青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『黒い犬』イアン・マキューアン

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互いに愛し合っているのに結婚してすぐに別居してしまった妻の両親。小さい頃に両親を亡くし、親というものに飢餓感を覚えていたジェレミーは、両親の不仲に苦しんできた妻の不興を買いながらも、フランスとイギリスに別れて暮らす二人を事あるごとに訪ね、話を聞かずにはいられなかった。特に新婚旅行の締めくくりにと決行したフランスでの徒歩旅行の最中、義母のジューンが出遭った二匹の黒い犬のことを。そもそも二人がちがった道を行くようになったのはそれが原因だったからだ。

イアン・マキューアンの長編第五作目である。小さな教科書会社を経営するジェレミーは、愛する妻と子どもに囲まれ、幸せな毎日を送っている。彼はウィルトシャーにある養護施設で暮らす妻の母の所に通っては、話を記録している。回想録を書くつもりだ。フランスの農家に独居し、瞑想や観想に時を過ごしてきたジューンは今までに三冊本を書いている。あの黒い犬に出遭った日、突然の回心が起き、それまで夫婦で入党していた共産党を出て、神秘的な体験を追求する道に入ったのだ。

夫のバーナードはケンブリッジを出て外務省関係の仕事をしていた。二人はその職場で出会ってすぐに結婚した。第二次世界大戦が終わったばかりの頃で、イタリアで赤十字のボランティア活動をしたりしながらの新婚旅行だった。戦後の新しい社会を作るため、意欲に燃えていたのだ。合理論者の夫には、妻が突然隠遁生活に入り、神秘体験に固執するようになったことが理解できない。BBCの討論番組の常連で、労働党の議員でもあったバーナードは、妻と共にフランスで暮らすことはできなかった。

ジェレミーが妻の両親の間を行き来し、互いの消息を伝える役を受け持つには訳があった。子どもの頃に両親に死なれた彼は、オックスフォード時代、休暇の間も寄宿舎にいるしかなかった。そんな時、同級生の留守にその家を訪ねては、友達の両親の話し相手をして時間をつぶした。自分の両親にはない社会的な地位、アッパー・ミドルの有する文学や芸術、学問に対する文化資本といったものに、仮令一時的であるにせよ浸れるのが心地よかったのだ。義理のとはいえ、ジューンとバーナードは、ジェレミーにとって初めてできた両親だった。

養護施設で話を聞いた後、ジューンは亡くなる。何年かして、バーナードから電話がかかる。ベルリンの壁が壊れた日だ。チケットが取れたから一緒に見に行かないかというのだ。壁の崩壊に熱狂する民衆に混じって歩いていた二人は赤旗を振る若者がネオナチ風の集団に襲われそうになる場面に出くわす。間に入ったバーナードを独りが蹴る。囲まれた二人を助けたのは若い女性の二人組だった。直接的な「悪」に対し、話し合いの無力さを表すエピソードである。

四部構成で、第一部「ウィルトシャー」がジューン、第二部「ベルリン」がバーナードに充てられている。第三部「一九八九年」は妻との出会い、そして両親の思い出の地であるサン・モーリス・ド・ナヴァスルで自らが遭遇した事件について。最後の第四部「一九四六年」が、ジューンが黒い犬に出遭い、二人の道が完全に分かれてしまう結果に至る経緯を物語仕立てで綴る解決篇になっている。

ベルリンの壁強制収容所ゲシュタポなどが重要な役を担っている。特に、第四部「一九四六年サン・モーリス・ド・ナヴァスル」に登場する黒い犬は、戦争終了目前、ゲシュタポが村に現れたとき連れていた犬が、敗戦時に置き去りにされたのではないか、と考えられている。この犬とジューンとの格闘がこの小説のクライマックスになっている。黒い犬に「悪」を、それと闘う自分を守って、自分の背後にオーラのように出現した物の自覚が、ジューンに覚醒をもたらす。

一方、その場に居合わせなかったバーナードには、それはジューンがそう思いたがっただけで、ゲシュタポの話も彼にとっては噂に過ぎない。バーナードにとって世界をよくするのは、科学であり、議論であり、政治である。ジューンにとっては、自分の中に正しい心を持ち続けることや美しいものを愛でる時間を持つことが、もしかしたら世界をより良いものに変えていく方法なのだ。

二元論的な対立は解決できるようなものではない。ジューンの暮らしていた農家に一人こもって執筆活動を続けるジェレミーには、ジューンとバーナードの幽霊が交互に現れては持説を披露する。死んだ後も互いに譲らない二人のやりとりは物語の終わりに愉快な気分を投げる。ジェレミーは、黒い犬のことを考える。黒い犬と直接対峙したジューンは、悪の存在とそれ対立するものの存在をはっきり知ってしまった。現実に存在する悪と闘うにはどうすればいいのか?

それは、一人一人が自分の中に「善いもの」「正しいもの」を見出し、引き出し、自分の力で闘うしかない。しかし、そのためにはジューンのようにすべてをなげうってかかる必要がある。簡単なものではないのだ。小説はこう結ばれている。「いつかまた犬たちは戻ってきて、私たちに付きまとうだろう。ヨーロッパのどこかの場所で、いつとも知れぬ時代に」。そうだろうか。黒い犬は世界中のどこにでも現れるにちがいない。私には、その色がだんだん黒さを増し、我が身に迫っているように思える。

『クライム・マシン』ジャック・リッチー

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あと一冊になってしまったので、すぐには読まずに置いておこうと思っていた未読のジャック・リッチー本。病院で待たされる間何を読もうかと考えて、手に取ってしまったのがまずかった。どれだけ周りが騒がしくても、点けっぱなしのテレビから音が流れて来ても、一度読み始めたら話の中にぐいぐい引き込まれてしまうのがジャック・リッチー。待ち時間で三分の一読んでしまった。その後、仕事休みに一篇。就寝前に一篇、とついつい読みふけり、とうとう17編全部読み終えてしまった。

表題作は、殺し屋の家に男が強請りに現れる。事件を新聞で読んで、その日その時間にタイム・マシンで移動して一部始終を目撃したのだという。初めは信じない殺し屋も何度も目撃されるうちに話を信じるようになる。星新一フレドリック・ブラウンのショート・ショートを思わせる筆致にひょっとしてタイム・マシン物のSF?と思わせておいて、最後に見事に裏切ってみせる。何と本格派定番の密室トリックを使ったバリバリのミステリ。

掲載される雑誌の読者層によって微妙に味わいの異なる作品を仕上げることのできる職人であったリッチー。17編の中には、ひと捻りも二捻りも工夫を凝らした作品が混じっている。暴走する推理力に物を言わせてありもしない謎を次々と生み出す迷探偵ターンバックルシリーズの一篇「縛り首の木」もその一つ。本来は本格探偵小説を知り抜いたリッチーが、ご都合主義的な謎やありえない殺害方法を揶揄するようなメタ・ミステリが持ち味だ。

味気ない高速を回避して下道を走って帰ることにしたターンバックルと相棒のラルフ。車の故障で貧しい村に迷い込む。一夜の宿と決めたホテルの窓からは首吊り縄を垂らした縛り首の木が見える。魔女として殺された女の呪いで、毎年村にいる者の中から一人が吊るされることになっている、今夜がその晩と聞かされた二人。早々と寝てしまったラルフの隣で、夜通し騒ぎを聞いていたターンバックルの推理が開陳される。いつもならそれで一件落着となるのだが、今回は一味ちがう。ゴシック・ロマンス風のざわつく恐怖を纏った異色の一篇。

350篇も書いてきたら、ネタにも詰まることだろう。ところが、リッチーはちがう。逆に自家薬籠中のネタを使いまわすことで、ファンの意表を突いてみせる。エドガー賞を受賞した「エミリーがいない」がその代表作。リッチーお得意のネタといえば、財産目当てで結婚した妻を殺す夫、という設定がある。しかも持論として、死体は自分の地所に埋める。家の庭なら掘り返しても怪しまれないというのが理由だが、果たして本当にそうなのか。

二軒並んで建つ屋敷に暮らす姉妹の妹の方と結婚した男に、賢い姉が疑惑を抱く。妹が姿を消したからだ。男の前妻は泳げないのにヨットに乗って海に出て溺れ死に、男はその遺産を手にした。今度はエミリーの番か。姉は声色を使った電話や幽霊騒ぎで義弟を追い詰める。とうとうある晩スコップを手に庭を掘り出したところを捕まえてみれば。使い古された手を臆面もなく引っ張り出してきて、見事に打っちゃりを食わすあたり、さすがである。

リッチーの上手さは、捻りのきいたプロットばかりじゃない。オチの鋭い切れ味だ。飽きさせない語り口で最後まで引っ張ってきておいて、ストンと切って落とす。唖然、茫然。そんな結末があったとは、と毎度のことながら驚かされる。本作の中でも最高なのが「日当22セント」。二人の信用できない目撃者の証言で、四年間を監獄で過ごしてきた男が釈放される。関係者は男の復讐を恐れる。まずは男の裁判で負けた弁護士。そして、二人の証言者だ。意外にも男は和解の提案を受け入れ、金で解決することを了承する。しかし、それで終わりではない。最後に鮮やかなオチが待っていた。

余命あと四か月と宣告された男が見つけた意義ある行動とは、リボルバーの引鉄を引いて、世に蔓延る礼儀知らずたちを始末することだった。子どもの前で親に恥をかかせた移動遊園地のチケット係を手始めに、老婦人に手ひどい仕打ちをしたバス運転手、客を客とも思わないドラッグストア店主、と次々に殺してイニシャルを書いたメモを残して去る殺人者に、世間の目は好意的だった。なんだか前より礼儀正しい人が増えてきている、と。シニカルな視線が貫かれた「歳はいくつだ」を含む全17篇。

アメリカでは短篇小説は長編に比べて評価されにくい、という話を聞いたことがある。短篇小説を中心とする作家で評価の高いアリス・マンローはカナダ人、ウィリアム・トレヴァーアイルランド人だ。アメリカではいくら雑誌の常連でも単行本が出ないと評価されないらしい。生涯に350篇余りの短篇を書いたジャック・リッチーも例外ではない。マンローやトレヴァーとはジャンルがちがうと言われればそれまでだが、ミステリ界にしぼってみても、さほど有名とはいえない。

しかし、日本では短篇は人気がある。ジャック・リッチーの短篇集は2005年に晶文社から出た本作を皮切りに、翌年は河出書房新社から、そして去年、一昨年と早川書房からもオリジナル短篇集が出されるなど、その人気に衰えは見えない。余分なものをそぎ落とせるだけそぎ落とした文体の名人芸が「縮み」志向の日本人に受けるのかもしれない。が、それだけでもないだろう。汲めども尽きないアイデア、鋭い人間観察、クールを気取りながら、ユーモアの裏打ちを忘れない心配り、と上げだせばきりがない。殺伐とした世界だからこそ、ジャック・リッチーが読みたくなる。まだまだ名品佳品が埋まっていそう。各出版社には、ぜひとも次の短篇集を企画してほしいものだ。

『10ドルだって大金だ』ジャック・リッチー

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洒落た会話、シャープな文体、ひねりを効かせた展開、あっと驚くようなオチ、というのがジャック・リッチーの持ち味。2016年に早川書房から出た『ジャック・リッチーのびっくりパレード』を初めて読んで以来、すっかりはまってしまった。2013年には同じポケミスで『ジャック・リッチーのあの手この手』も出ている。『10ドルだって大金だ』は、2006年に河出書房新社から刊行されたもの。全部で十四篇の短篇集だが、先に挙げた二冊と比べても遜色ない出来栄えにまとまっている。

「結婚して三か月、そろそろ、妻を殺す頃合だ」という書き出しではじまるのが「妻を殺さば」。温室と納屋を探しても見つからない毒薬の在りかを、殺す当の相手に「ヘンリエッタ、毒薬はどこにある?」と尋ねるところからして、リッチー節炸裂だ。このオフビート感がたまらない。「仕事を義務だとか、喜びだとか、やりがいだとかと感じたことはないし、日ごろから、仕事を楽しんでいる人々は基本的にマゾヒストなのだと思ってい」るウィリアムは、生まれてから四十五年間働いたことがない。

「これまで他人がその慣習に従うのに異を唱えたことはない。平凡な精神というのは、何かに打ち込まずにはいられないものだ。労働にせよ、漫画本にせよ、結婚にせよ。それでも、わたしは常に独立した立場を大事にしてきた」。たとえ構成人数が二人でもチームに入るのは気が重い。金のためにした結婚なら三か月くらいが切り上げ時、というのが、殺しの理由というのだから、ふるっている。いいねえ。この人を食った言い種。

財産が目的だから、家計の支出にも目を光らせる。すると、不明朗な会計が見つかる。使用人が鷹揚な女主人を食い物にしていたのだ。首をすげ替えることで、食事は美味しく、時間通りに出るようになる。この悪党のすることなすことがいちいち、妻のためになっていくところが最大の皮肉。財産目当てで妻を殺そうという男なのに憎めない。逆に無邪気なはずの子どもは、ずる賢くて可愛げがない。庭に放り込まれた青酸カリの丸薬を家のどこに隠したのかを尋問する刑事が子どもの狡知に手を焼く「毒薬で遊ぼう」が、まさにその見本。

オチの秀逸さで目を引くのが表題作。会計検査で見つかった余分な十ドルを金庫に入れたのは誰なのか?二人の従業員はそれぞれ自分が犯人だと名乗り出るが、信用が落ちるのを防ぎたい銀行家はもみ消しを図る。翌朝、再度検査をする直前、余分の十ドル札を抜けばいい。従業員と申し合わせ、金庫の開く時間にやってくるはずの検査員の足止めをたくらむが、果たして。クリスティー張りの叙述トリックの大胆さにあきれる。

死体を隠すには自宅の庭がいいというのはこの作家の持論。「とっておきの場所」は、その死体の隠し場所を主題にした一篇。ウォレンは自分が疑われていることより、丹精した庭を警官たちに掘り返されることの方を気にしている。そんな時、隣人がウォレンは湖畔に夏用の別荘を所有していることをばらしてしまう。さて、死体はどこに?盲点を突いた隠し場所と殺人方法にニヤリとさせられる。

リッチーの短編に常連の二人の探偵も登場する。一人目はこの作品が初登場なのか、ボクサーとして登場する。外套も帽子もスーツも靴も黒一色で身を固めた男。服は上等だが、寝る時もそれを着ているくらいくたびれていた。力は強くパンチ力も抜群ながら、光恐怖症(フォトフォビア)があって試合は夜しかできない。キッド・カーデュラ(Cardula)というリングネームでさっそうと登場したこの男の正体はもうお分かりのことだろう。

もう一人は、ヘンリー・ターンバックル。作品により、警察に勤めていたり、私立探偵だったりするが、相棒のラルフとのコンビは今回も健在だ。知識は豊富で、抜群の推理力を誇り、鮮やかに謎を解いてゆくのだが、どこか過剰で必要以上に謎を解きたがり、その結果すべりまくるという迷探偵ぶりが笑わせてくれる。今回は五篇を所収。

「誰も教えてくれない」は、私立探偵開業後の初仕事。失踪人探しという私立探偵にはお約束の仕事の依頼。失踪した女中頭を探さずに報告書だけ送れといわれて、ピンときたターンバックルは匿名の依頼主の家をまんまと探り当て、調査を開始。すると、相前後して依頼主の息子と娘が父と同じ内容の調査を依頼に来る。失踪人は殺されていると考えた探偵が犯人だと指名したのは、何と執事!いつものやり口である。

探偵小説では、使用人が犯人というのはご法度。横紙破りのリッチーは、面白がってその手を使う。しかも、それは簡単に覆されて、真犯人が別にいることが分かる。しかも、何ということでしょう。通常なら序盤から登場していなければならないはずの犯人の存在が、最後になって探偵と読者に知らされる。こんないい加減なミステリがあるものか、と怒ってはいけない。重々承知した上での悪ふざけというか、メタミステリになっているのだ。

六人の連続殺人を予告する手紙が犯人から送られてくる。五人が殺され、警察は共通点を探すが見つからない。被害者の名前はセルヴァンティーズ、ジャクスン、リヴィングストン、ニューマン、ルーベンス。どこかで聞いたような名前ばかりだ。もう一つの手がかりは手紙に署名代わりに記されている<10/19/1>。手口からプロファイリングした犯人像と二つの手がかりからターンバックルは犯人に迫るが、大事なところで読みを誤る。「殺人の環」はクリスティーの『ABC殺人事件』を嚆矢とする「見立て殺人」をパロッている。さて、共通点は何か?アルファベット順というのがヒント。

クールな中にそこはかとなくユーモアが漂い、深く考える間もなく、あれよあれよという間に犯人が分かってしまう。最近流行りの猟奇殺人は登場しないので後味がいいし、凝りに凝ったミステリとちがって、淡々と語られるストーリーは、ひねりが効いているものの満腹感はない。一度手にすると、次々とページを繰る手がやめられない、止まらない。しかも、どの作品もはずれがない。まさに職人技。器でいうなら普段使い。シンプルでいて飽きることがない。ふとした折に手にとれるように、いつも手元に置いておきたいのが、ジャック・リッチーだ。

『サーベル警視庁』今野敏

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明治三十八年というから、時代は日露戦争の真っ最中、警視庁第一部第一課巡査の岡崎を狂言回しに連続殺人事件を追う警察小説である。今野敏といえば『隠蔽捜査』などの警察小説が専門だが、時代を明治時代に取るのはめずらしい。新シリーズを目したものか、それとも一種の偽装か、一段と気合が入っているように思った。

山田風太郎に、明治初期の警視庁を扱った『警視庁草紙』に始まる「明治もの」と呼ばれるシリーズがある。本編の中に、サイド・ストーリーとして当時活躍中の文士等の有名人が何人も登場するのが特徴だ。明らかになっている史実と史実の間にある間隙を小説家の想像力によって埋め、いかようにも話が作れる。そこがおもしろい。警察ではなく本屋を舞台に取った京極夏彦の『書楼弔堂』シリーズなども同じ着想を共有している。

一人の有能な刑事が事件を解決するのではなく、チームとして事に当たる。警察小説によくあるスタイルだ。警視庁第一部第一課を指揮するのは、伝法な六方詞を使う鳥居部長。妖怪とあだ名された鳥居耀蔵の縁者と噂される曲者だ。六方詞(ろっぽうことば)というのは、旗本の六方組からきている。歌舞伎の『幡随院長兵衛』に出てくる白柄組もその一つ。川路利良から始まる警視庁では薩摩が幅を利かしている。その中で旧幕臣であることを見せつけるような振舞いをしてはばからないのは、薩長の専横に対して思うところがあるのだろう。

鳥居の下に、課長の服部、警視庁随一の理論派といわれる警部の葦名と続く。その配下に鳥居が舎弟と呼ぶ上位巡査、米沢出身の岡崎、会津出身で小兵ながら溝口一刀流免許皆伝の岩井、柔術の猛者久坂、江戸っ子で角袖姿の刑事巡査荒木の四人がいる。このチームに加わって捜査協力をするのが、貴族院議員を祖父に持つ西小路という私立探偵。岡崎の知り合いで東京帝大文科大学に勤める黒猫先生の教え子である。不忍池にあがった水死体が帝大文科大学の講師だったことから捜査に加わることに。

死体は胸を鋭利な刃物で一突きされていた。発見者は富山の薬売りであったが、話を聞こうと岡崎らが駆け付けた時にはどこを探しても見つからなかった。仕方なく腹ごしらえに入った食堂で話しかけてきた男が、被害者はドイツびいきで、それを憎む学生が怪しいと名前を挙げる。そうこうするうち、同じ犯人による殺人が続いて起きる。今度の被害者は陸軍大佐で、家の前でやはり一突き。目撃者があり、杖を持った士族風の老人を見たという。仕込み杖か、と色めき立つ巡査たち。

その老人、女子師範学校で庶務をしていることがわかる。そこに通う城戸子爵の娘喜子が殺された高島という講師に付け文をされており、その仲介をしていたのが庶務のおじさんと呼ばれる藤田だった。尋問のため警視庁に連れてこられた藤田を見て鳥居が驚く。岡崎たち二十代の巡査では知らないのも仕方がないが、この藤田五郎、改名前の名は斎藤一新撰組三番隊長で、瓦解後は警視庁の大先輩である。

出てきました。有名人。明治の警視庁が舞台ならこの人が出てこないはずがない。しかも新撰組会津で戦った後に斗南藩士という経歴だ。敗者側の視点から明治を描く本作には外せない。背筋をピンと伸ばし、歩く時も上体がぶれない、無類の剣の使い手である。疑いの晴れた後、この藤田五郎も捜査に加わり大活躍をする。それだけではない。事件の背景にある幾つもの対立関係の頂点に立つある大立者との対決が待っている。それは後に置いておいて、まずその他の対立とは何か。

高島が新しい日本はかくあるべき、公用語さえドイツ語を用いるべしという開明派の筆頭であるとすれば西小路が私淑する黒猫先生はその反対、いくら頑張っても日本人がイギリス人やフランス人にはなれない、という考え。日本の針路についての対立が一つ。もう一つは親ドイツ派とフランス派の対立。例えば、ビスマルクに傾倒する山縣有朋のような長州人は親ドイツ派だが、警察組織はフランスをまねて作られている。この対立が、佩刀するサーベルを用いた剣術にまで及ぶ。また、同じ長州でも派閥対立があり、苦汁をなめる者もいた。

官有地払い下げ問題に端を発した疑獄事件、君臨する長州閥の領袖に対する周囲のとどまることを知らない忖度を原因とする事件の続発、とまるで現代日本の姿を予言するような日露戦争当時の日本。国を憂うる者が心ならずも敗者となり、勝者が国を私する姿を見て憤る。しかし、権力は向こう側にある。警視庁はもとより内務省の管轄下だ。そこで、活躍するのが、私立探偵の西小路や子爵令嬢の喜子、ただの庶務のおじさんとなった藤田五郎たち。もちろん、最後には鳥居たちも馘首を覚悟で一太刀浴びせることに。

黒猫先生は何度も俺に言ったよ。これから日本は、うんと苦しむことになるだろうって。今まで、日本という国と日本人という国民は同じものだった。この先は国民と国が別のものになっていくだろう。黒猫先生はそうおっしゃる。それはつまり、安心して暮らしていた家から放り出されるようなものだ

鳥居が黒猫先生から聞いた言葉だ。日露戦争当時の日本を背景にした言葉だが、とてもそうは聞こえない。日本国憲法のもとで、安心して暮らしてきたこの何十年。それが今、とんでもない嵐に巻き込まれそうになっている。やたらに長州人を持ち出し、明治を憧憬の対象にするあの人に、藤田五郎の科白を聞かせてやりたい。「この国が自分のものだとお思いでしたら大間違いです」「貴殿のものでもなければ、薩長のものでもありません。この国で生まれ、暮らし、死んでいくすべての者たちのものです」と。

でも、本など読まないだろうなあ。云々が読めなかったものなあ。もし、読んだとしても黒猫先生という名で呼ばれている人の本名も気づかないだろうなあ。ああ、もったいない。

『その雪と血を』ジョー・ネスボ

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あと数日後にクリスマスが迫るオスロ。王のローブを思わせる真っ白な雪に点々と残る血痕。男は、今一人の男を殺したところだ。死んだのは《漁師》と呼ばれる男の部下だ。電話で仕事が済んだことを告げると、ボスに次の仕事を依頼された。今のところ信用されているが、いつ自分が始末される側に回るかと不安は消せない。今回の仕事も受けるかどうか躊躇した。始末する相手はボスの妻だった。

男の名はオーラヴ。物語好きの母親がノルウェー王の名を借りてつけた。仕事は始末屋、というとなんだか便利屋みたいだが、実のところは殺し屋だ。ヘロインを扱うホフマンに雇われている。殺し屋と聞くとその前に「非情な」という修飾語をつけたくなるが、オーラヴの場合はちょっとちがう。売春婦に足を洗わせようと借金を肩代わりしてやったり、殺した相手の家族に稼ぎをすべて与えたり、とやわなところがある。

そんな男がなぜ殺し屋?「おれにはできないことが四つある」。逃走車の運転、強盗、ドラッグ絡みの仕事、売春のポン引きだ。その理由も振るっている。「車をゆっくり運転するのがへたで、あまりに意志が弱く、あまりに惚れっぽく、かっとすると我を忘れ、計算が苦手」だから、始末屋くらいしかできなかった、というのだ。おまけに難読症で、綴りにまちがいが多く、本は好きでよく読むが物語は自分で作ってしまう。

ボスの家の向かいのホテルに部屋を取り、初めて妻のコリナを見た。真っ白な肌をした絶世の美女だ。まさにファム・ファタル(運命の女)そのもの。一目で恋に落ちた。監視を続けるうち、毎日決まった時間にやってくる男がコリナの頬を打つのを見て、男は愛人ではなくコリナを強請っているのだと考えた。相手の男を殺したオーラヴは、ボスに報告する。ボスは驚く。俺の一人息子を殺したのか、と。

息子を奪われたボスが、オーラヴとコリナを放っておくはずがない。コリナを自分の部屋にかくまううちに二人は互いに愛し合うようになる。こうなったら、後は二人で逃げ延びる算段。ホフマンの商売敵である《漁師》に自分を売り込んだ。凄腕の殺し屋を雇えるし、競争相手が消え、商売を独占できる絶好の機会だ、と。自分の部下を三人も殺した相手に《漁師》が言って聞かせる科白がなかなか含蓄がある。

信用できないことほど孤独なことがあるだろうか――どういう意味かわかるか、あんちゃん?」「今のはT・S・エリオットだよ」(略)「疑り深い男の孤独だ。ほんとだぜ、ボスというのはみんな、遅かれ早かれその孤独にさいなまれるようになる。夫というのもたいてい人生で一度はそれを感じる。だけど父親というのは、ほとんど感じずにすむ。ところが、ホフマンのやつは、その三つをぜんぶ味わわされたわけだ。自分の始末屋にも、女房にも、息子にも。気の毒になるくらいだぜ

クリスマス・ストーリーというものがある。ディケンズの『クリスマス・キャロル』もその一つ。世知辛い世の中で暮らすうちに、すっかりすれっからしになってしまった男。その乾ききった心の奥底に、今となってはそんなものがそこにあったことを本人でさえ忘れてしまっていた、温かく傷つきやすい少年の心がしまわれていた。クリスマス・イブの夜、静かに降り続ける雪を見ている男の胸にそれが激しく甦ってくる。

回想の中で少年時代のオーラヴは、熱を出して寝ている間、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を読む。読んでは眠ることを繰り返すうち、オーラヴは『レ・ミゼラブル』を自分流の小説に読み直してしまう。その中ではジャン・バルジャンは人殺しになっている。オーラヴが書き直した『レ・ミゼラブル』の梗概。

彼のすることはすべてフォンテーヌのためであり、愛とは狂気と献身から出たものだ。自分の死後の魂を救うためでも、同胞への愛のためでもない。彼は美に屈するのだ。そう、それが彼のしたことだ。歯も髪もないこの病気で死にかけた娼婦の美に屈服したのだ。誰ひとり美など想像できないところに美を見たのだ。だからその美は彼だけのものであり、彼はその美の僕(しもべ)なのだ。

オーラヴはコリナに出会う前、マリアという女を知る。マリアは聾唖者で片足が悪い。それだけでも不幸なのに、男の借金のかたに売春婦にされてしまう。借金の肩代わりをして足を洗わせたものの、心配でその後をつける。電車の中で相手の耳の聞こえないのをいいことに、そっと愛の言葉をつぶやいたり、綴りまちがいのある手紙を書いたりする。何というセンチメンタル。だが、これこそクリスマス・ストーリーだ。クリスマスには愛の物語が必要なのだ。引用部分のフォンテーヌをマリアに置き換えてみれば、彼の真意がわかる。

もう何十年もそんな気持ちに襲われたことはないが、思春期の頃、クリスマスに雪の降る都市に住んでいないことが悔しかった。暖かな地方で雪などはめったに降らず、ホワイト・クリスマスに憧れていたのだ。それと映画によくあるクリスマスの奇跡に。ひそかに憧れていながら、声すらかけられない女の子に、街角で偶然に出会って恋が始まる、といった信じられないほど都合のいいセンチメンタルな物語。ふだんならいくら何でも、と思う話もクリスマスなら許せる。

通り一遍のクリスマス・ストーリーなら、ハート・ウォーミングな結末と初手から決まっている。だけど、これは50年、60年代に流行した犯罪小説「パルプノワール」を模したものだ(訳者あとがきにある)。「ノワール(暗黒小説)」にはやはりそれらしい結末が必要だ。クリスマス・ストーリーを象徴するのがマリアなら、ノワールを象徴するのがコリナだ。蕩けるような声で男を誘い、その色香で危険な犯罪に男を誘うファム・ファタル。そのクリスマス・ストーリーと「ノワール」らしさを融合させたラストが絶妙で、うなった。

ポケミスでも珍しい一センチ足らずの厚さに一段組み。「パルプノワール」といういかにも安っぽさを感じさせるチンケなネーミングに相応しい殺し屋の一世一代の恋物語の顛末は表題通り雪と血に彩られて終わる。思ったのだが、日本語の表記としては若干無理のあるタイトル表記は、オーラヴの難読症の暗喩か。ヒュームやジョージ・エリオットへの言及から見て、かなりのインテリジェンスの持ち主であるオーラヴが始末屋にしかなれなかった件(くだり)に胸をうたれた。精妙な伏線といい、異ジャンル混淆の見事さといい、北欧ミステリの佳品というべきか。

『古書の来歴』ジェラルディン・ブルックス

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謎につつまれた一冊の本がある。実在の本で、発見された地の名を取ってサラエボ・ハガダーと呼ばれている。ハガダーというのは、ユダヤ教信者が過越しの祭りで読む、説話や詩篇を綴った本のことだ。謎というのは、教会で使用するものではなく、家族の間で用いられる本であるのに、そのハガダーには金銀の他に貴重な塗料である瑠璃(ラピス・ラズリ)を使って描かれた挿絵が全頁に挿入されていることだ。偶像崇拝を禁じているユダヤ教書物に細密画が付された例はそれまでなかった。

いずれは富裕な商人層の持ち物でもあったのだろうが、美しく彩色された絵やヘブライ語の書き文字は誰の手になり、留め具のついた装丁を施したのは誰なのか、誰から誰の手に渡り、どういう経路でサラエボに流れ着いたのか、表題通り『古書の来歴』を探る、本好き、古書好きにはたまらない古書ミステリであり、古書が成立するに至る過程で経巡ることになる、ウィーン、ヴェネチアセビリアといった都市を舞台に、古書をめぐって人々が巻き起こす歴史ロマンの貌も併せ持つ。

古書ミステリの探偵役はオーストラリアに住む古書の保存修復家のハンナ。シドニーのハンナに仕事を依頼する電話がかかる。相手は同業者のアミタイで、仕事は国立博物館所有の有名なサラエボ・ハガダーを調査し、データを集めた上で修復し、論文を書くこと。修復後は博物館のメインの展示物となり修復家の栄誉ともなるこの仕事が、何故若いハンナに任されることになったのかとえば、ボスニア・ヘルツェゴビナという多民族国家ならではの宗教、政治による利害の対立関係にあるイスラエル、ドイツ、アメリカなどの国を除外した結果という皮肉なもの。

章が代わるたびに、現代のハンナの行動を追うストーリーとハガダーの中から見つけ出した痕跡や古書の中に残された遺物にまつわる、時代も場所も異なる人々の物語が交互に語られる構成になっている。第一章「ハンナ一九九六年春サラエボ」の次に来るのは「蝶の羽一九四〇年サラエボ」。「蝶の羽」というのは、ハガダーの中に挟まれていたウスバシロチョウの羽を指す。その羽がハガダーに挟まれることになった経緯が、まるで一篇の短篇小説。

一九四〇年のサラエボ。ドイツの反ユダヤ主義が、サラエボに住むユダヤ人家族に襲い掛かる。母と妹を国に残し、パルチザンの仲間に加わったユダヤ人少女ローラが、チトー指揮下の軍に見捨てられ、危険を冒して故国に舞い戻ったところをイスラム教を信じる博物館の学芸員に助けられるまでを描く。一冊の古書が歴史の生き証人となって、奇しくも古書と関わることになった人々の数奇な人生を物語る。

一方、現代を生きるハンナにはハンナの物語がある。修復家の道を選んだことで優秀な脳神経外科医である母とは修復し難い関係となっていた。しかし、内戦のさなかにハガダーを守った当の学芸員オズレンを愛し始めるようになったハンナは、彼の娘の病状について相談しようと母を訪ねる。仕事第一で、子育てをないがしろにしてきた母は、それを詫びることもなく、高飛車な態度を取り続ける。この母と娘の葛藤がハンナのストーリーを貫通する主題である。副主題はもちろんオズレンとの関係の行方。

しかし、読者の興味は古書の来歴にある。蝶の羽の後に来るのが「翼と薔薇一八九四年ウィーン」の章。「翼と薔薇」というのはハガダーに付されていた精巧な留め具のこと。ウィーン分離派マーラーが活躍していた時代、ウィーンを席巻していたのはデカダンスの気分だけではなかった。梅毒に侵された装丁家は、高額な治療費の代わりに依頼された古書についていた銀の留め具で支払うことにした。こうして、ハガダー本体と留め具は別々の道を行くことになる。

「ワインの染み一六〇九年ヴェネチア」で語られるのは異端審問。説教上手で知られるユダヤ教のラビと、異端審問に携わるカトリックの司祭とは、気脈を通じた友人でもあった。その二人の間に投じられたのがハガダー。ユダヤ人を援助してくれる婦人の家に伝わる大事な品を預かったラビは、異端審問にかけられる恐れがあるかどうかを判断してもらおうと司祭を訪ねる。司祭は文章に問題はないが絵の方にあると指摘する。なんと、地球が丸く描かれているではないか。容赦のない指弾の裏には異なる宗教を信仰するライヴァル同士の確執があった。

この他にも古書に残っていた塩の結晶や、一本の白い毛の由来を物語る「海水一四九二年スペイン、タラゴサ」、「白い毛一四八〇年セビリア」など、異国情緒たっぷりに描かれる物語は、ユダヤ教キリスト教イスラム教、というもともとは兄弟関係にある三つの宗教が混在していた時代、地域ならではの葛藤、軋轢に、異端審問官による拷問や妖艶な美妃をめぐる愛憎劇の要素を加味し、絵の中に描かれた黒い肌をした女性の正体に迫るなど、物語好きの読者なら随喜の涙を流すにちがいない場面が次々と展開される。

古書ミステリに『ミッション、インポッシブル2』のスパイ・アクション的なスパイスを添え、どんでん返しも用意するという大サービスの本書。翻訳ミステリー大賞受賞作というのもうなづける。古書の保存修復に関する実際の作業工程や、痕跡の鑑定の技術等についても詳しく、古書好きにはたまらない一冊に仕上がっている。ランダムに明かされるハガダー成立の過程についての物語の展開の仕方もよく練られていて興味が尽きない。古書の来歴に触れる章に強烈なインパクトのある年号を選ぶなど、あまりにも精巧な拵え物といった感がつき纏う点が唯一の憾み、というところか。

『ねじれた文字、ねじれた路』トム・フランクリン

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ラザフォード家の娘の行方がわからなくなってから八日が過ぎて、ラリー・オットが家に帰ると、モンスターがなかで待ち構えていた。

いかにもミステリらしい謎めいた書き出しに興味は募るが、正直なところ犯人はすぐわかってしまう。なにしろ<おもな登場人物>に名前が出ているのが11人。ミステリのお約束として、犯人は必ずこの中にいるはず。そのうち二人の被害者は除外して、残りは九人。その中の三人が捜査関係者で一人は視点人物のサイラス。警察官が犯人というのもあるが、ここは南部のスモールタウン。みな顔見知りだ。仕事以外につきあいのない都会とは訳がちがう。

これで残りは六人。ラリーの父親とサイラスの母親はすでに故人なので、当然除外。ラリーの母親は施設で寝たきりだから物理的に不可能。これで残るはラリーとその友人、サイラスの恋人の三人だ。そのラリーだが、冒頭で何者かに襲われて小説の終わり近くまで昏睡状態のまま。つまり、犯人あてミステリとして読むのは構わないが、はじめから、その種の読み物として書かれてはいない、と言いたいのだ。

ラリーは、自動車整備工場をやっているが、毎日工場まで足を運んでも客は誰も来ない。十代のころ、デートに誘った少女がその晩から行方不明となり、その容疑者と考えられたことがあるからだ。自白も取れず証拠も挙がらなかったので釈放されたが、狭い町のことだ。それ以来、おっかない(スケアリー)ラリーと陰で呼ばれるようになり、家にも工場にも人が寄り付かなくなった。

二十五年たった今、また別の少女が行方不明になる事件が起きた。ラリーの仕業と考えた者がいたとしても不思議ではない。ずっと家に石を投げられたり、郵便箱を叩き壊されたりされてきた。父が死に、母が施設に入ってからは、独りで生きてきた。朝起きると鶏に餌をやり、作業着に着替えて工場へいき、ブック・クラブから送られてくる本を相手に時間をつぶし、また家に帰ってくる。マクドナルドかフライドチキンを食べたら、「フロントポーチにつくねんと座っている。どの日もちがう、どの日もおなじ」。

サイラス・ジョーンズは人口五百人前後のミシシッピ州シャボットのたった一人の法執行官。かつては名遊撃手として鳴らしたが、肩を壊して引退。当時の背番号から、今もみなに32と呼ばれている。この日、パトロールの最中、いつも工場に止まっているラリーの赤いフォード・ピックアップがないことに気づき、救命救急士のアンジーに様子を見に行ってもらう。自分は別件で身動きが取れなかったからだが、顔を出したくなかったからだ。

十代のころ、シカゴから転校してきたサイラスと母は、ラリーの父カールの土地に建つ狩猟小屋に住んでいた。ラリーとサイラスは、よく一緒にインディアンごっこをやって遊んだが、二人きりで遊ぶ場所はカール所有の森や草地に限られていた。ラリーは白人で、サイラスは黒人。学校では黒人と白人は別のグループに属していたし、何より二人が一緒に遊ぶことをカールは喜ばなかった。

二人は皮膚の色だけでなく対照的だった。夜逃げ同然に家を出てきたサイラスは住む家だけでなく着る物もラリーのお古をもらうほど貧しかったが、運動神経は抜群で野球の力で進学しようとしていた。対するラリーは、幼い頃から病弱で、吃音や喘息のせいで遊び友だちもなく、一人で本を読んだり、虫や蛇を集めて遊んだりする子だったが、整備工場を営む父のところにはいつも人が集まってきて賑やかだった。

ある日、サイラスに打ち据えられたラリーは、つい「二ガー」と言ってしまう。その日を最後に、サイラスはラリーと口をきかなくなり、やがて別の学校へ進学し、シャボットを去る。肩を壊して野球人生に見切りをつけたサイラスは、軍隊を経て警察学校に進み、治安官となって町に戻ってきたが、ラリーの家にも工場にも顔を出さなかった。サイラスはラリーに会いたくなかったのだ。

現在の事件と二十五年前の過去の出来事が、交互に当事者二人の視点で語られる。『ねじれた文字、ねじれた路』という表題は、直接的にはサイラスの頭文字<S>を指すが、アメリカ南部の子どもがミシシッピ(Mississippi)の綴りを覚えるときに教わる言葉遊びの文句からきている。「エム、アイ、ねじれ文字、ねじれ文字、アイ/ねじれ文字、ねじれ文字、アイひとつ/こぶの文字、こぶの文字、アイひとつ」。二人の男の関係をねじれた形を持つ字で表したのだろう。クリスティーやヴァン・ダイン以来、ミステリとマザーグースのようなナーサリー・ライムは相性がいい。

南部のミシシッピ州を舞台に、小さな町の濃密な関係の中で、誘拐殺人犯の疑いをかけられ、たった一人の友だちにも見捨てられたラリーの二十五年間の来る日も来る日も変わらない生活が冒頭に描写されている。小さな町の中で無視され続けているのに、誰を責めるでもなく、自暴自棄に陥るでもなく、実直に誠実に日々を過ごしている。責められるべきは自分だと思い込んでいるのだ。

一方、サイラスは仕事上での付き合いも、毎日食事に立ちよるダイナーでの付き合いも卒なくこなし、誰からも愛され、信用されている。アンジーという恋人とも相性はぴったりのようだし、愛車のポンコツのジープだけはいただけないが、町にとって欠くことのできない人物と見なされている。

この二人の関係が、娘の死体が狩猟小屋の床下から発見されることで大きく揺らぐ。二十五年前、少年だった二人が目にした事実の中にすべては明らかにされていた。ピューリタニズムに抑圧された性的情動のはけ口。支配被支配の関係からくる性的関係の強要。人種差別、とどれも今でも残る社会悪だが、当時のそれは男性優位の支配的な社会にあって、今とは比べようもなく強かった。二人がねじれた路を歩くようになったのは、それらが複雑に絡んでいる。

小さな町だけに登場人物の数は知れている。それだけに、端役に至るまで、性格付けがしっかりされていて読みごたえがある。一つ一つの描写がリアルで手を抜くことがない。だから、出来事が生き生きと立ち上がってきて、読む者の五感を刺激する。それは南部ならではの土地や動植物の描写でも同じだ。「背後の山は熱帯のようで、雨とミミズのにおいがして、木から水が滴り、雷が落ちた直後のように空気が電気を帯びていた。樹幹の隙間の空をリスたちが跳び、頭上の木の虚でキツツキがスネアロールを打つ。サンカノゴイが叫ぶ」ディープサウスへようこそ。