青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『天使は黒い翼をもつ』エリオット・チェイズ

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愚かな国民が、およそ史上これほどまでに無能で、人間性のかけらもない最低の屑を為政者として長年放置していたために、伝染病を蔓延させることになり、人々は為すすべもなく、家に閉じこもり、手洗い、うがいより他にすることのない生活を送る羽目に追いやられる。外に出て憂さを晴らすことのできない市民は、物語に興ずるよりほかにすることがない。これではまるで『デカメロン』の世界ではないか。

そんな時に読むに最適かどうか、とにかく暗い情念が行き場を求めて彷徨い、最高にクールな犯罪を成し遂げ、悲劇的な終りを迎えるノワールの傑作を紹介しよう。一九五三年というから、チャンドラーの『長いお別れ』と同じ年に刊行されている。あのブラック・リザード版のクライム・ノヴェルである。一読、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を想起させる、一組の男女が手を染めることになる犯罪の顛末を綴った小説である。

掘り出し物というのはこういう作品をいうのだろう。とにかく、文章が生き生きしている。登場人物のイキがよくて、読んでいて気持ちがいい。主人公は勿論だが、こんな呼び方は今では、あまり歓迎されないのかもしれないが、ヒロインが最高だ。ファム・ファタル史上最強と言ってもいい。いい家の生まれで美人、美脚の持ち主というのはよくあることだが、車の運転が達者、というところがポイントが高い。

というのも、この小説、監獄の中で練られた犯罪計画を、脱獄囚の生き残りが完遂するというのが主筋。その犯罪にはハウストレイラーが必須で、実行犯と逃走を助けるドライバーが組む必要があった。相棒のジーピーは脱獄の途中、看守に撃たれ、無残な最期を遂げる。独り残された主人公は計画の実行を胸に抱き、油井の試掘で働きながら、その日を待っていた。仕事が終わり、金が入った。風呂に入り、売春婦を待っていたところ、とんでもない上玉が現れる。それがヴァージニアだった。

田舎町の売春婦じゃないことは見てすぐわかる。都会から逃げてきたのだ。意気投合した二人は男のパッカードに乗って旅に出る。男は頭の中で、いつでも女を捨てられると考えていた。女の方は隙を見て、男の金を奪って逃げる算段。ところが、女が逃げるたびに男は必死になって探し回る。金の奪い合いで殴り合ううち、男は女の腕っぷしと気風の良さに惚れこむ。試しに車を運転させてみると、左のフェンダーをセンターラインぎりぎりに寄せ、滑るように走らせる。

チャファラヤ川から始まる小説はミシシッピ州ルイジアナ州、テキサスを抜け、ニューメキシコからコロラド州、デンヴァ―へとアメリカ中西部を旅するロード・ノヴェル。旅の終わりは、かつて金鉱でにぎわった町、コロラド・スプリングスのクリップルクリーク。その山中にある見捨てられた立坑が、重要な役割を果たす。ケイティ・ルウェリンという女性の名がつけられた底の知れない直方体の虚空である。

主人公のティム、本名はケネスだが、彼はアメリカの自然をこよなく愛している。西部の渇き切った空気と、そのため本来の青さを失った空の色、南部の湿り気を帯びた空気とその匂いを。そんな野生児が、親の見栄で金もないのに大学にやられる。そこで、苦学をするうちに虚飾に満ちた世界に対する反逆の芽を育てる。やがて、招集され太平洋に。ルソン島で日本軍の捕虜となり、灼熱の地獄の中一万人の捕虜とともに檻に閉じ込められる。これがトラウマとなる。

彼は閉鎖空間に閉じ込められることに耐えられない。それなのに、戦争で頭に金属片が入ったままの男はブチ切れて犯罪を犯し、ブルースによく出てくるミシシッピ州のパーチマン・ファーム(刑務所)に送られる。何も考えなければただの四角い檻の独房が、なまじ大学を出た男には精神を病むほどの場所になる。檻を破り、解放された空間に出ることが彼の至上命題となる。閉ざされた直方体というのが鍵だ。ハウストレイラーも、立坑も、現金輸送装甲車も、ホテルの部屋も監獄も、皆その暗喩に過ぎない。

本人は気づいていないが、現金輸送車を襲うことは、そこに閉じ込められた金を解放することを意味する。それなのに、虚空の檻を更なる虚空の檻に閉じ込め、それを立坑に封じ込めるという三重の監禁という罪を犯した男は、その報いを受けることになる。あれほどまでに愛し合った女とは現金強奪後いまひとつしっくりいかず、虚しく遊び暮らし、やがて追われる身に成り果てる。

ノワールの常とはいえ、罪を犯した男女の逃避行は正視しがたい。あれほど華麗な犯罪を成し遂げた二人が、警察に追われるきっかけというのが何ともつまらない事件のとばっちりを受けたに過ぎないとは。もっとも、それで二人の絆は深まり、もう一度、閉ざされた檻からの解放という至上命題を完遂することになる。しかし、それは男の側の宿命であって、女のものではない。どこまでもついて行きたい男であったが、女は男の底知れない虚無を怖れてもいた。

雪の舞うケイティ・ルウェリンで起きるラストが、ノワールとは相容れない白銀の世界というのが何とも言えない。作者によるせめてもの贈り物なのだろうか。会ってはいけない二人の男と女が、たまたま出会ってしまったために起きた悲劇を、降りしきる雪が悼むように見つめる。男は閉じ込められた閉鎖空間の中で、自分の身代わりになり、ぽっかりと空いた虚空の中に封じ込められた女を、束の間の夢のような自由を思い出し、ひたすら綴ることに残りの人生をかける。筆舌に尽くしがたい究極のノワールである。

 

 

『闇という名の娘』ラグナル・ヨナソン

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北欧ミステリは暗いというイメージがつきまとっていたが、これもやはり暗かった。常習犯である小児性愛者が車にはねられる事件から始まり、これがずっと後まで尾を引く。なにしろ、事件を担当する警部が、犯人が故意に轢いたことを認めているのに、うやむやに揉み消してしまうというのだから闇が深い。被害者の部屋から少年の写真が見つかったが、そのうちの一人が尋問中の母親の息子だったのだ。

主人公のフルダは定年間近の老警部。捜査手腕に定評はあるが、ガラスの天井に阻まれて、同期の男性の刑事が出世してゆくのを横目に、現場一筋でここまで来た。ところが、上司から二週間たったら後進に道を譲って退職せよと、突然告げられる。今担当している事件は、と聞かれ、上に書いたように捜査は終了しているにも拘らず、犯人が自首するまで待つ、と告げる。そして、その女性には逮捕はしないことを連絡し、知らぬ顔を決め込む。

残り二週間の仕事として上司に与えられたのが未解決事件。その中から、見つけてきたのがロシア難民の若い娘が溺死した事件だ。頭部に傷があったのに、事故扱いにされていた。担当した刑事が無能でやる気のないので有名な男だった。さっそく、エレーナという娘のいた収容所を訪れるためにシュコダを走らせる。シュコダなどという珍しい車が出てくるあたりがアイスランドの作家が書くミステリだ。

フルダ自身の生い立ちと現在つきあっている男との関係、被害者であるロシア娘と彼女を誘い出した男との事件当日の出来事が、入れ代わり、立ち代わり語られる形式をとっている。事件を追うことより、フルダという女性が、どんな過去を持ち、その過去により、どんな人間が形成されるに至ったか、ということの方が重要視されている気がする。冒頭に紹介したような、ちょっと考えられない行動を取るにはそれなりの理由がある、というわけだ。

どんな理由があろうと、許されないものは許されない。そう考える読者はきっと多いだろう。かくいう私だってその一人だ。法に携わる者が法を破っていては、この日本という国ならともかくも、ミステリの世界ではとてももたない。だからこそ、フルダがどんなふうに育ち、結婚し、娘を産み、愛娘に十三歳で自殺され、夫を五十二歳で亡くし、それからというもの、一人きりで暮らしてきた孤独な人生を読者に知ってもらう必要があるのだろう。

かといって、それだけでは、フルダのとった行為は到底容認できない。勿論、作者はそんなことはもとより承知だ。フルダは毎晩悪夢を見ている。それがどんな夢で、何故そんな夢を見るようになったか、それが、少しずつ読者に知らされてゆく。趣味の山歩きで知り合った、年上の元医師との食事の後の話の中で。互いに伴侶を亡くした者同士、老後を共に暮らすため、少しずつ互いの過去を知りあう必要があるからだ。

ロシア娘のパートは、少しずつ相手の態度に不信を抱くようになる娘に寄り添い、じわじわと迫りくる恐怖を、ヒッチコックの映画のようなタッチで、ごく短くストーリの節目節目に挿入される。男が誰なのかは一切はっきり書かれることがない。しかし、しっかり読んでさえいれば、この人物しかないと特定できるように書かれている。であるのに、初読時はいつものように読み急いで、つい読み飛ばし、まったくの別人を思い描きながら読まされた。

伏線の張り方、小出しにされる情報の提供の仕方が堂に入っている。さほど複雑な構造でもないのに、はじめに思い描いた犯人像は二転三転する。ミスディレクションが上手いのだ。事件を追う間に挟まれる、フルダとまわりの同僚との不和、友人のいない老女の孤独感、上司との軋轢、単独行動による捜査ミス、とフルダに襲い掛かる不幸の数々が、一気に犯人を追い詰めようとする読者の気持ちに水をさす。

見返しの裏に記される<主な登場人物>も、フルダと殺されたエレーナを除けば、たったの十人。そのうち警察関係者と、例のフルダの話し相手の友人を引けば、残りは六人にしぼられる。このリストに名がない人物を犯人にすることができない、というのはこの世界の掟だ。というより、最初からその男にしかこの犯行は起こせない。つまり、ミステリ上級者を犯人捜しの謎解きで満足させようとははなから作者も考えていない。

あっと驚くどんでん返しが最後の最後に仕掛けられている。この手があったか、とうならされた。それまで、述べてきた、いくら努力しても認められないことに対する不満、職場での孤立無援、仕事を終えた老女に襲い掛かる救いようのない孤独感、夜ごとの悪夢、恵まれなかった過去、これらを解決することは、フルダにとって、殺人事件の解決より、ずっと本質的な問題だったのだ。

解説は後で読むことにしているのだが、なんと、このフルダという女性刑事を扱った作品はシリーズ化されていて、これが三部作の最終巻だという。四十代、五十代のフルダの活躍を描いた作品が後二作あるというのだ。シリーズ物は、できたら順番に読みたいものだが、まだ邦訳がないらしい。これでもって全篇の終了、ということもあって、思い切った手が打てたのだな、と思った。アイスランドでは二作目の評判が高いらしい。邦訳が待たれる。

『パストラリア』ジョージ・ソウンダース

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ジョージ・ソーンダーズがまだソウンダースだった頃、初めて日本語に訳された短篇集。『十二月の十日』を読んで、その魅力にハマったので、これまでに訳された本を探してきては読んでいる。訳者の岸本佐知子が「登場する人物は、ほぼ全員がダメな人たちだ。貧乏だったり、頭が悪かったり、変だったり、劣悪な環境下で暮らしていたり、さまざまな理由でダメでポンコツな人物たちが、物語を通じてますますダメになっていく」と書いているが、その作風は初期の頃から確立していたようだ。

巻頭に置かれた表題作「パストラリア」の主人公も劣悪な環境下にある。客がほとんどやってこない、奥地のアトラクションに住み込みで勤務し、原始人に扮して洞窟で暮らしている。誰も来ないのに、二人きりの洞窟で相手との会話が禁じられている(原始人なので)。律儀にそれを守り、ジェスチャーで相手と意思疎通しようとする男と、平気で口を利き、見物客と喧嘩をする女との、どこまで行ってもすれちがうやり取りが絶妙。

景気が悪く、他のアトラクションが閉鎖され、仲間が次々と去っていくなかで、自分の首を心配しながら不自由な生活を送る二人。彼らは相互監視のシステムで、相手に関する評価書を書かされている。生き残りを賭けて、相手を売るかどうか迫られている、というのが実情だ。ソーンダーズは、資本主義社会のシステムに押しつぶされる人間を描くのが得意だ。二人の姿はSF的意匠で誇張されているが、一皮剥けば現代社会のリアルな表現である。

サイレントの喜劇映画を見ることがある。主人公は散々な目に遭っているのに、観客である我々はそれを面白いと笑って観ている。ソーンダーズの小説を読むことには、それと同じアイロニーが潜んでいるように思う。表現は露悪的にまで過激で、状況は劣悪、事態は加速度的に悪化していく中で、人物は二進も三進もいかなくなる。切羽詰まった姿は確かに滑稽だが、よくよく考えてみれば、彼らの置かれている立場は我々自身の姿だろう。

サイレント映画の人物は無言だが、ソーンダーズの描く人物は、すこぶる饒舌だ。妄想が逞しく、そこまで言わなくてもと思えるほど、自分の内心を吐露したがる。おまけに自己を卑下するのが特徴で、これでもかというくらいに自分のダメなところを強調する。足の指がなかったり、デブだったり、いい年をして女性経験がなかったり。自分がダメでない場合でも、面倒を見ている家族はダメダメで、いつも苦労させられている。

中でもユニークなのは「シーオーク」だ。主人公の「おれ」はスラム街に住み、Tバック姿で女性客の相手をするストリップ・バーに勤め、一向に働こうとしない家族を養っている。仲間うちには禁じられているペニスを見せてチップをせしめている者もいるが「おれ」はそこまではしない。ここでも主人公は規則を守る側にいる。劣悪な状況に置かれていても、ソーンダーズの描く人物は基本的に根が真面目なのだ。だから、他の者のようにはいい目を見ることができない。

そんなある日、家に強盗が入り、「おばちゃん」が殺される。貧乏な一家には段ボールでできた棺桶しか買うことができない。分割払いでバルサ材の棺桶にランクを上げて埋葬を終える。ところが、その「おばちゃん」が帰ってくる。勿論死んでいるのだが、腐敗が進む死体の姿で「おれ」を叱咤する。「明日からおまえは、客にチンチンを見せるんだ。見せて見せて見せまくるんだ」と。残された家族が心配で死にきれなくて戻ってきたのだ。

腐敗は進行していく。一日一日、時が過ぎるままに腕がもげ、足がちぎれ、椅子の上に腰かけていられなくなる「おばちゃん」の姿がシュールだ。それでも叱咤は続く。「おれ」は心を入れ替え、ペニスを見せて金を稼ぐようになる。お陰で安全な地区に引っ越し「おばちゃん」の墓も立てることができた。夢の中で「おばちゃん」は言う。「すべてを手に入れる人間もいるっていうのに、あたしはどうしてなんにも手に入れられなかったんだ? どうしてなんだ? いったいどうしてなんだ?」。ユーモアに塗してはいるが、絶叫だろう。

他に、少し頭の弱い妹の世話に手を焼き、自己啓発セミナーを受けることで、自分本位の生き方を見つけようとする兄と妹の同居生活を描いた「ウインキー」、いじめられっ子が、頭の中で仕返しを考えながら自転車を走らせる姿を描く「ファーボの最期」、体の大きい女を好きになり、様々な妄想に耽る床屋の日常を描く「床屋の不幸」、影の薄い男が、滝に落ちようとするボートに乗った女の子の姿を見つけ、川に飛び込むかどうしようかと躊躇逡巡する様子を描く「滝」の四篇を含む六篇を所収。どれも、ソーンダーズならではという、独特の味を堪能できる。

『流れは、いつか海へと』ウォルター・モズリイ

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今のこの国のように、役人や警察が民衆のために働くのでなく、自分たちの利権を守るために働くのが当たり前になってくると、頭の切れる警官なら自分が正規のルールに従って動くことが自分の所属する集団の中にいる他の者の目にどう映るか、だいたい分かるだろう。法や正義を盾にとって、いつか自分に害を及ぼすことになるだろう相手に、本心を明かすことはなくなり、遠巻きにして眺め、警戒するに決まっている。

独善的でなく、周囲に気を配れるだけの器量さえあれば、腐った林檎でいっぱいの箱の中に入っていたら、自分だけいい匂いをさせているのがどれだけ危ういことか気づけるはずだ。ところが、自分の腕に自信があり、周囲の助けを借りることなどちらりとでも考えたことのない男には、それが分からない。張り切って仕事をすればするほど、お偉方の足元をすくうことになっていることに。

ジョー・キング・オリヴァーは十年以上前に、罠にかかった。その頃は自分の性衝動を抑制することができず、逮捕に向かった相手の色香に負けて、情を交わしてしまったのだ。強姦罪で訴えられた夫に、妻は怒りのあまり保釈金を払うことを拒否。檻の中で刑事がどんな目に遭うかはよく知っている。殴られ、顔を切られ、小便をかけられても、看守は何もしてくれない。親友の刑事が手を回し、隔離棟に移されたが、八十日余りそこで過ごすうちに元刑事は犯罪者へと変貌した。

一度失ってしまった誇りや気概はなかなか戻ってこなかった。十年余りを無気力に過ごしたある日、探偵事務所に手紙が届き、その翌日若い女が捜査の依頼をするために訪れるまでは。手紙の差し出し主はかつて自分を陥れたあの女で、過去を悔い、いつでも証言台に立つと告げていた。電話すると麻薬所持で逮捕され、釈放する代わりにジョーをハニー・トラップにかけるようにコルテスという刑事に指示されたと語った。

ウィラという女は弁護士だった。刑事殺しの罪で死刑囚となった活動家のフリー・マンの弁護をする弁護士ブラウンのもとで働いていた。彼女はブラウンが急に態度を翻し、熱が冷めたことにいら立ち、調査を依頼しに来たのだ。マンは少年少女が性奴隷として働かされている組織の壊滅を目指して活動していた。ウィラはそういうマンに心惹かれていた。ジョーは、警察が一枚噛んでいることに、自分の事件との共通点を認め、事件を引きうける。

自分を陥れた刑事を突き止め、復讐し、名誉を回復して復職するための行動と、マンの刑事殺しの事実を暴くための行動が、同時進行で綴られる。話は錯綜し、次から次へと芋づる式に新しい登場人物や手がかりが現れる。十年前とちがうのは、一人で行動しようとしなくなったことだ。警察内部に敵がいるので、親友のグラッドストーンの手を借りるわけにはいかない。しかし、探りを入れたら、敵はすでに動き出していた。独りで立ち向かうには危険すぎる。

ジョーが頼ることにしたのは元凶悪犯で、今は時計の修理屋をやっているメルカルトだった。以前、銀行強盗の従犯で逮捕した際、メルが仲間を売ったと偽証するよう検事に促されたが、ジョーは肯んじなかった。その結果何年か冷や飯を食わされた。メルカルトは、そのことを恩義に感じていて、何かあったらいつでも声をかけてくれ、と事務所に来たことがあった。今は足を洗ってはいるが、裏の世界に顔が利き、荒っぽい仕事も平気でやってのける頼りになる男だ。

メルカルトの登場により、謎解き主体かと思っていた物語は少し趣きを変え、ノワール色が濃くなる。私立探偵の調査は関係者の話を聞いて、事実を明るみに出してゆくことだが、元凶悪犯のやり方はかなり荒っぽい、自分のアジトである南北戦争当時、逃亡奴隷を逃がすために作られた地下鉄道の駅舎に拉致し、拷問によって吐かせる。片脚を撃たれて、次は左手を撃つと脅されたら、大抵の者はしゃべるに決まっている。

ジョーがはめられたのは埠頭でヘロインの売買をやっていた男とコルテスという刑事が組んでいたからだ。ジョーはその男を逮捕する寸前だった。それで罠にかけられたのだ。しかし、当時の証拠はすべて破棄され、関係者は今ではニューヨーク市や警察の幹部級だ。私立探偵一人を闇に葬ることなど簡単にやってのける。自分の復職は叶わない。マンは相手に狙われ撃ち返しただけだったが、それを裏付ける証拠はなく、判決を覆すことはできない。

八方塞がりの局面を転回するのは、やはりメルカルトだった。あっと驚く方法で一件は幕を引くことになるのだが、通常のノワールやクライム・ノヴェルの解決手段ではない。ここまで読んできた者としては快哉を叫ぶ気持ちにはなれない。主人公はこれで溜飲が下がるのだろうか。いくら社会が腐っているからといって、自分の生き方をそれに合わせる必要はない。何かもっと別の方法はなかったのだろうか。ああ、もやもやする。ただ、読み物としては面白く、リーダビリティの高さは保証する。チャンドラリアンには向かないだけだ。

『リンカーンとさまよえる霊魂たち』ジョージ・ソーンダーズ

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歳をとるにつれ、死のことを考えることが増えてくる。それほど頻繁でもないし、それほど深刻でもないのだが、ただ漠然と自分もいつかは死ぬことになっているんだなあ、と思ってみるくらいのことだ。死後の世界については考えたことがない。そんなものがあろうとは思えないからだが、人によっては死後の世界の存在を真面目に考えている人もいるだろう。

原題は<Lincoln In the Bardo>。リンカーンは、あの有名なアメリカ大統領本人である。<Bardo>とはチベット仏教で、死と再生の間、霊魂が住む世界のこと。日本では「中有」とも「中陰」ともいう、いわゆる四十九日の期間だが、時間的制限はないとも言われている。基本的には輪廻転生を前提とする考え方だが、本作の中で<Bardo>から抜け出るのはむしろ輪廻転生の苦を解脱した「成仏」に近い。多くのアメリカ人はキリスト教のはずなのに、かなり仏教的な世界観であるのが新鮮だ。

リンカーンにはウィリーという息子がいて、南北戦争当時に病気で亡くなっている。その息子が死にかけているときに自宅でパーティーを開いていたことで、彼は人々の顰蹙を買ったことが記録に残っている。葬儀の終わった後、深夜、リンカーンは独りで納骨所を訪れ、棺の蓋をとり、我が子の額に触れる、というのも実際にあった事らしい。この話はその逸話をもとに、大量の記録の引用による歴史小説であり、抱腹絶倒のユーモアが炸裂するナンセンス極まりない幽霊譚である。

というのも、その納骨所近辺には、自分が死んだことがどうにも認められず、なかなか「成仏」できないでいる多くの霊魂たちがたくさん暮らしていたからだ。彼らは新入りのウィリーが普通ならすぐにでもその世界を離れてゆくのに、なかなか出て行かないことを心配する。彼はすぐにでも父や母が連れ戻しに来てくれると信じているからだ。ところが、やってきた父は彼に気づかず、彼がそこから離れた死体にしか興味がないらしい。

父親がウィリーに気づけるよう、先輩の霊魂であるぺヴィンズとヴォルマンは、リンカーンの中に入ろうと試みる。前にも体を占拠して成功したことがあるのだ。霊魂に入られた人間は、それとは気づかないが、何かしらの影響を受けるようなのだ。しかし、この霊魂たちには少し変わったところがある。生前の人生に厄介なつまづきがあって、この世界でとる形が奇妙なことになっているのだ。

ロジャー・ぺヴィンズ三世は同性のパートナーが「正しく生きる」ことを選んだことに衝撃を受け、手首を肉切り包丁で切り、自殺を図った。ところが、どくどく流れる血を見ているうちに、その「気を変えた」。この世界は観るに値する美しいものに溢れていることに気づいたのだ。だから、彼の顔にはそれを見るための眼や、匂いを嗅ぐための鼻がいくつも生じ、それに触れるための手が何本も生えている。その手首のすべてに傷がある、とちょっとホラーじみている。

ハンス・ヴォルマンは四十六歳の時、十八歳の妻を迎える。彼は幼い妻がその気になるまで初夜を延ばし、やっと妻がその気になった日、仕事場で上から梁が落ちてきて下敷きにされて死ぬ。そのため、彼のこの世界での姿は素っ裸で局部を大きくしたままだ。何という皮肉、そして突き抜けた笑い。この辺りの面白さがソーンダーズ一流のユーモアだ。このこっぱずかしい格好をした中年男の活躍がなくてはこの話は始まらないし、終わらない。

牧師のエヴァリー・トーマス師の髪はまっすぐに逆立ち、口は恐怖のあまり完璧なOの字を描いている。彼はキリストの使者による最後の審判を受けたことがある。まるで閻魔様が浄玻璃の鏡で生前の行いを確かめるのと同じような審判の例が語られるのだが、善き魂は純白のテントに迎え入れられ、悪しきそれは肉でできたテントの中で磔にされ野獣に生皮を剥がれるというから、まるで地獄絵だ。あまりの恐ろしさに彼はそこから逃げ出し、誰にもその結末を秘密にし、舞い戻ったのだ。

その他にも、とんでもない連中が後から後から現れて、三人に続いてリンカーンの体を占拠する。黒人を差別する白人、白人に仕返しを訴える黒人、戦争で人を殺した軍人、殺人者、二人の男の間で心を決めかねている娘、口の悪い夫婦者、等々。これらの霊魂に体を占拠されたリンカーンは、悪評高い自分の政治姿勢を振り返る。戦争をやめるべきか、続けるべきか、いつまでも、我が子の死に拘泥することが大統領である自分に許されるのか、等々。

やがて彼が見つけた答えが、これまでの死を無駄にしないために、新しい世界を作るために殺し続けるしかない、というものだ。これは以後、アメリカが戦争を始め遂行する際の指標となる。霊魂たちの乱痴気騒ぎの傍らで、アメリカ史に対する冷徹な批評が開陳されていることに驚きを隠せない。帯にあるトマス・ピンチョンの惹句「驚くほど調和のとれた声―優雅で、陰鬱で、本物で、可笑しな声―で語られるのは、我々がこの時代をくぐり抜けるのにまさに必要とする物語だ」。まさにその通り。

霊魂がこの世界を去るとき、恐ろしい音とともに「物質が光となって花開く現象」が起きる。多くの霊魂が一人去り、二人去り、消えてゆく。そして、ぺヴィンズやヴォルマンにもそのときがやってくる。今まで目をそらしてきた自分の人生の真実を見つめ、そして、あのとき死ななければどのような人生を送ることになったのか、ありえたかもしれないが実際には知ることのできなかった自分の未来を目にし、彼らも「成仏」を遂げる。

これを読んで、死ぬことが怖くなくなるなんてことはまずない。それはないが、人間と世界を肯定する気にさせてくれる小説ではある。ハチャメチャでありながら、人と人が心を通わせることの得難さを教えてくれるし、人の運命の定めのなさについても考えさせられる。ひとしきり心揺さぶられ、それから、残りの人生を悔いなく生きてみたくなった。この人生、それほど捨てたものじゃないかもしれない。

『ただの眠りを』ローレンス・オズボーン

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フィリップ・マーロウ、七十二歳。メキシコ、バハカリフォルニア州にある崖の上に建つ家で家政婦と犬と暮らす、引退した元私立探偵。他の作者によるマーロウ物の第四作。第三作であるベンジャミン・ブラック作『黒い瞳のブロンド』も読んだが、少し違和感を感じた。まあ、仕方がないだろう。誰もチャンドラーのようにマーロウを描くことはできない。それが分かっていても、こうして、その後のマーロウを描く者が次々に現れる。誰もが自分のマーロウを思うさま活躍させてみたいのだ。

悠々自適の隠居暮らしを楽しんでいる老人の家を二人の男が訪ねてくるところから物語は始まる。二人は保険会社の者で、マーロウに調査を依頼に来たという。山ほど借金のある実業家が夜の海で溺死し、警察の書類も揃っており、保険金は未亡人に支払われた。ただ、事故が起きたのはメキシコで、死体はその地で火葬されていて、保険会社としてはそこに何か問題はなかったのかあらためて調べたい、というのだが完全に疑ってかかっている。

ついては、メキシコ在住でスペイン語に堪能な元私立探偵がいいだろう、ということになった。以前のようにはいかない、というマーロウに危険なことはないから、と保険会社。実のところ退職以来、退屈していたマーロウは、その場で引きうける。経費付きで一日三百ドル。まずは、未亡人に会いに出かける。その未亡人というのがおそらくはメキシコの血の混じった混血美人で、歳はマーロウと同年輩の夫とは半分くらいの若い女

現地に飛んだマーロウは、そこで確信を得る。ジンという実業家は死んではいない。死んだのは別人で、同じ船に乗っていたリンダ―という男らしい。マーロウは、メキシコ各地を死んだ男に成りすまし、金に飽かして逃避行を続ける夫妻の後を追う。果たして、マーロウは無事使命を果たすことができるのか、とまあ、そういう話である。

メキシコの寒村で人が死に、警察の書類では本人確認がなされているのに、実は死んではいなかったというのは『長いお別れ』で使われた手垢のついたトリック。マーロウでなくても、メキシコと聞いただけでまずは疑ってかかる。いくらハードボイルドでも、犯罪の核心部分にはもう少し手の込んだ工夫がほしいところ。その他にも、ちょっとこれは、と思わせる点がけっこう多い。

ひとつひとつ挙げていくときりがないが、まずはマーロウが旅行に持参する探偵道具。盗聴器やらミノックスのカメラやら、オペラ・グラスといったがらくただ。一番おかしいのが、座頭市に倣った日本刀を仕込んだ仕込み杖。まあ、体裁は銀の石突きのある洋杖の格好をしているので、脚の不自由な年寄りの持ち物としては問題はない。しかし、銃ならまだしも、刀を振り回すフィリップ・マーロウというのはいただけない。「日本人読者にはなんだか嬉しい」などと訳者は本当にそう思っているのだろうか。

次に気になるのが、ジンの妻ドロレス。一応誰の目にも美人だということになっているが、自分の年齢の半分ほどの若い女に、マーロウが本気で相手をするとは思えない。『さらば愛しき女よ』のアン・リオーダンの扱いを思い出せば、このマーロウは歳のせいで色ボケになっているとしか思えない。ましてや、その人物像にそこまでいれあげるだけの魅力がない。お世辞にも女性を描くのが巧いとは言えないチャンドラーでも、ドロレスよりはキャラの立っている女が何人もいる。

さらには、若い頃とちがって金に困っていないマーロウが、何故、保険金詐欺を働いた夫妻を見逃すという条件で十二万ドルを手にするのか。金に困っていた時でさえ、マーロウは不正に手を染めることはなかった。薄汚れた街に暮らしてはいても、自分自身は汚れに染まることはなかった。清濁併せ呑む器量というのが老人の探偵にあってもいいとは思う。しかし、何故マーロウにそんな真似をさせる必要があるのか。全く納得がいかない。

歳を食ったマーロウは、予想通り、かつてのようにタフじゃない。坂道を歩けば息を切らせるし、酒を飲みすぎると、店の者の手を借りて部屋に担ぎ込まれる始末だ。自分が動くというより、周囲の手を借りながら捜査するというのは老人探偵なら仕方がない。そういう点ではリアルさは感じる。相変わらず、つまらないことを口走っては相手を煙に巻くのもお定まりだ。ただし、ジョークが時代がかっていて相手に理解されないところが哀しい。

歳をとったマーロウが思うように動けなくなった体に無理をさせながら事件を追うところは私だって見てみたい。そのアイデアは買う。老人力を駆使して、相手を油断させ、同じような年寄りと心を通わせ、話を聞き出す、こういうところはよくできている。しかし、肝心のマーロウの内部のこれまでに至る変遷が書き切れていない。多弁で内心を吐露したがるのは年寄りの常だ。それは良しとしよう。しかし、相手はあのマーロウだ。もっと食えない年寄りになっている筈ではないのか。少なくとも私の中のマーロウはそうだ。メキシコの風物はよく描けていて、そこは読んでいて楽しかった。

『卍どもえ』辻原登

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テーマはどうやらユングのいう「シンクロニシティ」らしい。「共時性」ともいう、異なる人物の間で同じことが同時に起きる、いわゆる「意味のある偶然の一致」のこと。更にもう一つ。危険な状態が待ち受けていることを無意識裡に知っているのに、それを避けることができず、危機的状況に陥ってしまう人間心理の一面も扱っている。それが極端になったのが「破滅型」と呼ばれる人間類型だ。

瓜生甫は五十一歳。グラフィック・デザイナーとして脂の乗りきった状態にある。今は次々と舞い込む注文をこなしながら、一度受賞を惜しくも逃している、オリンピックのロゴマークのデザイン募集に応じ、賞をとることを目指していた。そんな時、かつて仕事上で付き合いのあった中子毬子に招待される。瓜生が紹介した建築家の設計による新築家屋を祝う集まりだった。

毬子の夫、中子脩はマニラで英語学校を経営する実業家。所有するクルーザーで沖に出て海に潜るのを趣味としていた。瓜生もスキューバ・ダイビングに凝っていたこともあり、二人はポーランドウオッカズブロッカのキンキンに冷えたのを薩摩切子のグラスで飲りながら、葉巻を燻らすうちにすっかり意気投合し、中子はパソコンを開き、毬子が裸で泳ぐ写真を見せた。偶然にもそれは、瓜生が撮り溜めた妻の写真の投稿を考えていた投稿サイトだった。

ユングは人々の心の中には集合的無意識というものがあると考えていた。奇妙な偶然の一致が起きるのは(大雑把にいえば)人々の心がそこでつながっているからだというのだ。中子は、写真を投稿してしばらく経ってから鞠子が見た夢の話をした。通りを行くと多くの人の眼に見つめられて落ち着かない、という夢だ。その話を聞きながら、瓜生は自分もまた危ういところに踏み込もうとしていたことに気づく。

妻の素顔や裸身を他人の眼に曝すのがどれほど危険な行為であるかを亭主が知らぬはずがない。それでも、なおかつそうせずにはいられない。その手の男の心理には何か共通するものがあるのだろう。集合的無意識などという高級なものではない。サイト名が「妻よ薔薇のように」という成瀬巳喜男監督による映画のタイトルを借用しているところからも、それを知る年齢や階層をターゲットにしているにちがいない。

作者はストーリーとは直接関係のない歴史的な事件についてかなりの紙数を割いている。登場人物の家族が事件に巻き込まれているという形をとる場合もあるが、回想場面の時代背景として書かれるだけのこともある。オウム真理教地下鉄サリン事件日航機123便墜落事件、さらには、日本による満州統治等々。どれも危機が近づいていることを知らず、誰もが巻き込まれてしまった悲劇的な事件であったことが共通している。

男たちの物語はこの後、二人がそれぞれ迎えることになる危機的状況を描いている。一人は打ちのめされ、精神的に追い詰められるほどの衝撃を受ける。ネタバレになるので詳細は控えるが、オリンピックのシンボルマークに関する事件がネタ元になっていることは主人公の職業をグラフィック・デザイナーにした時点で考えていたのだろう。もう一人の方は、破滅的な状況が暗示されるだけで終わっている。

それなりに力を備えた男たちが、女性関係絡みで破滅に向かって邁進する様は、傍観者的に見ている分にはある意味喜劇的ですらある。その一方で、男たちの妻やその恋人たちの何と軽やかで愉し気なことか。男というものを介在しない同性だけの快楽の営みが女子会めいた雰囲気で快活に描かれる。表題を読んだときからうすうす感づいてはいたが、これは谷崎の『卍』のパスティーシュになっている。

瓜生の妻、ちづるは博報堂の広報を担当していた。瓜生は大勢の競争相手を蹴落として結婚したわけだ。しかし、結婚を機に退職すると、否が応でも妻は夫に食わせてもらう立場に陥る。たかだか三百万を夫に無断で都合する手立てがない。まさか、同性の恋人が借金に苦しんでいるからと理由をいう訳にもいかない。夫が自らそれを出すように仕向けるために企てた妻の計略が気が利いている。ばかだなあ、と思うけれど、男の弱みを突いていて一概に他人事とも思えない。

フライド・グリーン・トマト』は映画で見ていたが、イジーとルースの関係が原作では同性愛を感じさせるものになっていたことには気づかなかった。夫の暴力や女狂いに手を焼く妻は多い。結婚という制度がもともと男にとって都合のいい形になっているからだ。まあ、それを言うなら、多かれ少なかれ社会の仕組みが男性有利に作られているのだが。同性愛だけでなく、フェミニズムにも踏み込んでいる点は評価できる。もっとも、本作における妻たちの行動は、せいぜいがお仕置き程度で、両性の新しい関係を模索するまでには至らない。

谷崎行きつけのアカデミーバー、飛田新地サウダージといった作者偏愛のアイテムは今回も登場する。それに加えて、ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』等々の小説をはじめ、成瀬巳喜男の『浮雲』、『流れる』などの邦画、洋画、コルトレーンとジョニー・ハートマン共演の「YOU ARE TOO BEAUTIFUL」、フェルナンド・ぺソアの詩集『ポルトガルの海』、マラケシュのジャマ・エル・フナ広場といったマイ・フェイバリットが続々登場するのに驚かされた。