青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『古書の来歴』ジェラルディン・ブルックス

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謎につつまれた一冊の本がある。実在の本で、発見された地の名を取ってサラエボ・ハガダーと呼ばれている。ハガダーというのは、ユダヤ教信者が過越しの祭りで読む、説話や詩篇を綴った本のことだ。謎というのは、教会で使用するものではなく、家族の間で用いられる本であるのに、そのハガダーには金銀の他に貴重な塗料である瑠璃(ラピス・ラズリ)を使って描かれた挿絵が全頁に挿入されていることだ。偶像崇拝を禁じているユダヤ教書物に細密画が付された例はそれまでなかった。

いずれは富裕な商人層の持ち物でもあったのだろうが、美しく彩色された絵やヘブライ語の書き文字は誰の手になり、留め具のついた装丁を施したのは誰なのか、誰から誰の手に渡り、どういう経路でサラエボに流れ着いたのか、表題通り『古書の来歴』を探る、本好き、古書好きにはたまらない古書ミステリであり、古書が成立するに至る過程で経巡ることになる、ウィーン、ヴェネチアセビリアといった都市を舞台に、古書をめぐって人々が巻き起こす歴史ロマンの貌も併せ持つ。

古書ミステリの探偵役はオーストラリアに住む古書の保存修復家のハンナ。シドニーのハンナに仕事を依頼する電話がかかる。相手は同業者のアミタイで、仕事は国立博物館所有の有名なサラエボ・ハガダーを調査し、データを集めた上で修復し、論文を書くこと。修復後は博物館のメインの展示物となり修復家の栄誉ともなるこの仕事が、何故若いハンナに任されることになったのかとえば、ボスニア・ヘルツェゴビナという多民族国家ならではの宗教、政治による利害の対立関係にあるイスラエル、ドイツ、アメリカなどの国を除外した結果という皮肉なもの。

章が代わるたびに、現代のハンナの行動を追うストーリーとハガダーの中から見つけ出した痕跡や古書の中に残された遺物にまつわる、時代も場所も異なる人々の物語が交互に語られる構成になっている。第一章「ハンナ一九九六年春サラエボ」の次に来るのは「蝶の羽一九四〇年サラエボ」。「蝶の羽」というのは、ハガダーの中に挟まれていたウスバシロチョウの羽を指す。その羽がハガダーに挟まれることになった経緯が、まるで一篇の短篇小説。

一九四〇年のサラエボ。ドイツの反ユダヤ主義が、サラエボに住むユダヤ人家族に襲い掛かる。母と妹を国に残し、パルチザンの仲間に加わったユダヤ人少女ローラが、チトー指揮下の軍に見捨てられ、危険を冒して故国に舞い戻ったところをイスラム教を信じる博物館の学芸員に助けられるまでを描く。一冊の古書が歴史の生き証人となって、奇しくも古書と関わることになった人々の数奇な人生を物語る。

一方、現代を生きるハンナにはハンナの物語がある。修復家の道を選んだことで優秀な脳神経外科医である母とは修復し難い関係となっていた。しかし、内戦のさなかにハガダーを守った当の学芸員オズレンを愛し始めるようになったハンナは、彼の娘の病状について相談しようと母を訪ねる。仕事第一で、子育てをないがしろにしてきた母は、それを詫びることもなく、高飛車な態度を取り続ける。この母と娘の葛藤がハンナのストーリーを貫通する主題である。副主題はもちろんオズレンとの関係の行方。

しかし、読者の興味は古書の来歴にある。蝶の羽の後に来るのが「翼と薔薇一八九四年ウィーン」の章。「翼と薔薇」というのはハガダーに付されていた精巧な留め具のこと。ウィーン分離派マーラーが活躍していた時代、ウィーンを席巻していたのはデカダンスの気分だけではなかった。梅毒に侵された装丁家は、高額な治療費の代わりに依頼された古書についていた銀の留め具で支払うことにした。こうして、ハガダー本体と留め具は別々の道を行くことになる。

「ワインの染み一六〇九年ヴェネチア」で語られるのは異端審問。説教上手で知られるユダヤ教のラビと、異端審問に携わるカトリックの司祭とは、気脈を通じた友人でもあった。その二人の間に投じられたのがハガダー。ユダヤ人を援助してくれる婦人の家に伝わる大事な品を預かったラビは、異端審問にかけられる恐れがあるかどうかを判断してもらおうと司祭を訪ねる。司祭は文章に問題はないが絵の方にあると指摘する。なんと、地球が丸く描かれているではないか。容赦のない指弾の裏には異なる宗教を信仰するライヴァル同士の確執があった。

この他にも古書に残っていた塩の結晶や、一本の白い毛の由来を物語る「海水一四九二年スペイン、タラゴサ」、「白い毛一四八〇年セビリア」など、異国情緒たっぷりに描かれる物語は、ユダヤ教キリスト教イスラム教、というもともとは兄弟関係にある三つの宗教が混在していた時代、地域ならではの葛藤、軋轢に、異端審問官による拷問や妖艶な美妃をめぐる愛憎劇の要素を加味し、絵の中に描かれた黒い肌をした女性の正体に迫るなど、物語好きの読者なら随喜の涙を流すにちがいない場面が次々と展開される。

古書ミステリに『ミッション、インポッシブル2』のスパイ・アクション的なスパイスを添え、どんでん返しも用意するという大サービスの本書。翻訳ミステリー大賞受賞作というのもうなづける。古書の保存修復に関する実際の作業工程や、痕跡の鑑定の技術等についても詳しく、古書好きにはたまらない一冊に仕上がっている。ランダムに明かされるハガダー成立の過程についての物語の展開の仕方もよく練られていて興味が尽きない。古書の来歴に触れる章に強烈なインパクトのある年号を選ぶなど、あまりにも精巧な拵え物といった感がつき纏う点が唯一の憾み、というところか。

『ねじれた文字、ねじれた路』トム・フランクリン

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ラザフォード家の娘の行方がわからなくなってから八日が過ぎて、ラリー・オットが家に帰ると、モンスターがなかで待ち構えていた。

いかにもミステリらしい謎めいた書き出しに興味は募るが、正直なところ犯人はすぐわかってしまう。なにしろ<おもな登場人物>に名前が出ているのが11人。ミステリのお約束として、犯人は必ずこの中にいるはず。そのうち二人の被害者は除外して、残りは九人。その中の三人が捜査関係者で一人は視点人物のサイラス。警察官が犯人というのもあるが、ここは南部のスモールタウン。みな顔見知りだ。仕事以外につきあいのない都会とは訳がちがう。

これで残りは六人。ラリーの父親とサイラスの母親はすでに故人なので、当然除外。ラリーの母親は施設で寝たきりだから物理的に不可能。これで残るはラリーとその友人、サイラスの恋人の三人だ。そのラリーだが、冒頭で何者かに襲われて小説の終わり近くまで昏睡状態のまま。つまり、犯人あてミステリとして読むのは構わないが、はじめから、その種の読み物として書かれてはいない、と言いたいのだ。

ラリーは、自動車整備工場をやっているが、毎日工場まで足を運んでも客は誰も来ない。十代のころ、デートに誘った少女がその晩から行方不明となり、その容疑者と考えられたことがあるからだ。自白も取れず証拠も挙がらなかったので釈放されたが、狭い町のことだ。それ以来、おっかない(スケアリー)ラリーと陰で呼ばれるようになり、家にも工場にも人が寄り付かなくなった。

二十五年たった今、また別の少女が行方不明になる事件が起きた。ラリーの仕業と考えた者がいたとしても不思議ではない。ずっと家に石を投げられたり、郵便箱を叩き壊されたりされてきた。父が死に、母が施設に入ってからは、独りで生きてきた。朝起きると鶏に餌をやり、作業着に着替えて工場へいき、ブック・クラブから送られてくる本を相手に時間をつぶし、また家に帰ってくる。マクドナルドかフライドチキンを食べたら、「フロントポーチにつくねんと座っている。どの日もちがう、どの日もおなじ」。

サイラス・ジョーンズは人口五百人前後のミシシッピ州シャボットのたった一人の法執行官。かつては名遊撃手として鳴らしたが、肩を壊して引退。当時の背番号から、今もみなに32と呼ばれている。この日、パトロールの最中、いつも工場に止まっているラリーの赤いフォード・ピックアップがないことに気づき、救命救急士のアンジーに様子を見に行ってもらう。自分は別件で身動きが取れなかったからだが、顔を出したくなかったからだ。

十代のころ、シカゴから転校してきたサイラスと母は、ラリーの父カールの土地に建つ狩猟小屋に住んでいた。ラリーとサイラスは、よく一緒にインディアンごっこをやって遊んだが、二人きりで遊ぶ場所はカール所有の森や草地に限られていた。ラリーは白人で、サイラスは黒人。学校では黒人と白人は別のグループに属していたし、何より二人が一緒に遊ぶことをカールは喜ばなかった。

二人は皮膚の色だけでなく対照的だった。夜逃げ同然に家を出てきたサイラスは住む家だけでなく着る物もラリーのお古をもらうほど貧しかったが、運動神経は抜群で野球の力で進学しようとしていた。対するラリーは、幼い頃から病弱で、吃音や喘息のせいで遊び友だちもなく、一人で本を読んだり、虫や蛇を集めて遊んだりする子だったが、整備工場を営む父のところにはいつも人が集まってきて賑やかだった。

ある日、サイラスに打ち据えられたラリーは、つい「二ガー」と言ってしまう。その日を最後に、サイラスはラリーと口をきかなくなり、やがて別の学校へ進学し、シャボットを去る。肩を壊して野球人生に見切りをつけたサイラスは、軍隊を経て警察学校に進み、治安官となって町に戻ってきたが、ラリーの家にも工場にも顔を出さなかった。サイラスはラリーに会いたくなかったのだ。

現在の事件と二十五年前の過去の出来事が、交互に当事者二人の視点で語られる。『ねじれた文字、ねじれた路』という表題は、直接的にはサイラスの頭文字<S>を指すが、アメリカ南部の子どもがミシシッピ(Mississippi)の綴りを覚えるときに教わる言葉遊びの文句からきている。「エム、アイ、ねじれ文字、ねじれ文字、アイ/ねじれ文字、ねじれ文字、アイひとつ/こぶの文字、こぶの文字、アイひとつ」。二人の男の関係をねじれた形を持つ字で表したのだろう。クリスティーやヴァン・ダイン以来、ミステリとマザーグースのようなナーサリー・ライムは相性がいい。

南部のミシシッピ州を舞台に、小さな町の濃密な関係の中で、誘拐殺人犯の疑いをかけられ、たった一人の友だちにも見捨てられたラリーの二十五年間の来る日も来る日も変わらない生活が冒頭に描写されている。小さな町の中で無視され続けているのに、誰を責めるでもなく、自暴自棄に陥るでもなく、実直に誠実に日々を過ごしている。責められるべきは自分だと思い込んでいるのだ。

一方、サイラスは仕事上での付き合いも、毎日食事に立ちよるダイナーでの付き合いも卒なくこなし、誰からも愛され、信用されている。アンジーという恋人とも相性はぴったりのようだし、愛車のポンコツのジープだけはいただけないが、町にとって欠くことのできない人物と見なされている。

この二人の関係が、娘の死体が狩猟小屋の床下から発見されることで大きく揺らぐ。二十五年前、少年だった二人が目にした事実の中にすべては明らかにされていた。ピューリタニズムに抑圧された性的情動のはけ口。支配被支配の関係からくる性的関係の強要。人種差別、とどれも今でも残る社会悪だが、当時のそれは男性優位の支配的な社会にあって、今とは比べようもなく強かった。二人がねじれた路を歩くようになったのは、それらが複雑に絡んでいる。

小さな町だけに登場人物の数は知れている。それだけに、端役に至るまで、性格付けがしっかりされていて読みごたえがある。一つ一つの描写がリアルで手を抜くことがない。だから、出来事が生き生きと立ち上がってきて、読む者の五感を刺激する。それは南部ならではの土地や動植物の描写でも同じだ。「背後の山は熱帯のようで、雨とミミズのにおいがして、木から水が滴り、雷が落ちた直後のように空気が電気を帯びていた。樹幹の隙間の空をリスたちが跳び、頭上の木の虚でキツツキがスネアロールを打つ。サンカノゴイが叫ぶ」ディープサウスへようこそ。

『物が落ちる音』ファン・ガブリエル・バスケス

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カバが射殺された話から始まる。閉鎖されて久しい動物園から逃げ出したカバが畑を荒らすので撃たれた、という記事を読んだ「私」は、昔つきあいのあった男のことを思い出す。リカルド・ラベルデと会ったのはビリヤード場だった。当時、最優秀の成績で法学士の資格を得た二十六歳の「私」は、最年少教員として大学で教えており、試験期間で講義がない日はそこで暇をつぶしていた。

廃墟となった動物園の映像を流すテレビを見ながら、誰に聞かせるでもなくリカルドが呟いた。「動物たちはどうするんだろう。(略)やつらにゃ罪はないだろうよ」と。動物園は麻薬王パブロ・エスコバールが作らせたもので、1993年に殺された後は放置されていた。その後しばらくして二人は一緒にプレイするようになる。

リカルドは四十八歳。二十年間入っていた刑務所を出たばかりで、歳以上にくたびれて見えた。もとは飛行機のパイロット。アメリカにいる妻を呼び寄せてやり直そうとしていた矢先、そのエレーンが乗った飛行機が墜落した。カセットを聞くために一緒に出掛けた建物の近くでリカルドは射殺され、「私」もまた重傷を負う。カセットの中身は墜落機のフライトレコーダーの記録だった。

襲撃によるPTSDのせいで講義中に涙を流したり、教え子との関係を揶揄う卑猥な落書きを書かれたり、と「私」は教師の権威をなくしかけていた。アウラとの間に娘が生まれたばかりだったが、事件以来勃起不全となったことで家庭生活にも軋みが生じていた。そんな時、リカルドの娘だというマヤから手紙が届く。こちらへ来て父の話を聞かせてほしい、と。

高地にあるボゴタから、遠く離れたマグダレーナ河近くのラス・アカシアスへ車を走らせた「私」は、マヤがほぼ同い年であることに気づく。自分の知るリカルドの思い出を話す代わりに、マヤから柳行李に詰められた両親についての資料や手紙を見せてもらった。そこには、70年代当時のアメリカとコロンビアの間に生じた公にできない関係が記されていた。話は、ここから時をさかのぼり、雑誌の記事や手紙をもとにして「私」が組み立てたマヤの両親の物語へと変わる。

エレーンは、大学卒業後ジョン・F・ケネディが主唱した平和部隊に応募し、コロンビアにやってくる。下宿先の息子がリカルドだ。リカルドの祖父は軍の英雄で、孫もまたパイロット志望だった。二人の仲は急接近し、妊娠したこともあって結婚。セスナで貨物を運ぶ仕事に就いたリカルドは、妻の仕事先に近い村に土地を買って我が家を建てる。幸せな暮らしは三年間続くが、ある日を境に夫は帰らなくなる。

『コスタグアナ秘史』では、パナマ運河建設の時代を歴史的背景に用いて、小説に厚みを加えることに成功したバスケスだが、今回は、ベトナム戦争ウォーターゲート事件のあった70年代に的を定めている。当時、アメリカはメキシコからの麻薬密輸を撲滅しようと躍起になっていた。だが、密輸業者は、需要があればどこからか供給先は見つけてこなければならない。それがコロンビアだった。

国家による開発途上国支援のためのプロジェクトを隠れ蓑に隊員の一部が麻薬の密輸を考えた。配属先の奥地の住人に麻薬の栽培と抽出法を教え、製品を小型機に乗せてレーダー網にかからないルートで運ばせ、現地に待機した買い手に直接手渡すというものだ。それには、セスナ機を飛ばすことのできる人間を必要とした。飛行時間が少なく、家の建設資金を稼ぎたくても人を乗せることができないリカルドにとって、それは渡りに船だった。

妻と子のためを思ってした行為が裏目に出てしまう。しかも二十年後、人生をやり直そうとしたところへ妻を乗せた飛行機が墜落する。普通では絶対に手に入れることのできないフライトレコーダーの録音カセットを手に入れるためにリカルドの払った代償が、あの襲撃だったということか。しかも、それは最愛の娘から残されたたった一人の肉親を奪うことになってしまう。なんという虚しさ。なんという徒労感だろう。

それだけではない。冒頭の「私」の、四十になろうとしたばかりなのに、すっかりくたびれ果てた中年男の疲れ切った様子はどうだ。回想から始まった物語は、ふつう語り出した時点に戻って終わるものだ。そうすることで、たとえどんなに酷い時間を過ごしたにせよ、過去は過去として葬られ、今はこうして現在を生きている、という安堵のようなものがそれまで語り手と共に物語を生きていた読者の心のうちに生じる。

ところが、この小説は「私」がマヤの家からボゴタに帰った時点で終わっている。時はそこで止まったままなのだ。生きている者には時間が過ぎてゆくが、死んだ者にとって時計はそこで止まったままだ。マヤと訪れた動物園で見たカバの記憶が、雑誌の記事によって想起されるまで、「私」はリカルド・ラベルデのことを思い出すことさえなかった。人は忘れられることで二度死ぬ、と言われているのに。

「世界はひとりきりで歩き回るにはあまりにも危険な場所だと、だから誰かが家で待っていてくれないと、そして帰りが遅くなったら心配して探しに出てくれる、そんな人がいないとやっていけないのだと言い張ってみようか?」というのが無人の部屋を見たとき「私」の心をよぎった最後の思いである。読者は「私」がこれから歩くだろう人生を知っているが、語り手は知らない。惨い結末である。

『風の丘』カルミネ・アバーテ

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丘は、海の手前で逆さにひっくり返された舟を連想させる湾曲した細長い形をしていて、スッラ(マメ科多年草。フレンチハニーサックル)の緋色で一面彩られていた。そのまわりを、果樹、乳香樹の茂み、月桂樹、金雀枝(えにしだ)、ローズマリー、庭常(にわとこ)、ぶどう畑、オリーブの巨木、ところどころに群生するフィーキ・ディンディア(ヒラウチワサボテン)などがぐるりととり囲み、陰になった斜面は常盤樫(ときわがし)の森に覆われ、たわんだ半円の冠のようだった。

ローマ神話ではゲニウス・ロキ(地霊)と呼ばれるが、ある種の土地には時に人を縛りつけて放さない力のようなものがある。『風の丘』は、緋色のスッラで埋め尽くされ、風の止むことのないロッサルコと呼ばれる丘を四代にわたり守り続けてきたアルクーリ家の物語だ。

自らを「僕」と呼ぶ、アルクーリ家の最も若い跡継ぎが語りはじめるのは、祖父アルトゥーロが子どもの頃、ロッサルコの丘で出会った忘れられない出来事。兄と弟と三人で水浴びをしていると丘の上の桜林で銃声が響く。兄弟が丘の上に出ようとしたところで野良仕事を終えた母と出会う。不審がる子どもたちをなだめ、帰り支度を急がせる母を振り切って一人丘に駆け上がったアルトゥーロは見てしまう。二人の男が血に染まって死んでいるところを。

「僕」がこの話を知っているのは、父に聞いたからだ。アルクーリ家の跡を継ぐ者は、次代に伝える時が来るまで固く秘密を守りつづけねばならない。そして、自分が死ぬ前に、一家の物語を語り伝えてゆくことを約束させた上で、秘められた物語を語って聞かせる。父もまた祖父のアルトゥーロから、こうして話を聞かされたのだ。

母の死後、父は村にある家を出て、丘にあった小屋を改装して独り暮らしを始めた。ある日、父から電話がかかる。父には語り継ぐべき家族の物語の他に、誰にも話していない自分と妻の間に秘された物語があった。こうして、「僕」が父から話を聞く現在の物語と、曾祖父母、祖父母、そして父ミケランジェロと母マリーザの過去の物語が、時に交錯し縺れ絡まりあうようにして家族の物語が紡ぎ出される。

長靴の形をしたイタリア半島の爪先のあたりに位置するカラブリア。大地主が土地を所有し、人々は高い小作料を払って小作人となるしかない貧しい土地。曾祖父アルベルト・アルクーリは硫黄鉱山で日雇い仕事をしながら、先祖から受け継いだちっぽけな土地に、合衆国に渡るため急いで土地を手放したい農民から少しずつ買い足してロッサルコの丘一帯を手に入れたという。しかし、村人は信じていなかった。何か裏があるにちがいない、と。

カラブリアは貧しい。地代と重税にあえぐ村人の目には、岩だらけの不毛の地を切り拓き、オリーブや葡萄の木を植え、家畜を育てる自作農になったアルクーリ家は、アルビノの白燕のようなものだ。おまけにアルトゥーロは反ファシストの闘士ときている。白燕は色の違う仲間の燕によって巣から追い落とされる。硬貨には必ず裏表がある。ロッサルコの丘は一家にとって大事な宝になるとともに危険な火種ともなった。

冒頭の二人の若者の死は一家に暗い影を投げかける、硬貨に喩えるならその裏面にあたる。第一次世界大戦中曾祖父アルベルトは、二人の息子を戦争で奪われる。独り生還したアルトゥーロは丘を買い占めようと圧力をかけてくる大地主ドン・リコと対立し、讒言によって流刑にされる。釈放後、家族とともに丘に木を植え、小麦を育てて家を盛り立てるが、第二次世界大戦末期、不時着した英兵を匿ったことが災いしたか、行方が分からなくなる。

父の代になると、リゾート開発や風力発電の風車建設地にと丘を手に入れようとする者たちが次々と現れる。首を縦に振らないミケランジェロに脅しをかけるため、犯罪組織の手を借りて木を伐ったり、森に火をつけたりとしたい放題。そのすべての原因となるのが、代々の親から語り継がれた丘を絶対に守れ、という言葉に縛られる男たちの頑なな性格だ。

対比的に女たちは、生命力にあふれ、快活で自由だ。料理上手の曾祖母ソフィー、祖父に代わって丘を守ってきた祖母リーナ、絵が上手で家に縛られない叔母ニーナベッラ、考古学者で家を空けてばかりだった「トリノっ娘」の母マリーザ、と丘の磁力に引きつけられ、土地に縛りつけられ続ける男たちが飲まされる苦汁を味わうことがない。

アモーレ(愛)、カンターレ(歌)、マンジャーレ(食)の三つを大切にするのがイタリア人、とイタリアを旅した時に聞いたことがある。まさにその通りで、この物語の中でも人々は何かといえば、食べ、歌い、愛し合う。食卓には南イタリア特有の食材を使って女たちが調理した美味そうな料理が並び、男はキタッラ・バッテンテをかき鳴らして小夜曲(セレナータ)を歌って女を口説き、男と女は丘の草上で愛を交わす。

トロイア戦争の英雄ピロクテテスによって建てられた古代の都市の遺跡が埋まっているとされるロッサルコの丘。トロイア戦争に向かう途中、踵の傷の痛みに呻くピロクテテスは仲間であるオデュッセウスに島に置き去りにされる。しかし、ヘラクレスの弓を持つピロクテテスの腕なくしてはトロイアは落ちず、十年後島から呼び戻されたピロクテテスの放った矢は見事パリスを射止め、戦争はギリシアの勝利に終わる。

村人の恨みによって島に流されながら、かえって以前より思想も身体も強靭になって帰還したアルトゥーロがピロクテテスに喩えられていることからも分かるように、紀元前の世界から連綿と続く文化・自然遺産を表面に、戦争や人間同士の権力闘争、嫉妬からくる讒言、因習的な土地に蔓延る犯罪組織、といった現代に至るまで連綿と続く負の遺産を裏面に描いた、作家の郷土カラブリアのワインさながらの濃厚な味の物語である。

男と女、北の開かれた都市トリノに対し、南の因習に囚われ貧しさにあえぐカラブリア、土地と夫第一の昔の女性に対し、自由に各地を飛び回る現代女性、古代から伝わる自然を保護し、そこで生きようとする地元民に対し、金になるなら自然破壊も辞さない観光開発ありきの資本、と二項対立を際立たせることで、物語をぐいぐい引っ張ってゆく、カルミネ・アバーテストーリーテラーぶりに圧倒される。

冒頭の引用に見られるように、訳者が植物の名にルビ振りの漢字を多用しているのもうれしい。料理名や食材の場合、タラッリ(リング状の堅焼きパン)、ソップレサータ(豚の足、耳、舌などを煮詰めてゼラチンで固めたもの)、カピコッロ(豚の首から肩の肉を使用したサラミ)、などと懇切丁寧な紹介ぶりも食欲をそそって曰く言い難い読み心地に誘う。パンツゥイア(豚の頬肉の塩漬け)やサルデッラ(シラスの唐辛子漬け)など、引用するだけで生唾がわいてくる。罪な本である。

『内面からの報告書』 ポール・オースター

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少し前に出た『冬の日誌』に続く自伝的な色彩の強い書物である。前作と同じように「君は」と二人称で語られる。『冬の日誌』が、小さい頃から今に至る身体の履歴について時間軸に沿って述べた物語であるのに対し、本書の体裁は少し異なっている。四部構成で、その第一部が表題作「内面からの報告書」で、主に十二歳までの自分に関する記憶を頼りに、自分というものが発生するに至る経緯をたどっている。

第二部は、やはり少年期の自分が影響を受けることになった二本の映画について語る「脳天に二発」。その映画とは『縮みゆく人間』と『仮面の米国』。前者はSF映画で、文字通り体が徐々に小さくなっていく男の恐怖を描いたもの。後者は第一次世界大戦の帰還兵が、帰国してから職を探すものの不況下に職はなく、果ては監獄に入れられてしまう。脱走に成功し、別人となった男に過去の罪が再び迫るという暗澹たるストーリーの映画である。

第三部の「タイムカプセル」は、著者の最初の妻で作家、翻訳者として知られるリディア・デイヴィス宛に書かれた手紙と、それについての作家のコメントによって再構成された、十代後半から二十四歳までの作家志望の青年の内面の赤裸々なリポート。相手と離れて暮らす若者が書いた手紙であるから、普通にはラブレターと解される類のものだが、そこは「君」らしく、今とりかかっている小説の進展具合や、友達との交友、教授に対する反目といった誰にでも覚えのある若き日の心情があふれている。

面白いのは第四部の「アルバム」だろう。「君」が心躍らせたアニメーションや、野球選手、ユダヤ人俳優からはじまって、のちに何度も悪夢となって襲い掛かるナチスの歩兵隊や、先に触れた二本の映画のスチール写真、パリ時代の街角のスナップなどが、ふんだんに配された文字通りの写真帳になっている。

「君」は、自分の内面を探ることについて、自分を特別だと思うからでなく、ごく普通の人間の代表としてとらえている。だからなのか、十二歳までの記憶に、特に印象的なものはない。地球を平面だと信じたり、コナン・ドイルやスティーヴンソンを読みふけったり、と少年期の男の子あるあるといった感じの話が続く。

一つちがうとすれば「君」ががユダヤ人であるということ。「君」の両親は、ディアスポラ以来ヨーロッパに渡ったユダヤ人の子孫で、その多くはユダヤ人に対して保護的な政策を掲げていたポーランドに住んでいた。ナチスによって迫害を受け、大量虐殺に遭う前にアメリカに渡ってきた祖父母のお陰で、この世に誕生することができた「君」は、物心ついて以来、事あるごとに自分がユダヤ人であることを思い知ることになる。

二人の親友が「君」の住んでいた地区から引っ越したのは、芝生のある家に住むために多くのユダヤ人が引っ越してきたので、元からいた人たちが出て行ったのだ、と母から聞かされる。まちがって友達に怪我を負わせたときは、「お前らのような種は」と罵声を浴びせかけられる。アメリカは素晴らしい国で、自分はアメリカ人だと信じていた「君」にとっては容易に理解しがたい事態であった。

メジャー・リーグをはじめ、ユダヤ人のスポーツ選手は稀で、ギャング映画の顔役として知られるエドワード・G・ロビンソンは本名エマヌエル・ゴールデンバーグ。あの妖艶な美人女優ヘディ・ラマーはヘートヴィヒ・キースラー。役者として売れるにはユダヤっぽい名を捨てる必要があった。近くに住んでいたので憧れの対象だったエジソンは、同じ床屋に通っていたが、自社で働いていた社員である「君」の父がユダヤ人だと分かると即刻解雇した。

そう考えると、『縮みゆく人間』や『仮面の米国』の主人公を自分だと感じる「君」の内面がどのように形成されつつあったのかも理解できる気がする。それまで、難なく同調できていた周囲から、あるとき不意にズレていく自分という存在についての自覚。どれほど努力して、周囲に溶け込もうとしても執拗に正体を暴こうと迫る者たちがいることへの恐怖心。ただ、「君」はそれに負けはしなかった。仮令孤立しようともユダヤ人として生きてきた。

個人的に懐かしかったのは、コロンビア大学における紛争に「君」も参加し、逮捕されていたことを知ったことだ。いうまでもなく映画『いちご白書』として描かれ、一躍有名になった1969年のあの紛争である。今の人たちにとってはバンバンが歌った『「いちご白書」をもう一度』の方が、まだ記憶に残っているのかもしれないが、当時大学生活を送っていた者として、ニール・ヤングやCS&Nの名曲に彩られたあの映画は忘れられない。

当時ソルボンヌに留学していた「君」は、頑迷な担当教授とぶつかり、授業をボイコットしてしまう。中途退学となれば、徴兵猶予の待遇を失うこととなり、ヴェトナム戦争が激しさを増していた当時、アメリカに帰国すれば、徴兵されるか、拒否することで逮捕されるか、またはカナダに向かうしか手段はなかった。人生最大の難問にぶつかった「君」の心の揺れを示すリディアへの手紙は読んでいても痛々しい。

「君」の内面ともいうべきものが生まれ、両親の不仲やユダヤ人という境遇を背負い、果敢に戦い、時には崩壊寸前にまで追い込まれながらも、青年期の危機を乗り越え、やがて成熟した大人となるまでを描く。大人になるということは、何かを喪失することでもある。日記を書かなかった「君」は、覚束ない記憶を手探りし、昔の写真や、妻宛の手紙を手掛かりに今はもう失われてしまったものを再現することに成功する。六十も半ばを過ぎた作家の手になる内面への遡行の旅の何というみずみずしさであることか。

『コスタグアナ秘史』 ファン・ガブリエル・バスケス

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フランスによる運河建設工事が破綻して混乱の極みにあるパナマ共和国。その北部にあってカリブ海に面した港町コロンからロンドンに逃れてきた男ホセ・アルタミラーノが語る物語。語りの中で時おり呼びかける可愛い盛りの娘エロイーサを独り故国に残して、何故男はイギリスに来なければならなかったのか。それには驚くべき理由があった。

秘史とついているから、南米かスペインあたりにある地名と思うだろうが、実はコスタグアナという国はない。ジョゼフ・コンラッドが南米を舞台にして書いた長編小説『ノストローモ』に出てくる架空の共和国である。そのモデルになっていると男が主張するのがパナマ共和国。男は、コンラッドが自分の物語を盗んで『ノストローモ』を書いた、というのだ。何故そんなことが言えるのか。その訳というのが一口では言えない複雑な話で、だからこそこんな小説が書かれたわけだ。

コロンビア人の作家といえば、『百年の孤独』を書いたガルシア=マルケスが有名だが、大風呂敷を広げたがるのは詩と演説を好むという国民性だろうか。ホセが語るパナマ運河にまつわる一族の小さな出来事と、何度も繰り返される革命と反乱に揺れるコロンビアとパナマの大きな出来事を聞いたコンラッドが、勝手に換骨奪胎して自分の小説にしてしまった。『ノストローモ』は、自分の話した内容とは似ても似つかない代物だ、とホセは言う。

それなら、自分で語ってみせるしかない。ホセはまず、自分の出自から語り始める。これがまたとんでもない話。ホセの父ミゲル・アルタミラーノは、反カトリック自由主義者として一世を風靡していたが、司祭とトラブルを起こして破門され、抗議に出かけた教会で人を殺す羽目に。時を同じくして起きたクーデターのお陰で殺人犯として告発は免れるものの、今度は叛乱軍から粛清されそうになる。

イギリス船に乗り込んだミゲルは停泊中のオンダという町で知り合った人妻アントニア・デ・ナルバエスと船上で一夜限りの愛を交わす。その後二人は二度と出会うことはなかった。年若い妻の腹の中の子が自分の種でないことを知った夫は銃で自殺。大きくなったホセは、自分の実の父について母から聞き、父を探す目的でコロンに向かう。

その昔自由主義者として新聞に健筆をふるっていた父だったが、運河建設事業のためにパナマを訪れたレセップスの知遇を受けたことをきっかけにパナマ運河についての提灯記事を新聞に書き続けることで、その見返りに住む所や食事その他の厚遇を得る御用記者となる。息子もまた父に連れられて現場を踏むうちにパナマ運河建設事業に深くはまり込んでしまう。

フランス主導のパナマ運河建設は洪水や地震という天災と風土病に見舞われ続け、フランス人技師の多くを失い、見込みを大幅に上回る費用をつぎ込んだ挙句、レセップスが自分の過ちを認め事業から撤退する。ただ、その陰で大規模な汚職が発見され、その主犯格が長年にわたり事態を歪曲した内容の記事を現地から報告し続けてきた新聞にあることが明らかになる。アルファベット順の記者名一覧の筆頭に挙がったのがミゲル・アルタミラーノだった。

引退したミゲルは町中の人間から後ろ指をさされる境遇となる。ホセは、父の友人だった死んだフランス人技師の妻シャルロットと暮らし、一人娘を得る。コロンの町は何度目かの戦争状態に陥っていたが、ホセは自分の家庭の幸せに酔っていた。だが、一人の脱走兵が放った弾がシャルロットの命を奪う。ホセは何故かシャルロットを失った悲しみを娘と共有しようとせず、エロイーサを一人残したたまま逃げるようにイギリスに渡るのだった。

時間軸に沿ってあらすじを書けばこういう話になる。ところが、話はそう簡単に進まない。いたるところに、語り手のドッペルゲンガーのように、若き日のジョゼフ・コンラッドが登場してくる。ホセとコンラッドはほぼ同い年で、船乗りであったポーランド出身の青年とホセは、何度か港町ですれ違っている。若い頃、真っ白な地図にあるアフリカ領コンゴを指さし、「ぼくここに行くよ」と宣言したコンラッドと同じように、ホセもまた運河建設中のパナマ地峡を指さしていたのだ。

訳者あとがきによると、ファン・ガブリエル・バスケスコンラッドの伝記を執筆している。その際に『ノストローモ』執筆中、現地をよく知らないコンラッドが、共和国元大統領の息子で、イギリス公使でもあった人物の手になる書物から知識を得ていた事実を知る。おそらく、それが本作を書こうと思った理由だろう。『パナマ秘史』ではなく、コンラッドが創り上げた架空の国家コスタグアナを表題にしたのも、コロンビア人作家として、コンラッドが奪ったコスタグアナ=パナマを奪還しよう、という思惑があってのことにちがいない。

果たして本作はコンラッドの長編小説として、ここのところ重要視されつつある『ノストローモ』を超えることができたのか?それは『ノストローモ』を読んでみなければ、何とも言えない。これを読んで読みたくなったのも確かだ。ただ、『ノストローモ』未読でも、この小説は面白い。絶えず蚊の攻撃に悩まされ、雨季の雨量がまるで洪水のようなパナマ地峡の気候風土や、自由派と保守派が交互に政権を奪い合うコロンビアという国家についてのポスト・コロニアル批評、と読ませどころに事欠かない。

読者をその気にさせておいて、それはまだ早いと迂回し脱線を繰り返すはぐらし方など、物語の造り手としてなかなかの曲者と見た。先輩作家であるガルシア=マルケスへの挨拶と見られる言及、『白鯨』の作者や女優サラ・ベルナールなどの現地訪問の史実を取り交ぜながら、ジョゼフ・コンラッドの評伝としても読める、巧みな構成にすっかり魅了された。ラテン・アメリカ文学の有望株として今後が期待される作家の輝かしい登場である。

『アルファベット・ハウス』 ユッシ・エーズラ・オールスン

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人気シリーズ「特捜部Q」で知られる北欧ミステリの雄、ユッシ・エーズラ・オールスンの初期の作品。嗜虐的な人物による陰湿で執拗ないじめと長い時間をおいて反撃可能になった被害者の苛烈な復讐という人気シリーズに繰り返し現れる主題は、作家活動初期段階から顕著であった。

二部構成。第一部は第二次世界大戦末期の1944年。第二部は1972年。場所はドイツ、フライブルク近辺。主人公は、イギリス空軍パイロット、ブライアン・ヤング。ブライアンとその親友のジェイムズ・ティ-ズデイルは、アメリカ軍から協力要請を受け、ドイツにあるV1飛行爆弾基地を撮影する任務を受けた。クリスマス休暇中でもあり、ブライアンは渋ったが、ジェイムズは否やを言わなかった。

複座のP51Dムスタングに搭乗した二人は、予想通りドイツ軍の反撃に遭い、パラシュートで降下。追撃する兵と犬から逃げようと運良く来かかった列車に辛くも乗り込んだ。それは傷病兵を帰郷させる列車だった。二人は、高級将校に成り代わることに。だが、連れていかれた先は何と精神病院だった。ジェイムズはドイツ語が分かるが、ブライアンは分からない。連合軍の進撃が迫る中、終戦まで偽患者に成り果せることができるのか。

Rhマイナスのジェイムズが、同じA型でもプラスの血液を輸血されてアレルギー・ショックを起こしかけたり、電撃治療や服薬で意識が朦朧となったりするのも危険だったが、それより怖ろしいのは、患者の中に敗色濃厚なのを知り、隠匿した美術品を山分けすることを目論む四人の偽患者が紛れ込んでいたことだ。彼らは、ジェイムズを疑い、食事に糞便を混ぜるなどをして、正気かどうかを試す。彼がためらいを見せると、密告を恐れて夜ごと暴行を加え、瀕死状態に追い込む。

逃亡を企てるブライアンは、ジェイムズの様子を窺うが、とても同行できる状態ではなく、一人で逃げる。それを知って追いかけて殺すために偽患者たちも逃亡。厳寒の北ドイツ、闇の中、水中での格闘劇。口に突っ込まれた木切れが頬を突き破ったり、眼球に突き刺さったり、とハードなアクションを描かせるとこの作家は巧い。痛みの感覚を刺戟する筆致に、作家自身に嗜虐性があるのではないかと疑いたくなるほどだ。

第二部。平和になったドイツではミュンヘン・オリンピックが開催中。アメリカ軍によって救出されたブライアンは、その後医師の資格を取り結婚。今ではいくつもの特許を持つ製薬会社の社長だ。帰国後手を尽くして探したもののジェイムズは消息不明のまま現在に至っている。戦後ドイツを訪れることを避けてきたブライアンだったが、思わぬことが相次いで起きたのをきっかけに、かっての地を訪れることになる。

第一部では、戦争当時の精神病院における人体実験の様子や、ナチスが戦利品として収奪した美術品その他の物資の隠匿、といったエピソードで興味をそそりながら、様々な悪を体現する偽患者たちが消灯後の病室でひそひそ話す、殺人や拷問の自慢話が披露される。隣のベッドで耳を澄ませて聞き入るジェイムズがあまりの残酷さに反応を悟られてはならないと必死で息を殺す様が凄絶だ。

戦後、偽患者たちは隠匿物資を元手に財を成し、過去の身分を隠して一般人として暮らしている。そこへ、ジェイムズの安否を尋ね、過去からブライアンが現れる。悪人たちは、ブライアンの目的を知らないが、危険を察知し始末しようと行動を起こす。魔の悪いことに、夫の行動に不信を感じたブライアンの妻ポーリーンがドイツに飛んでくる。第二部は、ジェイムズの消息を探るブライアンの探索行と悪人たちの知恵比べ、というミステリ仕立てになっている。

少年時代、ジェイムズとブライアンは熱気球でドーヴァー海峡を飛ぶという冒険を試みる。空気が漏れだした気球から飛び降りたブライアンは崖の上に着地できたが、最後まで降りなかったジェイムズは、突風にあおられて崖に激突。気球は木の枝に引っかかって、崖の途中で宙吊りになりながら、ジェイムズは、ブライアンをなじり罵倒する。危機の最中に親友を見捨てて逃げるという本作の主題の、これが伏線になっている。

小さい頃からの遊び友だちで、そのまま戦友となった二人だが、性格はちがう。すべてにおいて、決定権を握るのはジェイムズの方だ。ブライアンは、いつもジェイムズの「だいじょうぶだよ。うまくいくさ」という言葉を信じて一緒に行動してきた。熱気球が膨らみきっていないのに飛ぼうとした時も、偶然通りかかった列車に乗りむ時も、ジェイムズが仕切ったのだ。ブライアンが自分で離脱を決めた時、ジェイムズはそれをなじる。

三十年近く、ブライアンはそれを恥じてきた。どうすればよかったのか。著者あとがきのなかで、作者は「これは戦争小説ではない。『アルファベット・ハウス』は人間関係の亀裂についての物語である」と述べている。絶え間ない暴力に見舞われる精神病院からの脱走、葬ったはずの過去からの反撃、とスリルとサスペンス溢れるストーリー展開に魅せられながらも、やはりこれは作者の言う通り、亀裂した人間関係の回復とその難しさを描いた物語なのだ、と思う。余韻の残るラスト・シーンに胸打たれた。