青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『10ドルだって大金だ』ジャック・リッチー

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洒落た会話、シャープな文体、ひねりを効かせた展開、あっと驚くようなオチ、というのがジャック・リッチーの持ち味。2016年に早川書房から出た『ジャック・リッチーのびっくりパレード』を初めて読んで以来、すっかりはまってしまった。2013年には同じポケミスで『ジャック・リッチーのあの手この手』も出ている。『10ドルだって大金だ』は、2006年に河出書房新社から刊行されたもの。全部で十四篇の短篇集だが、先に挙げた二冊と比べても遜色ない出来栄えにまとまっている。

「結婚して三か月、そろそろ、妻を殺す頃合だ」という書き出しではじまるのが「妻を殺さば」。温室と納屋を探しても見つからない毒薬の在りかを、殺す当の相手に「ヘンリエッタ、毒薬はどこにある?」と尋ねるところからして、リッチー節炸裂だ。このオフビート感がたまらない。「仕事を義務だとか、喜びだとか、やりがいだとかと感じたことはないし、日ごろから、仕事を楽しんでいる人々は基本的にマゾヒストなのだと思ってい」るウィリアムは、生まれてから四十五年間働いたことがない。

「これまで他人がその慣習に従うのに異を唱えたことはない。平凡な精神というのは、何かに打ち込まずにはいられないものだ。労働にせよ、漫画本にせよ、結婚にせよ。それでも、わたしは常に独立した立場を大事にしてきた」。たとえ構成人数が二人でもチームに入るのは気が重い。金のためにした結婚なら三か月くらいが切り上げ時、というのが、殺しの理由というのだから、ふるっている。いいねえ。この人を食った言い種。

財産が目的だから、家計の支出にも目を光らせる。すると、不明朗な会計が見つかる。使用人が鷹揚な女主人を食い物にしていたのだ。首をすげ替えることで、食事は美味しく、時間通りに出るようになる。この悪党のすることなすことがいちいち、妻のためになっていくところが最大の皮肉。財産目当てで妻を殺そうという男なのに憎めない。逆に無邪気なはずの子どもは、ずる賢くて可愛げがない。庭に放り込まれた青酸カリの丸薬を家のどこに隠したのかを尋問する刑事が子どもの狡知に手を焼く「毒薬で遊ぼう」が、まさにその見本。

オチの秀逸さで目を引くのが表題作。会計検査で見つかった余分な十ドルを金庫に入れたのは誰なのか?二人の従業員はそれぞれ自分が犯人だと名乗り出るが、信用が落ちるのを防ぎたい銀行家はもみ消しを図る。翌朝、再度検査をする直前、余分の十ドル札を抜けばいい。従業員と申し合わせ、金庫の開く時間にやってくるはずの検査員の足止めをたくらむが、果たして。クリスティー張りの叙述トリックの大胆さにあきれる。

死体を隠すには自宅の庭がいいというのはこの作家の持論。「とっておきの場所」は、その死体の隠し場所を主題にした一篇。ウォレンは自分が疑われていることより、丹精した庭を警官たちに掘り返されることの方を気にしている。そんな時、隣人がウォレンは湖畔に夏用の別荘を所有していることをばらしてしまう。さて、死体はどこに?盲点を突いた隠し場所と殺人方法にニヤリとさせられる。

リッチーの短編に常連の二人の探偵も登場する。一人目はこの作品が初登場なのか、ボクサーとして登場する。外套も帽子もスーツも靴も黒一色で身を固めた男。服は上等だが、寝る時もそれを着ているくらいくたびれていた。力は強くパンチ力も抜群ながら、光恐怖症(フォトフォビア)があって試合は夜しかできない。キッド・カーデュラ(Cardula)というリングネームでさっそうと登場したこの男の正体はもうお分かりのことだろう。

もう一人は、ヘンリー・ターンバックル。作品により、警察に勤めていたり、私立探偵だったりするが、相棒のラルフとのコンビは今回も健在だ。知識は豊富で、抜群の推理力を誇り、鮮やかに謎を解いてゆくのだが、どこか過剰で必要以上に謎を解きたがり、その結果すべりまくるという迷探偵ぶりが笑わせてくれる。今回は五篇を所収。

「誰も教えてくれない」は、私立探偵開業後の初仕事。失踪人探しという私立探偵にはお約束の仕事の依頼。失踪した女中頭を探さずに報告書だけ送れといわれて、ピンときたターンバックルは匿名の依頼主の家をまんまと探り当て、調査を開始。すると、相前後して依頼主の息子と娘が父と同じ内容の調査を依頼に来る。失踪人は殺されていると考えた探偵が犯人だと指名したのは、何と執事!いつものやり口である。

探偵小説では、使用人が犯人というのはご法度。横紙破りのリッチーは、面白がってその手を使う。しかも、それは簡単に覆されて、真犯人が別にいることが分かる。しかも、何ということでしょう。通常なら序盤から登場していなければならないはずの犯人の存在が、最後になって探偵と読者に知らされる。こんないい加減なミステリがあるものか、と怒ってはいけない。重々承知した上での悪ふざけというか、メタミステリになっているのだ。

六人の連続殺人を予告する手紙が犯人から送られてくる。五人が殺され、警察は共通点を探すが見つからない。被害者の名前はセルヴァンティーズ、ジャクスン、リヴィングストン、ニューマン、ルーベンス。どこかで聞いたような名前ばかりだ。もう一つの手がかりは手紙に署名代わりに記されている<10/19/1>。手口からプロファイリングした犯人像と二つの手がかりからターンバックルは犯人に迫るが、大事なところで読みを誤る。「殺人の環」はクリスティーの『ABC殺人事件』を嚆矢とする「見立て殺人」をパロッている。さて、共通点は何か?アルファベット順というのがヒント。

クールな中にそこはかとなくユーモアが漂い、深く考える間もなく、あれよあれよという間に犯人が分かってしまう。最近流行りの猟奇殺人は登場しないので後味がいいし、凝りに凝ったミステリとちがって、淡々と語られるストーリーは、ひねりが効いているものの満腹感はない。一度手にすると、次々とページを繰る手がやめられない、止まらない。しかも、どの作品もはずれがない。まさに職人技。器でいうなら普段使い。シンプルでいて飽きることがない。ふとした折に手にとれるように、いつも手元に置いておきたいのが、ジャック・リッチーだ。

『サーベル警視庁』今野敏

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明治三十八年というから、時代は日露戦争の真っ最中、警視庁第一部第一課巡査の岡崎を狂言回しに連続殺人事件を追う警察小説である。今野敏といえば『隠蔽捜査』などの警察小説が専門だが、時代を明治時代に取るのはめずらしい。新シリーズを目したものか、それとも一種の偽装か、一段と気合が入っているように思った。

山田風太郎に、明治初期の警視庁を扱った『警視庁草紙』に始まる「明治もの」と呼ばれるシリーズがある。本編の中に、サイド・ストーリーとして当時活躍中の文士等の有名人が何人も登場するのが特徴だ。明らかになっている史実と史実の間にある間隙を小説家の想像力によって埋め、いかようにも話が作れる。そこがおもしろい。警察ではなく本屋を舞台に取った京極夏彦の『書楼弔堂』シリーズなども同じ着想を共有している。

一人の有能な刑事が事件を解決するのではなく、チームとして事に当たる。警察小説によくあるスタイルだ。警視庁第一部第一課を指揮するのは、伝法な六方詞を使う鳥居部長。妖怪とあだ名された鳥居耀蔵の縁者と噂される曲者だ。六方詞(ろっぽうことば)というのは、旗本の六方組からきている。歌舞伎の『幡随院長兵衛』に出てくる白柄組もその一つ。川路利良から始まる警視庁では薩摩が幅を利かしている。その中で旧幕臣であることを見せつけるような振舞いをしてはばからないのは、薩長の専横に対して思うところがあるのだろう。

鳥居の下に、課長の服部、警視庁随一の理論派といわれる警部の葦名と続く。その配下に鳥居が舎弟と呼ぶ上位巡査、米沢出身の岡崎、会津出身で小兵ながら溝口一刀流免許皆伝の岩井、柔術の猛者久坂、江戸っ子で角袖姿の刑事巡査荒木の四人がいる。このチームに加わって捜査協力をするのが、貴族院議員を祖父に持つ西小路という私立探偵。岡崎の知り合いで東京帝大文科大学に勤める黒猫先生の教え子である。不忍池にあがった水死体が帝大文科大学の講師だったことから捜査に加わることに。

死体は胸を鋭利な刃物で一突きされていた。発見者は富山の薬売りであったが、話を聞こうと岡崎らが駆け付けた時にはどこを探しても見つからなかった。仕方なく腹ごしらえに入った食堂で話しかけてきた男が、被害者はドイツびいきで、それを憎む学生が怪しいと名前を挙げる。そうこうするうち、同じ犯人による殺人が続いて起きる。今度の被害者は陸軍大佐で、家の前でやはり一突き。目撃者があり、杖を持った士族風の老人を見たという。仕込み杖か、と色めき立つ巡査たち。

その老人、女子師範学校で庶務をしていることがわかる。そこに通う城戸子爵の娘喜子が殺された高島という講師に付け文をされており、その仲介をしていたのが庶務のおじさんと呼ばれる藤田だった。尋問のため警視庁に連れてこられた藤田を見て鳥居が驚く。岡崎たち二十代の巡査では知らないのも仕方がないが、この藤田五郎、改名前の名は斎藤一新撰組三番隊長で、瓦解後は警視庁の大先輩である。

出てきました。有名人。明治の警視庁が舞台ならこの人が出てこないはずがない。しかも新撰組会津で戦った後に斗南藩士という経歴だ。敗者側の視点から明治を描く本作には外せない。背筋をピンと伸ばし、歩く時も上体がぶれない、無類の剣の使い手である。疑いの晴れた後、この藤田五郎も捜査に加わり大活躍をする。それだけではない。事件の背景にある幾つもの対立関係の頂点に立つある大立者との対決が待っている。それは後に置いておいて、まずその他の対立とは何か。

高島が新しい日本はかくあるべき、公用語さえドイツ語を用いるべしという開明派の筆頭であるとすれば西小路が私淑する黒猫先生はその反対、いくら頑張っても日本人がイギリス人やフランス人にはなれない、という考え。日本の針路についての対立が一つ。もう一つは親ドイツ派とフランス派の対立。例えば、ビスマルクに傾倒する山縣有朋のような長州人は親ドイツ派だが、警察組織はフランスをまねて作られている。この対立が、佩刀するサーベルを用いた剣術にまで及ぶ。また、同じ長州でも派閥対立があり、苦汁をなめる者もいた。

官有地払い下げ問題に端を発した疑獄事件、君臨する長州閥の領袖に対する周囲のとどまることを知らない忖度を原因とする事件の続発、とまるで現代日本の姿を予言するような日露戦争当時の日本。国を憂うる者が心ならずも敗者となり、勝者が国を私する姿を見て憤る。しかし、権力は向こう側にある。警視庁はもとより内務省の管轄下だ。そこで、活躍するのが、私立探偵の西小路や子爵令嬢の喜子、ただの庶務のおじさんとなった藤田五郎たち。もちろん、最後には鳥居たちも馘首を覚悟で一太刀浴びせることに。

黒猫先生は何度も俺に言ったよ。これから日本は、うんと苦しむことになるだろうって。今まで、日本という国と日本人という国民は同じものだった。この先は国民と国が別のものになっていくだろう。黒猫先生はそうおっしゃる。それはつまり、安心して暮らしていた家から放り出されるようなものだ

鳥居が黒猫先生から聞いた言葉だ。日露戦争当時の日本を背景にした言葉だが、とてもそうは聞こえない。日本国憲法のもとで、安心して暮らしてきたこの何十年。それが今、とんでもない嵐に巻き込まれそうになっている。やたらに長州人を持ち出し、明治を憧憬の対象にするあの人に、藤田五郎の科白を聞かせてやりたい。「この国が自分のものだとお思いでしたら大間違いです」「貴殿のものでもなければ、薩長のものでもありません。この国で生まれ、暮らし、死んでいくすべての者たちのものです」と。

でも、本など読まないだろうなあ。云々が読めなかったものなあ。もし、読んだとしても黒猫先生という名で呼ばれている人の本名も気づかないだろうなあ。ああ、もったいない。

『その雪と血を』ジョー・ネスボ

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あと数日後にクリスマスが迫るオスロ。王のローブを思わせる真っ白な雪に点々と残る血痕。男は、今一人の男を殺したところだ。死んだのは《漁師》と呼ばれる男の部下だ。電話で仕事が済んだことを告げると、ボスに次の仕事を依頼された。今のところ信用されているが、いつ自分が始末される側に回るかと不安は消せない。今回の仕事も受けるかどうか躊躇した。始末する相手はボスの妻だった。

男の名はオーラヴ。物語好きの母親がノルウェー王の名を借りてつけた。仕事は始末屋、というとなんだか便利屋みたいだが、実のところは殺し屋だ。ヘロインを扱うホフマンに雇われている。殺し屋と聞くとその前に「非情な」という修飾語をつけたくなるが、オーラヴの場合はちょっとちがう。売春婦に足を洗わせようと借金を肩代わりしてやったり、殺した相手の家族に稼ぎをすべて与えたり、とやわなところがある。

そんな男がなぜ殺し屋?「おれにはできないことが四つある」。逃走車の運転、強盗、ドラッグ絡みの仕事、売春のポン引きだ。その理由も振るっている。「車をゆっくり運転するのがへたで、あまりに意志が弱く、あまりに惚れっぽく、かっとすると我を忘れ、計算が苦手」だから、始末屋くらいしかできなかった、というのだ。おまけに難読症で、綴りにまちがいが多く、本は好きでよく読むが物語は自分で作ってしまう。

ボスの家の向かいのホテルに部屋を取り、初めて妻のコリナを見た。真っ白な肌をした絶世の美女だ。まさにファム・ファタル(運命の女)そのもの。一目で恋に落ちた。監視を続けるうち、毎日決まった時間にやってくる男がコリナの頬を打つのを見て、男は愛人ではなくコリナを強請っているのだと考えた。相手の男を殺したオーラヴは、ボスに報告する。ボスは驚く。俺の一人息子を殺したのか、と。

息子を奪われたボスが、オーラヴとコリナを放っておくはずがない。コリナを自分の部屋にかくまううちに二人は互いに愛し合うようになる。こうなったら、後は二人で逃げ延びる算段。ホフマンの商売敵である《漁師》に自分を売り込んだ。凄腕の殺し屋を雇えるし、競争相手が消え、商売を独占できる絶好の機会だ、と。自分の部下を三人も殺した相手に《漁師》が言って聞かせる科白がなかなか含蓄がある。

信用できないことほど孤独なことがあるだろうか――どういう意味かわかるか、あんちゃん?」「今のはT・S・エリオットだよ」(略)「疑り深い男の孤独だ。ほんとだぜ、ボスというのはみんな、遅かれ早かれその孤独にさいなまれるようになる。夫というのもたいてい人生で一度はそれを感じる。だけど父親というのは、ほとんど感じずにすむ。ところが、ホフマンのやつは、その三つをぜんぶ味わわされたわけだ。自分の始末屋にも、女房にも、息子にも。気の毒になるくらいだぜ

クリスマス・ストーリーというものがある。ディケンズの『クリスマス・キャロル』もその一つ。世知辛い世の中で暮らすうちに、すっかりすれっからしになってしまった男。その乾ききった心の奥底に、今となってはそんなものがそこにあったことを本人でさえ忘れてしまっていた、温かく傷つきやすい少年の心がしまわれていた。クリスマス・イブの夜、静かに降り続ける雪を見ている男の胸にそれが激しく甦ってくる。

回想の中で少年時代のオーラヴは、熱を出して寝ている間、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を読む。読んでは眠ることを繰り返すうち、オーラヴは『レ・ミゼラブル』を自分流の小説に読み直してしまう。その中ではジャン・バルジャンは人殺しになっている。オーラヴが書き直した『レ・ミゼラブル』の梗概。

彼のすることはすべてフォンテーヌのためであり、愛とは狂気と献身から出たものだ。自分の死後の魂を救うためでも、同胞への愛のためでもない。彼は美に屈するのだ。そう、それが彼のしたことだ。歯も髪もないこの病気で死にかけた娼婦の美に屈服したのだ。誰ひとり美など想像できないところに美を見たのだ。だからその美は彼だけのものであり、彼はその美の僕(しもべ)なのだ。

オーラヴはコリナに出会う前、マリアという女を知る。マリアは聾唖者で片足が悪い。それだけでも不幸なのに、男の借金のかたに売春婦にされてしまう。借金の肩代わりをして足を洗わせたものの、心配でその後をつける。電車の中で相手の耳の聞こえないのをいいことに、そっと愛の言葉をつぶやいたり、綴りまちがいのある手紙を書いたりする。何というセンチメンタル。だが、これこそクリスマス・ストーリーだ。クリスマスには愛の物語が必要なのだ。引用部分のフォンテーヌをマリアに置き換えてみれば、彼の真意がわかる。

もう何十年もそんな気持ちに襲われたことはないが、思春期の頃、クリスマスに雪の降る都市に住んでいないことが悔しかった。暖かな地方で雪などはめったに降らず、ホワイト・クリスマスに憧れていたのだ。それと映画によくあるクリスマスの奇跡に。ひそかに憧れていながら、声すらかけられない女の子に、街角で偶然に出会って恋が始まる、といった信じられないほど都合のいいセンチメンタルな物語。ふだんならいくら何でも、と思う話もクリスマスなら許せる。

通り一遍のクリスマス・ストーリーなら、ハート・ウォーミングな結末と初手から決まっている。だけど、これは50年、60年代に流行した犯罪小説「パルプノワール」を模したものだ(訳者あとがきにある)。「ノワール(暗黒小説)」にはやはりそれらしい結末が必要だ。クリスマス・ストーリーを象徴するのがマリアなら、ノワールを象徴するのがコリナだ。蕩けるような声で男を誘い、その色香で危険な犯罪に男を誘うファム・ファタル。そのクリスマス・ストーリーと「ノワール」らしさを融合させたラストが絶妙で、うなった。

ポケミスでも珍しい一センチ足らずの厚さに一段組み。「パルプノワール」といういかにも安っぽさを感じさせるチンケなネーミングに相応しい殺し屋の一世一代の恋物語の顛末は表題通り雪と血に彩られて終わる。思ったのだが、日本語の表記としては若干無理のあるタイトル表記は、オーラヴの難読症の暗喩か。ヒュームやジョージ・エリオットへの言及から見て、かなりのインテリジェンスの持ち主であるオーラヴが始末屋にしかなれなかった件(くだり)に胸をうたれた。精妙な伏線といい、異ジャンル混淆の見事さといい、北欧ミステリの佳品というべきか。

『古書の来歴』ジェラルディン・ブルックス

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謎につつまれた一冊の本がある。実在の本で、発見された地の名を取ってサラエボ・ハガダーと呼ばれている。ハガダーというのは、ユダヤ教信者が過越しの祭りで読む、説話や詩篇を綴った本のことだ。謎というのは、教会で使用するものではなく、家族の間で用いられる本であるのに、そのハガダーには金銀の他に貴重な塗料である瑠璃(ラピス・ラズリ)を使って描かれた挿絵が全頁に挿入されていることだ。偶像崇拝を禁じているユダヤ教書物に細密画が付された例はそれまでなかった。

いずれは富裕な商人層の持ち物でもあったのだろうが、美しく彩色された絵やヘブライ語の書き文字は誰の手になり、留め具のついた装丁を施したのは誰なのか、誰から誰の手に渡り、どういう経路でサラエボに流れ着いたのか、表題通り『古書の来歴』を探る、本好き、古書好きにはたまらない古書ミステリであり、古書が成立するに至る過程で経巡ることになる、ウィーン、ヴェネチアセビリアといった都市を舞台に、古書をめぐって人々が巻き起こす歴史ロマンの貌も併せ持つ。

古書ミステリの探偵役はオーストラリアに住む古書の保存修復家のハンナ。シドニーのハンナに仕事を依頼する電話がかかる。相手は同業者のアミタイで、仕事は国立博物館所有の有名なサラエボ・ハガダーを調査し、データを集めた上で修復し、論文を書くこと。修復後は博物館のメインの展示物となり修復家の栄誉ともなるこの仕事が、何故若いハンナに任されることになったのかとえば、ボスニア・ヘルツェゴビナという多民族国家ならではの宗教、政治による利害の対立関係にあるイスラエル、ドイツ、アメリカなどの国を除外した結果という皮肉なもの。

章が代わるたびに、現代のハンナの行動を追うストーリーとハガダーの中から見つけ出した痕跡や古書の中に残された遺物にまつわる、時代も場所も異なる人々の物語が交互に語られる構成になっている。第一章「ハンナ一九九六年春サラエボ」の次に来るのは「蝶の羽一九四〇年サラエボ」。「蝶の羽」というのは、ハガダーの中に挟まれていたウスバシロチョウの羽を指す。その羽がハガダーに挟まれることになった経緯が、まるで一篇の短篇小説。

一九四〇年のサラエボ。ドイツの反ユダヤ主義が、サラエボに住むユダヤ人家族に襲い掛かる。母と妹を国に残し、パルチザンの仲間に加わったユダヤ人少女ローラが、チトー指揮下の軍に見捨てられ、危険を冒して故国に舞い戻ったところをイスラム教を信じる博物館の学芸員に助けられるまでを描く。一冊の古書が歴史の生き証人となって、奇しくも古書と関わることになった人々の数奇な人生を物語る。

一方、現代を生きるハンナにはハンナの物語がある。修復家の道を選んだことで優秀な脳神経外科医である母とは修復し難い関係となっていた。しかし、内戦のさなかにハガダーを守った当の学芸員オズレンを愛し始めるようになったハンナは、彼の娘の病状について相談しようと母を訪ねる。仕事第一で、子育てをないがしろにしてきた母は、それを詫びることもなく、高飛車な態度を取り続ける。この母と娘の葛藤がハンナのストーリーを貫通する主題である。副主題はもちろんオズレンとの関係の行方。

しかし、読者の興味は古書の来歴にある。蝶の羽の後に来るのが「翼と薔薇一八九四年ウィーン」の章。「翼と薔薇」というのはハガダーに付されていた精巧な留め具のこと。ウィーン分離派マーラーが活躍していた時代、ウィーンを席巻していたのはデカダンスの気分だけではなかった。梅毒に侵された装丁家は、高額な治療費の代わりに依頼された古書についていた銀の留め具で支払うことにした。こうして、ハガダー本体と留め具は別々の道を行くことになる。

「ワインの染み一六〇九年ヴェネチア」で語られるのは異端審問。説教上手で知られるユダヤ教のラビと、異端審問に携わるカトリックの司祭とは、気脈を通じた友人でもあった。その二人の間に投じられたのがハガダー。ユダヤ人を援助してくれる婦人の家に伝わる大事な品を預かったラビは、異端審問にかけられる恐れがあるかどうかを判断してもらおうと司祭を訪ねる。司祭は文章に問題はないが絵の方にあると指摘する。なんと、地球が丸く描かれているではないか。容赦のない指弾の裏には異なる宗教を信仰するライヴァル同士の確執があった。

この他にも古書に残っていた塩の結晶や、一本の白い毛の由来を物語る「海水一四九二年スペイン、タラゴサ」、「白い毛一四八〇年セビリア」など、異国情緒たっぷりに描かれる物語は、ユダヤ教キリスト教イスラム教、というもともとは兄弟関係にある三つの宗教が混在していた時代、地域ならではの葛藤、軋轢に、異端審問官による拷問や妖艶な美妃をめぐる愛憎劇の要素を加味し、絵の中に描かれた黒い肌をした女性の正体に迫るなど、物語好きの読者なら随喜の涙を流すにちがいない場面が次々と展開される。

古書ミステリに『ミッション、インポッシブル2』のスパイ・アクション的なスパイスを添え、どんでん返しも用意するという大サービスの本書。翻訳ミステリー大賞受賞作というのもうなづける。古書の保存修復に関する実際の作業工程や、痕跡の鑑定の技術等についても詳しく、古書好きにはたまらない一冊に仕上がっている。ランダムに明かされるハガダー成立の過程についての物語の展開の仕方もよく練られていて興味が尽きない。古書の来歴に触れる章に強烈なインパクトのある年号を選ぶなど、あまりにも精巧な拵え物といった感がつき纏う点が唯一の憾み、というところか。

『ねじれた文字、ねじれた路』トム・フランクリン

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ラザフォード家の娘の行方がわからなくなってから八日が過ぎて、ラリー・オットが家に帰ると、モンスターがなかで待ち構えていた。

いかにもミステリらしい謎めいた書き出しに興味は募るが、正直なところ犯人はすぐわかってしまう。なにしろ<おもな登場人物>に名前が出ているのが11人。ミステリのお約束として、犯人は必ずこの中にいるはず。そのうち二人の被害者は除外して、残りは九人。その中の三人が捜査関係者で一人は視点人物のサイラス。警察官が犯人というのもあるが、ここは南部のスモールタウン。みな顔見知りだ。仕事以外につきあいのない都会とは訳がちがう。

これで残りは六人。ラリーの父親とサイラスの母親はすでに故人なので、当然除外。ラリーの母親は施設で寝たきりだから物理的に不可能。これで残るはラリーとその友人、サイラスの恋人の三人だ。そのラリーだが、冒頭で何者かに襲われて小説の終わり近くまで昏睡状態のまま。つまり、犯人あてミステリとして読むのは構わないが、はじめから、その種の読み物として書かれてはいない、と言いたいのだ。

ラリーは、自動車整備工場をやっているが、毎日工場まで足を運んでも客は誰も来ない。十代のころ、デートに誘った少女がその晩から行方不明となり、その容疑者と考えられたことがあるからだ。自白も取れず証拠も挙がらなかったので釈放されたが、狭い町のことだ。それ以来、おっかない(スケアリー)ラリーと陰で呼ばれるようになり、家にも工場にも人が寄り付かなくなった。

二十五年たった今、また別の少女が行方不明になる事件が起きた。ラリーの仕業と考えた者がいたとしても不思議ではない。ずっと家に石を投げられたり、郵便箱を叩き壊されたりされてきた。父が死に、母が施設に入ってからは、独りで生きてきた。朝起きると鶏に餌をやり、作業着に着替えて工場へいき、ブック・クラブから送られてくる本を相手に時間をつぶし、また家に帰ってくる。マクドナルドかフライドチキンを食べたら、「フロントポーチにつくねんと座っている。どの日もちがう、どの日もおなじ」。

サイラス・ジョーンズは人口五百人前後のミシシッピ州シャボットのたった一人の法執行官。かつては名遊撃手として鳴らしたが、肩を壊して引退。当時の背番号から、今もみなに32と呼ばれている。この日、パトロールの最中、いつも工場に止まっているラリーの赤いフォード・ピックアップがないことに気づき、救命救急士のアンジーに様子を見に行ってもらう。自分は別件で身動きが取れなかったからだが、顔を出したくなかったからだ。

十代のころ、シカゴから転校してきたサイラスと母は、ラリーの父カールの土地に建つ狩猟小屋に住んでいた。ラリーとサイラスは、よく一緒にインディアンごっこをやって遊んだが、二人きりで遊ぶ場所はカール所有の森や草地に限られていた。ラリーは白人で、サイラスは黒人。学校では黒人と白人は別のグループに属していたし、何より二人が一緒に遊ぶことをカールは喜ばなかった。

二人は皮膚の色だけでなく対照的だった。夜逃げ同然に家を出てきたサイラスは住む家だけでなく着る物もラリーのお古をもらうほど貧しかったが、運動神経は抜群で野球の力で進学しようとしていた。対するラリーは、幼い頃から病弱で、吃音や喘息のせいで遊び友だちもなく、一人で本を読んだり、虫や蛇を集めて遊んだりする子だったが、整備工場を営む父のところにはいつも人が集まってきて賑やかだった。

ある日、サイラスに打ち据えられたラリーは、つい「二ガー」と言ってしまう。その日を最後に、サイラスはラリーと口をきかなくなり、やがて別の学校へ進学し、シャボットを去る。肩を壊して野球人生に見切りをつけたサイラスは、軍隊を経て警察学校に進み、治安官となって町に戻ってきたが、ラリーの家にも工場にも顔を出さなかった。サイラスはラリーに会いたくなかったのだ。

現在の事件と二十五年前の過去の出来事が、交互に当事者二人の視点で語られる。『ねじれた文字、ねじれた路』という表題は、直接的にはサイラスの頭文字<S>を指すが、アメリカ南部の子どもがミシシッピ(Mississippi)の綴りを覚えるときに教わる言葉遊びの文句からきている。「エム、アイ、ねじれ文字、ねじれ文字、アイ/ねじれ文字、ねじれ文字、アイひとつ/こぶの文字、こぶの文字、アイひとつ」。二人の男の関係をねじれた形を持つ字で表したのだろう。クリスティーやヴァン・ダイン以来、ミステリとマザーグースのようなナーサリー・ライムは相性がいい。

南部のミシシッピ州を舞台に、小さな町の濃密な関係の中で、誘拐殺人犯の疑いをかけられ、たった一人の友だちにも見捨てられたラリーの二十五年間の来る日も来る日も変わらない生活が冒頭に描写されている。小さな町の中で無視され続けているのに、誰を責めるでもなく、自暴自棄に陥るでもなく、実直に誠実に日々を過ごしている。責められるべきは自分だと思い込んでいるのだ。

一方、サイラスは仕事上での付き合いも、毎日食事に立ちよるダイナーでの付き合いも卒なくこなし、誰からも愛され、信用されている。アンジーという恋人とも相性はぴったりのようだし、愛車のポンコツのジープだけはいただけないが、町にとって欠くことのできない人物と見なされている。

この二人の関係が、娘の死体が狩猟小屋の床下から発見されることで大きく揺らぐ。二十五年前、少年だった二人が目にした事実の中にすべては明らかにされていた。ピューリタニズムに抑圧された性的情動のはけ口。支配被支配の関係からくる性的関係の強要。人種差別、とどれも今でも残る社会悪だが、当時のそれは男性優位の支配的な社会にあって、今とは比べようもなく強かった。二人がねじれた路を歩くようになったのは、それらが複雑に絡んでいる。

小さな町だけに登場人物の数は知れている。それだけに、端役に至るまで、性格付けがしっかりされていて読みごたえがある。一つ一つの描写がリアルで手を抜くことがない。だから、出来事が生き生きと立ち上がってきて、読む者の五感を刺激する。それは南部ならではの土地や動植物の描写でも同じだ。「背後の山は熱帯のようで、雨とミミズのにおいがして、木から水が滴り、雷が落ちた直後のように空気が電気を帯びていた。樹幹の隙間の空をリスたちが跳び、頭上の木の虚でキツツキがスネアロールを打つ。サンカノゴイが叫ぶ」ディープサウスへようこそ。

『物が落ちる音』ファン・ガブリエル・バスケス

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カバが射殺された話から始まる。閉鎖されて久しい動物園から逃げ出したカバが畑を荒らすので撃たれた、という記事を読んだ「私」は、昔つきあいのあった男のことを思い出す。リカルド・ラベルデと会ったのはビリヤード場だった。当時、最優秀の成績で法学士の資格を得た二十六歳の「私」は、最年少教員として大学で教えており、試験期間で講義がない日はそこで暇をつぶしていた。

廃墟となった動物園の映像を流すテレビを見ながら、誰に聞かせるでもなくリカルドが呟いた。「動物たちはどうするんだろう。(略)やつらにゃ罪はないだろうよ」と。動物園は麻薬王パブロ・エスコバールが作らせたもので、1993年に殺された後は放置されていた。その後しばらくして二人は一緒にプレイするようになる。

リカルドは四十八歳。二十年間入っていた刑務所を出たばかりで、歳以上にくたびれて見えた。もとは飛行機のパイロット。アメリカにいる妻を呼び寄せてやり直そうとしていた矢先、そのエレーンが乗った飛行機が墜落した。カセットを聞くために一緒に出掛けた建物の近くでリカルドは射殺され、「私」もまた重傷を負う。カセットの中身は墜落機のフライトレコーダーの記録だった。

襲撃によるPTSDのせいで講義中に涙を流したり、教え子との関係を揶揄う卑猥な落書きを書かれたり、と「私」は教師の権威をなくしかけていた。アウラとの間に娘が生まれたばかりだったが、事件以来勃起不全となったことで家庭生活にも軋みが生じていた。そんな時、リカルドの娘だというマヤから手紙が届く。こちらへ来て父の話を聞かせてほしい、と。

高地にあるボゴタから、遠く離れたマグダレーナ河近くのラス・アカシアスへ車を走らせた「私」は、マヤがほぼ同い年であることに気づく。自分の知るリカルドの思い出を話す代わりに、マヤから柳行李に詰められた両親についての資料や手紙を見せてもらった。そこには、70年代当時のアメリカとコロンビアの間に生じた公にできない関係が記されていた。話は、ここから時をさかのぼり、雑誌の記事や手紙をもとにして「私」が組み立てたマヤの両親の物語へと変わる。

エレーンは、大学卒業後ジョン・F・ケネディが主唱した平和部隊に応募し、コロンビアにやってくる。下宿先の息子がリカルドだ。リカルドの祖父は軍の英雄で、孫もまたパイロット志望だった。二人の仲は急接近し、妊娠したこともあって結婚。セスナで貨物を運ぶ仕事に就いたリカルドは、妻の仕事先に近い村に土地を買って我が家を建てる。幸せな暮らしは三年間続くが、ある日を境に夫は帰らなくなる。

『コスタグアナ秘史』では、パナマ運河建設の時代を歴史的背景に用いて、小説に厚みを加えることに成功したバスケスだが、今回は、ベトナム戦争ウォーターゲート事件のあった70年代に的を定めている。当時、アメリカはメキシコからの麻薬密輸を撲滅しようと躍起になっていた。だが、密輸業者は、需要があればどこからか供給先は見つけてこなければならない。それがコロンビアだった。

国家による開発途上国支援のためのプロジェクトを隠れ蓑に隊員の一部が麻薬の密輸を考えた。配属先の奥地の住人に麻薬の栽培と抽出法を教え、製品を小型機に乗せてレーダー網にかからないルートで運ばせ、現地に待機した買い手に直接手渡すというものだ。それには、セスナ機を飛ばすことのできる人間を必要とした。飛行時間が少なく、家の建設資金を稼ぎたくても人を乗せることができないリカルドにとって、それは渡りに船だった。

妻と子のためを思ってした行為が裏目に出てしまう。しかも二十年後、人生をやり直そうとしたところへ妻を乗せた飛行機が墜落する。普通では絶対に手に入れることのできないフライトレコーダーの録音カセットを手に入れるためにリカルドの払った代償が、あの襲撃だったということか。しかも、それは最愛の娘から残されたたった一人の肉親を奪うことになってしまう。なんという虚しさ。なんという徒労感だろう。

それだけではない。冒頭の「私」の、四十になろうとしたばかりなのに、すっかりくたびれ果てた中年男の疲れ切った様子はどうだ。回想から始まった物語は、ふつう語り出した時点に戻って終わるものだ。そうすることで、たとえどんなに酷い時間を過ごしたにせよ、過去は過去として葬られ、今はこうして現在を生きている、という安堵のようなものがそれまで語り手と共に物語を生きていた読者の心のうちに生じる。

ところが、この小説は「私」がマヤの家からボゴタに帰った時点で終わっている。時はそこで止まったままなのだ。生きている者には時間が過ぎてゆくが、死んだ者にとって時計はそこで止まったままだ。マヤと訪れた動物園で見たカバの記憶が、雑誌の記事によって想起されるまで、「私」はリカルド・ラベルデのことを思い出すことさえなかった。人は忘れられることで二度死ぬ、と言われているのに。

「世界はひとりきりで歩き回るにはあまりにも危険な場所だと、だから誰かが家で待っていてくれないと、そして帰りが遅くなったら心配して探しに出てくれる、そんな人がいないとやっていけないのだと言い張ってみようか?」というのが無人の部屋を見たとき「私」の心をよぎった最後の思いである。読者は「私」がこれから歩くだろう人生を知っているが、語り手は知らない。惨い結末である。

『風の丘』カルミネ・アバーテ

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丘は、海の手前で逆さにひっくり返された舟を連想させる湾曲した細長い形をしていて、スッラ(マメ科多年草。フレンチハニーサックル)の緋色で一面彩られていた。そのまわりを、果樹、乳香樹の茂み、月桂樹、金雀枝(えにしだ)、ローズマリー、庭常(にわとこ)、ぶどう畑、オリーブの巨木、ところどころに群生するフィーキ・ディンディア(ヒラウチワサボテン)などがぐるりととり囲み、陰になった斜面は常盤樫(ときわがし)の森に覆われ、たわんだ半円の冠のようだった。

ローマ神話ではゲニウス・ロキ(地霊)と呼ばれるが、ある種の土地には時に人を縛りつけて放さない力のようなものがある。『風の丘』は、緋色のスッラで埋め尽くされ、風の止むことのないロッサルコと呼ばれる丘を四代にわたり守り続けてきたアルクーリ家の物語だ。

自らを「僕」と呼ぶ、アルクーリ家の最も若い跡継ぎが語りはじめるのは、祖父アルトゥーロが子どもの頃、ロッサルコの丘で出会った忘れられない出来事。兄と弟と三人で水浴びをしていると丘の上の桜林で銃声が響く。兄弟が丘の上に出ようとしたところで野良仕事を終えた母と出会う。不審がる子どもたちをなだめ、帰り支度を急がせる母を振り切って一人丘に駆け上がったアルトゥーロは見てしまう。二人の男が血に染まって死んでいるところを。

「僕」がこの話を知っているのは、父に聞いたからだ。アルクーリ家の跡を継ぐ者は、次代に伝える時が来るまで固く秘密を守りつづけねばならない。そして、自分が死ぬ前に、一家の物語を語り伝えてゆくことを約束させた上で、秘められた物語を語って聞かせる。父もまた祖父のアルトゥーロから、こうして話を聞かされたのだ。

母の死後、父は村にある家を出て、丘にあった小屋を改装して独り暮らしを始めた。ある日、父から電話がかかる。父には語り継ぐべき家族の物語の他に、誰にも話していない自分と妻の間に秘された物語があった。こうして、「僕」が父から話を聞く現在の物語と、曾祖父母、祖父母、そして父ミケランジェロと母マリーザの過去の物語が、時に交錯し縺れ絡まりあうようにして家族の物語が紡ぎ出される。

長靴の形をしたイタリア半島の爪先のあたりに位置するカラブリア。大地主が土地を所有し、人々は高い小作料を払って小作人となるしかない貧しい土地。曾祖父アルベルト・アルクーリは硫黄鉱山で日雇い仕事をしながら、先祖から受け継いだちっぽけな土地に、合衆国に渡るため急いで土地を手放したい農民から少しずつ買い足してロッサルコの丘一帯を手に入れたという。しかし、村人は信じていなかった。何か裏があるにちがいない、と。

カラブリアは貧しい。地代と重税にあえぐ村人の目には、岩だらけの不毛の地を切り拓き、オリーブや葡萄の木を植え、家畜を育てる自作農になったアルクーリ家は、アルビノの白燕のようなものだ。おまけにアルトゥーロは反ファシストの闘士ときている。白燕は色の違う仲間の燕によって巣から追い落とされる。硬貨には必ず裏表がある。ロッサルコの丘は一家にとって大事な宝になるとともに危険な火種ともなった。

冒頭の二人の若者の死は一家に暗い影を投げかける、硬貨に喩えるならその裏面にあたる。第一次世界大戦中曾祖父アルベルトは、二人の息子を戦争で奪われる。独り生還したアルトゥーロは丘を買い占めようと圧力をかけてくる大地主ドン・リコと対立し、讒言によって流刑にされる。釈放後、家族とともに丘に木を植え、小麦を育てて家を盛り立てるが、第二次世界大戦末期、不時着した英兵を匿ったことが災いしたか、行方が分からなくなる。

父の代になると、リゾート開発や風力発電の風車建設地にと丘を手に入れようとする者たちが次々と現れる。首を縦に振らないミケランジェロに脅しをかけるため、犯罪組織の手を借りて木を伐ったり、森に火をつけたりとしたい放題。そのすべての原因となるのが、代々の親から語り継がれた丘を絶対に守れ、という言葉に縛られる男たちの頑なな性格だ。

対比的に女たちは、生命力にあふれ、快活で自由だ。料理上手の曾祖母ソフィー、祖父に代わって丘を守ってきた祖母リーナ、絵が上手で家に縛られない叔母ニーナベッラ、考古学者で家を空けてばかりだった「トリノっ娘」の母マリーザ、と丘の磁力に引きつけられ、土地に縛りつけられ続ける男たちが飲まされる苦汁を味わうことがない。

アモーレ(愛)、カンターレ(歌)、マンジャーレ(食)の三つを大切にするのがイタリア人、とイタリアを旅した時に聞いたことがある。まさにその通りで、この物語の中でも人々は何かといえば、食べ、歌い、愛し合う。食卓には南イタリア特有の食材を使って女たちが調理した美味そうな料理が並び、男はキタッラ・バッテンテをかき鳴らして小夜曲(セレナータ)を歌って女を口説き、男と女は丘の草上で愛を交わす。

トロイア戦争の英雄ピロクテテスによって建てられた古代の都市の遺跡が埋まっているとされるロッサルコの丘。トロイア戦争に向かう途中、踵の傷の痛みに呻くピロクテテスは仲間であるオデュッセウスに島に置き去りにされる。しかし、ヘラクレスの弓を持つピロクテテスの腕なくしてはトロイアは落ちず、十年後島から呼び戻されたピロクテテスの放った矢は見事パリスを射止め、戦争はギリシアの勝利に終わる。

村人の恨みによって島に流されながら、かえって以前より思想も身体も強靭になって帰還したアルトゥーロがピロクテテスに喩えられていることからも分かるように、紀元前の世界から連綿と続く文化・自然遺産を表面に、戦争や人間同士の権力闘争、嫉妬からくる讒言、因習的な土地に蔓延る犯罪組織、といった現代に至るまで連綿と続く負の遺産を裏面に描いた、作家の郷土カラブリアのワインさながらの濃厚な味の物語である。

男と女、北の開かれた都市トリノに対し、南の因習に囚われ貧しさにあえぐカラブリア、土地と夫第一の昔の女性に対し、自由に各地を飛び回る現代女性、古代から伝わる自然を保護し、そこで生きようとする地元民に対し、金になるなら自然破壊も辞さない観光開発ありきの資本、と二項対立を際立たせることで、物語をぐいぐい引っ張ってゆく、カルミネ・アバーテストーリーテラーぶりに圧倒される。

冒頭の引用に見られるように、訳者が植物の名にルビ振りの漢字を多用しているのもうれしい。料理名や食材の場合、タラッリ(リング状の堅焼きパン)、ソップレサータ(豚の足、耳、舌などを煮詰めてゼラチンで固めたもの)、カピコッロ(豚の首から肩の肉を使用したサラミ)、などと懇切丁寧な紹介ぶりも食欲をそそって曰く言い難い読み心地に誘う。パンツゥイア(豚の頬肉の塩漬け)やサルデッラ(シラスの唐辛子漬け)など、引用するだけで生唾がわいてくる。罪な本である。