青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『パリのアパルトマン』ギヨーム・ミュッソ

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次々に新作が発表される翻訳ミステリ。純然たるミステリ・ファンではない。というより、根を詰める読書の合間の息抜きとしてミステリを読む。つまらないものは読みたくないのが人情。そんなとき頼りになるのが書評サイト。その中に七人の書評家がその月の推し本を紹介するコーナーがある。そこで票を集めたのがこれ。初めて読む作家だったが、一気に読んでしまった。リーダビリティの高さは保証する。

すぐにカッとなる元女性刑事と人嫌いの劇作家が繰り出す丁々発止のやりとりが、一時期ハリウッドで流行ったスクリューボール・コメディを思い出させる。出会いがこれだけ険悪だと、最後はハッピーエンドに終わるんだろうな、と誰でも想像がつく。問題はこれがミステリだということ。謎解きの第一は宝さがし。死んだ天才画家の遺作をみつけだせ、というもの。しかし、その謎は途中で解け、新たなミッションが。死んだはずの子は生きているのか。

そもそもの発端は、画家の遺産を管理する画廊オーナーが、パリにある画家の旧宅を貸し出したことにある。ネットの不具合で、元刑事のマデリンとアメリカ人の劇作家ガスパールにダブル・ブッキングが生じたのだ。どちらも一目でその家が気に入り、互いに譲らぬ二人。マデリンは画廊オーナーのもとを訪れ解決を求めるが、担当者は不在で目途が立たない。逆にオーナーから画家の遺作を探してもらえないかと提案される。

ショーン・ローレンツはビルの壁や地下鉄にスプレーで絵を描くペインターだったが、ある日目にした美女に一目惚れ。至る所にその姿を描くという挙に出る。それが話題を呼び、画廊オーナーの勧めもあって活動の場を美術界へと転ずる。やがてペネロープと結婚し、天才画家の名をほしいままにするが、ニューヨークで開かれる個展のために訪米中、母子が拉致され、妻の目の前で息子が殺されるという悲運に見舞われる。

画家はそれ以来絵筆をとることなく、身も心もぼろぼろになり、遂には路上で果てる。死の直前、画廊のオーナーに遺作があることを告げたのだが、それがどこにあるかは言わず、謎めいたメッセージだけを残していた。マデリンが依頼されたのは、その遺作を見つけることだった。彼女には世間をにぎわした事件を見事解決に導いた過去があったからだ。

愛する者と別れることの苦しみを、仏教では「愛別離苦」という。息子を失う悲しみ故に死ぬのはショーンだけではない。マデリンは愛した男との間に子ができず、男は妻のもとに去る。彼女が深く傷ついたのは、再会した男の傍に少年がいて、二人に子どもができたらつける筈だった名前で呼ばれていたことだ。自死を試みるも失敗し、精神科の厄介になり、今も回復できていない。マデリンは立ち直るため、自分の子を持つことを欲していた。

ガスパールには父を自殺に追い込んだ負い目があった。両親の離婚後、彼は母に引き取られた。父とは週に一度面会が許されていたが、父子は母の眼を盗んで何度も会っていた。自分の失言でそれを母にとがめられ、裁判所から接見禁止を言い渡され、父は自殺した。彼が人嫌いやアルコール中毒になった遠因はそこにあるのかもしれない。彼は息子を失ったことで死に至ったショーンに父を重ねてしまう。

表面上は激しくぶつかり合うが、二人には深く傷ついていて、精神的には死にかけているという共通点がある。これは、そんな二人が画家の遺作を探し、そこに隠されていた「ジュリアンは生きている」というメッセージを解読し、画家の息子の生死の確認を果たすことを通じて、自分たち自身が今いる「死」の状態から「再生」を果たす「死と再生」の物語でもあるのだ。

事実、文明の利器を嫌悪し、スマホもネットもいじらないガスパール。長髪に髭を伸ばし放題にし、ランバージャック・ジャケットに身を固めた男は、謎解きに入ると同時に別人に変わる。あれほど飲んでいた酒を断ち、髪を切り、髭を剃り、画家がアトリエに残したジャケットに着替え、スマホを買い、ネット検索まで始めるようになる。まあ、こうしないと、二人の主人公が代わる代わる視点を交代し、同時進行で事件を解いてゆく、この小説の構成が成立しないということもある。が、それにしてもこれを「再生」といわず何という。

この話は、明暗が対比的に扱われている。マデリンとガスパールが生きている現代は、喧嘩や言い争いは絶えないものの喜劇的な要素に満ちている。反対に、過去の事件に纏わるすべてが暗く惨たらしく悲劇的だ。小児虐待、育児放棄に対する報復、身を捨てて尽くした相手の手にした幸福に対する激しい憎悪。簡単には殺さず、精神的に痛めつける嗜虐的な犯人像、とどこまで行っても救いがない。

舞台をパリにとった前半はスクリューボール・コメディ・タッチ。過去のニューヨークの事件を追う後半は人間の心理の残酷さや複雑さを追求する、サイコ・スリラー・サスペンスのタッチ。すべては、次々と現れる意外な手がかりに導かれるように、作家の操る筆に身をゆだね、あれよあれよと結末に行き着く喜びを味わうことに尽きる。明―暗―明と過去の暗いトンネルを抜けて明るい現在に立ち戻ったときの解放感が心地よい。陰惨な過去があるからこそ再生を果たした今の明るさが引き立つ。騙されたと思って読んでほしい。

『ヘミングウェイで学ぶ英文法2』倉林秀男 今村楯夫

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英文法の本なのに意表を突く売れ行きを見せる『ヘミングウェイで学ぶ英文法』の続編、と言っていいのだろうか、小説ではない、文法書のことを。売れたら続編を出したくなる気持ちはわかる。とはいえ、単に柳の下の二匹目をねらったわけではなさそうだ。ヘミングウェイの短篇をまるごとテキストに使って英文法を学ぶ、というアイデアに見合うだけの作品がまだこんなにあることに驚いた。前作に負けない読みごたえがある。

章の構成を見ていこう。まず、最初に和訳が紹介される。すぐに英文ではなく、日本語で書かれた文章が来ることで安心して入ってゆける。採られているテクストが日本なら掌編小説とでも呼びたくなる短さなので、まるごとテクストにしても抵抗感がない。しかも、御承知の通り、ヘミングウェイの文章は平易で、一文が短いことでも知られている。

次に、原文と「ここに気をつけて読もう」というページが左右見開きで出てくる。左ページに原文、右ページに「この文の主部はどれですか?」といった質問が揚げられている。ヘミングウェイの文章はほぼ基本的な語彙で成り立っている。難語句については右ページの下欄に説明があるので、いちいち辞書で引く必要はない。その後に質問に対する回答にあたる「『ここに気をつけて読もう』の解説」が続く。この解説が本書の勘所になっている。

さらに、「ワンポイント文法講義」という、作品の中で使われている手法について要点を絞った講義がついている。文法講義という名前がついているが、これは文学講義といってもいいもので、ヘミングウェイが、なぜ、そのような書き方をしたか、それは作品にどのような効果をもたらしているかが事細かに論じられる。目から鱗といった感じで、これが面白い。文法を知ると知らぬとではこんなにも読む力に差がつくのか、とあらためて思い知らされた。

これで終わってもいいようなものだが採り上げた短篇について一篇ごとに「作品解説」がちゃんとついているのが親切だ。たとえば第一章で採り上げているのは「インディアン集落」だが、この作品について、ヘミングウェイがインディアンに対して差別意識を持っていたような批評のあることを紹介したうえで、作品のモデルである作者の父が、当時としてはめずらしく白人もインディアンも差別なしに診療した事実をあげ、その説を否定している。

おまけといっては何だが、コラムが付されているのも愉しい。「インディアン集落」はニック・アダムス物の一篇で、麻酔なしにインディアンの妊婦の帝王切開をする話だが、登場人物の一人でニックの伯父にあたる脇役のジョージに光をあてている。ジョージがインディアンに葉巻を進呈する場面があるのだが、そこから「ジョージおじさん=赤子の父親」説が浮上するのだ、と。インディアンの間では赤ん坊の父親は煙草を贈る習慣があるらしい。

第二章のテクストは「三発の銃声」。これは「インディアン集落」の前日譚であり、二作を続けて読むことでより味わいが深くなる。前作にもあった少年が初めて「死」というものを意識する話である。第三章はトルコ=ギリシア戦争の取材でトルコを訪れていた当時のエピソードを綴った「スミルナ埠頭にて」。第四章はスペインのカフェに勤めるボーイ二人の考え方の相違を主題にした「清潔な明るい場所」。第五章は作家の息子の実話をもとにした「何を見ても何かを思い出す」。父と子の間にある齟齬を主題にしている。そして最後には、なんと「老人と海」のラスト・シーンが採られている。大サービスである。

学生時代にサボっていたものだから、英文法には疎い。まあ、それを言うなら日本語の文法だってあやしいのだが。しかし、そんな自分でも、このシリーズはたいそう面白く読むことができた。なにしろ、短いながらもヘミングウェイの短篇が原文で読めてしまうのだから痛快しごく。とても自力では読めないものを、手取り足取り、気長に引っ張っていってくれるので、最後まで読み通すことができる。

それに、テクストとして採り上げられている作品の質が高い。ヘミングウェイについては映画化された長篇などの印象でマッチョなイメージを持っていたが、『移動祝祭日』を読んでから印象がごろっと変わった。その後『こころ朗らなれ、誰もみな』や『われらの時代』を読むことでますます好きになっていった。予備知識なしに読む楽しみもあっていいが、文法といったふだんあまり意識に上せない硬質なものを梃子にして読むことで、また一段と小説を読む面白さを知ることができる。

こんな本で英文法について学ぶことのできる今どきの若者が羨ましい。記憶力が劣化していない若い頃に出会っていたら、きっと英語のことがもっと好きになっていただろうに。記憶の方は長持ちしなくなったが、本さえあれば手許において好きな時に何度でも開いて読むことができる。前作『ヘミングウェイで学ぶ英文法』と併せて読まれることを推奨する。

『十二月の十日』ジョージ・ソーンダーズ

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アメリカ屈指の短篇小説の名手による四冊目の短篇集。作者は「作家志望の若者にもっとも文体を真似される作家」だそうな。この「若者に」というのが曲者で、一例を挙げれば、良識ある親なら子どもの目に触れさせたくないだろう言葉が、次から次へとポンポン繰り出される。ただ、使われ方に必然性があり、難癖をつけづらい。逆に、過剰なレトリックを駆使した華麗な文体模倣(「スパイダー・ヘッドからの逃走」「わが騎士道、轟沈せり」)もあって、作家志望の若者が真似したくなるのも分かる気がする。

「登場する人物は、ほぼ全員がダメな人たちだ。貧乏だったり、頭が悪かったり、変だったり、劣悪な環境下で暮らしていたり、さまざまな理由でダメでポンコツな人物たちが、物語を通じてますますダメになっていく」と、訳者あとがきにある。しかも彼らが住む世界では資本主義が暴力的なマシンと化し、人々を押しつぶしにかかる(「ホーム」)。人々はそこで、人間の尊厳を奪われ、とんでもなくひどい扱いを受けることになる。

一種のディストピア小説(「センブリカ・ガール日記」)なのだが、ソーンダーズには絶妙なギャグのセンスが備わっていて、言語を絶する状況下にある人物の苦境を追体験しながらも、ついつい笑いが止められない。脳内で暴走する妄想の数々や、どこから思いつくのか分からない突拍子もない商品名、それやこれやにニヤつきながら、地獄の底でのたうち回るダメ人間たちに送っても仕方のないエールを送る羽目になる。絶望的な話が多いが、作家の心境の変化によるのか、意外な結末に心癒されるものがあるのも確かだ。

人には人生のどこかで決断を迫られる時がある。そのとき、他人のために自分を捨てられるか、というテーマが何度も出てくる。隣家で少女が拉致されかけていたら人は何らかの行動を起こす。だが、親の躾けで自由な行動を禁じられている少年の場合はどうか。ナイフを持った男に飛びかかれば返り討ちになる危険がある。それは一人子の少年には許されないことだ。少年は事態の推移を想像し、彼我の成り行きを天秤にかけ、思案の果てに行動に打って出る。

ところが、少年の中に抑えつけられていた欲望が、爆発しそうなまでに膨らんでいた。自分を縛っていたものから解放されたことで暴走した欲望が過剰防衛の形をとって人を殺しかける。突然の危機が引き金となり暴発するのを自分では止められない。辛くも難を逃れた少女が決断を迫られる番だ。十五歳の誕生日を前に少女は自分のことをお姫様のように感じ妄想を膨らませていた。最善だと感じていた、自分と自分を取り巻くその世界が目の前で破綻しかけている。

人の心と体は自由なように思えるが実は自由ではない。体は心に縛られているし、どう思おうが夢ひとつままにならない。巻頭に置かれた「ビクトリー・ラン」は、自己が確立していない思春期の少年少女を襲う青天の霹靂を描いている。重い荷を引き受けざるを得なかった二人は結果的に新しい自分というものを背負い込む。自分の中に潜む暴力性や世界の持つ荒々しい手触りといったものを。しかし、それもまた、一つの成長の徴なのかもしれない。

掉尾を飾るのが表題作。妄想癖のあるいじめられっ子と、脳の中で進行する病のせいで家族に厄介をかけることを怖れる中年男の物語。二人が出会うのは冬の寒さに凍った湖だ。パジャマの上に羽織ったコートをベンチに置き、男は痩せた体を寒気に曝し、凍死しようと丘を上る。自殺では保険金が下りないのだ。脳内で地底人との戦いに躍起になっていた少年が対岸からそれを見て、助けようと凍った水面を突っ切ろうとする。ところが、案の定、氷が割れ水中に落ちる。丘の上からそれを見た男は、少年を助けようと氷の上に向かう。

「ビクトリー・ラン」と同じように二人の人物の脳内の妄想が同時進行でかわるがわる語られる。少年のそれは地底人と戦い、麗しの転校生の愛を射止める、いじめられっ子の日常から逃避するための昔ながらのおとぎ話だ。中年男のそれは自分の過去の回想と、脳内で勝手に聞こえる父親とその友人の話し声。男には継父がいた。素晴らしい父親だったが、脳内にできたものが大きくなるに従い、汚い言葉を吐き、家族に手を挙げるようになった。男は自分も同じ運命をなぞることを怖れている。だから死に急ぐのだ。

普遍的なテーマである「死と再生」の物語のスラップスティック版だ。水に落ちた少年が凍死するのを防ごうと、男は身に着けていたなけなしのパジャマとブーツを気絶している少年に着せる。そして、少年を支えながら歩き出す。途中で気がついた少年は走って逃げだす。パンツ一丁で寒さに凍える老人を見捨てて。死にかけているものが若い命を救うことで、命の尊さ、生きる喜びを再発見する。「生老病死」からは誰も逃れられない。惨めな最期をどう生きるかのシミュレーションとして滋味あふれる小品である。

短篇集は評価するのが難しい。内容にばらつきがあり、好みが分かれることもある。上に紹介した二篇は只々評者の個人的な好みで選んだ。文中に書名をあげた六篇の他に「棒切れ」「子犬」「訓告」「アル・ルーステン」の四篇を含む全十篇。ジョージ・ソーンダーズの独特の世界を味わうに充分な粒よりの短篇集である。原文のはじけっぷりを見事な日本語に移し替えた岸本佐知子の訳業にも触れなければならない。原文と読み比べてみたいものだ。

『パリ警視庁迷宮捜査班』ソフィー・エナフ

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アンヌ・カぺスタンはパリ司法警察警視正。同期の中では一番の出世頭だったが、逮捕時に犯人を射殺したことが過剰防衛と見なされ、六カ月の停職処分を受けた。降格、左遷が妥当な線だが、警察局長のビュロンはカベスタンを新設された捜査班の班長にした。その班というのが、アル中やら賭博依存症、誰も組みたがらない不運をもたらす刑事、といった問題のある連中ばかり。放り出したいのはやまやまだがそうもいかないので、警察本部から隔離しておく、いわば不用品を放り込むための物置だ。

鼻つまみばかりを集めた集団が、それぞれの隠された能力を発揮し、周囲を驚かす大活躍をする。よくある設定だ。捜査権を持たない特捜班が扱うのは、警察内部に残されている未解決事件、というのもハリー・ボッシュや『特捜班Q』シリーズでおなじみのところ。オフィスはシテ島にある本部とは打って変わって、猥雑な街なか。ベル・エポックの残り香漂うイノサン通り三番地の建物の六階。寄せ集めの机や椅子と何本かの電話は用意されていた。

個性あふれるメンバーは、相棒が次々と事故にあったり変死を遂げたりするので「死神」とあだ名されるトレズ警部補。高身長の美男でゲイであることを隠さないルブルトン警視。刑事とミステリ作家・脚本家を兼ねる派手好きな女警部ロジエール。アル中だが警察内部に人脈を持つメルロ警部。警察内部の不正を暴きマスコミに流しているオルシーニ警部。賭博依存症のエヴラール警部補。サイバー犯罪に強いダクス警部補。スピード狂のレヴィッツ巡査部長。

カぺスタンの発砲事件を尋問したのがルブルトンだった。敬遠しあう二人はそれぞれ別の段ボール箱を漁って、二つの未解決殺人事件を見つけてくる。一つは七年前、一人暮らしの老女が室内で殺されていた事件。強盗の仕業と見られていたが、犯人が見つかっていない。もう一つが二十年前の船員殺し。錘をつけてセーヌ川に沈められていた。射殺だったがナイフで弾が抜きとられるというプロを思わせる手口。

誰も組みたがらないトレズとカぺスタンが組んで老女殺しの再捜査を始める。ただ一人の身内である老婆の弟はパリから遠いクルーズ県に住んでいるため、七年もたつのに家は事件当時のままに残されていた。少々都合のよすぎる設定ではある。鎧戸が閉まっているのに差し錠がかかっていなかったり、絞殺した老婆の身なりを整えてソファに座らせたり、犯人のしていることが妙にちぐはぐなことから二人は強盗事件ではないと考える。

ブルトンとロジエールは殺された船員の妻から、被害者がかつての海難事故の生き残りであったことを聞く。アメリカのキー・ウェストで起きたその事故は船の設計に問題があったと被害者は考えており、事故の関係者を訪ねて回り嘆願書を作って設計者に訴訟を起こそうとしていた。妻はその設計者を疑っており、二人はその男ジャラトーに会いにレクサスを走らせる。

無関係と思われた二つの殺人事件につながりがあることを発見したことで再捜査は勢いづく。ところが、船員の妻が刺殺されてしまう。現場には以前にも殺された老婆を訪ねてきたことのある自転車に乗った青年が居合わせた。必死で追うカぺスタンがバスに轢かれそうになるところを助けたのは「死神」のはずのトレズだった。

ほとんど相手のことを知らない者同士が事件の捜査を通じて、気心を知りあってゆく。同僚に「疫病神」と呼ばれ、避けられ続け、人を寄せ付けないように見えたトレズは有能な刑事であるだけでなく家庭的でおしゃべり好きな男だった。融通の利かない法の番人であるルブルトンは、虫も殺せない平和主義者だった。優れた刑事でオリンピック銀メダルの腕を持つ射撃の名手カぺスタンは一度怒りを覚えると抑制が効かず、人を殺しそうになるという弱点を持っていた。皆が皆、完璧ではなく、どこか弱味を持っている。その事実が本部から追いやられた者の吹き溜まりである「物置」を居心地のいいものに変えていく。ここでなら誰もが息がつけるのだ。

ミステリとしての完成度はさほど高くはない。事件の真相について、そのあらましを知る者がいて、全てはその掌の上で踊らされていたということが分かると、さしもの特捜班も観音様の掌の上を飛び回り、いきがっていた孫悟空のように見えてくる。ただ、読後感は悪くない。殺人犯にも人の心が備わっているし、メンバー同士の会話はユーモアが溢れている。フランスの話らしく、美味しそうな料理や酒が次々と出てくるのも英国物と違って楽しい。

陰惨な殺害方法やサイコパスの猟奇的な犯罪がもてはやされるようなところがないでもないのがミステリの世界だ。そんな中にあって、互いを尊重し合いながら、弱点を補いあって協同して仕事をする、はみ出し者ばかりの特捜班というのが、人の温みがあって心地よい。こういう警察小説もあっていい。すでに続編が刊行されているというから、シリーズ化されるのだろう。次は誰に焦点があてられるのか愉しみなことだ。

『熊の皮』ジェイムズ・A・マクラフリン

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ライス・ムーアはターク山自然保護区の管理人。資産家が周辺の土地を買い集めて私有地とし、みだりに原生林に立ち入ることができないようにしている。しかし、私有地となる以前から住民は森に出入りし、熊猟を行っていた経緯があり、密猟が絶えなかった。ライスの前にいた管理人である女性生物学者サラは、密猟者を摘発したことを恨みに思う何者かによって暴行の上強姦された。ライスの雇い主はサラを治療させるとともに、後任としてライスを山に向かわせたのだった。

ライスにとっても、自然保護区は身を隠すには絶好の場所だった。ゲートに施錠すれば、私道を出入りすることはできない。もし、そこを突破されても山小屋まで来る間に迎え撃つ準備ができる。ライスは恋人を殺したカルテルの殺し屋を撃ち殺し、組織から追われる身だ。勤務地では。名を変え、人に交じることもめったにせず、山に籠っている。それでも、相手は必ず追ってくることは片時も忘れることはない。

そんな時、キノコを採取しに山に入った男から、熊の死骸を見つけたことを教えられる。熊は皮を剥がれ。頭と両手、両足首が切断されていた。調べてみると、中国で野生の熊が減少し、「熊の胆(い)」の材料として密猟されたアメリカグマの胆嚢と掌が、マフィアのルートを通じ大量に輸出されているらしい。ライスは山を下り、地元の無法者であるスティラー兄弟に探りを入れるが、確証は掴めない。

保護区の中には、管理人でも足を踏み入れることを禁じられている地区がある。自分の残した荷物を取りに山小屋を訪れたサラとライスは親しくなり、暗視カメラの取り付けのために森に入り、禁断の地に足を踏み入れてしまう。大古から誰も足を踏み入れることのなかった場所は、今では他の地域では見ることのできない稀少な生物の宝庫だった。それだけではない。ライスはそこで不思議な体験をする。森の自然と一体化したような、自分と森の生き物との間を隔てる壁がなくなったような奇妙な体験だった。

ライスはそれ以来、自作のギリースーツ(迷彩服)を身に纏い、夜な夜な森を徘徊するようになる。はじめは、ライスを警戒していた生き物たちも次第に奇妙な闖入者に対する警戒を解き、スーツをかぶって息をひそめるライスの前を堂々と歩きはじめるようになる。ある夜などは、密猟のあった場所に集まる熊たちの集会に誘われるような気がしたほどだ。ところが、そこにバイクに乗った密猟者が現れ、ライスは密猟者と格闘する羽目に。

ライスはかつて恋人とメキシコ国境を越えて荷を運ぶ運び屋をやっていた時、逮捕されて刑務所に入っていた。ライスはそこで同房の男から、生き延びるための知恵と技を伝授された。男は名うての殺し屋で、ライスはその眼鏡にかなったのだ。ところが、密猟者の方もただものではなく二人は取っ組み合いのはてに崖から転落。這う這うの体で小屋に帰ったライスは心配して訪れたサラの運転する車で病院に運ばれ、治療を受ける。

ライスは恋人を無残な手口で殺めた男を殺し、ライスに弟を殺された組織の殺し屋はライスをつけ狙う。サラは強姦した男たちへの復讐を願っている。物語を動かしているのは、それぞれの抱く復讐の思いである。密猟者との格闘が思わぬ騒ぎを生み、ライスの素性が外部に漏れるという事態が起きる。危機を察知しサラと二人で山を下りる準備をしているとき、討手が現れる。暗闇の中での死闘は息詰まる迫力。

追われる者と追う者の死闘を描くノワールであるのは勿論ながら、普通のノワールと異なり、ほとんどの舞台が山の中。それもチェロキー族の言い伝えで「あまたの異様(ことざま)の山」と呼ばれる神秘的な場所だ。どこからともなく現れるキノコ採りの片腕の男は、ライスを森の神秘的な世界へといざなう導き手のようでもあり、熊の化身のようでもある。一度人を殺す経験をしてから、自分の中にあるもう一人の暴力的な自分に対し、神経質になっているライスは不眠症を患い、起きている間も時間についての感覚が怪しく、長時間、意識を失っていることもあるらしい。

通常の時間軸から乖離した時間の中での出来事は、現実世界ではないファンタジーの世界の出来事のように感じられる。まるで、人間という迷惑な存在が我が物顔にのさばり出すようになる以前の大古の森の中に生きているような濃密な生命感覚が溢れている。人間に見られることで存在する「自然」などではなく、人間などが地上に登場する以前から存在する大文字の自然。すべてがその中にのみ込まれていて、大きな一体となっているそんな世界だ。

麻薬組織の殺し屋として充分にやっていけるだけの能力を持つ男として、ライスの行動は悪辣ともいえるほどスマート。その一方で、自然の中に分け入り、その一部として生きているときの自然児ぶりには、警察犬のジャーマン・シェパードですら、鼻をくっつけ、舐めに来るほど。この二面性が魅力的だ。チェロキー族と黒人の血が混じる熊猟師のボージャー、DEA相手に一歩も退かない保安官ウォーカー、ライスの力量を認めるミラ、老ヒッピーの資産家スター、といったライスをとりまく登場人物も魅力的に描き分けられている。

何故なのか知らないが、近頃、世間から一歩身を引いたところで隠者のように暮らす人々の物語を立て続けに読んでいるような気がする。『セロトニン』もそうだったし、『オーバーストーリー』でもその種の人物が重要な役割を果たしていた。自分で選ぶのだからもとより理由はあるのだろうが、それだけでないような気もする。ひとは我欲に任せて他の存在を軽んじる人間の世の中に倦んでいるのかもしれない。せめて本の中くらい、人間などの出てこない自然の摂理の中で呼吸したいと思うのかもしれない。

 

 

『11月に去りし者』ルー・バーニー

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フランク・ギドリーはニュー・オリンズを牛耳るマフィアのボス、カルロス・マルチェロの組織の幹部。一九六三年、カルロス・マルチェロとくれば、ケネディ暗殺事件がからんでくる。ジェイムズ・エルロイの「アンダーワールドU.S.Aシリーズ」でお馴染みの名前だ。オズワルドではない真の狙撃手の逃走用の車、スカイブルーのキャデラック・エルドラドをダラスの現場近くまで運んだのがギドリーだった。

暗殺事件が起きるまで、ギドリーは何も知らされていなかった。関係者が次々と殺される中、ギドリーは自分も消されようとしていることに気づく。ダラスでエルドラドを始末したその足でバスに乗り、行方をくらます。車を手に入れ、ラスヴェガスの犯罪組織のボス、ビッグ・エド・ツィンゲルを頼って西に向かう。テキサス州グッドナイトでカルロスの息がかかった保安官に逮捕されるが、持ち前の機転を利かして辛くも難を逃れる。 

同じ頃、オクラホマのシャーロットは<Don't think twice, it's all right>の歌に誘われるように子ども二人を連れて家を出ようとしていた。酒飲みの亭主との生活に疲れ、自分と二人の娘の新しい生活を夢見ていた。夫が飲みに出かけたすきに荷物をまとめ、ロサンジェルスの叔母を頼って車で出かける。途中で事故を起こして車を修理中、モーテルでフランクと出会う。ギドリーは、自分の情報がばら撒かれていると知り、シャーロットに近づき、家族連れを装うことに成功する。

カルロスに雇われ、フランクを追う殺し屋がポール・バローネケネディ暗殺の秘密を知る者を次々と手にかけてゆくが、手に深手を負う。傷口を縫ったメキシコ人医者のせいで感染症に罹り、ハンドルが握れないバローネは街角で拾った黒人の少年に車を運転させる。高熱で気絶したバローネのために医者を呼ぶのもセオドアだ。非情の殺し屋とぶっきら棒な黒人少年の取り合わせが、いい味を出している。

逃げる者と追う者、巻き込まれる女、三者三様の思惑が縒りあわされるように一つの物語を構成している。クライム・ノヴェルとしては、二人の腹の探り合い、相手を如何に出し抜き先手を取るか、という暗闘が見せ場。直接対決は最後にあるが、意外な幕切れに終わる。それよりも、この手の小説には珍しく、恋愛に重点が置かれていることだ。女など何人も相手にしてきた暗黒街の男がオクラホマから出てきた主婦にここまで入れあげるとは。

鍵は二人の交わす会話にある。夫の前では自分を見失っていたシャーロットが、フランク相手だと実に生き生きと会話をこなす。フランクは外見より、この当意即妙の会話に引きつけられているふしがある。それに、ジョアンとローズマリー姉妹の存在が大きい。フランクには、少年時代、父親の暴力から生き延びるために、仲のよかった妹を見捨てて家を出た過去があった。フランクにとって二人は妹の替わりだ。彼は姉妹をグランド・キャニオンに連れてゆく。

いくら豪華な家に住み、金と女に不自由しない暮らしをしていても所詮は裏稼業。頭が切れ、人扱いに優れていても、ボスがマフィアでは禄でもない仕事を回される。しかもこの世界に裏切りはつきもので、一数先は闇。作中、ダンテの『神曲』と聖書の引用がやたらと出てくるが、これはフランクの日常が地獄めぐりであることの隠喩である。運命的に出会ったシャーロットこそはフランクのベアトリーチェなのだ。

シャーロットは、前夫の悔悛の電話や、叔母の迷惑そうな口調に心揺れるが、その都度前を向いて進む道をとる。彼女の視点でこの小説を読めば、狭い田舎で若くして身ごもり、世間の口を怖れて結婚生活に逃げ込んだ女が、自分のアイデンティティを取り戻すための戦いを記すストーリーなのだ。シャーロットにべた惚れのフランクは、エドが手配してくれたヴェトナム行きにシャーロットと娘たちを誘う。シャーロットの心は揺れる。

バローネという刺客が担当するパートが最もノワール色が濃い。人を殺すことなど何とも思っていない。手で触れたものが金になる王のように、この男の手にかかると人は死体に変わる。バローネに人間らしさを感じさせるのが、黒人の少年セオドアとのやり取り。その間だけ人間的に見える。もう一つ死神が人間らしさを感じさせるのが感染症による高熱との戦い。立っているのが不思議なくらいの状態でじりじりと相手を追い詰めていく、その凄み。

それぞれの世界で自分の生き方を貫こうとして必死に生きる三人の姿が鮮烈に目を射る。フランクは無事アメリカを脱出できるのか。バローネがその前にフランクを仕留めるのか。シャーロットは本当にフランクと生きるのか。最後の最後まで事態はもつれにもつれる。まるでメロドラマのような展開にハラハラドキドキさせられること請け合い。

原題は<November Road>。異なる世界に生きる男と女が、それぞれの理由で今いる世界から逃げ出す。その路上で偶然に邂逅し、行動をともにするうちに、まるで運命のように恋に落ちる。その恋の顛末を描く、ラブ・ストーリーであり、追う者と追われる者の相剋を描いたクライム・ノヴェルであり、歴としたロード・ノヴェルでもある。『11月に去りし者』という表題は、この小説には寂しすぎる。『十一月の道』ではいけなかったのだろうか。

 

『オーバーストーリー』リチャード・パワーズ

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まず、ジャケットが出色。巨木の根元に陽が指している写真の上にゴールドで大きく書かれた原語のタイトルがまるで洋書のよう。角度を変えるとタイトル文字だけが浮かび上がる。最近目にした本の中では最高の出来である。表紙、背、裏表紙を広げるとカリフォルニアの朝の森にいるような気がしてくる。そうなると、バーコードの白抜き部分が邪魔だ。折り返し部分に印字するとか、帯に印刷するとか。他に方法はないものだろうか。

前置きはこれくらいにして中身に入ろう。カバーの写真が直截に示す通り、木の話である。写真にある木はおそらくレッドウッド(セコイア)。樹齢二千年を超えるものもある、ウディ・ガスリーの『わが祖国 This Land Is Your Land』の歌詞にも登場する、アメリカの森を代表する巨木である。

この本を読んで初めて知ったのだが、レッドウッドの原生林が材木用に伐採され続け、激減しているそうだ。当然それに対する反対運動が起きる。その中の過激なものに<Tree sitting(樹上占拠)>と呼ばれる抗議行動がある。森を守るために訴訟を起こしても、企業側は裁判で負ける前に伐採を終わらせようと急ぐ。そこで樹上にプラットフォームを築き、何日もそこに座り込むのだ。切り倒せば人が死ぬので、企業側も手を出せない。

本作は「根」「幹」「樹冠」「種子」の四部からなる。『オーバーストーリー』というタイトルからは「超物語」や「物語を超える物語」などの意味を想像しがちだが、<second story>といえば「二階」のこと。<story>には「階(層)」の意味がある。<overstory>は「林冠(層)」(森の上部の、樹冠が連続している部分)を意味している。ダブル・ミーニングだろう。本作自体、いくつも集まった<story>が、層をなして複雑に絡み合い、ひとつの<The Overstory>を創り上げている。

小説のハイライトにあたるのは「樹上占拠」を描いた「樹冠」の章だろう。地上六十メートルの樹上に立てこもる二人の男女、そこに食料その他を届ける仲間、迫りくるチェーン・ソーの音、風で揺れるデッキ、命綱をつけての樹上探検、避けて通れない排泄、雨水をためてのシャワー、高い枝の上に生えるハックルベリー、木の洞にできた水溜まりに棲むサンショウウオ、とそこには信じられないほど豊かな生活がある。無論、愛も育つ。なにしろ若い男女が二人きりで何日も共に過ごすのだ。

話は二人の何世代も前、南北戦争の前から始まっている。ノルウェー系の新参者は石を投げて栗の実を落とすのを見て笑う。そこ、ブルックリンで栗は無料で手に入るアメリカのご馳走だ。栗は新しくできた州であるアイオワまで男のポケットの中に入って運ばれ、そこで芽を出す。一本、二本と枯れて行き、残る一本が土地のランドマークになるほど大きく育つ。その一家の男は代々、栗の木を月に一度写真に撮り続けた。その子孫はアーティストになった。これがニコラス・ホーエルの「根」だ。

七人の男女と一組の夫婦が<overstory>の「根」となる。中国系のミミ・マーは父と同じ技師。家は代々イスラム教を信仰する回族。貿易商を営んできたが共産党の時代にすべてが奪われる。三つの魔法の指環と阿羅漢(アラハット)を描いた巻物を身に帯びて、ミミの父はアメリカに渡る。携帯電話の発明者である父が死に、指環は三姉妹で形見分けし、ミミは未来を教える扶桑の指環を手にする。自社ビルの前に生える松が一夜にして切り倒されたことに怒り、彼女は抗議行動に飛び込む。

ダグラス・パヴリチェクはヴェトナム戦争時代、パラシュート降下中、落下地点を誤るが、ベンガルボダイジュの上に落ちて命を拾う。仕事を転々とし、皆伐した跡地にダグラスモミを植樹する仕事を見つけ、達成感を持つが、それが、逆に会社に新たな伐採を可能にするトリックだと知り傷つく。公園内の木が聴聞会を前にした深夜、市の手配した業者の手で切られようとするのを見て、体を張って阻止し、警察につかまってしまう。ミミとの出会いが彼を伐採の抗議集会に向かわせる。

アベンジャーズ』というシリーズ物の映画がある。それぞれがコミックの主人公だったヒーローが寄り集まって悪と戦うという設定だ。本書も似た設定だ。「根」にあたる部分が、それぞれのヒーローの個別の活躍を描く部分で、そこだけで充分面白い短篇集になっている。そこだけ読んで本を閉じてもいいくらいに。しかし、異なる分野で優れた能力を持つヒーローたちが力を合わせて難局に挑むというストーリー展開は鉄板で、面白さからいえばそこは外せない。

ただ、個人的な感想からいえば「根」の個々のエピソードを語る淡々としたストーリーが好きだ。活動家たちに根拠を与える理論の構築者がいる。それに影響を受けてコンピュータ・ゲームで解決策を練る企業家がいる。ついにできなかった我が子の替わりに木を植え、庭が自然に帰るのを見守る夫婦がいる。感電死から奇跡的に蘇り、木の声を聞くことができるようになった大学生がいる。出色の個のストーリーがあって、その上に『オーバーストーリー』があるのだ。

木が人間と同じように、或いはそれ以上に、感情や意志を持っているというパトリシア・ウェスターフォードの理論は、一見するとトンデモ理論のように見えるが、噛んで含めるように説明されると誰にでも呑み込めるように書かれている。それ以上に、美しく手放すことのできなくなる理論であって、これを読んでしまうと、最早今までの人間至上主義ともいえる世界には戻れない気さえする。木のために人間ができることなど、たかが知れている。われわれ人間はさっさと滅びるのがもっとも意味がある行動なのかもしれない。