青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ジャック・オブ・スペード』ジョイス・キャロル・オーツ

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人は自分の見たいものだけを見て、見たくないものは見ないで生きているのかもしれない。ごくごく平凡な人生を生きている自分のことを、たいていの人間は悪人だとは思っていないだろう。でも、それは本当の自分の姿なのだろうか。もしかしたら、知らないうちにずっと昔から自分の心や記憶に蓋をして、自分の見たくない自分を、自分から遠ざけ続けてきたのではないだろうか。ふと、そんなことを考えさせられた。

どちらかと言えば苦手な世界を得意とする作家なのに、『邪眼』、『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』で、ハマってしまったジョイス・キャロル・オーツの長篇小説。まあ「とうもろこしの乙女」も、かなり長めの中篇だったから、長篇小説の技量についても疑ってはいない。冒頭、いきなり斧が振り回されるので驚かされるが、次の章からは実に微温的な書きぶりに落ち着いてくるので、ほっとする。だが、これも仕掛けのうちだった。

ニュージャージー郊外の屋敷に妻と二人で暮らす、アンドリュー・J・ラッシュは五十三歳。「紳士のためのスティーヴン・キング」と称される「少しだけ残酷なミステリー・サスペンス小説のベストセラー作家」だ。作品は適度に、不快でも不穏でもない程度の残酷さを持つが、卑猥な描写も、女性差別的なところもない。善意の寄付にも熱心な地元の有名人でもある。そう書けば、ほのぼのとしたストーリーが想像されるが、この作家を知る者なら誰もそんなことは信じない。

アンドリューには秘密がある。大したことではない。「ジャック・オブ・スペード」という別名で、ノワール小説を書いているのだ。ある程度キャリアが安定してきた作家にはよくあることで、「別人格」を作りあげ、全く異なる世界に挑戦したくなるものだ。別人格の作家、ジャック・オブ・スペードは「いつもの私とは違って残酷で野蛮で、はっきりいって身の毛のよだつ作家」である。そのアイデアが浮かぶのは真夜中、奥歯が勝手に歯ぎしりして目を覚ますと、小説のアイデアが浮かんでいるという。

もうお分かりだろう。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』に代表される解離性同一性障害をテーマにした作品であることの仄めかしである。ただし、薬品によって別人格に変わるジキル氏とちがい、アンドリューは作家として別人格を作り、その名前で小説を書いているだけのことで、故郷の田舎町に住む有名人としては、血まみれの大量殺人が売り物の「身の毛のよだつ作家」が自分だと知られることは避けたくて家族にも秘密にしている。

その完全な隠蔽がふとしたことで危うくなる。出版社が送ってくるたび、地下室の書棚にしまうはずのジャック・オブ・スペードの新作が、机の上に放置されていて、たまたま帰郷していた娘の目に留まる。それは娘の過去の出来事が素材になっていた。誰も知るはずのない私事をなぜこの作家は知っているのか、娘は父に迫るが、偶然の一致というやつだろうとその場は切り抜けた。

さらに厄介な事件が起きる。ある日裁判所から出廷命令書が届く。地元のC・W・ヘイダーという女性がアンドリューを窃盗の罪で訴えたのだ。身に覚えのないアンドリューはパニックに陥る。第一、何を盗んだというのか。裁判所に電話をしてもらちが明かないので、直接本人に電話すると、その女はアンドリューが自分の書いたものを盗作している、と怒鳴り出した。弁護士に言わせると、その女は過去にスティーヴン・キングその他有名な作家にも同じ訴訟を起こしているという。

アンドリューは弁護士に出廷するには及ばないと言われていたにもかかわらず、のこのこと変装までして裁判所に出かけてゆく。それからというもの、ボサボサ髪をした老女の顔や声が、頭にとりついてしまい、執筆に集中できなくなってしまう。証拠として裁判官が朗読した自分の文章が紋切型でつまらないもののように聞こえてしまったのが原因だ。自分をこんな目にあわせた相手を憎むアンドリューの頭の中で、ジャック・オブ・スペードの声が聞こえだす回数が増えてくる。

自分に危機が起きると第二の人格が目を覚まし、過剰に防衛機制をとる。ここでアンドリューに起きているのがそれだ。温厚篤実で良き家庭人、良き夫を任じていたアンドリューに変化が現れてくる。酒量が増え、妻が言ったことを聞きもらす回数が増える。しかし、それが自分のせいだと思えず、妻を疑い、うとましく思うようになる。次第に妻は家を空けることが増え、夫は不倫を疑いはじめ…と事態は思わぬ方向へ。

別人格を抑圧する決め手となる「兄弟殺し」の記憶は『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』所収の「化石の兄弟」、「タマゴテングダケ」にも登場する主題で、そこでは双子の兄弟という関係になっている。双生児とは、ある意味もう一人の自分である。もう一人の自分を抑圧することで自分を自分として確立しようとする、その確執と葛藤が主要なテーマとしてジョイス・キャロル・オーツの作品に繰り返し現れていることが見て取れる。

幾つもの変名を使って、別種の本を書くミステリー・サスペンス作家という自分のキャラクター、さらには自分に起きた過去の盗作疑惑までネタにしつつ、小説のアイデアというもののオリジナル性の不確かさや、自分が思いついた物語にはどこかに起源があるのではないか、という作家ならではの拭い去れない恐怖が、生々しいほどに表現されている。せんじ詰めれば、オリジナルなものなどない。すべてはすでに誰かによって書かれている。それを如何に自分のものとして再創造するのか、という主題を扱う手際がこの作家らしい。

『監禁面接』ピエール・ルメートル

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原題は「黒い管理職」という肝心の中身をバラしかねない題だ。邦題の方は、まさにピエール・ルメートルといったタイトル。しかし、カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの持つ嗜虐趣味と謎解きの妙味はない。仕事にあぶれた中年男が持てる力を振り絞って、地位と金を手にしようと必死にあがく姿をサスペンスフルに描いたクライム・ストーリーである。

五十七歳のアランは目下失業四年目。僅かな金のために働く仕事先で、足蹴にされたことに腹を立て、上司に頭突きを食らわせる。それで失職し、訴訟を起こされる。二進も三進もいかなくなったアランのところに、応募していた大手の人材コンサルタント会社から書類審査に通ったという手紙が来る。キツネにつままれたような気持ちで筆記試験を受けると、これも合格。面接試験を受けることに。ところが、最終的に四人にしぼられた候補者の中から一人を選ぶ試験というのが問題だった。

そのコンサルタント会社では、ある大企業の大規模な人員整理を担当する人材を探していた。最終的に絞った五人の候補者の中から一人を選ばなければならない。大規模な人員整理となれば反対運動がおこるのは目に見えており、それに動じることなく冷静に判断を下せる者を見極めるには通常の試験では難しい。コンサルタント会社の考えたのはとんでもない方法だった。

試験と称して候補者を一室に集め、そこをゲリラに急襲させる、というものだ。もちろん犯人グループは偽物で、武器その他も実弾は入っていない。しかし、事実を聞かされていない候補者たちはパニックに陥るに決まっている。そういう場面でも冷静に判断を下せる人材は誰か、を見極める試験官を別室に潜むアランたちにやれというわけだ。候補者たちに候補者を選ばせるという一石二鳥の名案だった。事件が起きるまでは。

小説はアランの視点で面接までの経過を記す「そのまえ」。「人質拘束ロールプレイング」のオーガナイザー、ダヴィッド・フォンタナの視点で事件の経緯を記す「そのとき」。そして、またアランの視点で事件のその後の出来事を描く「そのあと」の三部で構成されている。これが実にうまくできていて、この小説の鍵を握っている。

アランには美しい妻と二人の娘がいる。姉のマチルドは銀行家と結婚し、妹のリュシーは弁護士だ。幸せを絵に描いたような生活は、アランの失職で一気に瓦解する。妻の働きのせいで、なんとか暮らしてはいけるものの、着古したカーディガン姿の妻を見るたびに、自分の力のなさが思いやられ、アランは娘たちにも引け目を感じている。フランスの話だが、日本に置き換えても何の不都合もない、身につまされる境遇に主人公は置かれている。

ついこの前までは同じ位置にいた者に足蹴にされたら、誰だってプライドが傷つく。ましてや五十代のアランはまわりからおやじ扱いを受ける身だ。ふだんはキレたりしないが、再就職の口が見つからずイライラしていたところでもあり、つい暴力をふるってしまう。最初に暴力に訴えたのは相手だが、その上司は目撃者を買収することで裁判を有利に進めようとする。買収されたのは金に困っていた同僚で、証言を変えるはずもなかった。

アランとしては、コンサルタント会社の面接に合格するしか道はなかった。まずは、その大手企業と匿名の候補者について知ることから始めねばならなかった。探偵会社を雇い、調べさせることはできるが、それには金がいる。娘の夫に借金を申し込むが断られ、娘を説き伏せ、新居のために積み立てた資金を取り崩させて探偵社に払う。もう一つ、人質拘束事件について実際に知っている人に話を聞きたいとネットに投降した。これにも元警察官のカミンスキーから連絡があり、彼の指導で練習を積み準備はできた。

だが、作者はピエール・ルメートルだ。そうやすやすと話は通らない。コンサルタント会社に勤める女からアランに電話がある。会ってみると、面接は見せかけで、採用者はすでに決まっている。アランはただの当て馬だという。この試験のために娘の新居の資金をふいにした。これが駄目なら裁判に勝てる見込みはない。自暴自棄に陥ったアランはカミンスキーから拳銃を手に入れ、試験会場であるコンサルタント会社に出向く。

見せかけの「人質拘束ロールプレイング」が途中から本物に変わる。コンサルタント会社の担当者も、オーガナイザーのフォンタナも、事態の急変を予期できなかった。「そのとき」で、事件の実況を受け持つフォンタナは傭兵経験を持つ百戦錬磨のつわものだ。その男の目に映るアランの姿は単に試験のために緊張しているにしては異様だった。その男はアタッシュケースからやおら拳銃を取り出すとその場を仕切りはじめるのだった。

怒りに任せての復讐劇かと思わせておいて、「そのあと」で描かれる事件の顛末がいちばんの読みどころ。まるで映画のような見せ場がいっぱいだ。拘置所内でアランを襲う恐怖。娘リュシーの弁護のもとに行われる裁判劇。本業である自分が一杯食わされたことに腹を立てるフォンタナとアランの手に汗握る駆け引き。息もつかせないカー・チェイス。初めはもったりとしたテンポではじまった話がハイ・スピードで走り出す。

話自体には、それほどの新味はない。ただ、アランを助ける友人その他のキャラが立っていて、くたびれた中年オヤジにしか見えなかったアランも、ひとつ場数を踏むたびに逞しくなり、勘は冴えわたり、巨悪を相手に一歩も退かないところが、だんだん頼もしく目に映るようになってくる。家族を愛する男はこうまで強くなれるものか。結末は万々歳とはいかない。いろいろと無理がたたって、ほろ苦い後味を残す。しかし、一皮むけたアランの明日にはかすかな灯りがほの見えてもいる。

カミーユものとは一味ちがう、ピエール・ルメートルの小説家としての多面的な才能がうかがえる作品である。はじめは、さえない中年男の話かと少々だれ気味に感じられていたものが、ギアが切り変わるたびに加速されるような感じで、一気に加速すると、あとは一気呵成だ。息つく暇もなく読み終えてしまった。

『モラルの話』J・M・クッツェー

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「犬」「物語」「虚栄」「ひとりの女が歳をとると」「老女と猫たち」「嘘」「ガラス張りの食肉処理場」の八編からなる、モラルについての短篇集。はじめの二篇を除く六篇は、一人の年老いた老作家エリザベス・コステロをめぐる、ある一家の物語。時間の推移通りに配された連作短篇として読むこともできる。エリザベス・コステロは、クッツェーの同名の小説の主人公で、クッツェーアルター・エゴといえる。

仕事の往き帰りにその家の前を通るたび猛犬に威嚇される。雄犬は「彼女」が体から発する匂いか何かで自分を恐れていることを知覚し過剰に反応するらしい。それは怒りであり、情欲でもあると「彼女」は考える。雄犬は強い獣として弱者を威嚇すると同時に、雄として雌を征服する喜びを二重に感じているのだろうか。

屈辱的な恐怖感を自分で制御できない「彼女」は、人間が堕落していることの証明は自らの身体の運動(勃起)を制御できないことだ、というアウグスティヌスの言葉を思い出す。犬と関係性を作ろうとして飼い主に話をするが相手にされない。キレた「彼女」が「人間の」言葉で犬を罵るところで話は唐突に終わる。「犬」には、性、動物と人間、暴力、といった本書の主要なテーマが鏤められ、序章の役目を果たしている。

「物語」のテーマは不倫。夫に内緒で別の男との情交を楽しんでいる「彼女」には疚しさというものがまったくない。夫を愛しているが、夫のいない時間はただの自由な自分に戻るだけのことだ。保守的な「彼女」は、いつかこの関係が終わったら、結婚している女に戻ることも知っている。「彼女」はモラルに反しているのか。モラルをストレートに問う一篇。

エリザベス・コステロと、その家族を扱う連作短篇が読ませる。エリザベス・コステロは、オーストラリア出身で、六十歳をこえた今でもポレミックな姿勢を崩さない。簡単には人の意見に同調することのない、この老作家と息子たちの対話が実に愉しい。中心となる話題は、老いつつある作家の一人暮らしだ。心配する二人の子の思いは分かるものの、自分の人生は自分の思うように生きたい老人のこだわりはいつもすれちがう。

「虚栄」では家族が六十五歳の誕生日を祝うために母親のアパートに集まる。その前に現れた母親は髪をブロンドに染めてドレスアップしていた。家族は驚くが、母親は「ずっとこのままってことではないの」「この人生でもう一度か二度、ひとりの女が見つめられるように見つめられたい」と言う。しかし、帰りの車では、あのまま放っておくと義母は傷つくにちがいない。自分をコントロールできていない、とジョンの妻ノーマは言う。

実の息子と娘は、母親のすることに驚きはしても批判はしない。批判してやめる母親ではない。ノーマもそれは知っているから、その場では口をはさまない。もともと現実離れした世界で生きてきた人なのだ。「若いときは問題がなかった。でもいまはその現実離れが(略)彼女に追いつきはじめた」とノーマは言う。微妙なのは、あのまま放置しておいて、義母が傷ついた時「その責任が私たちに降りかかってくる」というところだろう。

「ひとりの女が歳をとると」では、ヘレンがギャラリーを運営するニースに母がやってくる。同じ頃、アメリカにいるジョンも渡仏する。母親は、これには企みがあると考える。案の定、二人は同居を提案する。ニースでもアメリカでもいい。どちらかを選んだらいい、と。もちろん、母親は同意しない。まだまだ一人でやっていける、と。母と娘、母と息子それぞれの間で交わされる会話がいい。作家の脳内対話なのだが、実に生き生きしている。

子どもたちは母を心配し、同居を考え、それを拒否されると、施設への入居を勧める。放っておくと母親の頭と体はどんどん衰え、最悪の場合、孤独死だ。それを止めるのが子どもの義務だと考えている。が、ジョンとヘレンにとってはそれだけではない。本当に心配なのだ。同居も施設も最良のものを準備しての提案である。第三者的にはこれ以上ないような提案に思える。

一方、親は遠くで誰の世話にもならず、死にたいと思っている。思いやりは迷惑とまではいわないが、子どもに要らない心配をかけたくない。それに、死ぬまでの間にはやりたいことや考えたいことがまだまだある。子どもとの同居や施設への入所は、その邪魔になるだけだ。体や頭の自由がきく間はそれでいけるだろう。だが衰えは知らぬ間に進んでいる。

「老女と猫たち」では、母親はスペインの田舎に隠遁している。そこへジョンが訪ねてくる。母の家には露出癖のあるパブロという男が同居している。施設に収容されるところを母が保護を名乗り出たのだ。それに十数匹の猫も。村を出た人々が飼っていた猫を捨て、野良猫となった。村人は野良猫を見つけると撃つか罠で捕らえて溺死させる。それで母が保護している。当然、村人は面白くない。母親は村で孤立している。

人と動物について、選択と行動等々、哲学的ともいえる会話が母と子の間で交わされる。老いた母は議論で相手を言い負かせたい訳ではない。ただ最後まで自分の生き方を通したいだけなのだ。猫を保護するのは「数が多すぎるという理由で、母親から引き離されて溺死させるような世界に私は生きていたくない」からだ。人間だったらどうなのかという問いがそこにはある。結局ジョンは母を説得できない。

「老女と猫たち」の内幕をジョンの視点で語るのが「嘘」。ジョンは母が転倒したことを知り、慌てて飛んできたのだ。足腰の弱った母に施設への入所を提案する息子に「本当の真実」を言えと母親は迫るが、息子の口からは言えない。妻になら言える。それで手紙を書く。異国の寒村で痴呆の男に看取られて死ぬかもしれない母親に寄せる息子の切々とした心情が綴られる。親を施設に入れた身として、今はジョンに肩入れして読んでしまうが、そのうち立場が入れ替わるのも承知だ。身につまされる。

「ガラス張りの食肉処理場」では、いよいよ知力が衰えてきた老作家は息子を頼る。自分のことではない。人間が他の動物を食べるという問題について、考えるための施設を作れないか、という電話だ。それからいくつもの断片的な文書が送られてくる。人間と動物について書かれた本の書評やら、書きかけの作品。中にはダニを馬鹿にするハイデガーが弟子のハンナ・アーレントに対してはダニと同じことをしている、と揶揄する文章まである。もう自分では、まとめることができなくなっていることを自覚して息子に後を託しているのだ。

明晰で直截的。紛らわしいところや仄めかしを残さない。辛辣さをユーモアで塗したエリザベス・コステロの断簡は、勿論クッツェー自身の手になるもの。大きめの活字でゆったり組まれた組版は、老眼に優しいが、書かれている中身は決して優しくない。しかし、エリザベス・コステロとジョンの思弁的な対話には思わず引き込まれる魅力があり、ナイーヴなテーマを恐れず追究する態度は感動的である。傍らに置いて何度でも読み返し、余白に書き込みを入れたくなる、そんな一冊。未読の『エリザベス・コステロ』も読んでみたくなった。

『ヴェネツィアの出版人』ハビエル・アスペイティア

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『ポリフィルス狂恋夢』という絵入り本の話を初めて読んだのは澁澤龍彦の『胡桃の中の世界』だった。サルバドール・ダリの絵の中に登場する、飴細工を引き延ばしたように細長い足を持ち、背中にオベリスクを背負って宙を歩く象のイメージも、この本の中に収められている一葉の木版画に基づいていると紹介されていた。

作中『ポリフィロの狂恋夢』という書名で語られる面妖な本はフランチェスコ・コロンナ作と伝えられるが、実作者の名は明らかではない。しかし、出版した人物は奥付により明らかにされている。ヴェネツィアの出版人アルド・マヌツィオその人である。澁澤の本にもアルドゥス・マヌティウスの名で登場している、商業印刷の父とも称される十五世紀イタリアの出版人である。

タイトルからも分かるように、この小説は、そのアルド・マヌツィオが、ヴェネツィアを初めて訪れたその日から、愛する妻に看取られて死を迎えるまでの波乱に満ちた半生を、黒死病の蔓延する水の都ヴェネツィアを舞台に、ピコ・デラ・ミランドラやエラスムスといったルネサンスを生きた人文哲学者との交友をからめて、華麗に描き上げた歴史小説といえる。また、その影響力、伝播力を恐れて教会権力が出版を認めない当時の発禁本を秘密裡に印刷、出版しようと苦闘する出版人の努力を描くものともいえる。

何よりも興味深いのは、当時のイタリアの出版事情をその当事者の目から描いていることだ。当時の本は重くて大きく、台の上に置いて読むものだった。それを誰もが片手で持ち運べるポケットサイズの八折り版でギリシア古典を出版したのがアルドだった。その組版や活字には、熟練の活字工フランチェスコ・グリッフォの存在があった。イタリック(斜字体)の活字を考案したのも、この活字父型彫刻師の存在に負うところが大きい。

注釈なしのギリシア語で古典文学を出版するのは、ラテン語に訳されたアリストテレスを読んでいた当時としては大胆な試みだった。しかし、ドージェの息子やピオ王子の家庭教師をしていたアルドには、学生にとっては手軽に持ち歩けるギリシア語の古典文学全集の必要性が分かっていた。資本も印刷所も持たないアルドはヴェネツィアで手広く出版業を商っていたアンドレア・トッレザーニに協力を仰ぎながら、出版人への道を歩きはじめる。

ギリシア語の文学書を出し続けながら、アルドが秘かに出版を考えていたものがある。それはフィレンツェで同じ師匠に学んでいた学友のピコ・デラ・ミランドラに託された二冊の本の出版である。それが前述の『ポリフィロの狂恋夢』であり、もう一つがエピクロス作『愛について』である。この本では『ポリフィロの狂恋夢』の作者はピコ・デラ・ミランドラその人という大胆な設定がされており、エピクロスの本については、驚異的な記憶力を誇るピコが全篇を記憶したものを写本にしたという設定である。

『ポリフィロの狂恋夢』が、実際に出版された書物としてアルド・マヌティオの名を高めたタイポグラフィ史上の傑作であるのに対して、エピクロスの書物については詳しいことは残されていない。エピキュリアン(快楽主義)という名のもとになったことから、誤解されがちだが、快楽というのは肉体的快楽ばかりを意味するのではなく、むしろ精神的な快楽を意味するものであったとされているが、作中ではかなり性的な快楽の書であるという理解の上に位置付けられている。

それ故に。キリスト教との対立が生まれ、サヴォナローラの命を受け、異端の書を闇に葬るために暗躍する写本追跡人が、アルドが秘かに隠し持つピコの写本に目をつけ、執拗にそれを奪取し、火の中にくべようとアルドを追い回す。カトリック教徒であるアンドレアもまた、教会側の意を汲み、アルドの目論見を阻止しようと、折につけ出版の邪魔をする。一方で、自分の事業にとってアルドの見識を誰よりも必要とするのがアンドレア。それ故、自分の愛娘マリアを年の離れたアルドの妻として結婚させる。

ユダヤの血を引きながら、ユダヤ教にもキリスト教にも帰依しないアルドは、それでいながら女性との間には距離を置き、仕事ひとすじの人生を送ってきた。歳を経ての結婚には二の足を踏み、何とかマリアとの結婚を回避しようとするが、アンドレアの策謀によって結婚式は挙行される。初夜の床に就くのを拒否するアルドに対してマリアのとった行動が大胆で、その後のマリアの生き方に真っ直ぐつながっている。

学識はあるのだろうが、優柔不断で行動力の伴わないアルドに対し、ギリシア語も解し、印刷出版業についても熟知しているマリアという女性の魅力が際立つように描かれる。アルドの息子パオロは、父の偉業を後世に伝えるために伝記を書こうとして、若くして死に別れた父の真の姿をマリアに尋ねようとするが、母はそれに対して口を濁す。序章に記されたその事実が、後のアルドの実人生の持つ深い意味を物語る。

アルドの偉業を支えたのは、単にグリッフォだけでなく、妻であるマリアの存在が大きかったのだ。パオロには聞かせなかったヴェネツィアの出版人アルド・マヌティオの真の物語をその妻のマリアの記憶が語ったのが、この『ヴェネツィアの出版人』という物語。歴史的事実に作家の大胆な想像力が生み出した、ルネサンスを生きたであろう人々の破天荒な生き方を絶妙の筆加減で配したビブリオテカ・ロマンとでも名付けられそうな異色の小説。本好きな読者にこそおすすめしたい。

 

『英国怪談珠玉集』南條竹則編訳

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ただ「怪談」と聞くと川端の枝垂れ柳や、枯れ薄の叢の中の古沼、裏寂れた夜道といった妙に背筋が寒くなる風景を思い描いてしまいそうになる。それが、前に「英国」という二文字が着くと、急に座り心地のいい椅子や、炉端に火が用意された落ち着いた部屋のことを考える。別にどこでもよさそうなものだが、「英国怪談」を読むには、いかにも彼の地の幽霊が出てくるにふさわしい環境が用意されていなければいけないような気がするのだ。

紺地に赤と金で唐草文様を配した豪奢な装丁の本である。厚さだけでも相当なものだが、持ち重りする大冊である。寝転がって読むというわけにはいかない。手持ちの書見台に置いて読もうとしたが、想定される厚さを越えているためページ押さえが使えず使用不可となった。机の上に直に置くと読むために首を傾けなくてはならず、長時間続けば首が痛くなる。仕方がないのでオットマンに足を載せ、腿の上あたりを支えに、革のブックカバーを被せて両手で持ちながら読んだ。

有名無名の作家二十六人からなる三十二篇のアンソロジー。アルジャノン・ブラックウッドやら、アーサー・マッケン、ウォルター・デラメーアといった名の売れた作家の他にもホーレス・ウォルポールの息子のヒュー・ウォルポールや、H・G・ウェルズ、最近立派な本が出たフィオナ・マクラウド、それにエリザベス・ボウエンのような作家も含めた多彩な顔触れである。短篇、それもかなり短いものも多いので、一日に少しずつ読む愉しさがある。

英国怪談は、大半が幽霊譚である。古く由緒のある建築が都市にも田舎にも残っていて、またそういう古いものを悦ぶ気質がある。またどの家の箪笥の中にも骸骨が仕舞われている、という意味の諺もあるくらいだから、人が何人か集まれば、その類の噂話に事欠かない。また、好んでそういう話を聞きたがる人種もいる。そんな訳で、語り手が誰それから聞いた話を、その座にいる人々に語って聞かせるというスタイルの話が圧倒的に多い。

よく、犬は人につき、猫は家につくと言われるが、日本の幽霊は害をなした人に祟ることが多く、英国の幽霊は事の起きた場所に居つくことが多いように思う。無論、例外もある。この本にも殺した人の前に現れる幽霊の話も出てくるが、あまり陰惨にならないのはお国柄か。柵に腰かけた幽霊やらピアノを弾きまくる陽気な道化の幽霊やらが登場する。

すべては紹介できないので、いくつか紹介しよう。ストーク・ニューウィントンにあるというキャノンズ・パークの不思議を語るアーサー・マッケンの「N」は、ロンドンという大都会の中に迷い込んでいく経験のできる作品。普通の通りなのに、その窓から眺めるとまるでこの世のものとも思えない美しい風景が見える、しかし、二度と目にすることがかなわない、という話。何人もが経験した不思議の秘密を考える謎解きの興味も付されている。日常の中に怪異を見つけるのが得意なマッケンらしい一篇。

自家用車を駆って、低地地方を訪れた旅人が石造りの古めかしい館で遊ぶ子どもを見かけ、主人らしい目の不自由な婦人と懇意になり、何度かその館を訪れるようになる。『ジャングル・ブック』で有名なラドヤード・キップリングの「彼等」。子どもを産んだことのない女性が、自分は声しか聞こえないのにあなたは見ることができて幸せだ、と旅人にいうのだが、実はその館に集まってくるのは、とうに死んだ子たちなのだ。彼女が子どもを愛するから集まってくるという。怖さの欠片もない、子を思う愛しさに満たされた怪談である。

集中最も怖かったのが、H・R・ウェイクフィールドの「紅い別荘」。休暇を過ごすため田舎の一軒家を借りた家族が出遭うことになる怪異譚。アン女王様式の家は立派で庭園もついており、木戸から川にも出ることができた。ところが、着くやいなや胸騒ぎを覚える。先に到着していた息子は川遊びを嫌がるし、妻も加減が悪そうだった。そのうちに次から次へと異様なものを目にするようになる。昔のことを知る人に話を聞くと、とんでもない曰くつきの物件だった。次第に高まってゆく恐怖が、怪談の妙味。

掉尾を飾る「名誉の幽霊」が先に紹介した道化の幽霊がピアノを弾きながら卑猥な歌を歌うという落とし噺風の一篇。客を迎えた夫婦が、自分の家に幽霊が出ることを隠しもせず、むしろ面白がるだろうと考えて、いろいろ幽霊のことを紹介するのが面白い。客も今さら怖いとも言えず、幽霊が生ける人間には顔を見せない、という一言に救われてその家に泊まる。ところが、夜半に現れた幽霊は何のことはない顔を平気で見せる。約束が違うと文句を言う客に幽霊が語る理由がオチになっている。

少し値は張るが、書架に愛蔵するにふさわしい、近頃珍しい函入り上製本である。作家によって文体を変えて訳されているのも嬉しい。南條竹則氏編訳。以前に文庫などで出された作品を改めて纏めたものだが、訳し下ろしも七篇入っている。そのどれもが読み応えのある作品ばかり。これらを読むだけでも手にとる価値があると思う。

抜け毛の始末

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前よりは量が少なくなったけど、やはり、カーペットに抜け毛が点々と落ちているのが気になっていた。朝、起きると妻が

「ニコ、やっぱりお医者さんに行かなきゃいけないみたい」

「えっ、どうして」

「首の後ろが地肌が見えてるの」

そう言って長い毛をかき分けて見せようとするのだが、よく分からない。

とにかく病院が開いてすぐに予約を入れた。ニコは車に乗るのが嫌で、病院に着くまで泣きづめだ。ほぼ待ち時間なしに診てもらえた。

先生の話では、やはり、シャンプーに反応したのではないか、ということだった。ノミの心配もしたが、診断の結果その気配はなかった。地肌の見えるところにはアンダーコートが生えてきていた。一応黴菌があるかどうか顕微鏡でも見てもらったが、何も見つからなかった。

とりあえず、痒みを止める注射を打ってもらい、消毒薬と塗り薬をもらって帰った。寝る前に、患部を消毒して塗り薬を塗ればいい。首の後ろなので、舐める心配はないし、何よりニコは飲み薬が大の苦手で、いつも飲ませるのに苦労する。塗り薬なら塗らせてくれるので、それが一番安心した。

毛が生え揃うまで、毎晩塗ってやろう。痒みが止まれば、もう掻くこともなくなるだろう。医者に行くのはニコにとっては大騒動なのだが、やはり最後には頼らざるを得ないし、薬には効き目もある。妻が見つけてくれてよかった。「私が産んだ子」と言うだけのことはあるな、と今さらながら思った。

『ガルヴェイアスの犬』ジョゼ・ルイス・ペイショット

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家の外にある便所でローザがビニール袋に自分の大便を落とす。ローザは袋の口を閉じて廊下の冷凍庫にそれをしまう。スカトロジー? いや違う。これには訳がある。ローザの夫は従弟の妻ジョアナと浮気をしているという噂がある。ローザは溜めておいた自分の大便を缶に集めて水で溶き、それを籠に入れるとジョアナが店を広げているところに行き、籠の缶に手を突っこむとその顔にどろどろの大便をぶっかける。驚いている顔にもう一度。その後はつかみ合いの喧嘩。二人とも留置場に入れられる。糞便で汚れたまま、壁の両端に離れて。

こんなすごい復讐劇、初めて読んだ。文字通り「糞喰らえ」ってやつだ。しかし、陰惨さがかけらもない。村の産婆に呪いをかける方法を教えてもらうが、呪いをかけられるのは夫の陽物だ。死人も出ない。二人とも髪は引きちぎられたが、それだけだ。見物客も臭かっただろうが、堪能したに違いない。しかも後日談がある。二人の女はその後、夫が仕事に出たすきを見つけて脚をからめあう仲になったというのだから、畏れ入るではないか。

こんなエピソードが次から次へと繰り出される、不思議な小説である。マジック・リアリズムめいてはいるが、雨は何年も降り続かない。せいぜい一週間だ。人が空を飛ぶが、オートバイ事故だ。一九八四年というから、さほど昔の話ではない。ロス五輪が開催された年である。それなのに、ここポルトガルの寒村では、電気の引かれていない家があり、欲しいものは、と聞かれた娘は「テレビ」と答えている。

ガルヴェイアスに「名のない物」が空から降ってくる。落ちた場所には、直径十二メートルの穴が開き、「名のない物」からは強い硫黄臭がする。それから七日七晩、強い雨が降り続くと、犬たちをのぞいて人々はそのことを忘れてしまう。しかし、その日から、村には硫黄臭が絶えず漂い続け、小麦の味を変え、パンを不味くしてしまう。ガルヴェイアスのあるアレンテージョ地方は穀倉地帯で、ポルトガルでは「パンのバスケット」と呼ばれている。呪いがかかったようなものだ。

主人公という特権的な立場に立つ者はいない。章がかわるたびに、一つの家なり、人なりに照明が当たり、その秘密や隠し事、他の家との確執、兄弟間の裏切り、復讐、喧嘩、和解といった出来事が語られる。面白いのは、あるエピソードにちょっと顔を出すだけの人や物が、別のエピソードの中では重要な役割を果たすという仕掛けを使っていることだ。

たとえば、ウサギ。冒頭で紹介したローザの息子が銃で撃ってきたウサギを五羽持ち帰る。ローザはそれを他所への届け物に使うのだが、亭主は四軒の届け先には納得がいくが、残りの一軒になぜウサギをやるのかが分からない。実はそのアデリナ・タマンコが、亭主の一物に呪いをかけるやり方を伝授してくれたのだ。話が進んだところで、ああ、あれはそういうことだったか、と納得する仕組み。つまりは伏線の回収なのだが、これが実に巧みでうならされる。

ウサギだけではない。オートバイ、銃、金の鎖といった小道具が、人の因果を操る呪物のように重要な役割を要所要所で果たす。それは人と人とをつなぐとともに、災いのたねともなる。たとえばウサギ狩りにも使われているオートバイは、村の若者が町に出かけるための必須アイテムだ。カタリノは路上レースで負けを知らず、ついには彼女をものにする。しかし、そのカタリノが兄とも慕うオートバイ修理工は、新婚の身で事故に遭ってしまう。

小さな村のことで、人々は互いをよく知っている。それでいながら、隠すべきことはしっかり隠している。そしてまた隠していても誰かには見られてもいる。「名のない物」が落ちたのを契機にして、箍が外れたようにそれが露わになる。中でも多いのは性に関わることだ。ブラジルから来たイザベラはパンを焼くのが本業だが、店は風俗店も兼ねている。若い妻を家に置き去りにしてカタリノはイザベラの店に通う。

イザベラがポルトガルに来たのはファティマかあさんの最後の頼みを聞いてやったからだ。ポルトガル生まれの老売春婦は、生まれ故郷に埋葬してほしいとイザベラに頼んで死んだ。棺桶と一緒に船に乗ってイザベラはガルヴェイアスにやってきた。そしてかあさんの家を継ぐことになった。そんなある晩、イザベラは村の医者マタ・フィゲイロの息子ペドロと車で夜のドライブに出た。

セニョール・ジョゼ・コルダトは、親子ほども年の離れた使用人のジュリアに焦がれ、自分の横で眠ってくれと懇願する。ジュリアには二十五にもなって遊び歩いているフネストという息子がいる。ジュリアのためを思ってセニョール・コルダトは懇意にしているマタ・フィゲイロ先生に仕事を紹介してもらう。収穫したコルク樹皮の見張り番だ。フネストは夜中にやってきた車に向かって威嚇射撃を行うが、朝になって警察に捕まる。撃たれたのはイザベラだった。

よかれと思ってしたことが、人を不幸にしもするが、逆に殺そうとまで恨んだ思いが和解を育むこともある。小さな村の錯綜した人間模様が複雑に絡みあい、一九八四年のガルヴェイアスに襲いかかる。「名のない物」の落下に始まる黙示録的な啓示は、どう果たされるのか。詩人で紀行文も書くという作家はシンプルで読みやすい文章で、ガルヴェイアスの住人の素朴な魂を紡ぎ出す。作家の故郷でもあるガルヴェイアスに行ってみたくなった。