青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ソロ』ラーナー・ダスグプタ

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『ソロ』という音楽用語に似つかわしく、小説は第一楽章「人生」、第二楽章「白昼夢」と題された二つの章で構成されている。この章につけられた名前の意味は、小説が終わりを迎えるころ意味を明らかにする。その意味を知った読者は、作者の巧妙な作為にはたと膝を打つにちがいない。それはありそうで、今までなかった小説の書き方である。もしかしたら先例があるのかもしれないが、すぐには思いつかない。

第一楽章は、ブルガリアのソフィアに住む盲目の老人の「人生」を描いたもの。話者は、はじめその人物を「男」と呼ぶ。映画の冒頭で、キャメラがひとりの男に焦点を当て、少しずつ近づいていくように。やがて男の現在の様子が、食べる物も人に恵んでもらい、人の助けを得ねば薬も飲むことができない惨めな状況であることが明らかにされてゆく。それと同時に今のソフィアという街の有様も、音やにおいといった盲人に残された感覚器官を総動員して描写されてゆく。この導入部が効果的だ。

男の名はウルリッヒ。大好きだった音楽を父に取り上げられ、その代わりに化学を愛するようになる。ベルリンの大学で化学を学ぶが父の死により学資が続かず志半ばで帰国。化学への夢をあきらめて会社に勤め、やがて親友の妹と結婚。子どもを授かるも、夢をあきらめた夫に愛想をつかして妻は子どもを連れて家を出る。共産主義国家となってからは工場勤務を命じられ、退職後は年金暮らしで今に至る。

オスマン帝国から独立、幾度の戦争を経て共産主義国家となり、ソ連崩壊後資本主義化されたブルガリアは強国の意向に沿うように工業化される。その結果、化学工場から排出される薬物により大地は汚染された。オスマン・トルコやソ連といった大国にはさまれたブルガリアという国の近現代史を背景に、かつてはそれなりの夢も才能もあった男が、家族の桎梏と歴史の波に翻弄され、最後に残されたわずかな日々の慰めまで奪われてしまう無残な人生を、突き放したようなさめた筆致で語るのが第一楽章だ。

第二楽章は、ぐっと曲想が異なり、アップ・テンポでスリリング。ブルガリアとは黒海をはさんだ対岸にあたる、グルジアの王家の血を引く少女ハトゥナとその弟が、ブルガリア出身の若者ボリスとアメリカで出会ったがために起きる悲劇。住民が逃げ出してしまった土地で豚を飼いながら、ヴァイオリンを弾き続けてきたボリスは、ワールド・ミュージックの辣腕プロデューサーに見いだされて渡米。トラブルに巻き込まれたハトゥナも弟と二人アメリカに渡る。

体制が代わるたびに、元スポーツ選手などの有名人が政治家になり、金を蓄え、やがて実業家になる。しかし、実態は麻薬を扱い、女を売り飛ばすギャング同様の稼業だ。早晩暗殺され失脚する運命。しかし、その刹那的な生にしか、生きることの快楽を見出せない種類の人間がいる。ハトゥナがそうだ。弟はその価値観を認めず、詩を書くことだけを愛していた。ところが、ボリスの曲を聴いたことで二人は共鳴しあう。友から片時も離れられない弟、弟を愛する姉は音楽家を憎む。三角関係が軋みを上げはじめる。

大物実業家が何人ものボディ・ガードに囲まれ、城の内部を要塞化した邸宅を立て、世界中で武器を売買する。美女たちが夜ごとパーティーに集まり、奔放な音楽家は業界のしがらみなど気にせず、好きな相手とセッションしては勝手に配信してしまう。音楽家の失墜を策謀した女は情報を操作して追い落としをはかる。華やかな世界とその陰で蠢く人々の姿を描く第二楽章は、いったいあの陰鬱な第一楽章とどうつながっているのか?

実は第二楽章で語られるストーリーの素材は、そのほとんどが第一楽章の中に象嵌されている。ただし、語られるのはほんのわずかで、最初に読んだときは、そのあまりの短さに読み飛ばしてしまう。それが作者のアイデアだった。九十代後半のウルリッヒの記憶からは多くのものが抜け落ちていても不思議はない。ただ、とげのようにひっかかって離れないものだけが断片的に残っている。

目の見えない男の楽しみはテレビ番組から聞こえてくるニュースや隣人の立てる物音、街に聞こえる騒音といった素材をもとに、日がな自分が組み立てた「白昼夢」を見ることだった。そこに登場するのは、生きていれば今はもう七十代になっているはずの子どもだが、夢の中ではまだ若いままだ。ボリスやハトゥナはウルリッヒがかつて接した人々の記憶を頼りに作り上げられた夢の創造物、というのが作者の見立てだ。

再読してみて驚いた。あれがこれになるのか、と。白昼夢の何とけばけばしくおどろおどろしいことか。ウルリッヒの実人生がついえた夢の破片の集積物だとしたら、白昼夢はその可能態である。母の遺品を買い叩いた骨董商の記憶は、いつまでも心の片隅に残っていて、ハトゥナの手によって復讐される。あきらめた音楽家の夢はボリスによって成し遂げられる。所詮夢ではないか、というなかれ。かつて荘周は夢の中で胡蝶になって遊び、覚めて後、果たして荘周が胡蝶の夢を見たのか、それとも今の自分は胡蝶が見ている夢なのか、とつぶやいたというではないか。

『水底の女』レイモンド・チャンドラー

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原題は<The Lady in the Lake>。サー・ウォルター・スコット叙事詩湖上の美人』<The Lady of the Lake>をもじったもの。< Lady of the Lake>は、アーサー王伝説に登場する「湖の乙女」のことだ。この作品のもとになっている中篇「湖中の女」は、稲葉明雄訳『マーロウ最後の事件』の中に収められており、かつて読んだことがある。そこに登場する色男の名前がランスロットであることから、チャンドラーがアーサー王伝説を意識していたことはまちがいない。長篇となった本作ではクリス・レイヴァリーと名を変えている。

人物の名前こそ変わっているが、『水底の女』の骨格にあたる部分は、ほぼ「湖中の女」を踏襲している。主な舞台となるのは、ロサンジェルス東部の砂漠地帯サン・バーナディノ近郊のリトル・フォーン湖にある別荘地。それと別の短篇「ベイシティ・ブルース」の舞台となるサンタモニカがモデルといわれる海辺の町ベイ・シティ。既存の短篇を使い回して長篇に仕立て上げるのは、チャンドラーの得意とするところだが、本作に限っていえば、別の土地で起きた事件を同一人物の仕業にしたため、偶然の一致が多くなったのが残念だ。

チャンドラーの長篇の持つ魅力は、事件解決よりも、事件を捜査する過程で、探偵であるマーロウと他の登場人物とのやりとりや、マーロウが人物に寄せる感情の揺れを味わったり、マーロウの目を通して語られる富裕層の頽廃的な生活や、大都会に蔓延る犯罪組織とそれを事実上見逃す警察組織への批判に共鳴したりするところにある。ところが、本作は意外に律儀に謎解き推理小説をなぞろうとしているふしがある。

チャンドラーはフリーマンやハメットは別として、不必要な蘊蓄や不誠実な叙述の詐術を用いた推理小説を嫌っていた。本作にも名を訊かれたマーロウが「ファイロ・ヴァンス」と偽名を名のる場面がある。ヴァン・ダインへの揶揄だろう。それもあって、乱歩が「類別トリック集成」に挙げている中でも使用例の多いトリックを扱いながら、本作におけるマーロウによる語りは実にフェアなものだ。それがかえって、長篇ならではの脱線や遊びを遠ざけ、作品を窮屈にしている気もするが。

マーロウは香水会社を経営するドレイス・キングズリーから妻の捜索依頼を受ける。リトル・フォーン湖にある別荘に出かけた夫人が帰宅予定日に帰って来ず、エル・パソから打たれた電報には、離婚してクリスと結婚するとあった。妻の性格をよく知るキングズリーはそのまま放っておいたが、先日、そのクリスと市内で偶然出くわした。話を聞けば、夫人とは最近会っていないという。何か事件に巻き込まれたのであれば事業に影響が出る。それで探偵を雇ったのだ。

ベイ・シティにクリスを訪ねたマーロウは、向かいの家に住む医師によって警察に通報される。医師の妻は自殺しており、不審に思った妻の両親は探偵を雇って事実を調査していた。デガルモという強面刑事に町を出るよう威嚇されたマーロウが次に向かったのはリトル・フォーン湖。持参してきた酒を管理人のチェスに飲ませ、妻の家出の顛末を聞き出す。二人でキャビンに向かう途中、湖中に沈む女性遺体を発見する。損傷が激しかったが、夫は妻のミリュエルだと認めた。

これが題名の由来だが、実は死体は「水底」にはない。人造ダムを造ったことでかつての船着き場が水中に沈み、死体はその船着き場に邪魔されて浮かび上がってこれなかったのだ。つまり女は「水底」ではなく、文字通り「湖中」にいたのだ。その意味でいうと、『水底の女』という新訳の題名はあまりそぐわない。いつものように原題を片仮名書きにして『レディ・オブ・ザ・レイク』とでもしておけばよかったのに、とつい思ってしまった。

リトル・フォーン湖の遺体は自殺か他殺か。他殺だとしたら犯人は誰か。マーロウは保安官補のパットンに推理を語る。このパットンがいい。短篇ではティンチフィールドという名で登場する、ステットソンをかぶった田舎町の保安官補だ。肉付きのいい好々爺に見えて、その実見事な手腕を見せる名脇役だ。短篇を読んだときもそう思ったが、長篇ではなお一層魅力が増している。チャンドラーは女を描かせると、美しいが危険な人物にしがちだが、男性の場合は大鹿マロイをはじめ、憎めない脇役、敵役を多く生み出している。

村上春樹のチャンドラー長篇全七巻の翻訳はこれで最後。当初は、旧訳になじんだ読者から批判もされたが、今後はこれが定訳になっていくのだろう。村上訳の特徴は、原作に忠実なところだ。一語たりとも見逃すことなく、日本語に移し替えてゆく。ただし、その分一文が長くなる。それが冗長と感じる読者もいるだろう。たしかに、原文はおどろくほどシンプルな英語で書かれている。ただ、それをそのまま日本語に置き換えると、身も蓋もない訳になる。それをいかにもそれらしい日本語に置き換えるところに訳者は頭をひねるのだ。

一例をあげるとマーロウが香水の香りをたずねる場面で、問われたキングズリーが「白檀(びゃくだん)の一種だ。サンダルウッド種」と答えるところがある。旧訳では「チプレの一種だ。白檀(びゃくだん)のチプレだ」となっている。「チプレ」って何のこと?と思ってしまうが、「シプレ(シプレー)」はキプロス島のことで、香水の香りの系統を表す。原文は<A kind of chypre. Sandalwood chypre.>で「チ」と「シ」の読みまちがえは惜しいが、清水訳の方が原文に忠実なのがわかる。

しかし、これを「シプレの一種だ。白檀のシプレ」と正しく訳したところで、香水に詳しくない者にとってはチンプンカンプンだろう。註を使わず乗り切るためにわざと「シプレ」を省いて、白檀の訳語であるサンダルウッドを使うことで、分かりやすくしたのだと思う。村上訳は逐語訳や直訳を避け、原文を、読んで分かる日本語に解きほぐす訳を目指しているようだ。チャンドラーの長篇を村上氏がすべて訳してくれたことで、旧訳と比較しながら原文を読む愉しみが増えた。『湖中の女』には、田中小実昌氏の訳もある。これもいつか探して読み比べたいと思っている。

『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド

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南北戦争が起きる三十年ほど前、ヴァージニア州にある農園で奴隷として働いていたコーラは新入りのシーザーという青年に、一緒に逃げないかと誘われる。はじめは相手にしなかったコーラだが、農園の経営者が病気になり、酷薄な弟の方と交代することになって話は変わった。実は、コーラの母もまた逃亡奴隷だった。母はうまく逃げ果せたのか連れ戻されることはなかった。自分を置いて一人で逃げた母をコーラは憎んでいたが、危険な逃亡を試みる点では二人は似ていたのかもしれない。

この時代、逃亡奴隷が生き延びる可能性はほとんどなかった。奴隷狩り人と呼ばれる専門家がいたし、警ら団が見回ってもいた。逃げた奴隷の特徴を記した文書が姿を現しそうな場所に配布されていた。狩り人が追いつくより先にはるか遠くに逃げることが必要だった。それを助けてくれるのが表題でもある「地下鉄道」だった。史実に残る「地下鉄道」とは、逃亡奴隷を秘密裡に匿い、荷物に紛れて、遠くの駅に送り出す「地下」組織を表す隠語だった。

ホワイトヘッドは大胆にも、それを文字通り、地下深くを走る鉄道として表現している。どこまで行っても真っ暗なトンネルの中をどこに到着するかも知らないで、無蓋貨車に乗せられる逃亡奴隷.の心持ちはいかばかり心細かっただろう。しかし、着いた駅には「駅員」と呼ばれる協力者がいて、着る服や寝泊まりする宿まで提供してくれる。そればかりか、そこに留まる気なら、働き場所まで世話してくれるのだ。

シーザーとコーラが下りた駅は、州境を越えたサウス・カロライナだった。二人には新しい名前が用意され、自由奴隷としての新しい生活が始まる。しかし、以前に比べればはるかに暮らしよいと思われたサウス・カロライナもまた、黒人に対する偏見と差別から免れてはいなかった。コーラは博物館の展示物と同じ扱いを受け、医者には避妊手術を迫られる。黒人が増えることを脅威に思う白人たちは、黒人を騙して断種を進めようとしていたのだ。

さらに、コーラとシーザーを追うリッジウェイという奴隷狩り人がすぐ近くまで迫っていた。昔、「逃亡者」というテレビ番組があった。主人公を追う警部の名はジェラードだったが、語り手はその前に必ず「執拗な」という修飾語をかぶせていた。逃げる者も必死だが、追う方もまた必死だ。特に、人狩りを楽しみとする性癖を持つ狩り人の手にかかったら、なかなか逃げられるものではない。州を越えてもどこまでも追い続ける。

コーラは何度も逃げる。もちろん、そこには「地下鉄道」の協力者がいるからだ。その人たちの手を借りて、ノース・カロライナまで落ちのびたコーラだったが、そこはもっとひどい状況にあった。毎週末広場で奴隷の処刑が行われるようなところだった。白人たちはそれを見物に集まって騒ぐのだ。親切な住人の住む家の屋根裏部屋の梁の上に潜んで息を殺していたコーラのことを密告する者がいて、コーラは捕まってしまう。

しかし、捨てる神があれば拾う神もいて、コーラは今度はインディアナで暮らし始める。黒人たちが奴隷制反対の集会が開けるような土地だった。しかし、運動が広がるにつれ、目指す方向性のちがいから、派閥間に軋轢が走るようになる。どこまでいっても奴隷たちが安心して暮らせる土地などはない。希望を見出した途端、それを打ち砕く出来事が待ち受ける。逃亡奴隷の手記や記録をもとにしながら、ホワイトヘッドが赤裸々に描き出す黒人奴隷の置かれた社会はどこまでも残酷で、読んでいる方もつらい。

しかし、そんな中、コーラは本を読み、学習し、自分たちの置かれたアメリカという国の持つ矛盾を発見してゆく。もともとはインディアンと呼ばれる人々が住んでいた土地に流れ着いた人々が、彼らから土地を奪い、自分たちのものとしていった、それがアメリカだ。綿花を積むための労働力にとアフリカから黒人を連れてきて奴隷として酷使した挙句、黒人の数が増えると暴動を恐れ迫害を繰り返す。コーラは散々な目に遭いながらも、持ち前の強運で前途を開いてゆく。

実はピュリッツァー賞受賞作と聞いて、最初は二の足を踏んだのだ。ヒューマニズムを前面に押し出して迫ってくるような作品は苦手だからだ。しかし、杞憂だった。これは面白く読める小説だ。コーラという逃亡奴隷が追っ手を逃れてどこまで逃げられるかを描いたロード・ノヴェルであると同時に、アメリカという国が歴史の中でどれほど非道なことをしてきたかを突き詰める記録文学の顔も併せ持つ。

アメリカというのは一つの国というより、複数の州の連合体である。州境をまたげば、そこはもう別の国。まるでSFでいうところの並行世界である。最も印象に残ったのはそこだった。表には法体系や人々の習俗の全く異なる国が共存し、その裏では州境など無視して縦横無尽に大陸中を駆け抜ける「地下鉄道」が走っている。これはもう隠喩ではないか。書かれた文字や本は、過去の因習に囚われた州固有の枠を突き抜け、新しい考え方をアメリカ全土に届けることができる。「地下鉄道」は、アメリカの良心である。

時代が突然逆戻りしたように思えるのは、アメリカだけの問題ではない。世界各地で人種や宗教のちがいによる争いが起きている。『地下鉄道』は過去の話ではないし、アメリカだけの物語ではない。黒人を排斥する白人の姿にはヘイトに走る人々を見る思いがする。読んでいる間、心がざわついた。暗いトンネルを抜けた向こうに明るい光が待ち受けている、そう思いたい。そのためにも、今はトンネルを掘らなければいけないのではないか。人と人とを隔てるものを越境できる自由な空間のネットワークを構築するために。

『スティール・キス』ジェフリー・ディーヴァー

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四肢麻痺の車椅子探偵が活躍する、リンカーン・ライム・シリーズの最新作。ライムの弟子で同じく車椅子生活を送る若い女性ジュリエットも新しく仲間に加わる。視点人物がころころと目まぐるしく交替するが、その中には「僕」と名のる殺人者も登場する。犯人が自分のしていることを自分で語ってしまっているので、映画ならともかく、謎解き興味で引っ張ってゆくミステリ小説にはどうかと思ったが、やっぱり最後にはお得意のどんでん返しをくらってしまった。しかも、ライムと助手の二人の車椅子に乗る人物しかいないところを犯人が急襲するという、絶体絶命の危機まで用意されている。

犯人は冒頭から姿を見せる。身長は高いが痩せていて、特徴的な体つきが目撃者の印象に強く残るからだ。スターバックスでサンドイッチを食べているところを挟み撃ちにしようとしたところで、思いがけない邪魔が入る。エスカレーターの最上階にある乗降板がなぜか開き、男性がそのピットに落ちてしまったのだ。モーターの回転が止まらず歯車が男の腹を巻き込んでいくのが止められない。犯人を見張っていたアメリア・サックスは、救出のためにピットに入るが、出血多量で男は死亡、そのすきに犯人は逃亡する。

アメリアは被害者家族のために裁判に持ち込んで保証を勝ち取ろうとライムに協力を依頼する。早速エスカレーターの実物大模型をタウンハウスに持ち込み、誰に責任を追及すべきか機械を詳しく分析するライムとそのために休暇を取らされた市警の鑑識官メル。しかし、その間にも連続殺人犯、未詳40号は、次々と犯行を重ねる。いつもなら、ライムのタウンハウスでディスカッションしながら犯人を追えるのだが、ライムは無実の男を結果的に死なせた件で市警を辞職した身だ。アメリアは、ライムの協力なしに犯人を追わねばならない。

はじめは別々の事件を追っていたライムとアメリアだが、二つの事件に接点ができる。未詳40号が捕まりそうになった時、突然エスカレーターの事故が起きたのではなく、犯人は事故の仔細を見るためにその場にいる必要があったのだ。ライムたちの調査でエスカレーターに使われていたコンピュータ製品がハッキングされていたことが分かる。最初に頭がい骨を丸頭ハンマーで砕かれていた被害者が、それをハッキングしていた男で、未詳40号は、その技術を盗むために近づき、まんまと手に入れると殺してしまったのだ。

「僕」は、学校時代からその外見のせいで仲間にいじめられ、反社会的な考えを持っている。すぐにかっとなる性格でバックパックにはいつもハンマーを持ち歩いている。しかし、手先は器用で、ミニチュアの家具を作りネットで販売もしている。「僕」は、執拗に自分に迫るアメリアを憎悪し、手をひかせるためにアメリアの母を襲う計画まで立てる。それはジュリエットの機転で何とか回避されるが、事件にはまだまだ隠された真実があった。

コンピュータの汎用部品がどの電気機器に使われているかをネットに侵入して調べ、それをハッキングする。例えば自動車が勝手に暴走を起こして止められなくなる。今の時代ならいつ起きても不思議でないような犯罪である。電子機器を使った一つや二つの家電は誰でも持っている。それが悪意を持つ者の手に渡ったら、という恐怖は、残虐な犯罪を行うシリアル・キラーよりも、もっと身近なところにある恐怖だ。

本筋の事件が次第に暴かれていくその合間に、アメリアのかつての恋人で服役していた元刑事のニックとの再会がある。強盗の真犯人は弟で、弟を護るために罪をかぶったと言われるとアメリアの心は揺れる。今はライムとつきあっているアメリアとしてはニックのことをライムには相談できない。二人の間にわだかまりが広がっていく。それだけではない。ライムがルーキーと呼ぶ巡査のロナルドは許可も得ず勝手な潜入捜査を始める。理由はライムが市警を辞めることになった事件の再捜査だ。死者が罪を犯していたことを知れば、ライムが考えを変えるのではと考えたのだ。

こうして同時多発的にいろいろな場でアメリアやライムを巻き込む事件が発生し、それらが絡み合いながら最終局面に向かって進んでゆく。この辺の展開はさすがに堂に入ったもので、あれよあれよと思って見ているうちにとんでもない事実が判明する。一見無関係と思われた連続殺人事件の被害者を結ぶ線があった。なるほど、この方向へ持って行くための伏線だったか、とうならされた。あっと驚くどんでん返しは、それまでサイコパスにしか見えなかった未詳40号の印象さえすっかり変えてしまう。

シリーズ物は毎回登場する顔なじみに出会う愉しみがある。今回はそれに、また有力なメンバーが新加入した。「動」のアメリアに対する「静」のジュリエット。ライム相手に一歩も引かず、堂々と自分の意見を述べるジュリエットはこれからますます力を発揮するにちがいない。アメリアとライムはどうやら結婚も間近のようだし、このシリーズ、何かと目が離せない。

『嘘の木』フランシス・ハーディング

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種の起源』の発表から数年後のヴィクトリア朝英国が舞台。人のつく嘘を養分にして育つ「嘘の木」という植物が実際に登場するので、やはりファンタジーということになるのだろうが、なぜかミステリ業界で評判になっている。今年の第一位という評さえあるくらいだ。そうまで言われると読んでみたくなる。お約束のどんでん返しもあるし、謎解きの妙味もある。主人公の娘フェイスが持ち前の好奇心を武器に、父の死の真相を探るという立派なミステリになっている。

フェイスの父エラスムスは、牧師というよりも高名な博物学者として知られていた。ところが、あろうことか、エラスムスが発見した化石が実はねつ造されたものだという事実が新聞報道され、一家はケントの牧師館を追われるようにして去り、ヴェイン島に向かう。島の洞穴の発掘作業に招待を受けたのだ。スキャンダルから一時身を隠すには絶好の機会だと義弟が勧めるので、とるものもとりあえず船に乗ったのだった。

はじめは歓待されたサンダリー家だったが、ねつ造の件を伝える新聞は島にも届き、島民は手のひらを返したような態度をとりはじめる。そんなとき、父が不審な死を遂げる。父が大切に世話をしていた鉢植えの木を隠すため、フェイスが偶然見つけた洞窟に父を案内した後のことだ。父の死体は崖に生えた木にひっかかっていた。後頭部には傷があり、近くには死体を運ぶのに使われた手押し車が放置されていた。

問題は一家に対する島民の反感の強さだった。死因が自殺ではないかと疑われ、審問が終わるまでは遺体を墓地に埋葬する許可が出ない。フェイスは父の死は自殺ではなく、誰かに殺されたものと考え、捜査を開始する。手がかりは父の残した手記の中にあった。それには「偽りの木」を手に入れた顛末が書かれていた。それを育てるには嘘を聞かせねばならず、大きな実を成らせるためには大きな嘘が必要になる。そして、その実を食べることで真実を告げるヴィジョンを見ることができる。

ダーウィンによる『種の起源』の発表は、神は自分に似せて人類を創造したという説を真っ向から否定するものだった。肩に翼をもつ人間の化石のねつ造は、エラスムスが、人間誕生の真実を幻視するための大きな嘘だったのだ。秘密を知ったフェイスは、自分も嘘の木の実を食べてみる。それによって父の死の真相を幻視しようというのだ。ヴィジョンによる探偵というのは本格探偵小説の世界ではタブーである。しかし、ヴィジョンは暗示するだけで、いわば夢のお告げのようなものだ。事実を暴くには探偵が体を張るしかない。

嵐の晩には洞窟を通る風が吠えるような声を響かせる絶海の孤島。ランタンの灯りだけを頼りに小舟で渡るしかない岬の洞窟。自殺者は杭を打って分かれ道の辻に埋めるという因習に凝り固まった島民の敵意。そこへもってきて、ヴィクトリア朝の女性蔑視や子どもと大人の女性との間の年頃でどっちつかずのフェイスの年齢が持つ曖昧さが厄介になる。博物学者になりたいというフェイスだが、弟は寄宿学校に入れてもらえるのに、フェイスにはその選択肢がない。

フェイスの母マートルや郵便局長のミス・ハンター、その他の女性を描くことを通して、ヴィクトリア朝という時代設定を単なる飾りではなく、女が自立して生きるにはいかに困難な時代であったかをしっかり描いているところが特徴である。夫を立てるふりをしながら、実際は男がうまく動けるようにその環境を整え、手配するのが妻の仕事。そのためには、媚を売るくらいのことは、平気でやるのがマートルだ。はじめは母のことが嫌でたまらなかったフェイスが次第に母を見直すように変わっていく。

真犯人を探すための手がかりは、はっきり書かれている。視点人物はフェイスに限られ、彼女の知り得た事実は読者も共有できる。ファンタジー風味は極力抑えられ、伏線の張り方やフェアな叙述はミステリのそれである。周りを海に囲まれた島で、エラスムスを犯行現場に呼び出す手紙を書けたのは発掘作業に関わっていた者でしかありえない。フェイスは幽霊騒ぎや、偽のノートといった奇手を使って、犯人に揺さぶりをかけるのだが、やっと分かった真犯人は意外な人物だった。このどんでん返しがよく効いている。

犯人を見えなくさせているのが、物理的なトリックでなく、心理的なトリックであることがミステリ評論家に受けをよくしているのかもしれない。19世紀という時代そのものがトリックになっていると言っていい。「嘘の木」という仕掛けが、さして嘘くさく見えてこないのも、まだまだ人類が他の動植物と同じく、神の創造物であるという、いまとなっては戯言とも思われる考えが大手を振って歩いていた時代の話になっているからだ。あれこれと悩みながら、自分のアイデンティティを確立してゆく主人公に共感できる世代に勧めたい。

『スパイたちの遺産』ジョン・ル・カレ

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『寒い国から帰ってきたスパイ』と『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の二作を読んでから読むことを勧める書評があった。訳者あとがきにも、同様のことが書かれているが、それはネタバレを恐れての注意。二作品を読んでいなくてもこれ一作で、十分楽しめるので、わざわざ旧作を掘り返して読む必要はない。ただ、これを読むと、前の二作を未読の読者は、おそらく読みたくなると思うので、読めるなら先に読んでおくといいだろう。

数あるル・カレのスパイ小説の主人公として最も有名なのが、ジョージ・スマイリー。眼鏡をかけた小太りの風采の上がらない中年男だ。ただし、現場から寄せられる真贋の程の分からぬ数多の情報を重ね合わせ、比較し、齟齬や遺漏を想像力を駆使して精査し、仮説を立て、読み解いていく能力はずば抜けている。スパイにも色々いるが、スマイリーは何よりも知性派で、冷静にして沈着。仲間や部下からの信頼も厚い。敵にすると厄介な相手だ。

そのスマイリーが息子のように接する若者がピーター・ギラム。もちろん、先に挙げた二作にも登場する。ただし、それほど重要な仕事はしていない。サーカスと呼ばれる情報部の中に保存されている資料を、そこを追われ、自由に見ることのできないスマイリーのために盗み出してきたり、スマイリーのための運転手をつとめたりする、要は手足となって働く、最も信頼のおける助手という立場。

『寒い国から帰ってきたスパイ』の主人公アレック・リーマスの友人で、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の中では、ジョージの片腕として、サーカスに潜入中の二重スパイの割り出しを手伝ったピーター。他の重要なメンバーと比べると歳が若く、今までそれほど重視されてこなかった。『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』を原作とする映画『裏切りのサーカス』でピーターを演じたベネディクト・カンバーバッチの人気にあやかった訳でもないだろうが、ここにきて一気に主役に躍り出た。

今は退職し、ブルターニュ年金生活を送っているピーターにサーカスから呼び出しがかかる。本来ならジョージに声がかかるはずのところ、行方がわからないためピーターの出番となった。かつて彼らが関わった作戦の犠牲者となったスパイの遺児が、情報部相手に訴訟を起こした。当時を知る関係者としての協力要請だが、平たく言えば尋問である。作戦というのは、ベルリンが壁で分断されていた時代、東独の情報部(シュタージ)に属する大物スパイを二重スパイとして使う案件で『寒い国から帰ってきたスパイ』はそれを扱っている。

当時、それを担当していたのがアレック・リーマス。原告はリーマスの息子。サーカスの判断の誤りが父親を殺したというのが、その理由だ。保管されているはずの大量の資料がサーカスから持ち出されており、裁判に勝つためには、まずその資料探しから始めねばならなかった。ピーターには資料の無断持ち出し容疑がかかっていた。はじめは渋ったピーターも徐々に重い口を開いてゆく。それは忘れようにも忘れられない苦い思い出だった。かつて愛した女性の死がからんでいたからだ。

こうして、回想される過去の出来事と、自身のスパイとしての在り方を振り返る現在が交互に語られる。複数の時間にまたがる回想視点と現在時の語りが絶妙に絡み合い、スパイという特殊な任務に就いた男女の通常でない心理や情愛の葛藤が描き出される。リーマスやその恋人が操り人形だとしたら、それを動かしていたのはジョージだ。そしてピーターは人形に結びつけられた糸だった。これは『寒い国から帰ってきたスパイ』の世界を、当時、事態を裏で動かしていた立場の者の視点で書き表した小説だ。
目的のためには手段を選ばず、時と場合によっては相手が友人であっても素知らぬ顔で足元をすくい、持てる魅力を最大限に駆使して純情な女性をスパイの愛人に仕立て上げる。いったい何のために、という問いは使命の前に押し殺してきた。それでも、胸の中には悔いや憾みがいつまでも残っている。尋問に用意された机の上に山のように積み上げられた資料が老いたスパイの心をえぐり、回想視点で語られる若いピーターの葛藤が生々しく甦る。

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』で、「もぐら」と呼ばれる二重スパイによって散々な目にあわされたサーカスのその後が描かれているのも興味深い。かつてのサーカスの記憶を手繰り寄せるピーターの視線が、現場を離れた者にありがちな懐旧的視点によって語られるのも共感できるところ。旧世代の目には今の情報部が形式主義に走り過ぎているように見える。隠された書類を見つけようと部屋中を引っ掻き回しながら、廊下に置かれた自転車を見逃すのがそれだ。情報化社会に慣れた今のスパイには紙の資料をどこに隠すかといったアナログな視点がそもそも欠けているのだ。

過去の作品を素材にとり、再度別のアングルから描き直すとともに、歳をとった当人に若い頃の自分を振り返らせる試みが功を奏している。過去のしがらみから解き放たれることのない老スパイの追想には英国情報部に籍を置いていた作者の心境が反映されているのかも、と考えたくなる。細々とした報告書やメモを通して、隠された事実を前面に引き出してくるのがル・カレの真骨頂。報告書の客観的な叙述と裏腹に、書き手のみが知る、語られることのなかった真実が赤裸々に告白される、その対比が鮮やかだ。余韻の残る終わり方にも好感が持てる。

『ふたつの人生』ウィリアム・トレヴァー

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アイルランドを舞台にした「ツルゲーネフを読む声」と、イタリアを舞台にした「ウンブリアのわたしの家」という中篇小説が二篇収められている。どちらも主人公が女性。『ふたつの人生』という書名は、この二人の人生を意味している。作者のウィリアム・トレヴァーは短篇小説の名手として知られている。短篇では、いろいろな人々の人生のある局面を鮮やかな手際ですくい取るその切り口と人間観察の鋭さにいつも感心させられるが、中篇には、また別の魅力がある。

かなり長い時間をかけて一人の人間の人生を追うことになるので、単調にならないように構成が工夫されている。「ツルゲーネフを読む声」では、小説内に二つの時間軸が設定されている。一つは、主人公に結婚話が舞い込むところから。もう一つは、それから四十年たって、施設で暮らしていた老嬢が、もと居た家に帰ることになり、夫が迎えに来るところから始まる。

読めば分かることなので明かしてしまうが、老嬢は主人公メアリー・ルイーズと同一人物。つまり二つの時間は過去と現在を表している。同時進行する二つの話を読み比べながら、読者はメアリー・ルイーズが何故、精神病院に入ることになったのか、その理由をまだ若かったころのメアリー・ルイーズの物語から探ろうとするにちがいない。それが、作家が読者という、長い小説に気乗り薄な馬に、先を急がせるために鼻先にぶら下げた人参である。

メアリー・ルイーズの夫エルマーは悪い人ではない。妻を愛しているし、勤勉でその暮らしぶりも質素である。ただ、かつての名家も今は落ち目。同居する二人の姉は未婚で跡継ぎが生まれなければ家は遠縁の手に渡ることになる。家柄にプライドを持つ姉たちは農家の娘との結婚を認めたがらず、事あるごとに嫁に辛くあたる。エルマーは二人の姉に頭が上がらず、充分に妻を守ってやれない。メアリー・ルイーズにとって店の休みの日曜日、自転車に乗って実家に帰ることだけが心の慰めだった。

結婚することは別の家族の一員になること。町で商売をする家と農場を営む家とは世界がちがう。新しい世界に受け入れられず、自らも溶け込むことができないメアリー・ルイーズが見つけた自分だけの世界というのが、いとこのロバートが朗読してくれたツルゲーネフの小説の世界だった。ようやく心が通じる相手を見つけたメアリー・ルイーズを更なる不幸が見舞う。もともと病弱だったロバートの早過ぎる死だ。

どんどん自分の世界に入り込んでゆくメアリー・ルイーズと、その隠された秘密を知ることのない周りの人々との間に目に見えない高い塀のような物が積み上げられていく。塀の内側にはメアリー・ルイーズの愛する物が集まり、聞こえて来るのはツルゲーネフの小説世界。人物の名はみなロシア風だ。塀の外では現実のアイルランドの生活が営まれる。小説の世界の中では主人公の奇矯な振舞いの理由を知る者はいない。ただ、読者は知っている。この登場人物は知らないが、読者は知っているというところがミソだ。

メアリー・ルイーズが創り上げた世界は完全な虚構の世界である。傷つきやすい柔らかな内部に入り込んだ異物を、分泌物で包むことで、自分が傷つかないような球状に作り上げてゆく真珠貝のように、メアリー・ルイーズは精神病院に入ることで自分一人の世界を守り続けた。そして、病院を出た後は、現実の世界の中にそれを位置づけようと策略を巡らし、それを成功させるはず。虚構の中に人間の真実を描き出すことにかけて、作家ほど長けた人はいない。メアリー・ルイーズという人格は小説家の隠喩かもしれない。

「ウンブリアのわたしの家」は、ロマンス小説の作家が主人公。ひと口には言えない人生を送ってきたエミリー・デラハンティは五十六歳でイタリアのウンブリアに家を買う。ホテルに泊まれない旅行者に宿を提供するペンションのようなものだ。そして、夜はロマンス小説を書いている。そのエミリーがミラノに出かけた帰り、列車内で爆弾テロに遭う。多くの死傷者が出た。彼女も怪我をしたが、幸いなことに助かった。ただ、書きかけていた小説は頓挫した。あれほどあふれ出ていた言葉が出なくなってしまったのだ。

彼女は同じ事件で傷ついた三人の客を自分の家に招待する。退役した将軍は妻と娘とその婚約者をなくした。オトマーというドイツ人の青年は片腕と恋人を失った。エイミーは両親と兄と言葉を失っていた。悲劇に見舞われた者同士が寄り添い、時間をかけて回復していこうと思ったのだ。そうした中、孤児となったエイミーの叔父というアメリカ人学者リバースミスがエミリーの家にやってくる。

ロマンス小説の作家である主人公は他人の感情や思考を読み取ることができると思い込んでいる。その過剰な思い入れは、他人の事情を勝手に作り上げてしまう。そんなエミリーとリバースミスの実務的な気性とが真っ向からぶつかって起こすちぐはぐさが尋常でない。視点はエミリーに寄り添っているので、ややもすれば、エミリーの語ることを信じたくなるのだが、どこまでが彼女の想像で、どこからが真実なのか読者には知ることができない。もしかするとすべてが妄想かもしれないのだ。

なにしろ、彼女の頭の中ではテロ事件を起こした、まだ見つからない犯人はオトマーで、時限爆弾は恋人がイスラエルに持ち込む荷物の中にあったことになっている。この「信頼できない語り手」という方法を最大限に生かすことで、この小説は成り立っている。主人公の作家の口を通じて、小説がどのように書かれるかが詳しく語られるのだから、これはもしかしたらウィリアム・トレヴァーの創作方法と重なるのかも、と思いかけて、いやいや、その手に乗るものか、と思い直した。なにしろ、語り手は妄想を膨らませる名人なのだ。

トレヴァーが亡くなったと聞いた時、ああ、これでもう作品が書かれることはないのだなとがっかりしたものだが、未訳の作品がまだあるらしく、同じ訳者によって準備されているという。新作が読めないのが残念だが、また読めるのはありがたい。これからも楽しみに待ちたい。