲線の一部が見えるワーゲンのバスの写真が残され、その傍に男の姿が写っている。どうやらハーバーザートは、この男が犯人だと考えていたらしく、捜査はその線でなされたようだが、懸命な捜査にも関わらず車も男も見つからなかった。

今回の主題は、スピリチュアルやヒーリングといったもので、この作家には珍しく太陽信仰と世界各地の宗教との関係に関する詳しい解説が開陳され、ぺダンティックな要素が盛り込まれている。いつもながら何か新味を持ち込むことで、マンネリ化を避ける工夫がなされている。複数視点で描かれるのはいつも通りだが、殺人の実行犯とカールたちの捜査との間に置かれた時間差は前作『知りすぎたマルコ』に続いて、ほとんどない。

きっかけは十七年前に轢き逃げ事件にあるのだが、殺人は現実に今起きているのだ。<人と自然の超越的統合センター>の導師アトゥは、近づく人を魅了するカリスマ的な力を持っていた。その右腕であるピルヨは、アトゥを愛していたが、アトゥは彼女以外の女性と次々関係を持っていた。嫉妬の鬼と化したピルヨはアトゥに近づいた女を次々と消していく。果たして、アルバーテもまたピルヨの手にかけられたのだろうか。

いつものことながら、事件解決の手がかりを見つけてくるのは、ローセたちチームのメンバーで、今回はなんと車椅子に乗れるようにまで回復したハーディが、すごい手助けをしてくれる。もっとも、カールやハーディを襲った例の事件についても、ハーディは記憶に残る手がかりをもとに事件の捜査をするように迫るが、カールは煮え切らない。カールにとってこれが最重要な事件だというのに、何がカールに一歩踏み出すことを躊躇させているのか、興味は募るばかりだ。

今一つ、伯父殺しの共犯だと言いふらしていたロニーが死に、葬儀の席で遺言が披露される。それには、あらためて伯父殺しを自白し、カールがその間よそ見をしていてくれたことに感謝し、遺産を半分遺すと記されていた。死者の口から出た言葉は重く、カールは身に覚えのない罪を背負わされたことに驚く。ロニーの狙いは何だったのか。相変わらず、始終パニック発作に襲われ、離婚の条件だった義母への面会を前妻に請求され、カールは多事多難。

頭よりは足を使うタイプのカールとアサドは、次々と関係者を訪ねては質問をし、相手の反応を見ていく。アサドによる強引な質問による揺さぶりや、厳しくねめつけるような凝視は、相手の告白を引き出す絶好の手段。このコンビの息がぴったり合ってきたことをうかがわせる。カールが自分の葬式で悲しむ人物としてアサドを一番に挙げるほどに。今回も相手にこっぴどくやっつけられ、太陽光発電によって感電死させられそうになる二人だが、絶体絶命の時、互いに相手を思いやるところがぐっとくる。

それにしても、最後は二人揃って痛い目に遭わされるのがこのシリーズのお約束であることは重々承知だが、妊婦が屈強な刑事二人相手に争って、最後はロープで縛りあげるというのはいくらなんでも無理があるのではないだろうか。細かなことを言い出すときりがないが、これまで何度も難敵を相手にしてきたアサドにしてはちょっと無様すぎる。自分の親指をアース代わりに使うことで、カールを助けようとするアサドの犠牲的精神を描くために、この窮地が必須だったことは分かるとしても、だ。

十七年前の事件の真犯人は誰か、というのが最後まで残された謎。犯人として考えられた人物が、二転三転した後で、やはり今回もどんでん返しに遭う。最近、エンディングに凝るようになってきたことは読者としてはうれしいのだが、正直なところ、愛する男のために次々と殺人を犯してゆく女の姿を、ハラハラドキドキして追ってきた読者にしてみれば、これが真相だったのか、という解決は、すとんと腑に落ちる展開とは言えない。一人の少女の存在が多くの人の死を招くことになった。そのアイロニカルな結末に苦い味が残る。