青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『鐘は歌う』アンナ・スメイル

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旅の土産にその街のランドマークになる建築をかたどった小さなモニュメントを買って帰ることにしている。ロンドンで買ったそれはロンドン塔をかたどったもので、ビーフイーターや砲門に混じって、ちゃんと大鴉(レイヴン)もいた。言い伝えには「レイヴンがいなくなるとロンドン塔が崩れ、ロンドン塔を失った英国が滅びる」とある。それで、今でも塔内には一定数のレイヴンが飼育されている。飛んでいかないように羽先が切られているという。

この物語は、その言い伝えをもとに書かれている。舞台は言うまでもなくロンドンとその近郊。時代は定かではないが、荷馬車が交通手段になってはいても地下には鉄道の跡もあるし、電話線も敷かれているところから見て、そう昔のことではない。しかるに主人公のサイモンを馬車に乗せてくれた御者台の男は「徒弟奉公をするのかい」と尋ねている。まあ、ファンタジーで時代をどうこう言うのも間が抜けている。何かがあって、時代が逆行してしまっているらしい。

後で分かることだが、ここで描かれているロンドンは、大崩壊後のロンドンであって、それ以前のロンドンではない。大洪水に遭って、ロンドンの街は崩壊した。塔から最後に逃げ出した二羽のレイヴンは記憶と言葉を司っていたため、人々は記憶を保持し続けることができず、その日その日を唯いたずらに生きていた。人々は話すことはできても文字というものを覚えていないので書き留めることはできない。文字は昔の記号としか理解できていない。

しかし、人々には慰めがあった、朝課や晩課として鳴らされる教会の鐘の音(カリヨン)には「一体化のストーリー」が巧妙に織り込まれていて、人々はそれを毎日定時に聴くことで、大きなストーリーに身をゆだね、自分個人に関わる記憶や、それにまつわる心配事とは無縁の、安逸な日々を貪ることができるのだった。

ところが、そんな人々の中にあって記憶を保持し続ける人々がいた。「記憶物品」という記憶を呼び戻す縁となる物を手にとると、その人の記憶を読むことができるのだ。そういう人々を「記録保持者」という。サイモンの母はそのメモリー・キーパーだった。日々記憶を失う人々は「記録保持者」に「記憶物品」を預けることで、欲しいときに記憶を読んでもらえる。母の手には多くの人から預かった「記憶物品」が集まってきていた。死の近づいた時、母は同じ力を持つサイモンに後を託す。しかし、サイモンはその使命について何も知らされていない。

読みはじめると最初から戸惑う。ソルフェージュのハンドサインだの、カリヨンだの、やたらと音や音楽に関する記述ばかりが続くからだ。しかも、主人公はどうやら徒弟奉公に出られそうになったばかりの田舎育ちの若者に設定されている。視点は一人称限定視点で貫かれているから、サイモンは一日だけの記憶と文字代わりに使う旋律だけを頼りに、母から聞いたネッティという人を探してロンドンを彷徨う。

何も知らない主人公が、故郷を後にして、新しい土地に向かい、そこで仲間を見つけ、敵対者に追われながら、次第に自分の秘めた力に気づいてゆく。そして、隠された使命を理解し、葛藤の果てに協力者と力を合わせて、使命を果たし、やがて帰還する、というファンタジー御用達の、ウラジーミル・プロップのいう昔話の基本的な構成要素がここでも踏襲されている。

気になるのは、オーウェルの『1984』に代表されるディストピア小説をなぞっている点だ。主人公とその協力者であるリューシャンは、カリヨンを用いた「一体化ストーリー」による人民支配を続ける「オーダー」という組織に敵対する。その「オーダー」に敵対する組織が「レイヴンズギルド」と呼ばれる対向組織。彼らの目指すのは、個々の記憶の回復と同時にもっと大きな、例えば都市や国家というものの歴史の記録を残すことである。

「オーダー」は、人々から文字を奪うため「焚書」を行うし、人々の統治を完遂するため「一体化ストーリー」の定着に余念がない。こうまであからさまだと、近年かまびすしい、フェイク・ニュースという言葉の蔓延や権力によるマス・メディアの支配に、誰であれ思いが及ぶ。寓意の底が見えすぎるのだ。

主人公のサイモンは抵抗組織に属する母を持つ特殊能力保持者で、その協力者であるリューシャンはもとは「オーダー」側の人間で、ゆくゆくは修楽師から、カリヨンの旋律を作曲する大楽師を目指していた、いわばエリート中のエリートだ。ストーリーが単線的で紆余曲折に乏しく、人物の出入りも少ない。必然的に、真実に目を向けることなく惰眠を貪り、安逸な日々にのうのうとするもの言わぬ人々に対する覚醒者の焦慮がそこここに透けて見える。

いずれにせよ、ただの人々に活躍の余地はなく、世界は一部の人々の手に握られているのではないか、という疑念が胸から離れない。それともう一つ、音楽に堪能な読者には頻繁に記される音楽用語は自明であるのかもしれないが、一般の読者にとっては、近づき難い壁となってそこにある。作品世界に入りきれないもどかしさが残る。さらには、文字を知らないサイモンの独り語りにしては、描写も説明も流暢すぎる。世界が回復してから後に記された文章であることをどこかで書いておかないと不親切ではないか。そんな疑問が残った。

 

『巨大なラジオ/泳ぐ人』ジョン・チーヴァー

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ジョン・チーヴァーの作品は読んだことがなかったが『泳ぐ人』というタイトルには見覚えがあった。バート・ランカスター主演の映画ポスターを見た記憶があるのだ。1968年の映画だ。たしか、次々と他人のプールを泳いでいく話だった。奇妙な話だという印象を持った記憶がある。水着一つを身につけた男が、そのままの格好で他人の家にある私用プールを泳ぎ渡る映画を見たいと思うほど、当時の私は成長していなかった。

だから、ネディー・メリルに会うのは初めてだった。なるほど、こんな日なら家まで八マイルの距離をジグザグにつながれた水路を泳いで渡りたくもなろうか、という美しい夏の日のプールサイドの情景から話は始まっていた。チーヴァーが作品の舞台によく使う郊外の住宅地には、プールとメイドがついている。日曜日で多くの家ではパーティーが開かれていて、ネディーはどこでも歓迎され酒に誘われる。ところが途中から雲行きが怪しくなる。

嵐に遭い、体力は急に消耗し、パーティーで冷たくあしらわれ、ネディーは心身とも疲れ果て、ようやく自宅に帰り着く。そこで彼を待ち受けていたものとは…。意表を突いた幕切れに、それまでの情景描写とネディーの心身の変化がシンクロしていたことに改めて気づかされる。見事なテクニックである。しかし、これを映画化しようなどとよく考えたものだ。機会があったら映画の方も見てみたいと思った。

もう一つの表題作「巨大なラジオ」はニューヨークの高級アパートメント・ハウスに住む中年夫婦の話。クラシック音楽が好きな二人はよくラジオで音楽を聴くのだが、そのラジオが壊れ、新しいラジオを買うことに。雑音がするので修理してもらうとラジオから人の話し声が聞こえるようになる。聞き覚えのある声から、それが同じアパートの人々の声であることに妻は気づく。

よくパーティーやエレベーターで顔をあわせる素敵な人々が、みな部屋では罵りあったり、金のことばかり気にしていたりすることがだんだん分かってくる。しかし、悪いこととは知りながら妻は盗み聞きをやめられない。それを知った夫は妻をなじる。夫の話から、二人の暮らしも周りにいる人々と変わらないことを読者は知らされる。高級アパートに住む「中の上」に属する人々も一皮むけばこんな程度、という話を上から目線を廃し、内側から描いているところがこの人の持ち味か。

長篇もあるが、ジョン・チーヴァーの本質は短篇作家だ。六百篇もあるその中から村上春樹が小説を十八篇、エッセイを二篇厳選してくれている。どれも、読みごたえのある作品である。「ニューヨーカー」のような雑誌が発表の舞台である、チーヴァーのような短篇作家はアメリカでは量産しなければ食べていけない。そのため軽い読み物といった扱いを受けたようだが、日本のような短篇を好んで読む国でなら受け入れられるのではないだろうか。

郊外の住宅地に住むWASP(ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント)の生活を描くことが多いが、表面的には何不自由のない人々の中にある、階層を維持するための焦燥や、落ちていくことへの不安を、あくまでもリアリズムの手法で、時にはユーモラスに、時にはアイロニカルに、優れた人間観察力を十二分に発揮して短い枚数にきっちりまとめてみせるその力量は大したものだ。何より、同じ土地を舞台にし同じ階層の人々を描きながら、マンネリズムに陥らないところが素晴らしい。

ほぼ時代順に並んでいる小説の最後に置かれた「ぼくの弟」という作品だけは時代順にはなっていない。というのも、その次に置かれたエッセイ「何が起こったか?」に、この小説の成立過程が明らかにされているからだ。エッセイを読むことで、作家がどのようにして小説を書きあげるかが手にとるように分かる。少なくとも、チーヴァーという作家が、どこからその材料を集めてきて、どのように組み合わせるかはよく分かる。

「ぼくの弟」は、夏休み、海辺に建つ母の暮らす家に家族が集まる話である。仲のいい兄弟姉妹の中で、末弟のローレンスだけが、どちらかといえば享楽的な家族と打ち解けない。彼の目には家族のすることなすことが文句の種になる。酒を飲んだり、博打をしたり、仮装パーティーに打ち興じたりする家族を弟がどう見ているかを兄である「ぼく」は、あれこれ想像する。そして「ぼく」と弟はついに衝突してしまう。

こう紹介すると、作家は「ぼく」の側に立っているように思えるが、事実はそう簡単なものではない。詳しいことは「何が起こったか?」を読んでもらうとして、読めばなるほどと思うにちがいない。ところで、日本におけるチーヴァー紹介として、既に川本三郎氏に『橋の上の天使』という短篇集があり、村上氏は今度の短篇集を出すにあたって、重複を避けることを心がけたが、この作品だけは川本氏の本に「さよなら、弟」として載っているらしい。川本三郎ファンとしては、是非探し出して読み比べてみたい。

 

『自転車泥棒』呉明益

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作家自身を思わせる男が台湾の中華商場界隈に生きる日常を描くリアリズム部分と、訳者が「三丁目のマジック・リアリズム」と呼んだ非日常的で不思議な出来事が起きる物語部分とが違和感なく融けあって一つの小説世界を作っている点が呉明益という作家の特長だ。たしかに『歩道橋の魔術師』では、その物語は限定なしでマジック・リアリズムといえるほどのものではなかった。

それが今回はかなりレベル・アップしている。単なる古道具やがらくたを積み上げた倉庫の通路が洞窟となり、廃屋の地下室にたまった水は異世界と通じる地下の通路となる。松代大本営と同じく空襲を恐れ、地下に設けられた空間に殺処分を命じられた象が隠れて飼育される。土の下に隠された自転車がガジュマルの枝に抱かれて中空に上るなど、どれもこれもマジック部分の規模が大きくなっている。

落語に三題噺というのがある。客からお題を三つ頂戴し、その場で一つの話に纏め上げるという噺家の腕の見せ所を示す芸の一つだが、その伝で行けば『自転車泥棒』は差し詰め「父の失踪」、「自転車」、「象」の三つの題で語られた三題噺といえるかもしれない。あまりにも三つの主題のからまり具合の造作が目について、リアリズム小説の部分がやや後ろに引っ込んで感じられるくらいだ。

軸となるのは、盗まれた自転車をめぐる「ぼく」の捜索譚である。「ぼく」の父は中華商場が崩壊した翌日、自転車で出かけてそのまま消えた。働き手である父を失った家族は苦労して今に至る。ところが、ある日失踪当時父が乗っていた自転車が「ぼく」の目の前に現れる。部品は変えられていたが車体番号が同じだった。「ぼく」は、時間をかけて関係者に近づき、自転車の来歴を探る。おそらくその果てに父にたどり着けるにちがいないと考えて。

呉明益自身がかなりの自転車マニアらしい。それも、古い自転車を「レスキュー」し制作当時の姿にする自転車コレクターなのだ。作家は小説における虚と実の割合は七対三くらいがいいと考えているという。その三の一つに今回は自転車が使われている。以前に発表した作品の中で中山堂で自転車を乗り捨てる話を書いたところ、読者から「あの自転車はその後どうなったのか」というメールが届く。

小説は小説であり、その中で終わっていると答えてもいいのだが、作家は読者と同じ世界に入って考えてみた。その解答が、この盗まれた自転車をめぐる小説である。台湾のエスニック・グループをめぐる小説であり、日本に支配されていた時代と現在の因果を巡る小説である。それは必然的に、日本によって統治されていた時代、日本や台湾その他の民族がどのような目にあわされたかという話に及ぶ。

「ぼく」は狂言回しの役に徹し、多くの登場人物が過去の物語を伝える。それは直接語られることは稀で、カセット・テープに残された音源のテープ起こしされた原稿であったり、小説であったり、時には象を話者として語られたりもする。手紙やメール、小説という形式の昔語り、と多彩な表現形式が駆使されているのも特徴だ。ある意味で、これは失踪した父の手がかりを求める「ぼく」という探偵の捜査を綴ったミステリとも読める。

ただし、そこに明らかにされているのは父の個人情報ではない。大量死を遂げた日本兵の成仏できない魂が、傷を負った半ばヒト、半ばは魚となって水の中で群れる姿。その賢さと強さのせいで、荷駄を背負って戦場を行く道具として使役される象と象使いの心のつながり。自転車に乗ってジャングルを疾駆する「銀輪部隊」等々、戦時中の台湾やビルマに生きた人々のあまり知られることのなかった生の記録である。

過去を語る物語だけがこの小説の主役ではない。「ぼく」が自転車について調べ始めるにつれて芋づる式に巡り会う個性的な人々のことを忘れてはいけない。インターネットを通じて古物商を営むアブーがそもそものはじまりだ。アブーから自転車のダイナモを買った「ぼく」は直接会うことになり「洞窟」のような倉庫に足を踏み入れる。それから交友が始まり「ぼく」の探してる「幸福」印自転車の情報がアブーからもたらされる。

コレクターのナツさんが喫茶店に貸し出した自転車の持主は別にいた。「ぼく」は喫茶店に何度も出かけアッバスという戦場カメラマンと出会う。自転車はアッバスは昔の恋人アニーが見つけてきたものだという。カセットテープの声はアッバスの父のものだ。この小説は主人公も舞台も異なる十の短篇を自転車という主題でつないだ連作短編集としても読める。それぞれの篇と篇は「ノート」という、自転車に関する歴史や「ぼく」の家族の歴史を語る部分でつながれている。

単なる短篇集ではなく連作短篇集だというのは、一つ一つの章が巧妙に関係づけられ、過去と現在を自在に往還し、見知らぬ同士を手紙やメールを通じて結びつけ、果てはビルマの森で敵同士であった象を扱う兵士をすれちがいさせ、長い時間をかけて音信のなかった父との出会いを経験させるという、上出来のドラマを見ているような気にさせるからだ。なお、訳者の天野健太郎氏は昨年十一月、四十七歳の若さで病没された。ご冥福をお祈りする。

『淡い焔』ウラジーミル・ナボコフ

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旧訳の『青白い炎』は筑摩書房世界文学全集で読んだことがある。例の三段組は読み難かったが、詩の部分は二段組で、上段に邦訳、下段に原文という形式は読み比べに都合がよかった。新訳は活字が大きく読みやすいが、英詩は巻末にまとめてあるので、註釈と照合するには使い勝手がよくない。詩の部分四十ページ分コピーするか、註釈者が勧めるようにもう一冊用意するといい。

というのも、この本は「まえがき」に続いてジョン・シェイドという詩人の九百九十九行に及ぶ四篇からなる長詩が記され、その後にチャールズ・キンボートによる註釈が記される構成になっている。キンボートはまず註釈を読んでから詩を読むように示唆しているが、いずれにせよひっきりなしに頁を繰ることを要求される。それというのも詩だけでなく、註釈を参照せよと命じる註釈が存在することもあって、頁を繰る手が止まらなくなるのだ。

『淡い焔』は、ナボコフプーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』の英訳に大量の註釈をつけて出版したことが執筆の契機となっている。厖大な注釈の中でナボコフは自分の考えを思う様披瀝しているが、おそらくそこに註釈者の自由を感じたのだろう。註釈者は、たった一行の詩に対して何ページもの註釈をつけることが可能なのだ。敷衍すれば牽強付会な解釈をすることすらできる。キンボートがやろうとしているのはつまるところそれである。

シェイドの詩「淡い焔」は、自分の人生、愛娘の死、愛する妻、死後の生に関する考察といった、いわば極めて個人的な主題が、英雄詩体二行連句(ヒロイック・カプレット)で弱強五歩格(アイアンピック・ペンタミター)の押韻を踏んで書かれている。一見すると、そこには註釈に出てくるようなキンボートの故国ゼンブラに関することなど書かれていないように思える。

ところが、ゼンブラからアメリカに亡命したキンボートは同じ大学に勤務し、以前から知る詩人シェイドの隣に住むこととなり、夕刻など一緒に付近を散歩するおり、詩人にゼンブラの話をしていた。詩人ははっきりとは書いていないが、ゼンブラやその王チャールズについてそれとなく仄めかしている詩行が多くあると思い込んでいる。

註釈は、はじめこそ註釈らしい体裁をとっているが、次第にゼンブラという王国に起きた政治的な紛争と、囚われた王の脱走劇、王の暗殺を命じられた刺客の追跡、といったストーリーが増殖してくる。しかも、シェイドが四篇の詩を完成するまでの日数と刺客の探索から暗殺に至る日数までがぴたりと符合する。もっとも、ひどい下痢に悩まされていた刺客はあろうことか急ぐあまりキンボートではなく後ろにいたシェイドを殺してしまう。

自らの素性を明かしていないが、誇大妄想でなければ、キンボートが国を追われたゼンブラの国王チャールズらしい。キンボートは夫の死で取り乱す未亡人を言いくるめ、詩の出版の権利を我が物とする。無論報酬はすべて妻のものになる約束で。かくして、輪ゴムで束ねた詩を清書した八十枚のインデックス・カードと別にクリプ留めされた草稿を手に入れ、「淡い焔」はキンボートの註釈をつけて出版されることになる。

ロリータやプニンといったナボコフの作品に登場する人物名がかくれんぼしたり、ポープやシェイクスピアの詩が引用されたり、ナボコフ自ら書き起こした四篇からなる長詩「淡い焔」は、言葉遊びを多用した、それだけで充分楽しめる押韻詩になっている。そこに、大量の註釈が付けられる。原稿を秘匿し、果たしてあるのかないのか定かでない草稿や加筆訂正箇所を自在に使うことで、キンボートの妄想は肥大し疾走する。

もちろん一つ一つの註釈はまず詩についての記述から始まる。しかし、すぐに逸脱をはじめ、アメリカに来てからのシェイドとの交際、さらに、ゼンブラ時代の思い出へと話はそれる。偏執病的パーソナリティの所有者チャールズ・キンボートの理想郷、ゼンブラの物語には、王の城から劇場の楽屋に通じる秘密の通路や少年愛、変装等、偏愛のギミックが惜しげもなく浪費される。

知っての通り、ナボコフロシア革命で殺された政治家を父に持つ。その後ヨーロッパを経て最終的にアメリカに腰を据え、大学で文学を講じながら小説を書くことになる。故郷喪失者であるナボコフアメリカという異郷にあって、少年時代を過ごしたロシアを強く懐かしんでいたにちがいない。キンボートのゼンブラに寄せる思いはナボコフが今は亡きロシアに寄せる思いが過剰に重ねられている。

しかも、ナボコフアメリカで、英語で執筆するようになる。『エヴゲーニイ・オネーギン』でプーシキンの韻文を英訳する際、はじめは脚韻を踏むことを考えたが、文脈に沿って訳すことを優先する目的で後にそれを放棄している。シェイドの詩は、その時置き去りにされた情熱の照り返しではなかろうか。

「読書とは再読のことだ」というのはほかならぬナボコフの有名な言葉だが、『淡い焔』こそは、その再読を読者に強いる目的で著された最強の書物だろう。まえがき、「淡い焔」──四篇からなる詩、註釈、索引で構成されるこの書物は、註釈から詩、詩から索引へと、さながら枝から枝へと飛び移る連雀のごとく、読者を絶えず使嗾してやまない。

『カササギ殺人事件』アンソニー・ホロヴィッツ

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1955年、田舎町に住む家政婦が鍵のかかった家の中で階段から落ちて死んでいるところが庭師によって発見される。不慮の事故のようだったが、その三日前、死者は息子に「死ねばいい」という意味の言葉を浴びせられていた。近くのパブで、その喧嘩を聞いた客は息子の仕業ではないかと疑う。息子の婚約者は名探偵アティカス・ピュントに捜査を依頼するが、ピュントは断る。実は脳腫瘍であと三月の命と宣告されていたのだ。

ところが、それからしばらくして階段から落ちた女性が家政婦をしていたパイ屋敷の主人である準男爵が首を斬り落とされるという事件が起きる。小さな村で関係者が連続して死ぬのは異例だ。捜査を担当するのが顔見知りの警部補であることを知り、ピュントは助手のジェイムズを供に捜査に乗り出すことに。

もとは修道院であった建物には翼棟の端に八角形の塔がついた屋敷。その奥には鬱蒼とした森と湖という典型的な英国風ミステリの舞台。死んだ家政婦のメアリは村人のゴシップを蒐集しては手帳に書き記していた。この「お節介屋」が死んだことで胸をなでおろした人物が少なからずいる。また殺された準男爵は村中の嫌われ者で、限嗣相続という制度のせいで双子であるのに兄に家を追い出された妹を筆頭に殺人の動機を抱く人物が引きも切らない。

「一粒で二度おいしい」というのはキャラメルの宣伝文句。一粒でキャラメルの味とアーモンドの風味を楽しめることをいうらしい。その伝で行けば「一作で二作分面白い」ミステリと言えるだろう。注意深い読者なら、この本の仕掛けにすぐ気がつくにちがいない。うかつなことに扉が二種類使われていることに気づいていながら、上巻の最後まで読んでうっちゃりを食ってしまった。

冒頭部五ページ分を除けば『カササギ殺人事件』上巻は、アラン・コンウェイ作『カササギ殺人事件』で構成されている。しかし、探偵が関係者を集めて、自身の推理を語る結末部分が抜けているのだ。アティカス・ピュントという探偵は最後の最後まで真犯人については明らかにしない。だから、結末部分の抜けた上巻だけ読んでも誰が犯人か分からないわけだ。まあ、普通上下巻に分かれた本を読む人は上下とも買うだろうから、文句を言う人はいないだろう。

では、なぜ結末部分が抜けているのか。そこには、ひとりの人間が殺人を犯すに足る理由が隠されている。冒頭でこの作品をキャラメルに喩えたが、宣伝文句という点ではそうだが、本質としたら、サンドイッチの方が正しい。上巻の冒頭部分で「わたし」と称する人物には彼氏がいて、アンドレアスという名も出ているのに「登場人物」の中に名が出ていない。しかし、下巻にはちゃんと出ている。というか、下巻の登場人物と上巻のそれはまったく異なっている。

つまり、『カササギ殺人事件』は二つあって、一つは表紙に書かれている通り、アンソニーホロヴィッツ作『カササギ殺人事件』。もう一つが「作中作」であるアラン・コンウェイ作『カササギ殺人事件』だ。アンソニーホロヴィッツが探偵役として使っているのは出版社の編集者であるスーザン・ライランド。彼女が上司から手渡されたテクストがアラン・コンウェイの最新作『カササギ殺人事件』である。

パンにあたるのが現代のイギリスで起きた殺人事件。これを冒頭と結末に置き、中に1955年に起きた殺人事件を描く「作中作」という具をはさんでいる。サンドイッチという所以である。殺されたのは「作中作」の作者アラン・コンウェイである。殺人事件の舞台となるパイ屋敷はアラン自身の屋敷をモデルにしているだけでなく、探偵のピュントにはジェイムズという助手がおり、アランにはジェイムズ・テイラーという若い恋人がいる、というように二つの『カササギ殺人事件』は多くの点で重なっている。

作中作の『カササギ殺人事件』にはアランが好むアナグラムが仕込まれていて、それがアラン自身の死の謎を解くカギになっている。スーザンはアランが暮らしていた町を訪ね、実の姉や別れた妻と会って話を聞く。アランという作家は実に無雑作に身の回りの人物をモデルにしたり、その名前を借りたりして作品に登場させていることが分かってくる。それとともに、そのあまり愉快でない人となりや文学的な野望も。

なかなか面白い趣向で、最後まで引っ張ってくれる。アルファベットのアナグラムが鍵となる小説を日本語で取り扱う困難を考えると訳者の苦労がしのばれるが、括弧を使用して原語併記を採用するか、片仮名のルビを多用してくれたらもっと楽しめたような気がする。趣向を凝らした作品ながら、荒唐無稽な理由で人を殺す犯人やサイコパスの出てくるミステリが多い中、殺人の手段や殺人を犯す理由に納得のいく点が一番の推しポイント。年末年始で休みが取れる時期、じっくり読むにふさわしい力作である。

『不意撃ち』辻原登

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五篇の短篇というには長い作品で構成された、いわば中篇集。辻原登は間口が広い。今回は時代的には現代に的を絞り、新聞や週刊誌に取り上げられた事件を物語にからませてリアルさを醸し出している。『不意撃ち』という表題作はない。突然、登場人物たちに降りかかる外界からのむき出しの悪意の来襲を意味するのだろう。

巻頭を飾るのは「渡鹿野」。つい最近も「売春島」という刺戟的なタイトルのついた本が出たくらいで、関西に住むある程度の年齢の男性ならよく知る地名である。今は往時の賑わいはないらしいが「志摩のはしりがね」と呼ばれる潮待ち、風待ちの船客を相手にする遊女の暮らした島で、その名残を今に留めている。

東京でデリヘル嬢をしていたルミ子は、殺人事件の現場に行き会う。それをきっかけに同じく現場にいたドライバーの佐巴と連絡を取り合う仲になり、やがて関係を持つ。ルミ子はかつてはルポライターだったが、同棲相手の男が急に失踪し、背後に暴力団の影があることを知り、子どもを親元に預け、今の仕事につくという過去があった。

帰郷する前にかつて仕事で訪ねた島でひと稼ぎをしようと渡鹿野に渡ったルミ子は、天王祭の晩やはり故郷へ帰ることにした佐把とひと時の逢瀬を楽しむ。渡鹿野には現地取材をしたのだろうか。辻原はよく古い日本映画の話を出す。渡鹿野の対岸にある的矢を小津の『浮草』のロケ地と書いているが、あれは大王町の波切ではなかったか。フィクションなので、ルミ子の記憶ちがいということもあるが、気になった。

不意撃ちが起きるのは最後。渡船場でタクシーを待つ佐巴がふと目にする行方不明者のポスターである。行方不明の女性の目許がさっきまで一緒にいた女に似ていると思い、姓名を確認しようとして、タクシーのクラクションにせかされる場面で終わっている。この行方不明者の件は事実である。事実とフィクションの融合は辻原のよく使う手法だが、未解決事件であり、家族のことを思うと、この使い方には疑問を感じる。

「仮面」は、阪神淡路大震災でボランティア活動をし、NPO法人を立ち上げた男女が東日本大震災の被災地に向かう。神戸での経験がものを言い、二人は現場を取り仕切る。そして被災地の子どもを連れ、東京で募金活動をすることになる。美談の陰にある真の動機が主題。当時はとてものことにこういう話は発表できなかったと思う。これにも、実際に起きた事件が大事な役を担わされている。

「いかなる因果にて」は、小さい頃にいじめられた経験を持つ者が何十年も経ってから事件を起こす話にひっかかるものを感じた話者が、自分の友達が教師に平手打ちされた事実を思い出し、亡くなった友達に替わって自分がその教師に会おうとする話。紀伊田辺、新宮と辻原の小説によく登場する土地を舞台に作家自身を思わせる話者の語りが、フィクションとも実話とも判断しかねる味わいをうまく演出している。

「Delusion」は時間だけでいえば近未来。精神科の医師である黒木が女性宇宙飛行士の不思議な体験を聞く。猿渡という女性は誰もいるはずのない宇宙ステーション内で、何ものかがいるという感じを持って以来、未来予測ができるようになる。ただし、自分に関わることだけで、それがいつ起きるかは分からない。人に話しても信じてもらえないので専門家の話を聞こうとやってきたという。他の話とは毛色のちがう話である。

個人的には巻末の「月も隈なきは」が面白かった。定年退職をした男が妻子を置いて、短期間、念願の一人暮らしを試みるという他愛ない話である。ただし行き先も告げず、少しの間、旅に出るとの書置きだけ残し、ある日ぷいっと出て行くので、夫のことをよく知る妻は心配ないとは思いながらも、探偵を雇って居場所を探す。その結果は。

ポール・オースターの『幽霊たち』や、つげ義春の『退屈な部屋』が紹介されている。参考にしたのかもしれない。日常生活に何の不満もない男が、一人暮らしがしたくなる。そこにどんな理由があるのだろう。主人公もよく分かっていないようだ。けれど、週の半分はバイトをし、後の半分は街歩きや映画、将棋といった趣味に時間を費やす毎日は楽しそうだ。

ここでも成瀬や小津の映画の話題が出る。一人暮らしということで山頭火や放哉も登場する。感じのいい飲み屋や食堂、文房具店等の蘊蓄も披露されるので、東京暮らしの同年輩には一種のカタログみたいに使える愉しみがある。ニューハーフとの体験をのぞけば、ヤバい案件は出てこないので、安心して読んでいられる。この年になると、あまり刺激の強いのは心臓に悪い。自宅の近くに、ひっそりと部屋を借りて隠れ住む程度の冒険でも結構どきどきするものだ。

『帰れない山』パオロ・コニェッティ

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体力に自信がないので、本格的な登山はしたことがない。ただ、山に対する憧憬はあり、旅をするときは信州方面に向かうことが多かった。落葉松林や樺の林の向こうに山の稜線が見えだすとなぜかうれしくなったものだ。子どもが生まれてからは八ヶ岳にある貸別荘をベースに、夏は近くの高原に出かけ、冬はスキーを楽しんだ。この本を読んでいるあいだ、ずっとあの森閑とした夜を思い出していた。

北イタリア、モンテ・ローザ山麓の村を舞台に、ひとりの男の父との確執と和解、友との出会いと別れを清冽に描いた山岳小説。ピエトロは小さい頃から夏は両親に連れられ、あっちの山こっちの山と連れ回された。麓の宿に着くと、父は一人で山を目指し、母と子は近くを散策しながら父の帰りを待った。母は二週間も泊まる宿が毎年変わることを嫌がり、やがて一家は母が見つけてきた一軒の家を借りることになった。

ミラノもネパールも出てきはするが、小説の主たる舞台はグレノン山を仰ぐグラーナ村だ。母が見つけてきたのは鋳鉄製のストーブ以外何もない家。集落の上方に位置するその家でピエトロは少年時代の夏を過ごす。僕の沢と名づけた沢で遊んだり、大家の甥であるブルーノという少年と廃屋を探検したり、ミラノ育ちの都会っ子は次第にたくましくなってゆく。

「僕」が六つか七つのとき、初めて父と山に登る。父の登山はとにかく誰よりも早く頂上を攻めるスタイルだ。休むことなく一定のリズムで歩き続ける。迂回路を拒み、たとえ道がなくても最短距離のルートを選ぶ。そして、頂上に登りつめると興味をなくしたかのように、後は急いで家に帰りはじめる。「僕」は父の言うままに登山をはじめ、やがてモンテ・ローザ連峰の四千メートル級の山々に挑むことになる。

ある年、父はブルーノと「僕」を連れ氷河を目指す。しかし、高山病にかかった「僕」は、クレバスを前にして吐いてしまう。一心に登頂を目指す父とはちがい、「僕」は山歩きの途中で目に留める風景や人々の様子に魅かれていた。思春期になり「僕」は両親と距離を置きはじめる。そして、ある日ついに「僕」はいっしょにキャンプしようという父に「いやだ」と言う。初めて父に対して自分の意志を表明した訳だが、父はそれを受けとめられなかった。その日以来二度と二人はいっしょに山を歩くことはなかった。

父の死後「僕」は、父が自分にグラーナ村の土地を遺したことを知らされる。久しぶりに村を訪れた「僕」は、親子が夏を過ごした家の壁に張られた地図に記されたフェルトペンの跡に感慨を覚える。網目状に広がる線の黒いのは父、赤いのは「僕」、そして緑がブルーノの踏破した軌跡だった。「僕」が同行しなくなってから父はブルーノと登っていたのだ。そして、「僕」は久しぶりに大きくなったブルーノと再会を果たす。

父が「僕」に遺したのは湖を臨む土地に「奇岩」(パルマ・ドローラ)と呼ばれる岩壁を背負った石壁造りの家だった。雪の重みに耐えられず梁が折れて屋根は崩れていた。父はブルーノにこの家の再建を頼んでいた。金がない、と躊躇する「僕」に、手伝いがあれば安く上がる、とブルーノは言う。父の思いは疎遠になった二人をもう一度近づけることだと気づいた「僕」は喜んで従う。吹っ切れたように家づくりに励むことで「僕」は、再び山に、そしてブルーノと過ごす日々に夢中になる。

ネパールで出会った老人が地面に円を八分割した図を描く挿話が出てくる。八辺の上に八つの山を描き、その間に波状の線を描いて海だという。そして中心にあるのが世界の中心である須弥山(スメール)だ。老人は度々ヒマラヤを訪れる「僕」のことを「八つの山をめぐっている」のだといい、須弥山の頂上を極める者と、「どちらがより多くを学ぶのだろうかと問うのさ」という話をする。「僕」は、山から離れないブルーノのことを思う。

ピエトロの母はどこにいても誰かと関係を結び、年をとっても孤独でいる気遣いはない。山に魅せられた男三人との対比が鮮やかだ。家族もいるというのに、牧場の経営が破綻しそうになっても山を下りる生活が考えられないブルーノ。いくつになっても独り身でドキュメンタリー・フィルムを撮る資金を集めてはネパールやチベットに通い詰めるピエトロ。放浪と定住という差はあるにせよ、山に縛りつけられている三人の男の桎梏がせつない。

まるでその場にいるようなグラーナ村とそのまだ上にあるパルマ近辺の森や湖、湧きあがる雲、降り積もる雪の描写が素晴らしく美しい。初読時は一気に読み、次の日にはじっくり再読した。頑なな父の気質がどこから来たのか、それに悩まされながらも突き放すことなく粘り強く接し続けた母。その母は決して氷河の上を歩こうとしなかった。そこには深い訳があったのだ。

原題は「八つの山」(Le otto montagne)。中央に聳え立つ山ではなく、その周囲にある山をさまよい続ける人々を意味するのだろう。邦題は逆に、中央の山を『帰れない山』と名づけている。その意味は最後の段落にある「人生にはときに帰れない山がある」という一文を読んで初めてわかる。深い喪失の悲しみに胸蓋がれる結末が読者を待ち受けている。それでも、何度でも頁を繰りたくなる。近頃めったと出会えない心に沁みる長篇小説である。