青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『オリーヴ・キタリッジの生活』エリザベス・ストラウト

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作家デビューが遅く、作品数が限られている。これは第三作目の短篇集だが、すでに自分の世界というものを持っていることが分かる。そして、その世界には確固としたリアリティがある。合衆国最北東端メイン州にある海辺の小さな町クロズビーが主な舞台。小さなといっても、そこはアメリカだ。車がなければどうにもならない広さがある。小さいのはコミュニティの規模だ。誰もがほぼ顔見知りで、家族の抱える弱みや泣き所は皆の知るところである。

十三の短篇は、各話独立しているものの、最初の「薬局」から最後の「川」まで、十三篇を通して読む連作短篇集として編まれている。表題のオリーヴ・キタリッジは、「薬局」では、主人公ヘンリー・キタリッジの妻で、七年生の数学を受け持つ教師で、クリストファーという一人息子がいる。このオリーヴという個性的な女性が、時には主役、時に脇役、あるいはちらっと顔を見せたらすぐに消えてしまう端役をこなし、小説を一つの世界につなぎとめる役割を果たす。

架空のスモールタウンに暮らす住民の家を次々と覗き込みながら、ありふれた市井の人々の抱える悩みや、生きることの苦しさ、中年の危機、親との確執、妻に隠れた恋愛事情、といったどこにでもあるテーマを、中心になる人物の組み合わせを次々と切り替えて描く。話が変わるたびに視点は主人公を演じる人物に寄り添う。そうすることで、オリーヴという女性の性格や言動も、よくある小説のように、ただただ善人であったり、一方的に悪人にされたりはしない。

熱血教師で、それを怖いと感じる生徒もいれば、困っている子に目と心を向けるオリーヴを好ましいと思っている子もいる。若い頃は背が高いだけだったが近頃では肩も腰も張り出して大型化している。手など男のようだ。相手がたとえ誰であっても傍若無人、思ったことを言い、行動する。大学は優秀な成績で卒業した。考え方がリベラルで同性愛者にも理解がある。つっけんどんな物言いは口癖のようなもので悪意はないが、人によってはそれを快く思わない。だから、あまり人と顔を合わせてしゃべるのは好きではない。庭に球根を植えたり、夫と二人で家を建てたりするのが好きだ。

夫のヘンリーはといえば、人の世話を焼きたくて仕方のない善人を絵に描いたような男。妻の言いたい放題を柔らかく受け止めて、周りに波風が立たないよう、うまく収めている。「薬局」では、このヘンリーの店に勤める女店員デニースとの出会いと別れが描かれる。結婚したばかりの夫に死別され、他郷で独り暮らしを余儀なくされる若い娘に対する同情が、俗にいう「可哀そうなは好きだってことよ」そのまま、愛へと変わる。いわばプラトニックな不倫である。オリーヴと別れる気もないくせに、デニースに別の男の影を見ると腹を立ててしまう。中年男の妄想を描いた話は他にもう一篇。どちらも切ない。

十三歳の時町を出たケヴィンが医師の資格を得て久しぶりに町に帰ってくる。銃で自殺した母を目撃した過去を持つケヴィンは自分に精神病質があるのを知り、自殺する前に家を一目見ておこうと帰郷する。ところが、海辺のレストランの前に車を停め、思案に耽っているところをオリーヴに見つかってしまう。図々しく助手席に乗り込んだオリーヴは自分の父が自殺した時の話を始める。そんな時、二人がよく知るパティが花を摘みに出た岩場で足を滑らす。

親に死なれた子である教師と、死に場所を求めて帰郷したかつての教え子。そんな二人の目の前で、早産の癖のついた新妻が波にのまれて溺れかけている。荒々しいメインの海を舞台に、生と死の拮抗を描く「上げ潮」は、比較的劇的な話の少ない短篇集の中で異彩を放つ。十代遡れるスコットランド系の先祖を持つ女性オリーヴは、一見すると傍迷惑な存在だが、人生から滑り落ちようとしている人間にとっては救いの神となることが多々ある。これもその一つ。捨てる神があれば拾う神もあるのだ。

この調子で、町の住人が繰り広げる、何気ない人生の一コマ、一コマを、丁寧にすくい上げて、よく練られたプロットを駆使し、絶妙な展開を見せる。どんな平凡な人間であっても、その人生の中で、たった一日くらいは、小説よりも奇なる出来事に出会うことがあるものだ。この短篇集は、オリーヴが中年の頃から七十四歳になるまでの間を扱う。長い時間をかけて見聞きしてきた各人の話を、語り出すときには当人の視点で語るのだ。

「小説よりも奇」と書いたが、怪異な事件が起きるという意味ではない。どこまで行っても人間の話である。人と人との間に起きる。しかし普通は、あってはならないことが起きる。例えば、昔の恋人が別れて何年も経ったある夜突然現れ、実は別れた後で母親が男の前に現れて服を脱ぎだしたことがある、と告げにくる話がある。また、夫の葬式の日に、家に同居していた従妹から、夫と一度だけ寝たことがあると告げられた寡婦の話がある。晩年の人生を「賜物」と感じていた妻が、コンサートの晩、知人夫妻の話から、夫の過去を知らされる傷ましい話もある。

何篇かを除いてほぼ田舎町の老人に起きる人間関係のもつれを扱っている。そんな話どこが面白いのだと言いたくなる若い読者もおられよう。しかし、もしこの国の政治が今よりもう少しましな人たちの手で執り行われるようなことになったら、今の若者も長生きできるかもしれない。そうなったら、この短篇集の凄さもわかることだろう。よく「珠玉の」という修飾語が短篇集に使われるが、そんな生易しいものではない。人が長く生きていれば、昔は美しかったものも醜くなるし、可愛かった子も他人になってしまう。

そのなかで、生き続けていかなければならないのだ。綺麗ごとなど言ってはいられない。自分の辛さや苦しさを、何とかするためには人の不幸さえ利用する。葬式には顔を出し、悲しみに沈む人の顔を見れば、少しは自分の悲哀も薄れるかもしれない。息子の起こした事件が原因で世間に隠れて暮らす夫婦の話を聞いたら、つれない息子のことも、あそこよりはましだと思えるかもしれない。そんなオリーヴの目論見は次々外れ、人生のもっと過酷な相に出遭うことになる。

一篇、一篇がどれも重い。が、中には悲哀の底に輝石のように光るものが沈んでいることもあり、救いが一切ないというのではない。『私の名前はルーシー・バートン』を読んで、他の作品も読んでみたいと思い、リストアップした中の一冊である。思った通り、他の作家にはない独特の小説世界を持ち、小説を読む愉しさを堪能させてくれる。読んでいると、アンドリュー・ワイエスの描くメインの海辺や針葉樹の姿が何度も目に浮かんできた。あの何とはいえず怖ろしさを秘めた静謐な風景はこの作家の世界にどこか繋がるものを感じる。

『騎士団長殺し』村上春樹

 

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主人公は三十六歳の画家。今は復縁しているが、五年前に突然妻から離婚を切り出されたことがある。あなたとはもう暮らせない、と言われたのだ。家を出るという妻に、自分の方が出ていくと告げ、愛車のプジョー205に当座の荷物だけを積みこむと、そのまま北に向けて走り出した。東北、北海道をさすらうようにして宮城に着いたところで車が壊れた。電車で東京に戻り、友人の雨田政彦に電話し、住むところを紹介してもらった。小田原の山中にある、政彦の父で画家の雨田具彦の家である。

具彦は山の上にある一軒家にこもって絵を描いていたが、今は認知症が進み、施設で暮らしている。空き家のままでは物騒で、「私」は番人代わりに格安で宿を提供される。しかも、政彦の紹介で市内の絵画教室の教師の職も得、何とか暮らしの目途もついた。そんなある夜、屋根裏で物音がする。明るくなってから天井裏を調べると梁にミミズクがいた。それともう一つ見つかった物がある。丁寧に梱包された絵だ。紐に付された名札には「騎士団長殺し」と記されていた。

雨田具彦は元は洋画家だが、留学先のウィーンから帰国後、突然日本画を描き出した。理由は不明だが、余白を生かした空間に飛鳥時代の人物を配置した絵は高い評価を得た。見つかった絵は、未発表のもので画家は誰にも見せる気がなく、秘匿していたもののようだ。画題は題名からモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に想を得たものと分かる。騎士団長(コメンダントーレ)がドン・ジョヴァンニに刺された直後を描いたものらしく、騎士団長の白衣には血が滲み、ドン・ジョヴァンニの恋人であるドンナ・アンナの驚く姿も見える。ただ服装は日本の古代の装束に変えられている。画家の代表作と言っていい傑作である。

その絵を見つけてからというもの、おかしなことが起きるようになる。深夜になると外で鈴の音が聞こえるのだ。それも敷地内にある祠のあたりから。祠の裏にはススキの茂みがあり、よく見ると塚のようなものがあった。一人で調べるのも気が引けたので、知りあったばかりの免色という男に話して協力を得る。IT関連で財をなした男で、早速手を回して業者と重機を手配し、蓋になっていた岩を持ち上げた。石の下には深さ三メートルほどの穴が隠されており、中には仏具の鈴が残されていたが、人のいた気配はなかった。

持ち帰った鈴はスタジオに置いた。すると今度は家の中で鈴が鳴る。恐る恐るスタジオの扉を開ける、とそこに騎士団長がいた。身長六十センチほどで絵の中から抜け出てきたなりをして。「ない」というところを「あらない」と奇妙な日本語を使うその男は本人の言葉を借りると「イデア」だそうだ。今は「形式化」していて、格好は主人公の頭の中にある騎士団長の姿を借りたのだという。いわば「私」の「心の眼」だけに写っているわけだ。現実界では長くこの姿でいることはできず、一定時間がたつと消えてしまう。

このイデアとの遭遇以来、主人公の絵は変化を遂げる。それまでも肖像画家としての技量は人に優れていたが、今ではモデルの外見ではなく本質を描き出すまでになった。免色に依頼された肖像画も傑作で、高額で買い取られて屋敷に飾られる。その上で免色はもう一枚絵を依頼する。「私」の絵画教室に通う十二歳の少女の絵だ。まりえという少女は、免色の愛した女の忘れ形見であるだけでなく、もしかしたら自分の血を引いているかもしれない、という。死んだ自分の妹に似たまりえは、日曜日になるとやってきた。教室では無口だったが、二人きりになるとよくしゃべった。

その絵もほぼ完成しかけたころ、ことは起きた。まりえの行方が分からなくなったのだ。騎士団長は、明日電話がかかり、何かを頼まれるが、それを断ってはいけないという。それがまりえの行方を知る手がかりだからだ。電話の主は政彦で、父の具合が悪いので見舞いに行くが一緒に行くか?というものだ。前々から具彦に会いたかった「私」はもちろん承知する。翌日、ベッドに横たわったままの具彦と「私」が二人きりになると、姿を現した騎士団長がここで自分を刺せ、と命じる。それがまりえを探す切り札だった。躊躇した「私」だったが、まりえのためと思い定め、言われたとおりにすると、不思議なことが起きる。

「私」は、具彦の部屋ではない薄暗いところにいた。そこは「メタファー」の世界だった。ところで、突然出てきたこの「メタファー」、修辞学で言えば隠喩である。それにとどまらず視覚表現などにも適用され、近頃では「空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきている」らしい。村上春樹をあまり読んだことがないので、よく知らないのだが、こんな小難しい理論を小説の中に持ち込むような作家だったか?

ここからはまったく「冥界下り」。ル=グウィンの『ゲド戦記』に描かれているような灰色の世界が延々続く。それまで読んできた現実的な世界から突然放り出され、霧に包まれた茫漠たる世界や三途の川を思わせる川、富士の風穴にあるような横穴などの中を「私」は一人で歩いていかなければならない。しかも、そこには「二重のメタファー」と呼ばれる恐ろしい存在がいて、「私」が動けなくなるのを待っている。必死で頼りとなる記憶をたどろうとする「私」だが、しだいにそれもままならなくなる。すると穴は狭まり、「私」は身動きが取れなくなる。まるで母親の子宮の中にいる胎児のようだ。

冒頭にあるように、結果として「私」は生還し、離婚していた妻と元の鞘に収まる。まりえがどこにいたのかもその口から説明される。めでたし、めでたしとなるわけだが、いったいこれはどういう小説なのだろう。ミステリめいた謎も多く解決されずにそのまま放置されている。妻にそのことを言うと(実はこれは妻が貸してくれたのだ。妻は村上春樹をよく読んでいる)「続編があるんじゃないの?」とあっさり言った。えっ、そうなの。これで終わりというのではないのか?そういえば、上・下じゃなかったなあ、と思い出した。第一部、第二部になっている。ひょっとしたら第三部が書かれたりすることもあるわけか?あるかもしれない。前にもそんなことがあった。

というわけで、ここまでで分かったことをちょっとだけまとめておく。これはユング心理学でいう「死と再生」を主題とした小説だ。村上春樹河合隼雄と親しく、ユング心理学について対談もしている。「私」は実は一度死んだのだ。といっても、肉体的にはそのまま存在していた。ご丁寧なことに村上春樹らしく律儀にセックスまでしている。しかし、ユズという伴侶を失ったことは「私」が考える以上に彼を深く傷つけ、回復不可能なところまで追いつめていたのだ。彼はもう、一度死ぬしかなかった。

雨田具彦も一度死んだのだろう。愛する女性をオーストリアに残し、自分ひとり強制帰国させられた時点で。しかし、そのままでは死ねなかった。自分の身代わりのように南京に出征した弟が、ピアノを弾く繊細な手に剣を握らされ、中国人を虐殺するよう命じられ、帰国後自殺したからだ。その具彦が描いたのが「騎士団長殺し」の絵だ。考えてみると、この小説の登場人物のほとんどが、愛する人をなくして深い喪失感に耐えている。

免色はまりえを見るためだけに、大金を払って向かい合う山の上に建つ家を購入し、今でもまりえの母の衣服を鍵のかかった部屋にしまいこんでいる。まりえも幼い頃に母を失ったままだ。父は喪失に耐え兼ねて宗教に走り、娘を顧みることはない。肉体だけを残して魂が死にかけていた「私」は、何故かこれらの人に引きつけられるように小田原に来て、九か月間暮らした。これらの人々は「地下の通路」で結ばれているのだ。

思うに、「私」はまだ一人で死ぬだけの確かな自我を持っていなかったのだろう。謎の多い免色という人物や、妹を思い出させるまりえという導き手によって、象徴的な死を経験することができた。なにより、雨田具彦という先達が描いた「騎士団長殺し」という絵の存在が大きい。騎士団長のなりをした「イデア」がいなかったら、「私」はどうなっていたのだろう。一度死をくぐり抜けたことで、「私」はひとつ成長を遂げた。画家として対象の本質をつかむところまで行きながら、元の肖像画家として生きてゆくことを選んだ「私」。いつか、あの「白いスバル・フォレスターの男」の絵を完成させることはあるのだろうか?妻ではないが、続編を期待したい。

『私の名前はルーシー・バートン』エリザベス・ストラウト

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くせになりそうな作家だと思う。自室に独りでいる自分の傍らに来て、低い声でぼつぼつと語りかけられているような、よほど親密な仲なら構わないが、そうでもない場合にはちょっと距離を置いた方がいいのではないか、と思わせるような、内心に秘かに隠されてあるものを中に手を差し入れてつかみ出して目の前に見せられているような、純粋ではあるのだろうが、この人とは友だちにはなれないな、と思わせるそんな気にさせる作家である。

何故そんな気になるのか。きっとこの人は読者を選ぶ、というかこの人の書く物を好きな人は、この語り手の視点に魅せられるからだと思う。ほとんどユーモアというものを感じさせない、ひどく乾いた語りである。いつも人を値踏みしながら観察している。自分にとって「いい人」なのか、そうではないのか。相手が自分にとって利用価値があるかないか、というのではない。こんな自分を受け入れてくれるかどうか、が判断基準なのだ。

話は、ルーシーが盲腸で病院に入院しているところからはじまる。すぐ退院のはずがなかなか退院できない。今暮らしているのはニューヨーク。病院の窓からはクライスラー・ビルが見える。夫は仕事と子どもの世話で忙しく妻に付き添えないので、妻の実家に電話をかけて母を呼ぶ。そんなわけで、故郷を出てから長い間会っていなかった母がある晩ベッドの先にいた。久しぶりに会った母が娘に語るのは、何故か昔の知り合いが結婚して、ほかに男を作って逃げた末、男に捨てられた話だとか、他人の不幸な噂話ばかり。これが伏線となる。

病院にいる五日間、母の語る知人の話を聞きながら、ルーシーは、これまで出会った人物のスケッチをまじえながら、自分の過去について語りはじめる。ジェレミーという古風な宮廷人のような紳士だとか、服飾店で出会った魅力的な女流小説家だとか、自分を診てくれている感じのいい担当医のことだとか。読者は、この語り手の心の中が何故孤独なのか、他者との関係をどうとればいいのかをいつも測ろうとしている理由が何なのか、次第に理解してゆく。

ルーシーは、中西部の貧しい家の生まれ。一家は大叔父の家の隣にあるガレージに暮らしていた。テレビはおろか、本も満足にない、夕食が糖蜜をつけたパンだけという貧しい生活。それでも父が働き者で優しい母がいて兄弟仲がよければ、家族で助け合って何とかやっていけるだろう。ところが、仕事の長続きしない父は時に娘を虐待し、縫物で家計を助ける母は父の言いなりである。姉とも兄とも心が通いあう関係ではない。家の貧しさのせいで、兄妹は学校では差別され、いじめられて育つ。

寒々とした家に帰りたくない少女は、学校が終わるまで教室で宿題をしたり、本を読んだりして過ごした結果、兄妹のうちでただ一人勉強ができ、シカゴ近郊の大学に進学する。一般的な家庭生活を知らないルーシーは、音楽やテレビの話題についていけず、人との間に距離感を感じるようになる。他人との間に間合いというものが取れず、話に入ったが最後切り結ぶしかない、そんなコミュニケーションの取り方といったら分かってもらえるだろうか。

それでも、男と知り合い、結婚して二人の子の母となる。子育ての間に書きためた小説が、文芸誌に掲載され小説家となる。いつか偶然街で出会った作家のワークショップに出席し、作家の現実の姿にも触れる。執筆のために必要なアドバイスも貰う。それらが、細かな章割りを通じて、看病に来てくれた母との会話や彼女の半生の間の出来事の間に、切り張りされたように混じりあう。そんな小説である。派手なところはないが、凡庸さも持ち合わせない。

いくつかの主題がある。アメリカに渡ってきた先人たちが「インディアン」に対してしたこと。当時話題となっていたエイズという病気のこと。同性愛者のこと。知人や自分の身の回りにいる人との関係の中から、自然に語り出されるそれらの主題は声高な主張とはならないが、自然に触れないではいられないことのように持ち出される。内省的で、静かな語り口ではあるが、譲れない一線というものを持つ。

自分に正直に生きることが、家族との間に溝を作り、都会で一人で生きることを選ぶ。それでも家族は家族であり、ほかの人を選ぶことはできない。そういう環境の中で育つことが、人にどのような生き方を強いることになるのか、ルーシー・バートンという一人の女性作家の視点で語る一人称小説。話者は母にとっては娘であり、夫にとっては妻。娘に対しては母であるという当たり前のことが、この人の語りで語られると何と不自由に聞こえることか。「私」の名前は、ルーシー・バートンだが、「私」とはいったい何者なのか?他の作品も読んでみたいと思わせる小説家である。

『運命の日』上・下 デニス・ルヘイン

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(上下巻併せての評)
1910年代末のアメリカは揺れていた。1917年に起きたロシア革命を受けて、東海岸では社会主義者共産主義者アナーキストたちが盛んに活動し、テロ活動も頻繁に起きていた。同じころ、第一次世界大戦の帰還兵が持ち込んだスペイン風邪(流感)が猛威を振るい、ボストンでも多数の死者が出た。また、ボストンの米国産業アルコール者の糖蜜タンクが爆発し、流れ出した糖蜜が人々の住まいを破壊し、通りを埋め尽くした。配合の誤りによる過剰発酵が原因だったが、テロ疑惑がもたれ、世情は不安を増していた。

ボストン市警に対し、市は不況を原因に昇給を停止、警官たちは低賃金と過酷な勤務実態に不満を募らせていた。警官たちはボストン・ソーシャル・クラブ(BSC)という組合を組織し、市側と交渉を進めていたが、中心人物で信頼を一身に集めていた本部長の急死により、不遇をかこっていた名門出の男が就任する。新本部長はそれまでの約束を反故にし、組合は全国的な組合組織AFLの支援を受けてストライキに入る。しかし、市警のストライキは全市に暴動が起きる引き金となった。

主人公はアイルランド人警官の家に生まれたダニー・コグリン。黒髪の大男でボクシングの名手。家族と離れ、風紀の悪いイタリア人街ノース・エンドに住むことに喜びを見出す変わり種だ。父のトマスは十二分署長の警部。父の親友で特捜部を率いる名づけ親のエディは警部補という警官一家一家には波止場で飢えて凍えていたところをトマスが救ったノラという娘が働いていた。ダニーはノラを愛していたが、ノラにはアイルランドに夫がいた。アイルランドカトリックで、離婚は認められない。ダニーはノラと別れたが、事情を知らない弟のコナーはノラとの結婚を望んでいた。

ルーサー・ローレンスは俊足で鳴らす黒人野球選手だったが、白人に媚びる監督を殴り馘首になった挙句、勤め先でも人員整理にあう。妊娠した恋人ライラのおばを頼ってオハイオのタルサに引っ越すが、そこで、ナンバーズ賭博の胴元を手伝うことに。ところが、親友ジェシーピンハネがボスの知るところとなり二人は窮地に陥る。ジェシーを殺されたルーサーはボスを射殺。報復を恐れてタルサを出たルーサーを雇ったのがトマスの家だった。

黒人に対しても態度を変えることのないダニーと白人に媚びないルーサーは、ウマが合った。そんな時コナーとの結婚を決めたばかりのノラを訪ねてアイルランドから客がやってくる。ノラの夫だった。妻を連れ戻しに来た男をダニーは叩きのめし、二度と顔を見せないよう脅す。男は去るが、父と弟はノラを赦さず、家から放り出す。ノラは満足に食事もできず痩せるばかり。ノラをこんな目に遭わせたコグリン家をルーサーは許さなかった。

トマスは長年の警察の仕事を通じて政治指導者や有力者とコネを作っていた。エディが手下を使って探り当てた、組合に所属する労働者たちのリストを彼らに売り渡し、多額の金を得ていたのだ。メーデーの日にボルシェヴィキたちが暴動を起こすという情報が入り、最年少での刑事抜擢を餌に、トマスはダニーに潜入捜査を命じる。だが、マルクス他の著作を読んで会議に顔を出すうちに、ダニーは組合活動の意義を発見し、熱心な組合員となる。

一方、エディは情報網を使ってルーサーの過去を探り当て、じわじわと攻め立てていた。ルーサーが厄介になっていたNAACP(全米黒人地位向上協会)の協力者ジドロ夫妻をテロの容疑者として引っ張るつもりだったのだ。NAACPの支部建設に手を貸すルーサーに、地下に武器を隠す仕事をさせるため、エディはルーサーの親友を手にかける。

WASP(ホワイト・アングロサクソンプロテスタント)が権力を握るアメリカではカトリックアイルランド人は差別される側だった。自分たちも移民だったアイルランドの男たちは、新天地でそれなりの身分や地位を得ると、黒人はおろかイタリア人やロシア人を差別しはじめる。正当な形で力を発揮できない男たちは裏で力を得ようとする。トマスの悪事はスマートな表面に隠されて人の目には立たなかったが、エディの暴力と恐怖による支配は、心ある警察官なら誰でも知っていた。

代表として組合員の信頼を集めるダニーは、コグリンの家とますます疎遠になってゆく。そんな時かつては知らずにベッドを共にしたこともあるテッサという女テロリストが自分の親友を撃つ。後一歩まで追い詰めたところで、ダニーは潜入捜査時に顔を知られたボルシェヴィキに裏切り者として半殺しにされる。ぼろぼろになったダニーが這うようにして向かったのはノラの家だった。途中でノラを訪ねたルーサーに助けられダニーは命を拾う。

ボストン市警ストライキという「運命の日」をクライマックスにして、群衆に州兵の騎兵が襲い掛かる暴動の全容を描き切る筆力もすごいが、ダニーとルーサーの友情、トマスとダニー親子の信頼と裏切り、ダニーとノラ、ルーサーとライラの恋愛、という情愛を描かせてもルヘインは巧い。しかも、息詰まる展開の息抜きのように、当時売り出し中のベーブ・ルースの行動を幕間劇として随所に挿入し、ベースボールを愛するアメリカ人の関心を惹きつけるところなど心憎い。

テッサとその夫フェデリコというイタリア人アナーキストや実在の組合活動家、後にFBI初代長官となる在りし日のジョン・フーヴァー、この暴動事件で名を挙げ、大統領にまで上り詰めた州知事カルヴィン・クーリッジなど多彩な人物が、明確な輪郭を持って描かれていて、フィクションであるのに、実際にあった事件のその場に立ち会っているかのようなリアルさが見事。二段組上下巻という長さだが一気に読める。

正義と仲間の信義を信じ、真摯に行動した男が権力の手で汚名を着せられて放逐され、事の理非曲直は問わず、うまく立ち回った者が最後まで生き延びて勝者となる。また、一度失敗者の烙印を押され権力者の位置を明け渡さざるを得なかった男が、再び権力を握る立場に上ると、かつての恨みがどれだけの非情をなしうるか、そのルサンチマンの発露の怖ろしさなど、まるで他国のこととも思えない。人間というのはある面、時代や場所を超えて、同じようなことをするものだな、とつくづく思わされた。

『あなたはひとりぼっちじゃない』アダム・ヘイズリット

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原題は<You Are Not a Stranger Here>。「異邦人」や「よそ者」を意味するストレンジャーよりも、「ここで」を意味する<here>が気になる。その「ここ」とはどこだろう。それは、この短篇集の中なのではないだろうか。ここには、現代アメリカやイギリスだけではない、世界のどこにあっても身の置き所のないマイノリティ、端的にいえば同性愛者や精神疾患を患う者がよそ者ではないと感じられる世界がある。

メリーランド州ボルチモア生まれの七十五歳の老人が遺書を書き終えた後、親類縁者の家に立ち寄りながら最愛の息子の住むカリフォルニアまで旅に出る。途中アリゾナに住む姪に借りたサーブを駆って大陸横断の旅だ。一見するといい話のようだが、とんでもない。工学博士号を有し、二十六もの特許を取得したこの老人、実は精神を病んでおり、国税庁の調査対象者であり、親類縁者の鼻つまみ者である。もちろん車も返す気など毛頭ない。

何しろ傲岸不遜。医者を敵視し、周りの人間は完全に自分よりばかだと見下している。だが、息子だけは愛している。当のグレアムもまた父を愛してはいる。ただ、四年ぶりに再会した父の奇行には手を焼く。ドン・ペリをダースで注文したり、一泊六百八十ドルもするスイートに宿泊したりと、やることがぶっ飛んでいる。しかもその間、新しいアイデアについて声高に語り、グレアムに「ゲイであることはどんなものなんだね?」と質問したりする。

話者は完全にこの躁状態の人物の中にいて事態を物語るから、ドライブのかかった文章が猛スピードで駆け抜け、じっくり落ち着いて考える暇がない。そう。読者の立場は息子の立場と同じなのだ。父と暮らしたかったのに置き去りにされた。やっとのことで自分の思いを打ち明けた息子は泣きながら寝入ってしまう。実は息子も精神を病んでいて、自殺の恐怖に怯えている。息子の寝顔にやっと父親らしい感情を見せるラストが切ない。

狂騒的なユーモアが炸裂する巻頭の「私の伝記作家へ」、やはり精神を病んだ青年のインタビューを書き起こした「父の務め」、殴られても蹴られても相手を振り向かせるために向かってゆく被虐的なゲイの少年の破れかぶれの愛をハードにつづった「悲しみの始まり」をはじめ、いずれも尋常でない世界に生きる人々の日常を描き出す。その中で、姉弟の過ごす初夏の一日を慈愛の眼差しで見守る「献身的な愛」は澄明な光に溢れた愛すべき佳篇。

ロンドンの法律事務所に勤めるオーウェンは、早くに両親に死なれ、自分を守るために五十歳半ばまで独身を通してきた姉を愛している。ヒラリーもまた、母親の首吊り死体を見せないように弟を抱き寄せて以来ずっと愛してきた。二人の間にベンが現れるまでは。アメリカの新聞社に勤めるベンは取材を通じて出会ったオーウェンと親しくなり、姉弟の家やウィンダミア湖の別荘を訪ねるようになる。

ベンもまた早くに親を亡くしており、男と暮らした経験もあるバイだった。今は妻子とアメリカに暮らしているが、かつての日々オーウェンはベンを愛していた。ベンから姉に書かれた求愛の手紙を隠したのも嫉妬からだ。そのベンから会議で渡英したので、二人の家を訪ねたいと連絡があり、六月の日曜日、ヒラリーは朝から料理に飾りつけに忙しい。オーウェンはそんな姉にいつ真実を打ち明けようか、と悩んでいた。

隣人の不意の訪問の途中、ベンから電話がかかってくる。会議が長引き、訪問できなくなったという。オーウェンがとり、姉に渡す。すっかり日の落ちた庭に出て、二人で夕食を取った後、後片づけをする弟を一人残し、姉は部屋にこもる。静かな嗚咽が漏れてくる。姉の泣き声を聞きながら、オーウェンはベンからの手紙の束を姉に渡すことを決める。

姉を案じて田舎で暮らす弟。その気持ちを嬉しく思いながらも、妻子ある男を愛していることを隠そうともしない姉。二人の互いを思いやる気持ちがイギリスの田舎の庭に咲く花々や、樹々を通してくる光の中にやさしく差し出される。姉は弟が手紙を隠していたことに早くから気づいていた。姉を愛するあまり、ゲイとして気ままな独身生活を送ることのできるロンドンを諦めた弟の気持ちを思うと、怒りはすぐに消えた。

自身がゲイでもある作家はゲイであることの生きづらさを真摯に語る。エイズによる死が登場したばかりのイギリスにあって、ゲイであることの恐怖と、しかし、おのれの性向を如何ともしがたいオーウェンの気持ちが痛いほど伝わってくる。エイズは怖ろしい。しかし、むしろ作家は、弟の生き方を批判も非難もせず、やさしく見守る姉と弟の静かな生活を語る。このまま二人で静かに年老いていく。その諦念に満ちた日の送り方を見つめる作家の目の何と老成していることか。

他に、患者の語る話に圧倒され為す術もない精神科医の無力感を描く「名医」。鬱の自分が妻のためにならないと自殺を考える男が、死を間近にした少年に王の話を語ることで生きる意味を見出してゆく「戦いの終わり」。兄の死の夢に怯える少年を描く「予兆」。エイズを発症し、近づく死を前にしてプラグを抜くように生きる痕跡を消してゆく男の日々を描く「再会」。初体験に臨む少年と自分の中に棲みついた亡霊と闘う老女の心の交流を描く「ヴォランティア」の全九篇。故知らず平凡な人生から外れた人々の、世に棲む日々を静かな筆致で刻みつけるように書いた短篇集である。

『ときどき旅に出るカフェ』近藤史恵

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カフェ・ルーズは毎月一日から八日が休み。営業は九日から月末まで。店主はその間旅に出る。そして買ってきたものや見つけたおいしいものをカフェで出す。オーストリアの炭酸飲料だとかハンガリーのロシア風チーズケーキとかだ。もちろん毎月海外という訳ではない。国内の時もあれば、新メニューを試作している時もある。

そんなカフェが近くにできたら、ちょっとうれしい気がする。自分は行ったことがなくても、口にするものから旅を感じることができるから。おまけに中二階の窓からは、住宅街の中なのに、樹々の緑や沈む夕陽を見ることができる。三十七歳で1LDKのマンションに独り住まいの瑛子にとって、そのカフェは、気の向いた時ちょっと寄るのが楽しみな場所になっている。おまけに店主の円はかつて会社にいた年下の同僚だった。

そんな設定で、ミステリ雑誌に連載していたものを全部で十篇、まとめて一冊に仕上げたのが本作。全篇すべてに菓子や飲み物がからんでくる点で、同じ著者の『タルト・タタンの夢』シリーズの姉妹版ともいえるコージー・ミステリ。ただ、三船シェフ以外にも個性の異なる三人のスタッフが登場するビストロ・バ・マルと比べ、オーナー兼パティシエの円が一人で営むカフェ・ルーズ。話が小ぢんまりとしてしまうのは否めない。

ワトソン役というか狂言回し役を務めるのが奈良瑛子。勤務する会社では一番年長の独身女性で、休日はお気に入りのソファに寝そべって本を読んだりDVDを見たりするのが趣味といったタイプ。結婚については特に気にはしていない。うるさい両親とは距離を置いている、気楽な独身生活だ。たまたま立ち寄ったカフェで、会社の同僚の噂話をしたりしているうちに、円が何かに気づくというミステリ仕立て。そう。ホームズはパティシエなのだ。

だから、結婚が決まった同僚の退職話だとか、昔の親友の夫の浮気疑惑といった、独身女性ならではの話題が中心なのだが、中には娘の中国土産の月餅が消えてしまった事件だとか、同じマンションに住む中学生の父親の再婚話といったドメスティック・ミステリの要素も強い。中でもいちばんドメスティックな要素が際立つのは、円の育った一家に纏わる遺産相続争いだろう。それに、円が介護していた祖母の死が絡んで、事件は不穏な空気を漂わせる。

近所に、カフェ・ルーズと同じコンセプトで、同じメニューを提供する大手のチェーン店がカフェを開いたり、そこを首にされた青年が円のことを好きになり、店で使ってくれと言い出したり、独身のアラサー女子が、中心の話だから恋愛風味も忘れてはいない。ただし、その恋愛模様は、最後にとんでもないどんでん返しが待っている。この最後の新たな展開で、それまでの円の見せる笑顔の意味がちがった意味を持ってくる。女性のちょっとした仕種が意味するものの多義性にはまごつかされた。

それにしても、いつものことながらどこでこれだけのリサーチをしてくるのやら。フィアンセを連れて店にやってきた男がエスニック・カレー店を開くと言いながら、店の前に置いたプランターに植わっている大葉月橘を知らなかったという理由で結婚詐欺を疑ったり、高級な月餅の中には家鴨の卵黄が入っていることから、月餅の消えた理由を推測したり、円の繰り出すペダントリーはなかなかのものである。

使える旅行期間が一週間くらいだから、中国や東南アジアのお菓子や飲み物が中心になっているが、オーストリアハンガリー、ベルリンといったちょっとシブい都市が扱われているのも興味深い。アルムドゥドラーというハーブで香りづけされたオーストリアの炭酸飲料だとか、ちぎったココア生地を上にのせて焼いたロシア風ツップフクーヘンがロシアではなくベルリン近辺で食べられているお菓子だとか。相変わらず読んでいるだけでよだれが出そうになる。

しかも、肝心な点はその菓子の持つ特徴、形や製法、名称などがミステリの謎ときに重要な意味を持って使われているというところだ。単なる蘊蓄話やペダントリーに終わっていない。なるほど、大した謎ではない。人が死ぬわけでもなければ、凶器の一つも登場するわけではない。ただ、人がそこにいる限り、悪意が凝集すれば、すんでのところで事件が起きても不思議はない。騙したり、蔑んだり、嫉んだり、人の悪意というのは程度の差こそあれ、どこにでも転がっている。

小柄でいつも笑顔を浮かべている円だが、彼女にも過去があった。日本という国に根強く残る差別意識にどう対峙するか。かつて同僚だった時にはあまりしゃべらず、人との付き合いも避けていた円。それが店を開いてからは、どことなく自信にあふれ、生き生きして見える。人は愛し、愛されることで強くなれる。その強いメッセージ性が全篇の最後に立ち現れるのがまぶしい。爽やかな中にほのかに胸がキュンとなる幕切れに乾杯!出来たら続編が読みたいものだ。



『ザ・ドロップ』デニス・ルヘイン

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はじまりは犬だった。映画『ティファニーで朝食を』のように、ごみ箱から助け出されるのが猫だったらもっとよかったのにと思ったけど、頭のイカレた男に殴られても死ななかったのは、ピットブルだったからで、猫だったら死んでいただろう。そう考えると、犬でよかったのだ。捨てられていたのは、ナディアという娘の家のごみ箱で、偶然前を通りかかったボブが、ごみ箱の中で何かが立てる物音を聞きつけたのだ。

ボブは、カズン・マーヴの店のバーテンダー。つけをためて深夜までねばる老女にも、死んだ仲間を偲んで集まる連中にも親切だった。内気で、人と付き合うのが苦手。当然恋人もいなかった。それが、犬のおかげでナディアと話をするようになる。前に獣医の手伝いをしていたナディアは犬の扱いに詳しかった。時々、いっしょに犬の散歩にも行くようになったころ、元の飼い主が現れる。エリック・ディーズは前科者で、精神病院に入っていたこともある。十年前、ボブのバーを出てそのまま姿が消えた男を殺したと噂になっている男だ。

デニス・ルへインはクリント・イーストウッド監督の映画『ミスティック・リバー』の原作者。本作も同じ町、ボストンのイースト・バッキンガムが舞台。カズン・マーヴは、ボブの実の従兄弟で、二人は昔つるんでやんちゃなこともしていたが、今は実直に働いている。ただ、名前は「カズン・マーヴの店」だが、経営権はチェチェン・マフィアの手に握られている。金貸しと集金で稼いでいたマーヴは、今は故買屋と店をマフィアの賭けの上がりを一時的に預かる中継所(ドロップ)とすることで手間賃を稼いでいた。

そのマーヴの店が強盗に襲われ、店の売り上げ五千ドルが奪われる。マフィアのボスの息子チョフカが店に現れ、ボブとマーヴに金を探せと脅しをかけてくる。強盗事件を操作するのはトーレスというプエルトリコ人刑事で、ボブとは教会で顔をあわす顔なじみだ。二人とも熱心なカトリック信者だが、なぜかボブは聖体拝受をしない。常々それに疑問を感じていたトーレスはマーヴの店で十年前に起きた失踪事件を再捜査し始める。ウィーランというその男がヤクを買いに行った先のひとつがディーズのところだった。

誰もが顔見知りで、同じ教区に住む者は行きつけの店もそれぞれ決まっていて、仲間内の結束の固いアイルランド系移民が集まる下町。ただ、そこもチェチェン人に限らず、新興のギャングたちが勢力争いを繰り広げ、表面は信心深い人々が暮らす町も一皮むけば地下は危険が渦巻いている。そんなイースト・バッキンガムの死んだ両親が残した家で、それまで誰の目にもとまらないようにひっそり暮らしていたボブは、犬を飼い始めてから人が変わったように見える。生きがいを見つけたのだ。

マーヴは追い詰められていた。父の入っている施設に払う金にも困っていたところに降ってわいたような強盗事件。マフィアには脅されるし、同居する姉の面倒も見なければならない。マーヴは最後の荒稼ぎを計画する。スーパー・ボウルの日、自分の店にドロップされる大金を強奪しようというのだ。実行犯として目をつけたのが出所したばかりで顔を知られていないディーズだった。ディーズはディーズで、自分から犬も女も奪った大男の存在が面白くない。一泡吹かせようとナディアを連れてカズン・マーヴの店に顔を出す。

マーヴの最後の賭けはうまく行き夢の海外暮らしに出発できるのか。父親に虐待された過去を持ち、執拗にボブとナディアにつきまとうディーズの真の思惑とは。周囲からは善意の人と見られているボブは、信心深い信者のくせに何故頑なに聖体拝受を避けるのか。ナディアの首に残る傷跡は彼女の過去に何があったことを物語るのか。二人の間に愛は生まれるのか。過去を引きずる者たちのそれぞれの因縁がスーパー・ボウルに湧きたつイースト・バッキンガムの一夜に収斂する。

小さな町に起きた十年前の事件の真相が今暴かれる。チェチェン・マフィアの暗躍やカトリック教会内の性的虐待事件等々の実態を効果的に使用しながら、過去に起こした事件に首まで浸かって身動きの取れない男たちのどうしようもない悪あがきが、とんでもない結果を招く。教訓。見かけが大人しいからといって決して人を見くびってはならない。この結末のつけ方に共感を抱けるかどうかは読者次第。ただ、本作も映画化されたと聞くと納得のいく出来栄えではある。いかにもアメリカ映画のラストシーンにありそうな決着のつけ方といえる。