青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『JR』ウィリアム・ギャディス

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机の上に両足を上げ、椅子の背をいっぱいに倒し、太腿のあたりで本を開いて読んだ。手許にある書見台では厚すぎてページ押さえがきかないのだ。画像では実際の量感がつかみにくかろうが、菊版二段組940ページ、厚さは表紙部分を別にしても約5センチある。比喩でも誇張でもなく、読み終えた後、背表紙を支えていた右手が凝りで痛くなっていた。言葉を換えて言えば、持つ手が痛くなるまで、読んでいられるだけの面白さを持っているということだ。

70年代のニュー・ヨークが主な舞台。見開き二枚の舞台地図、八ページに及ぶ登場人物一覧が付されているが、時間的にはたかだか数カ月程度、入れ代わり立ち代わり顔を出す人間の数は多いが、主な人物は限られている。大河小説めいた時代や舞台の広がりを心配するには及ばない。初読時に面食らうのは鍵括弧なしに延々と繰り広げられる会話の多さだろう。これだけ大部の小説なのに、章分けもなければ、行開けもなく、始まったが最後、終わりまで怒涛のごとく走りぬける。

それも、話し手が誰で聞き手が誰なのかの説明は一切なされない、という徹底ぶり。読者は会話の内容からそれを推し量るよりほかに手はない。そういう意味では、この小説はパーティションで仕切られたレストランの隣の席で交わされる会話をたまたま耳にしている客が、隣席のグループの人間関係やら社会階層を想像して楽しむような、いわば「立ち聞き小説」とでも名づけるに相応しい体裁を持っている。

実験小説などという前評判に気圧され、読みきれるだろうかと恐れる必要はない。途轍もなく面白い。その面白さは保証する。それも、訳者があとがきで挙げている『ユリシーズ』や『百年の孤独』と比べれば、実にハードルが低い。登場人物は現代アメリカに生きる普通の人々だし、主な話題は銭金の話なのだ。たしかに、株式の話や証券取引の蘊蓄がやたらとひけらかされるので、素人には珍紛漢紛だし、主な人物が芸術家なので、詩や先人の言葉の引用も多い。しかし、それは詳細な訳注で懇切丁寧に説明されている。知りたければその都度参照するもよし、その気がなければ無視して進めばいい。

前置きが長くなった。まず、ひとつ目の話題は「遺産相続」である。会社経営者が遺書を残さず死んだため、遺族が法外な相続税を払うには、保有する株を売却するしか手がない。ところが、ここに一つ問題がある。被相続者の長子には正式な婚姻を経ずして設けた子どもがいて、そのエドワードが嫡出子と認められれば、相続権が発生し、その子の持ち株次第で、会社の経営権が両陣営のどちらかに決まる。弁護士はエドワードに権利放棄の書類に署名させようとするが、なかなか会うことができない。

二つ目が夫婦の離婚、別居に伴う子どもの養育権の問題。エドワードが勤務する学校には、マドンナ役のジュベールという女教師と、ギブズという作家志望の男性教師が働いていて、両人ともその問題を抱えている。しかも、ギブズにはアイゲンという友人がおり、彼も同じ問題を抱えている。この長大な小説を支える主題のひとつは意外なことに極めてドメスティックなものである。悩める男たちは、本を書きあげるという自己実現の成就を脇に置いて、妻の要求に応じつつ、滅多に会えない我が子との逢瀬を待つ辛い時を過ごしている。

三つ目の主題が、表題にもなっている、三人が勤める中学校の学生で十一歳のJ R・ヴァンサントという少年がはじめる「金儲け」という話題。この少年、今の言葉で言うなら天才的なハッカーで、当時のこととして、郵便と電話を使って、学校の授業の一環として所有した一株をもとに会社組織を作り、あらゆる手段を駆使して会社を大きくしてゆく。無論、未成年に社長はできないので、J Rはエドワードをアソシエイトとして、彼の名前を使ってあらゆる契約をまとめてゆく。そんなわけでエドワードが仕事部屋にしているアップタウンの一部屋には世界中からあらゆる商品が送られてくる。中には、大量の香港フラワーが特大のトラックで運び込まれるなど、事態は超現実的な様相を帯びる。

『間違いの喜劇』というのはシェイクスピアだが、これもネタは同じで、電話のやり取りを通して起きる、とりちがえ、思い違い、勘違いによる、ちぐはぐな出来事の出来が次々と事態を混乱させてゆく面白さを極大までに誇張したスラップスティック劇である。会社社長や知事といった権力者が、自分を基準にしてものを見がちであることからくる欲望の空回り、空騒ぎがことを大きくしてゆく様子が皮肉な目で描かれている。

面白いといったのは、この小説が書かれたのは、かなり過去になるのに、書かれていることが極めて今日的であることだ。教科書の中に宣伝を入れるというJ Rのアイデアや、ラジオでクラシックのような長い音楽を流すのはCMの回数が減るから、短いポピュラー・ソングの方がいい、という発想の何と進んでいることか。中には最近カナダで実施されたばかりのマリファナの解禁まで先取りされている。

下品で放埓な性的哄笑、となだれ落ちてくる商品に埋もれながら、作家が後生大事に大切にする創作メモの捜索の間に幕間劇のように挿まれるジュベールとギブズの官能的なラブ・ロマンスもある。村上春樹ではないが、肝心なところでセックスの場面が挿入されるなど、読者を飽きさせない工夫にも余念がない。ひとたび、波に乗ればさすがの大長編も一気に読めてしまう。マニアックな読者には訳注相手に再読、三読を楽しんでもらうとして、普通の読者にもそれなりの余禄がなければならない。

一昔前にはマンの『魔の山』のように、時代を象徴する価値観と価値観が互いにぶつかりあう小説があったもので、読者はそれを読むことで主人公の成長に共感しつつ、自己を形成する支えとしたものだが、ポスト・モダン以降、その手の傾向は影を潜めたままだ。それが、ここではエドワードとJ Rとの対話という形で、実に大真面目に描かれている。年配の読者はエドワードの論理に肩入れしたくなると思うが、対するJ Rの反論にも大いにうなずかされるものがある。

鉛筆と紙で創作メモをとったり、楽譜を書くギブズやエドワードの、ある種ロマンティックな時代性というものがある。それに対して、一昔前ならドライ、今風に言えばクールなのがJ Rの考え方。彼には基本的なリテラシー能力が欠如している。「アラスカ」も彼にかかれば「アスラカ」である。それでいて、パンフレットやチラシを収集し、必要な情報を得たり、読めない字ばかりで書かれた法令の中から重要な規約違反を発見したりする能力は肥大ともいえるほど発達している。

金儲けなどは卑しいこと、という考え方がジュベールエドワードにはあって、彼らにとっては芸術の方が価値がある。しかし、J Rは、今自分のいる「アメリカの本質」をしっかりつかみ、それに根差して資本を運用する自分の活動のどこに問題があるのか、とエドワードを問いつめる。この対話には『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を思い起こさせる迫力がある。

面白さは人によっていろいろだ。要は、人それぞれの読み方で楽しめばいい。臆することなく、この大冊を手にとることだ。期待が裏切られることはないだろう。英文で書かれた言い間違いや聞き違いをネタにする作品を日本語に訳すのは大変な仕事だが、訳者は楽しんで仕事をされたにちがいない。こんなに楽しく読めるのは、そうに決まっている。活き活きした会話の横溢する文章がそれを物語っている。

『カッコーの歌』フランシス・ハーディング

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『嘘の木』の作者フランシス・ハーディングの二冊目の翻訳になる。翻訳の世界ではよくあることだが、本国ではこちらが先に出版されている。それで、評判になった作品を読んで、期待して次回作を読むとそれほどでもなかった、ということもある。さて、今回はどうなるだろうか。『カッコーの歌』は、信頼できない語り手が物語る、アイデンティティ(自己同一性)の不安をテーマにしたファンタジー、とひとまずは括ることができる。

ひとまずは、というには訳がある、興味深いテーマがいくつも用意されていて、どれか一つだけも、充分物語を作れるだけの重さを備えているのに、徹底して突き詰めることなく、物語の中に惜しげもなくぶちまけられているからだ。湧き出してくるアイデアを整理できないまま、勢いで書かれたのだろう。その分、次のページを繰らせる力は強い。あれこれ考えずに物語の中に浸りきりたいというタイプの読者にはうってつけの読み物である。

話が進むにつれて主人公の名前がくるくる変わっていく。初めはトリス、次に偽トリス、そして、トリスタ(哀しみ)と。どうして、そんなことが起きるかといえば、物語は主人公が水から這い上がってくるところを助け出されたところから始まっていて、ショックのため、一時的に記憶をなくしているのか、自分のことを相手が呼ぶ呼称によって理解しているからだ。母親(らしき人)は、トリスと呼ぶが、妹(らしき人)は、そいつは偽者だと言ってきかない。

記憶は失くしておらず、今がジョージ五世の御代であることも、自分の住所も言うことができる。それなのに、両親や妹を判別するのになぜ自信が持てないのか、このあたり、作者はなかなか巧みな語り口で語っている。「わたし」という、一人称限定視点で語られていながら、この語り手は、自己同一性を周囲の認識に頼っている点で、いわゆる「信頼できない語り手」なのだ。

おいおい明らかになってくるが、どうやら、「わたし」は本当の人間ではなく、葉っぱとねじれた枝とイバラでできた「人形」らしい。事件を目撃した妹の証言によれば、二人の男が姉のトリスを誘拐し、その代わりに姉の書いた日記やブラシその他の姉に関する何やかやを水の中に人形と一緒にぶちこんだ後で、水から出てきたのが「わたし」らしい。つまり、今いるトリスは、いうところの「取り替え子」なのだ。

「取り替え子(changeling)」というのは、ヨーロッパの伝承で、人間の子が連れ去られ、その代わりに妖精やトロールの子が置き去りにされること、あるいは、そうして取り換えられた子のことを指す。また、妖精などの子ではなく魔法をかけられた木のかけらなどが残されていることもあり、それはたちまち弱って死んでしまうこともある、ともいう。「わたし」が生きていられるのが七日間と日限が切られている本書の場合、後者のほうだろう。

初めは、いくつもの謎の提出があり、主人公の出自や、父親に対する脅迫めいた行為も仄めかされるので、ミステリめいた展開を予想するが、主人公が命を吹き込まれた人形であることが明らかになるにつれ、一挙にファンタジー色が強くなる。瓦斯灯がともり、馬車が行き交う町の上を三つのアーチ橋が架かり、橋上を鉄道が、橋の下を人や車が通る英国の地方都市を舞台にした、小さな姉妹の冒険ファンタジーである。

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という本がある。それによれば「合理的な社会の形成、進学率や情報のあり方の変化、都市の隆盛と村の衰弱」といったさまざまなことが、キツネにだまされたという物語を生みだしながら暮らしていた社会が高度経済成長期を境に徐々に崩れていったのだろう、ということになる。

時代こそ違えこの物語も、鉄道も通り、自動車も走りだして、少しずつ開けていく産業革命後のイギリスの町が舞台である。以前は人間と共存していたある種族が、かつては誰の場所でもなく、自然に存在した場所が消え、すべて地図上に明記されてしまった村に住めなくなり、互いに見知らぬ人々が生きる都市に住処を求めることになる。一人の仲間の思いつきで、皆が住める場所を見出したのも束の間、土木技師である主人公の父が契約を反故にしたため、復讐としてその娘をさらい、代わりに「取り替え子」を置くという行為に出たのが、ことの顛末である。

その種族の一人で「わたし」を作った人形師の話。

ナイフは(略)突く。切る。むく。削る。だがハサミは、たった一つの仕事しかしない。物をふたつに切りわけることだ。力で分ける。すべてをこちら側とあちら側にして、あいだには何も残さない。確実に。われわれはあいだの民だ。だからハサミがきらう。ハサミはわれわれを切り裂いて理解したがっているが、理解するということはわれらを殺すも同じなんだ。

二元論は、物事をきれいに分かつ。不分明なものは残さない。前に聞いたことがあるが科学の「科」には「分かつ」という意味があるそうだ。科学万能な世の中は、それ以前は見過ごされていた、きれいに分類することのできないものの存在を認めない。性や人種、イデオロギーを例にとるまでもなく、世界は二者択一には適さないもので溢れている。それを性急に分けることは息苦しいことであり、立場によっては生きる場を奪われることにもなるだろう。この物語にはかなり重いテーマが隠されている。

その他、戦争という経験が、宗教、階級差やジェンダーに与えた影響への示唆など、モズという名の人形師の語る世界観は傾聴に値する。こういう話をもっと聞いていたいという読者もいようが、そんな辛気臭い話ばかりでは息がつまる。サイドカーを駆って、今でいうバイク便で生計を立てている長身の氷の女、ヴァイオレットをはじめ、生きのいい女性が活躍する後半は息もつかせぬ一大冒険ロマンになっている。小難しい講釈はひとまず置いて、異形のものが自分の生きる場所を見つけようと必死に生きる姿に喝采を送りたい読者も多いだろう。若い人たちを本好きにさせる力のある本である。

 

『アンダーワールドUSA』上・下 ジェイムズ・エルロイ

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<上・下二巻併せての評です>

現金輸送車襲撃事件から始まる。中に入っていたのは大量の現金とエメラルド。犯人の一人が裏切り、仲間の顔を焼いて身元を不明にするなど、計画的な犯行であることがわかる。ミステリなら犯人は誰で、金とエメラルドはどこに消えたのか、というのが全篇を引っ張ってゆくはずの謎に当たる。ところが、話は一気にその謎の解明には進まない。なぜなら、一話完結という形式ではあるものの、本作は『アメリカン・タブロイド』、『アメリカン・デス・トリップ』に続く《アンダーワールドUSA》三部作完結編でもあるからだ。

ジョン・F・ケネディロバート・ケネディマーティン・ルーサー・キングと、暗殺事件が続いたあの時代のアメリカの裏面史を描いた意欲作である。なにしろ、リチャード・ニクソンJ・エドガー・フーヴァー、ハワード・ヒューズといった政治家や大金持ちが実名でその醜悪な素顔をさらすばかりでなく、表立っては口にできないはずの政治の裏側に蔓延る汚いやり口を電話口でたっぷり披露している。

主たる舞台となるLAという場所が場所だけに、当時のハリウッド・スターも実名で登場し、スキャンダラスな素顔を見せている。女装趣味のジョン・ウェイン、女が好きなナタリー・ウッド等々、極め付きは同性愛趣味の刑事をひっかける役で何度も顔を出すサル・ミネオか。『理由なき反抗』では、ジェームズ・ディーンの相手役をつとめていたが、その後は鳴かず飛ばず。夜の街で男を漁るその姿は何だかやけにものがなしい。

三部作を引っ張る元ラスヴェガス市警刑事のウェイン・テッドロー・ジュニアとFBI捜査官ドワイト・ホリーの二枚看板に、今回新しく登場するのが駆け出しの私立探偵、クラッチ。二人に糞ガキ、覗き屋、と散々馬鹿にされながらも、執拗に食い下がる。この三人が物語を動かしてゆく。それにからんでくるのが、やり手の悪徳警官で発生当時から現金輸送車襲撃事件を追い続けているロサンゼルス市警強盗課刑事スコッティ・ベネット、と同性愛者であることを隠して事件を追いかけるロサンゼルス市警の黒人刑事マーシュ・ボーエン。

一巻が400ページ二段組というボリューム。それに、ロサンゼルス市警と私立探偵、ラスヴェガスの賭博関係者、黒人過激派組織、カジノ進出に関わるドミニカ共和国関係者、マフィア並びに犯罪者、合衆国政府及び連邦機関、と登場する人物、組織の相関図で紙面が一枚真っ黒になりそうなほど。いくら、現在形を駆使したエルロイならではの「電文体」できびきび書かれているにしても、場所は飛ぶし、人の出入りは激しいしで、話の筋を追うだけであっぷあっぷさせられる。

そこへもってきて、ウェインとホリーが愛する女がからんでくる。継母への愛ゆえに父親を殺したウェインには黒人殺しの汚名がつきまとう。ところが、殺人現場に居合わせたことで巻き添えを食わせてしまった黒人牧師の妻を一目見てから忘れられなくなる。ホリーは左翼の活動家カレンとその二人の娘を愛しながら、カレンの同志であるジョーンとも深い関係になってしまう。男の世界ではクールでハードな二人が、女を前にすると、どうにも愚図になってしまうところがエルロイ調。こういうところ、嫌いではない。

ミステリの本道を行く現金輸送車襲撃事件の謎を解くのは、なんと私立探偵のパシリをやらされていた糞ガキのクラッチである。ある意味この小説は、その出自や運命的な出会いによって裏街道を行くことを選ばねばならなかった男二人に魅かれながら反発するクラッチという貧しい生い立ちの青年の成長を描く、ビルドゥングスロマンという側面を併せ持っている。反面教師の二人は、シリーズ完結編に相応しく、英雄的な最期を遂げてしまうからだ。

その一方で、「運命の女(ファム・ファタル)」というべき、出会う男の誰もを骨抜きにしてしまうジョーンをはじめ、カレンもジョーンの愛人シーリアも、しぶとく生き残る。この時代、大統領選を代表とする表の世界を牛耳っているのは男たちだ。しかし、男たちの何とだらしないことか。金や権力への欲望にしがみつき、いっときの栄光や願望の成就は得られるものの、そんなものは長続きはしない。他人を道具にした報いは必ず自分に跳ね返ってくる。というより、それ以前に酒や麻薬が彼らの身も心も蝕んでいる。そうなる前に死んでいった二人の男が眩しく思えるほどに。

まだ現在のようなコンピュータが登場する前の時代、データは厖大な量の紙ファイルで貯め込まれている。それを盗み撮るのがミノックスという時代。盗聴も覗きも体を張っての仕事だった。ファイルの書き換えや改竄、削除という行動が何度もくり返し出てくる。これまでなら絵空事のように読んでいたところだが、なるほど、政治家を守るために下の者はこんなことを始終やらされているのだな、とあらためて再認識した。

ニクソン大統領が選挙で選ばれるまでの、反対陣営に対する妨害行為やネガティヴ・キャンペーン、カジノ誘致を目論む資産家たちとの関係など、一昔前のアメリカの裏側を描いているはずの小説が、今の日本の政治状況をそのまま描き出しているように読めてくる。なるほど、アメリカの大統領を日本の首相とするなら、差し詰めエドガー・フーヴァーは何某だな。こうやって犯罪を揉み消すのか、マスコミにのらないのは西も東も同じだな、などと切歯扼腕したり慨嘆したり。

ウェインもホリーも、けっして善人とはいえない人物だから、酷い死に様をさらすことになる。シニカルな構図だが、いくら巨悪と戦う目的があるにせよ、我が手を他人の血で染めた者にはそれなりの報いが用意されねばならない、というのはいかにもピューリタン的な発想といえる。しかし、ウェインやホリーが本当にしたかったことは厄介者扱いされていたクラッチに引き継がれる形で成就する。これは小説だからか。それともアメリカの話だからなのか。謎解きにあたる部分が平板すぎる印象を持つが、もともと普通のミステリを書く気などないだろう。圧巻の、というにはどこかさびしい悪のクロニクルではある。

『湯けむり行脚』池内紀

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二月の声を聞き、寒さがひときわ厳しくなってきた。足もとは厚手の靴下の上からオーヴァーシューズ形のスリッパで固め、膝掛をかけ、キーボードを叩くため、指先だけは切り取った手袋をはいても、そこから出た指さきの凍りつくような冷たさだけはどうにもならない。熱い息を吹きかける、その吐く息が白いのだ。こういう日には温泉が恋しくなる。出不精で、ここのところめったに外に出ないくせに、温泉には入りたい。

そんな無精者にはぴったりの温泉本のご紹介。とはいっても、少しばかりくせがある。副題に「池内紀の温泉全書」と謳ってあるように、著者はあの『ファウスト』を訳した独文学者で、エッセイストでもある池内紀氏。氏によれば1990年代を境に温泉地は様変わりをしたという。

足の便のいいところは急激に観光地化して、旅館が巨大化し、料金もグンと高くなった。大型バスが団体客を送り込み、見る間に中小の宿を蹴ちらしていく。秘湯と呼ばれた山奥にまで道路が通じ、これまで見なかったタイプが車でやってきて、大騒ぎして、湯もそこそこに引き上げていく。

と、いたくご立腹である。読めば分かる通り、氏ごひいきの温泉というのは、あまり人のやって来ない、山の奥にひっそりと、しかし昔から細々と続く、湯治場の雰囲気を残した温泉宿のようだ。万座、草津、箱根を除けば、有名な温泉地は出てこない。1995年を中心に書かれた文章が多いので、今ではずいぶん様子も変わっているだろう。閉館した宿もいくつかある。それでは役に立たないのでは、と思うかもしれない。そんなことはない。

車で乗りつけることのできない山奥にある温泉宿に向かうのだ。足もとは登山靴、背中にはリュックを背負っての列車での旅である。汽車から降りたらバスに乗り、バス停からはひたすら歩き。それも、ただの道ならいいが、峠を越えての山歩きの末、やっと湯煙の見える渓流沿いの古びた宿にたどり着くような温泉行である。「行脚」を辞書で引くと「僧侶が修行または布教のためにいろいろな地方を歴訪すること。また歌人などが行う創作しながらの旅行をもいう」とある。タイトルは伊達ではないのだ。

そう聞くと、なにやら苦行僧のような難しい顔をして、蘊蓄を垂れそうな老人の顔を思い浮かべるかもしれないが、そんな心配はいらない。湯の種類が違うからと、女湯に入り込み、後から来た女性客の顰蹙を買ったりするのは毎度のこと。いたって、気安い旅人であるのは保証する。吉井勇若山牧水島崎藤村あたりは上州や信州の国境にある温泉を巡っていれば、当然出てくる名前だが、古いところでは大町桂月、渋いところでは田中冬二などの名前も見える、文人好みの紀行文とも読める旅のエッセイである。

温泉の種類や、効能などは一応記されているが、温泉そのものよりも、そこに行き着く経路で目にしたものや耳にする言葉、人の仕種や表情、といった寄り道の方にこそ読むべきところがあると思う。酒好きらしく、湯上りのビールや、宿の心づくしの料理をあてに酒杯を傾けるうちに、他の泊り客はさっさと食事を済ませて帰ってしまい、ひとりぽつんと広間に残されるのもご愛敬だ。とにもかくにも温泉とそれに付随するものを堪能してやまない。

特にめでるのが、野天の湯から仰ぐ満天の星空、あるいは折からの雨が湯を叩く音。人里離れた湯宿であるからこそ、川のせせらぎの音や、塵埃に満ちた巷のあれこれが眼に入ってこない風景が何よりの馳走だ。あと、一風変わった思い入れがある。スリッパがどうにもお気に召さない。誰が履いたか分からない代物に、せっかくの湯上りの足を入れる気にならない、というのは分かる気もする。だから、旅館で靴を脱いだ後、どうぞそのままで、とスリッパを並べていない宿は高評価である。

一夜明けたら、というか、まだ明けきらないしらじら明けには起き出して、ひと風呂浴び、その辺りを散歩するのがおすきなようだ。年寄りだから朝が早いのかもしれないが、夜と朝ではあたりの光景がまたひとしお違うこともある。旅館からの散歩には下駄をはく。カランカランと音のするのが好ましい。地面より少し高いところを行くのが快い。素足で履くのも結構だ。どこまでも素足が好きな人である。

四季別に八十余の温泉地を振り分けて、その良さを紹介している。ふだんはついつい、車に頼り、近場の日帰り温泉で、お茶ならぬ、お湯を濁している温泉好きにはちと敷居が高い気もするが、この歳になってから登山靴にリュックという山行もままなるまい。ここは、いっそバーチャルに温泉行を楽しむと決めた。本を読んで頭の中で思いを巡らす愉しさもまた、格別のものがある。そうはいうものの、いつかは本当に出かけてみたいと思わせる魅力的な湯がいくつもある。巻末に温泉一覧が付されているのも親切。やはり、出かけてみるか。

『ミッテランの帽子』アントワーヌ・ローラン

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80年代のパリを舞台にとった、往年のフランス映画を見ているような、小粋で洒落たコントになっている。近頃の小説は、どこの国のものを読んでも大差がなく、深刻で悲劇的、ネガティヴな印象を持つものが多い。時代が時代なので仕方がないこととは思うが、毎度毎度そんな話ばかり読んでいると気がくさくさしてくる。せめて本を読んでいるときくらい、クスッとしたり、元気を得たりしてみたいと思う、そんな人にお勧めの一篇。

ミッテランといえば、ある年代の人ならすぐ思い出すのが、元フランス大統領、フランソワ・ミッテランその人である。一度は選挙に破れるものの無事返り咲いて社会党政権を率いた世界のリーダーの一人だった。ルーブル美術館の前庭にガラスのピラミッドを作ったのも、新凱旋門を建てたのもミッテラン政権のときだった。これは、そのミッテランが大統領であった当時の物語。当然、帽子の持ち主のミッテランは大統領のことである。

昔話によく出てくる「呪宝」と呼ばれるものがある。樹々や鳥の話す声を聞くことができる「頭巾」(ききみみ頭巾)や、それを着ると姿が見えなくなる「蓑」(天狗の隠れ蓑)などがそうだ。力を持たない民衆のあこがれやはかない願望を託された、今ふうにいえば魔法のアイテム。この話の中では何の変哲もない黒いフェルトの帽子がそれにあたる。ただ一つ、それがそんじょそこらにある帽子とは帽子がちがう。裏の折り返しに金字でイニシャルが、F.M.と入れてある。ミッテラン大統領愛用の帽子である。

ブラッスリー、というのは元はザワークラウトなんぞをあてにビールを飲ませる店のことだったが、今では一流レストランやカフェも、ブラッスリーを名のる。予約を確認しているところから見て、この話に出てくるのは、かなり高級レストランだろう。なにしろ、隣の席で大統領が食事をしているというのだから。それにしても、SPもつけず、一般人と一緒に食事を楽しむとはさすがに左派の大統領だ。気さくさを宣伝する散歩に、SP で脇を固めるどこぞの首相とは大違いだ。

その大統領が店に置き忘れた帽子を手に入れたのが、ダニエル・メルシエ。ソジェテック社の社員である。人事問題でストレスを感じていた彼は新しい一歩を踏み出すためにこのブラッスリーを訪れ、この帽子に巡り会う。自分のもののような顔をして帽子を手にしたダニエルは意気揚々と我が家に帰る。その次の日からダニエルは人が変わったように会議で自分の意見を遠慮なく発表し始め、いつの間にかルーアン支社を任されるまでになる。

どうやら、この帽子はそれを手にする者の裡に秘められた潜在的な資質を表に出すため、背中をひと押しする役割を担っているようなのだ。ところが、ダニエルは大事な帽子をル・アーブル行きの列車の網棚に置き忘れてしまう。丁度降ってきた雨を除けるために、それを手にしたのがファニー・アルカン。本を読んだり書いたりするのが好きで作品を書きためている。現在は先行きの見えない既婚男性と不倫関係にある。

もうお分かりだと思うが、ファニーが帽子をかぶると、不倫相手は別の男のプレゼントだと勝手に思い込んで別れ話を始める。ファニーはファニーで、出て行った男に未練を感じることもなく、帽子と出会ってからの経緯を手持ちのノートに書きはじめる。やがてそれは一篇の小説となり、文学賞を受賞することになる。この調子で、帽子は次々とちがう人物の手に渡り、それぞれの人物の運命を変えてしまうことになる。

帽子を手にすることになるのは四人の人物で、あとの二人は香水の調香師と資産家のブルジョワである。天才的な調香師だったピエール・アスランはいくつかの名作を世に出したものの、ここのところは長いスランプに苦しんでいた。ところが、公園のベンチで二つの香水の薫りが混じりあった帽子を見つけてからは生活が一変する。道行く人の香水をあてるゲームもかつてのようにできるようになり、新作まで思いつく。

ブルジョア階級の夜会に退屈しきっていたヴェルナールは、ふだんなら聞き流していた会話にひっかかりを感じ、猛然と反論を始める。反動の人士が集まるその席では、大統領のことをミットランとわざと発音を替えてからかうのがならいだった。ところが、ブラッスリーでクロークが取り違えた帽子を渡されたヴェルナールは俄然ミッテラン擁護の論陣を張る。さらに翌朝、いつもなら右寄りのフィガロを買うのに、なんと左派のリベラシオンを買って帰る。

このヴェルナールの変貌ぶりが80年代フランスのブルジョア階級の暮らしと文化をカリカチュアライズしていて、アンディ・ウォーホルバスキアまで登場するパーティーのドタバタ劇がとことん笑わせてくれる。さらに、アメリカのTVドラマ『ナイトライダー』まで登場するのはご愛敬だ。当時フランスではテレビのチャンネルが限られていて、特別なチャンネルに加入しないと見られない番組があったらしい。

エスプリがきいた軽いタッチで洒落のめしながらも、勢いのあった80年代フランスの人々の日常スケッチを通し、料理やワインの蘊蓄を傾けながらもさらりと流し、最後には水の都ヴェネチアのカフェ・フロリアンで、帽子が大統領のもとに帰るまでをノンシャランに描いていく。軽い気持ちで立ち寄った店で思わぬ拾い物をしたような気にさせてくれる上質のフランス製のコントである。

『償いの雪が降る』アレン・エスケンス

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原題は<The Life We Bury>.。「私たちが葬る人生」とでもいうような意味で、こちらの方が中身に似つかわしい。というのも、主人公で探偵役をつとめるジョーも、彼が伝記を書こうとしている末期癌を患っている死刑囚カールも、ともに人には言えない過去を自分一人の記憶の裡に封じ込めているからだ。表題に込められているのは、もしかしたら救うこともできたかもしれない人の命をみすみす見捨ててしまったことを忘れ去ることができず、おめおめと今日の日を生きていることに対する罪障感だ。

ミネソタ大学で学ぶジョーにはジェレミーという十八歳になる自閉症の弟がいる。弟は母と一緒に暮らしているが、その母というのが躁鬱病で、しかも弟に暴力を奮うDV男と暮らしている。そんな家を嫌って家を出たジョーは酒場の用心棒のバイトをしながら大学に行っている。何かというと家を空ける母親に代わって弟の面倒を見なければならず、バイトも学校も思うように通うことができずにいた。

そんな訳で大学に来れたのは履修登録日ぎりぎりで、定員に空きがあった「伝記執筆」を選ぶことに。その課題が一人の人物にインタビューし、その伝記を書くというものだった。彼は近くにある老人ホームを訪れ、誰かを紹介してもらうことにした。そこで紹介されたのが、カール・アイヴァソンという、少女を強姦し、納屋に放火して焼死させた囚人だった。カールは末期のすい臓がんのため、仮釈放となり、獄舎を出てこの施設で暮らしていた。

未解決事件を扱うミステリは少なくないが、これはすでに裁判も済んで刑に服している囚人の無実を証明しようとする素人探偵の活躍を描く。同じ大学に通う男女の学生コンビが、過去の裁判の結果に疑問を感じ、死期の近い服役囚に無実の判決を得るため、無謀な挑戦を企てるというストーリーだ。いかにも若々しく、計画性のかけらもない、行き当たりばったりの展開を見せる。彼らの唯一の強みは、何十年もの時の経過による科学技術の進歩にある。

当時は、コンピュータといえば、軍事機密に使用されているくらいで、パソコンなどというものは庶民はおろか警察にさえ入っていなかった。さらには鑑定の決め手となるDNA鑑定も知られていなかった。しかし、証拠物件は保存されている。つまり、現存する該当者からDNAを採取することが出来さえすれば、当時は不明だった真犯人をあぶり見つけ出すことができるのだ。おまけに、暗号で書かれた日記の解明も、今ならコンピュータによって解読も可能である。素人の学生コンビでもホームズに勝る謎解きができるというもの。

しかし、謎解きの妙味はあまりない。いろは歌のアルファベット版のようなものがあって、ジェレミーが口にしたそれがヒントとなって、相棒のライラが難なく解読してしまう。どんでん返しというほどの意表を突く展開もなく、せいぜいちょっとしたミスディレクションが待っているだけ、というミステリとしてはあまり期待する部分がない。どちらかといえば、謎解きを扱う前半の「静」に対する、後半の犯人逮捕に至る「動」の部分の方に比重が置かれている気がする。

もう一つの謎は、カールという人物が何故犯してもいない犯罪に対して、無罪を訴えることをせず、さっさと判決を受け入れ、刑務所に入ろうとしたのか、ということだ。それには、PTSDなどと一くくりにすることのできない戦争に行った者にしか知り得ない事情があった。ベトナムで一緒に闘った戦友の語る戦場のカールは、仲間の命を救うために自分の命を投げ出すことのできる英雄だった。

そんな男が少女を強姦し殺すことなどありえないと戦友のヴァージルは言う。しかし、カールには他人には決して語ることのできない過去があった。ベトナム戦争という、アメリカの敗戦で終わる戦争には記録には残せない狂気の沙汰が蔓延していた。カールはその現場に遭遇し、葛藤しつつもどうすることもできずにいた。そして、その事実が彼を、戦場では当然である殺人ではなく、ある意図をもってする、殺害へと追い込んでいく。

人を殺すことについて、ミステリではたった一人の殺人もたいそう大ごとのように扱うが、いざ戦争ともなれば、ごくごく当たり前の若者が、無数ともいえる人々の命を奪う。国にいた人々も、それを命じた上層部も、戦争が終わればまるで何もなかったような顔をして平時に戻ることができるが、その手で人を殺した人間にとってはそうはいかない。カールもまた、長期の刑に服す中でそのことを考え続けてきた。

カールの考える神学論は、実存主義哲学に似ている。彼は死後に天国を待つことのできない身である。カトリック信者として自殺は論外だ。小児性愛者は刑務所のヒエラルキーの中では最下層に位置する。都合よく誰かに殺されるのを待っていたカールだったが、襲撃は未遂に終わり隔離されることに。考えあぐねた彼は、死後ではなく、生かされている「今」を天国だと考えるようになる。冤罪を晴らせるかどうかは、残り少ない時間との競争となる。

外連味のない真っ向から直球勝負のミステリ。解決に向かって爆走する若いジョーの愚直さに共感できるかどうかが鍵になるだろう。正直、この歳になると、もう少し隘路や回り道、寄り道といった逸脱がある方が助かる。後先考えずに一心に駆け続ける若者のパワーについていくのに息が切れる。これがデビュー作というから、余裕が出てくるのはこれからだろう。若い読者なら感情移入もたやすく、一挙に読みきってしまうにちがいない。最後に救いのある、爽やかな作風である。

 

 

『ブルーバード、ブルーバード』アッティカ・ロック

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輸入盤で手に入れたミシシッピジョン・ハートのレコードを擦り切れるまで聴いてフィンガー・ピッキングをコピーしていた頃を思い出した。『ブルーバード、ブルーバード』というタイトルは、ブルースの名曲から採られている。事実、文中にはライトニン・ホプキンスやジョン・リー・フッカーの名前がたびたび出てくるし、主要な舞台となる、ラークというテキサスの田舎町にある掘っ立て小屋みたいなカフェ<ジェニーヴァ・スイーツ・スイーツ>では、いつもブルースがかかっている。

面白いのは、ハイウェイ五九号線を挟んだ向かいには、プア・ホワイトが集まってくる<ジェフの酒場>があり、そこでは、カントリー・ミュージックがガンガンかかっているというところだ。つまり、道路をはさんで黒人が安心して足を運べる店とレイシストの巣になっている白人専用の酒場とがにらみ合っている構図だ。奇妙なのは、<ジェフの酒場>のオーナーであるウォリーが、毎日のようにジェニーヴァの店に顔を出すことだ。店を売れというのが名目だが、どうやらそれだけでもなさそうに見える。

テキサス・レンジャーのダレンは、家の管理を任せている老人が絡む殺人事件の裁判に巻き込まれ、レンジャーを停職中。レンジャーの仕事を快く思っていない妻のリサとも別居中である。そんなとき、友人でFBIヒューストン支局の捜査官グレッグから、ラークで起きた事件の捜査を内密に依頼される。道路沿いのカフェの裏に広がるアトヤック・バイユーで立て続けに黒人男と白人女の死体が見つかった。グレッグの話では人種がらみの事件らしい。ダレンは愛用のピック・アップ・トラックをシェルビー郡まで走らせる。

オバマ大統領が誕生した時には、これで人種差別も解消に向かうかと希望を持った人々もいたが、トランプ政権発足により、事態は逆戻り。地方では、白人至上主義者の活動が活発化し、人種間の軋轢は以前より悪化していた。言い忘れたが、ダレンをはじめ主たる登場人物は黒人である。テキサス・レンジャーに黒人はめずらしいが、ダレンの伯父がその道を切り拓いた。ロー・スクール出身のダレンはもともと弁護士を目指していたが、ある事件をきっかけにレンジャー入りを決めた。リサとの不和はそれが原因になっていた。

白人の勢力が強いテキサスだが、自分たちの力で商売をしたり、農園を経営したりして成功した黒人は、その地にとどまり続けた。一方で、才覚のない貧乏白人たちは、地道に働いて資産を得た黒人層を嫉み、執拗な嫌がらせをすることで、鬱憤を晴らしていた。それが、今では白人至上主義者がギャング団を組織するところまで来ており、ダレンは気を揉んでいた。黒人男と白人女の相次ぐ死には、黒人男が白人女とつきあうことを憎む者たちの仕業を匂わすものがあった。ただ、男の死体が先に発見されるのは異例で、それが気になった。

ブルースとカントリー、黒人と白人という図式的な対比の構図をとりながら、妻に拒否される夫と夫に拒否される妻、という相似的な構図が用意されている。黒人の被害者マイケルは、シカゴで弁護士をしていた。その死を知って駆けつけたランディは有名な写真家で、家を空けてばかりいることが原因で夫との関係が壊れていた。ダレンとランディは置かれた立場こそ違え、冷えた夫婦関係を作った元凶という似通った境遇にある。事件を追う中で共に行動することで二人の関係がどうなるのかというロマンスの観点も加味されている。

必ずしもフーダニットが主眼ではなく、謎を追うダレンの前に、もつれにもつれ、からまりあう黒人と白人をともに包む大きな憎悪を孕む人間関係の相関図が広がってくる。現在の事件は単独で解決されるものではなく、その裏に隠されていた過去の未解決の事件が浮かび上がってくる。互いに敵対視し、憎悪しあう間柄であっても、男女間には愛が芽生えることもある。周囲に歓迎されることのない愛ではあっても、愛し合えば子どももできる。

白人と黒人の間にある桎梏と、そんなものに左右されることのない愛の交歓とが亀裂を生み、やがては殺人に至る原因となる。人を殺すことが、単に憎悪からではなく愛ゆえに起きることがあるのは知っている。人の感情というものはそんなに単純なものではない。それが悲劇の連鎖を生むのだ。夫と息子の墓参りをするジェニーヴァの場面からはじまるのには訳があった。若いジェニーヴァと、ひとりのブルース・ギタリストとの恋が、幾人もの人々の人生を狂わせてしまう契機になっている。

ハイウェイ五九号線に沿って延びるバイユー・カントリーを舞台に、黒人と白人との愛と憎悪の相剋を、ブルースの名曲をバックに、鎮魂の曲を奏でる『ブルーバード、ブルーバード』。安っぽい正義感や、男の生き様などというありきたりな解釈を寄せ付けない異人種間の熾烈な愛憎劇を犯罪捜査にからませながら、人間という存在のどうしようもない哀しさと、それでもなお愛するに足る姿を、上滑りすることなく真摯に追い求めたミステリ、というより、アメリカで黒人として生きることの緊張感を鋭く見つめた、読ませる小説である。