青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『隠れ家の女』ダン・フェスパーマン

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二つの時間軸と二つの都市で物語は進められる。二つの物語が進行していく過程で、それまでばらばらに置かれていたピースが、位置が定まるにつれ、少しずつ絵柄が明らかになり、一枚の画が現れてくる。これは二つの部屋を行き来しながらジグソー・パズルのピースを組み合わせていくような、そんな入り組んだ仕組みの小説で、それでいて六百ページをこえる長丁場を一気に読み通すことのできる面白さも兼ね備えたスピード感のある小説である。

一つは一九七七年のベルリン。もう一つは二〇一四年のボストン。冷戦時代のベルリンを舞台にした物語は、当然のことにスパイ物。主人公はCIAに所属し、二年の訓練を終えてベルリンに派遣されたヘレンという若い女性。工作員としての派手な活躍を夢見てきたのに、与えられた仕事は「隠れ家(セーフ・ハウス)」の管理だった。そこで、彼女は重大な秘密を知ってしまう。一つは符牒を用いた秘密の会話。もう一つは諜報員が起こしたレイプ未遂だ。

「隠れ家」というのは、映画『裏切りのサーカス』にも登場する、スパイ小説や映画でおなじみの施設。諜報員同士の極秘の接触や秘密会議、あるいは一時的な避難のために、機密保護対策が万全になされた家のことだ。録音機材の管理点検の最中に、見知らぬ二人連れが現れたため、ヘレンは出るに出られなくなる。その間、階下の話をテープが記録してしまう。その晩、恋人のボーコムという古参スパイに強く言われ、証拠のテープを取りに戻ったヘレンは、レイプの現場に出くわしてしまう。そのときもテープは回っていた。

二〇一四年のボストンでは精神に障害のある息子が両親を銃で撃ち殺すという悲劇が起きる。姉のアンナは弟の無実を信じ、近所に住むヘンリーという青年を探偵に雇い、事件を調査しはじめる。すると、銃を持った弟と一緒に一人の男が目撃されていたことを知る。二人はその男について調べ始める。こちらは純然たるミステリだ。しかし、どうしてその二つの話が交互に語られるのだろうか。実は殺された母親の名はヘレン。二十七年後、女スパイはボストンの農場主の妻になっていたのだ。

女性が主役のスパイ小説というのは珍しい。しかも主題はセクシャル・ハラスメント。ヘレンが追いかける相手はソ連のスパイではない。立場を利用して弱い立場にある女性に性的な行為を強要する最低のクズ野郎だ。ところがこの男、組織の中では重要な任務に就いていて、ヘレンが太刀打ちできる相手ではない。テープのことは伏せておき、上司に報告を入れた途端、ヘレンはそれまでの権限をとりあげられ、秘密に触れることができなくなる。

八方ふさがりのヘレンに救いの手が差し伸べられる。パリ支局にいるクレアという女性が連絡してきたのだ。同じ男のスキャンダルの証拠を握っている。もう一人、アメリカにいるオードラという女性と三人で力を合わせ、その男と対決しようと。しかし、動き始めた途端にヘレンは解雇される。強制退去されるところを辛くも脱出したヘレンはパリを目指す。クレアと会って、力を合わせ、窮地を逃れ、レイプ魔をやっつけるために。

しかし、相手も名うてのスパイだ。部下を使ってヘレンをつけ狙う。追う者と追われる者との知恵比べ。何度も危うい目にあいながら、クレアやボーコムの助けを借り、ヘレンは難局を切り抜ける。秘密の場所を決めておいての情報の受け渡しや、偶然を装って咄嗟に情報を告げるなど、スパイ小説でおなじみの場面が繰り出される。この追いつ追われつのスパイ活劇がなかなかリーダブル。特段の新味はないのだが、女性が活躍するところが新鮮だ。

娘のアンナは母親似らしく、こちらもきびきびと動き回る。予想通りヘンリーと出来上がるのも早い。ヘレンは国立公文書館に通って、情報公開されたかつての秘密文書「グロンバック文書」を探っていた。民間の諜報活動を行う機関に関する文書で、グロンバック大佐はその創始者。秘密の符牒を使うのを好んでいたらしく、そこには、昔ベルリンの隠れ家で聞いた謎の符牒「湾、湖、動物園」等の意味が明かされていた。ヘレンの死はそれと関係があるのか。それとも精神を病んだ息子の衝動的な行動の結果なのか。

二人は、母親の使っていた実家の「隠れ家」の中から書類や写真、手紙の束、鍵を発見する。アンナはそれを手がかりに、自分の知ることのなかったCIAで働いていた当時の母の姿を再発見してゆく。それらの謎が解かれていくと同時に、母と同じ秘密を共有するクレアの安否が心配になる。電話をすると隣人が出て、クレアが車だけ置いて行方不明になったと知らされる。二人はオードラと連絡を取り、その家に向かう。ミステリとしては殺人の謎の解決が弱いが、お決まりのどんでん返しは用意されていて、楽しませてくれる。

「著者あとがき」によれば、グロンバック文書も、民間諜報機関<ザ・ポンド>も実在の文書であり、機関であるという。文書は長らく、ヴァージニア州の納屋に放置されていたらしい。二〇一〇年というから、つい最近CIAによって機密指定が解除され、現在はメリーランド州にある国立公文書館で閲覧可能だそうだ。全部で八十三箱というから相当な分量。謎の符牒も本物で、それを解読するための『グロンバック虎の巻』なる文書まであるという。

『ユリシーズ1-12』ジェイムズ・ジョイス 柳瀬尚紀=訳

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コロナの影響で家の中にいる時間が長くなっているので、ふだんはなかなか手をつける気になれない本を手に取ってみた。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』には、定本ともいえる丸谷才一ほか訳の集英社版『ユリシーズ』がある。『【「新青年」版】黒死館殺人事件』が同じ体裁をとっているが、本文の下に詳細な脚注がついていて、役には立つが参考書のような臭いがするのも事実。気の弱い読者ならそれだけで手に取るのを躊躇するだろう。

今回手にしたのは同じジョイスの翻訳不可能とも言われた『フィネガンズ・ウェイク』の日本語訳を成し遂げた柳瀬尚紀氏による新訳である。訳者の死により、第一章から十二章までで終わっているのが残念だが、語呂合わせやら独特の造語を配した個性的な訳は他に類を見ない。何より、文章の活きがよく、リズミカルな文体は、読んでいて愉しい。もっとも、独特の造語は一読しただけでは分かりづらく、一筋縄ではいかないことも覚悟する必要あり。

小説のあらましは丸谷訳の『ユリシーズ』について書いたものを読んでもらうとして、ここでは、旧訳と新訳の違いについて触れてみたい。第一章「テレマコス」の冒頭、バック・マリガンが司祭を気取ってミサの文句を口にするくだりだ。まず、丸谷訳から。

――なんとなれば、ああ、皆様方、これこそはまことのクリスティーン様、肉体と魂と血と槍傷ですぞ。ゆるやかな音楽を、どうぞ。諸君、目をつむって下さい。ちょいとお待ちを。この白血球どもが少々手間をかけておりましてな。みんな、静かに。

次に原文。

—For this, O dearly beloved, is the genuine Christine: body and soul and blood and ouns. Slow music, please. Shut your eyes, gents. One moment. A little trouble about those white corpuscles. Silence, all.

そして、柳瀬訳

――なんとなれば、よろしいかな、皆様方、これぞ真(まこと)のキリメト、肉体にして霊魂にして鮮血にして槍満創痍(やりまんそうい)。ゆるやかな音楽をお願いしますぞ。目をつむって、旦那方。ちょいとお待ちを。この白血球どもが少々ざわついておりましてな。静粛に、皆さん。

冒頭ということもあって、意識の流れの文体ではなく、説教師の口調をまねてはいるが、ごくごく普通の文章である。それでも、柳瀬訳の特徴は見て取ることができる。まずは< Christine>。丸谷訳は素直に「クリスティーヌ」としている。本来なら<Christ>であるはずのところを接尾辞<ine>をつけ加えて女性の名前に変えている。キリスト教、そしてイエズス会の教育を受け、棄教したスティーヴンに対する揶揄である。

柳瀬訳をよく見てほしい。「キリメト」となっている。「ス」を「メ」に換えることで「女」を暗示しているのだろう。片仮名の一画を切り取って移動させたようでもある。何気なく読んでいると気づかない細かな仕掛けが柳瀬訳にはふんだんに用意されている。言葉遊びの椀飯振舞である。

極めつけは「槍満創痍」。もちろんキリスト磔刑時の槍傷にかけ「満身創痍」という四字熟語をひねったものだが、神聖なるキリストを指す<body and soul and blood and ouns>の訳語のなかに「ヤリマン」などというみだりがわしい俗語を挿入するという、おふざけも過ぎる槍態(やりたい)放題。一事が万事この調子である。

もちろん、ジョイス自身が卑猥かつ好色な場面を故意に挿入していることを受けての訳業であり、恣意的なものでないことは言っておかねばなるまい。ひとつには、丸谷訳は、時代もあるのだろうが、その辺を過激にならないようにお上品にぼかしているようなところもあり、それに対する批判でもある。たとえば、オックスフォードのモードリン学寮でのいじめを扱った場面の最後。

I don’t want to be debagged! Don’t you play the giddy ox with me!

「ズボンをぬがされるのはいやだってば!ばかなまねはよせよう!」(丸谷)
「脱ぐなんて嫌だってんだろッ!牛津若道(ぎゅうしんにゃくどう)なんて嫌だってば!」(柳瀬)

<play the giddy ox>は直訳すれば「めまい牛を演じる」だが、古くから使われているイディオムで<giddy>は「動揺、所持または乱暴な行動」を意味するらしい。そこから想像できるのは丸谷訳の脚注にある「学生が行う私刑の一種、いやな奴のズボンをぬがせて嘲笑する」では済ませられないものがある。「牛津」は(ox)の渡れる「浅瀬」(ford)、つまりオックスフォード。「若道」は「衆道」の別名で本邦の同性愛「男色」を指す言葉である。英国の男子学寮で蔓延していた男性同士の同性愛をほのめかしているわけだ。

第一章「テレマコス」から、柳瀬氏の新解釈による「犬」の視点で訳される第十二章「キュクロープス」まで、創意工夫溢れる新訳『ユリシーズ』。一息に読み通すことは難しかろうが、こんなご時世である。家に籠り、一人でいることが推奨されているわけで、時間だけはたっぷりある。丸谷訳の脚注や北村富治氏による<『ユリシーズ』註解>、それに、ネットから手軽にダウンロードできる「Project Gutenberg」などを頼りに、じっくり取り組んでみるには絶好の機会だ。

『あなたを愛してから』デニス・ルヘイン

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ヒトは、生まれてすぐに一人で立ったり、ものを食べたりすることができない。誰かの世話を受けることが予め定められている。それだけではない。その誰かが問題だ。ヒトは可塑的な存在で、オオカミの中で育つと、オオカミのようにしか生きられない。つまり、ヒトとして生きるには、ヒトの中で育ち、ヒトとして生きられるような教育を受ける必要がある。そういう意味で、誰に育てられ、どんな社会の中で育つかは、その人の人格や自我を形成するうえで非常に重要な意味を持つ。

「自分」というのは、それほどまでにあやふやな基盤の上に出来上がったものなのであって、自信をもって「自分」は、といえるようなそんな大丈夫なものではない。物心ついたころには「自分」というものができ、それを「自分」と感じるようになるが、意識できる「自分」というのは、その一部に過ぎず、無意識という底の知れない闇の中に、どんな自分が潜んでいるのやら、それは誰にも窺い知ることはできない。

レイチェルはベストセラー作家の母親の手一つで育てられた。エリザベス・チャイルズは魅力的で、才能豊かな女性だったが、他人を自分の中に入れることができない人だった。それでは孤立していたかといえばその逆で、人を思うように操り、思うようにならない時は、あらゆる手を使って追い落としをはかる、そんな人物だった。ただ、我が子のレイチェルは愛していた。母の眼から見た娘は純粋でおおらかすぎた。娘を守るためなら離婚さえ辞さない、そんな女だった。

レイチェルはそういう人に育てられた。母が父のフル・ネームを教えてくれなかったので、母の死後、レイチェルはジェイムズという名前を頼りに父を探しはじめる。私立探偵を雇ったが、よくある名前で特定するのは無理だと諭される。ブライアンという探偵は、後にレイチェルの夫になる。そして、レイチェル三十五歳の五月のある晩、ブライアンはボート上でレイチェルに銃で撃たれ、海中に沈む。話はそこから始まる。

三章仕立ての第一章は、父親捜しをするレイチェルの姿が描かれる。記者となったレイチェルは、自分をとりあげた産婦人科医から父の名前を聞き出す。父の名はジェレミー。ジェイムズは姓だったのだ、しかし、血はつながっていなかった。母は、自分の子だと認めない父を追い出し、狂気ともいえる手段を講じて娘に連絡を取ることを禁じた。事実を知ったレイチェルは、義理の父と親交を深めるが父は病いで倒れてしまう。

テレビのレポーターになったレイチェルは、ハイチ地震を取材するため、首都ポルトープランスを訪れ、その惨状に衝撃を受ける。人々は住まいを奪われ、無政府状態となった首都では女性は危険な状態に置かれていた。レイチェルは幼い少女を暴漢から守り切れず、自責の念に駆られ、パニック障害を引き起こす。レポーター業も廃業し、引きこもりとなってしまう。そんな時、偶然出会ったのがブライアンだった。

どんな時もポジティブで、人に優しいブライアンの助けで、少しずつ人前に出られるようになったレイチェルはブライアンと結婚し、幸せに暮らしていた。パニック障害が起きそうになるのは、木材業を営むブライアンが外国に出張している間だけだった。その日も、ブライアンはロンドンに向かっているはずだった。たまたま外出していたレイチェルはあるビルから出てくるブライアンを目撃してしまう。

電話をすると、ブライアンは飛行機の中だという。バッテリー切れで電話は途中で切れた。次にかかってきた電話に、自撮り写真を送るようにいうと、ホテルの外にいる写真が送られてきた。しかし、一度疑念が生じると、それまでの信頼は失われてしまう。自分は夫のことを何も知らないことに気づく。次の出張の日、レイチェルは夫の車を尾行する。案の定、車は空港へ向かう道をそれ、一軒の家に向かう。そこにはお腹の大きいきれいな女性がいて、花束を持った夫がそのお腹に手を当てているではないか。

男が二人の妻をもち、二重生活を営む話は、アメリカで実際にあった有名な事件だ。レイチェルは夫のビジネス・パートナーであるケイレブを呼び出し、銃で脅して夫の居場所に連れて行けと迫る。それまでのレイチェルとはまったく打って変わった人格が表に出てくる。カメラの前でパニック障害を起こして解雇されて以来、外に出るのが怖くて、地下鉄にも乗れなかったレイチェルが、自分で車を運転し、高速道路で追い越しをかけてきた相手と競うことまでやってのける。

それまでの自分をかなぐり捨てて、やっと本来のレイチェルが外に出てきたのだ。完璧な理論を振りかざし、娘を自分の手中に収めていた母親の愛情という名の檻に閉じ込められていたレイチェルはいわば「鏡のなか」にいた。そこから出るのが不安で、孤独で仕方がない。それでパニック障害を引き起こす。そこから救い出してくれたのがブライアンだった。その愛する夫が自分を騙していた。誰にも頼れない。とことん追い詰められたとき、人は本当の自分しか頼るものがないのだ。

第三章は、ブライアンの正体が暴かれ、レイチェルもまた事件の渦中に放り込まれる。家に帰ったレイチェルのもとに刑事がやってくる。ブライアンが話していた妊婦が殺され、その容疑がブライアンにかかっているという。ブライアンの居所を聞かれ、水底にいるとも言えず、刑事に偽証するレイチェル。ブライアンは危ない橋を渡っていたらしい。刑事が帰った後、騙し取られた金を取り返しに殺し屋がやってくる。殺し屋と警察から逃げるレイチェルの逃亡劇が始まる。

第三章はそれまでとは全く異なる、ハラハラドキドキのクライム・ノヴェル。鏡の中から出てきたレイチェルは、母親譲りの頭脳を働かせ、ブライアンの残した手がかりを追跡し、隠れ家を襲う。そこで出会った真実とは? エピグラフに「仮面をつけ、われは進む―ルネ・デカルト」とある。すべては最初から仕組まれていた。見事な伏線がしかれ、それが次々と回収されてゆくその手際の鮮やかさ。レイチェルとブライアンの人物造形が非常に魅力的で、上出来のスリラーであり、ノワール調のラブロマンスでもある、という贅沢な一篇。

『靴ひも』ドメニコ・スタルノーネ

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父と母、兄と妹の、どこにでもいるごく普通の四人家族の話なんだけど、読んでいると、だんだん胸のあたりが痛くなってくる。普通の小説はここまで本音を書かない。人って、普通、本音で生きていない、だろう? ちがいますか? あなたは本当にしたいことをして、言いたいことを言っていますか? そんなことをしたら、周りにいる人を傷つけることになるし、一週間もしたら、口をきいてくれる人がいなくなるでしょう?

それだからこそ、人は、嘘とは言わないまでも、建前で生きている。少なくとも、この国に暮らすたいていの大人は。舞台になってるのはイタリアだけど、イタリア人だって、そうはちがわないと思う。日本人よりは本音の割合が多いのではないかとは思うけれどもね。ところが、この小説に出てくるアルドという男は、三十四歳のある日、若い女性に魂を射抜かれ、妻子のことを放り出して、その娘と暮らし始める。

この小説は、三つの部分に分かれていて、それぞれ、視点人物も、語り口も、時代も異なる。「第一の書」は、書簡体小説の体裁がとられている。手紙は九通。書き手はヴァンダ。アルドの妻で、サンドロとアンナ兄妹の母親である。一通目は、自分たちを捨てて別の女に走った夫に本当の気持ちを聞かせてほしいと訴える手紙である。初めは一時の気の迷いではないかと思った妻は、夫との話し合いを通じて、夫に帰る気がないことを知る。ヴァンダは夫と別居し、子どもと暮らし始める。

「第一の書」は、妻から見た視点で貫かれており、いかに夫が身勝手であるか、切々と訴えかけてくる。それだけでなく、過去を忘れたいだろう夫に、結婚した当時の話を思い出させるふりをして、それがいつ、どこのことで、今は何年、何月になっているかを読者に教えてくれる。二人がナポリで結婚したのは一九六二年、アルドが二十二歳のとき。今はそれから十二年後。三年後に長男のサンドロ、七年後に娘のアンナが生まれている。最後の手紙で、サンドロが十三歳と書いてあり、手紙の書かれたのが一九七八年であることが分かる。

「第二の書」は、夫の独白体。「私」は七十四歳で、時代は二〇一四年のローマ。どうなっているのか分からないが、妻はヴァンダで七十六歳というから、何と元の鞘に収まっているらしい。めでたし、めでたしと言いたいところだが、どうもそんな様子ではない。夏のヴァカンスに出かけるところから始まるが、最初から波乱含み。妻は猫のラペスを残していくのが不安で兄妹に世話を頼むのだが、四十代の兄妹は伯母の遺産争いで不仲になり、今では顔も合わさない。父親が餌やりのスケジュールを調整し、やっと旅行にこぎつけたところだ。

事件が起きるのはヴァカンスから帰った後だ。部屋が荒らされ、家具は壊され、家じゅう足の踏み場もない荒れようだ。不思議なことに金目の物は盗られていないのに、猫のラペスがどこにもいない。警察はロマの仕業を疑い、妻は猫が誘拐されたと考える。夫は秘密の隠し場所が空になっていることに気づく。そこにはかつて愛したリディアの写真(ヌードを含む)が隠してあったのだ。もしや、その辺に散らばっているのでは、と妻の目を怖れ、血眼になって探し回り、見つからないとなると、写真を奪った犯人が強請に使うのではと不安になる。

探している間に、妻が長い間ため込んでいた写真や手紙が次々と現れてくる。過去の回想を通して「私」は、五十二年という結婚生活の「複雑に縺れ合った時間の糸」を解いていく。何故、愛するリディアと別れ、妻のところに戻ったのか。戻ってから夫婦は元通りの関係に帰れたのか。ローマの大学で教鞭を執る夫は、感情的な妻と比べると知的で、周囲の人間にも愛されている。初めは一時の好奇心でつきあい始めた若い女の魅力に、次第に真剣になっていく過程が正直に語られる。視点が変われば、読者は視点人物の眼で事態を見るので、あれほどいい加減な男に見えた夫の気持ちもそれなりに理解できてくる。

一口でいえば「中年の危機」だ。自分は本当にこれでいいのか、もっとやるべきことがあるのでは、という疑念をちらと抱いた時、若さと美貌、財産も住処もある、気立てのいい女性が目の前に現れたのだ。一度くらい本音で生きてみたい、とついその気になってしまう中年男をなかなか責められない。しかし、反省して家に戻った男を、妻は本音では赦していない。「昔から妻がこれ見よがしに私の生活全般を取り仕切り、私は抗わずに指示に従っている」という一文に、夫の不満が透けて見える。放蕩息子は妻の機嫌を窺って生きる人生を選ぶしかなかったようだ。

「第三の書」は、アンナの視点で描かれる数時間の「いま」。会話相手は兄のサンドロだ。ミステリならこれが謎解きの解決篇にあたる。妹は兄に訊きたいことがあった。会うのを渋る兄をうまく言いくるめて、二人は親の家で会うことに。表題の「靴ひも」が、やっとここで登場する。家を出て行った父と兄妹が再び一緒に暮らすことになるのは、兄の独特の「靴ひも」の結び方が、父親のそれと全く同じだったことがきっかけだった。兄の語る昔の話で、父と母の秘密を知り、猫の名前の真の意味が明らかになる。最後になって、それまで曲がりなりにも成立していた「家庭」が一気にちゃぶ台返しされる。

幼い頃に父親に捨てられた娘が親をどう思うか。それよりは少し年端のいった兄の方は両親の関係をどう見て育ってきたのか。子どもの目に映る親の姿を、ここまであけすけに聞かされるのは、親としては辛いものがある。ここまでひどい父親ではなかったと思いたいが、仕事にかかりきりで、夏の旅行のときくらいしか、まる一日一緒につきあったことがない。夫婦喧嘩をするところも見られている。どんな思いで育ってきたのか、知りたいようにも思うが、本音を知るのは怖い。そういう意味で「怖いもの見たさ」の心理をうまく衝いた「家庭小説」。問題のない人生を生きている人にはお勧めしない。脛に傷持つ人は、覚悟して読まれたい。

『ザリガニの鳴くところ』ディーリア・オーエンズ

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二つの小説がひとつに縒りあわされている格好になっている。一つは一九六九年に沼地で起きた一人の男の死の謎を追うミステリ仕立ての小説。もう一つは、その十七年前の一九五二年に始まる稀有な生き方を強いられた一人の女性の人生を追った物語である。

アメリ東海岸、ノース・カロライナ州の海岸沿いには湿地帯が広がっている。水路が入り組むその辺りは開発が進んでおらず、もともとは逃亡奴隷や人生をしくじって流れ着いた貧乏白人たちが、粗末な小屋を建てて生活する土地となっていた。彼らはホワイト・トラッシュと呼ばれ、唯一の市街地であるバークリー・コーヴの住民から差別を受けていた。ただ、湿地は多様な生物が棲む豊かな土地でもあり、魚介類が豊富で、その気になれば自活できる環境にあった。

主人公のカイアは両親と兄姉とともに潟湖とオークの森に隔てられた海沿いの土地に建つ小さな小屋に住んでいた。貧しい暮らしではあったが、優しい母や兄のジョディに守られて六歳までは健やかに育った。一九五二年八月のある朝、母が家を出て行った。父親は酒を飲んでは暴力をふるう男で、残された兄や姉は次々と家を出て行き、二度と帰ってこなかった。いちばん年の近い兄のジョディも、出て行ってしまうとカイアは一人になった。

父に定職はなく、戦争で足を負傷したため障害年金で生活していた。もともとは広大な綿畑を持つ富裕な一家に生まれたが、大恐慌が起き、ゾウムシに綿がやられ、借金を負い、家を失った。学校をやめて働き出したが、何をやっても長続きしない。妻の実家は製靴工場を経営しており、そこで働き夜学に通うも、酒に溺れて退校処分となる。心機一転まき直しのため、湿地に建つ小屋へ家族で引っ越し、出直すはずだったが結局は酒浸りというのがこれまでの経緯。救いようのない男だ。

ぷいと家を出ると何日も帰ってこない父は頼りにならず、カイアは記憶に頼り、トウモロコシ粥を作り、菜園のカブの葉をゆでて飢えをしのぐ。少しずつ家事もできるようになると、父もカイアを見直し、素面の父とボートに乗って魚を釣る平穏な日々も持てるようになった。そんなある日、母からの便りを読んだ父は手紙を焼き捨て、怒って家を出て行ってしまう。一人ぼっちになったカイアの孤独な生活が始まる。

帯に「2019年アメリカで一番売れた本」とある。ベスト・セラーというのは、ふだん本を読まない人がこぞって読むからベスト・セラーになるのだ、という。だから、設定はいささか極端なものになりがちだ。年端もいかない少女が、人里離れた湿地の小屋に一人きりで生きていくのだ。学齢が来ても、親のいない少女は学校に行かない。家に迎えに来た女性に連れて行かれた学校で「湿地の少女」とからかわれ、二度と行かなくなる。少女の友だちは小屋近くにある海辺に集まるカモメだけだ。

父親の置いていった金が途絶えると、貝を掘って袋に詰め、ボートで顔見知りの黒人の店に行き、物々交換でガソリンや食料品を手に入れる。ジャンピンという黒人は酷い差別を受けていたが、カイアに優しく、妻のメイベルは服やその他の品々をカイアのために都合してくれたりする。もう一人、テイトという少年との出会いがカイアの人生の転機となる。テイトはジョディの友だちでカイアを知っていた。鳥の羽の交換を通じ、二人は仲良くなる。カイアはテイトに読み書きを教わることになる。

乾いた大地が水を吸い込むように、文字を知ったことでカイアの知識欲に火がつく。もともと、貝殻や鳥の羽を集めるのが好きだったカイアは、それらを図鑑で調べ、名前や採集場所その他を記載するようになる。テイトは学校の教科書の他にも詩集やナチュラリストの書いた本をカイアに与え、カイアは自分の見知っていた物についてぐんぐん知識を吸収していく。それらはやがて、テイトの手を通じ、出版社に送られて本にされることになる。

二人は惹かれあっていたが、カイアに死んだ妹の面影を見ていたテイトは最後の一線を越えることなく、大学に入るため湿地を去った。再び一人になったカイアは、もう立派な女になっていた。そんなカイアに目を留めたのがバークリー・コーヴの商店主の息子で、フットボールの花形選手でもあったチェイスだ。二人は急速に関係を深めるが、結婚を約束しながら、チェイスは町一番の美女と結婚してしまう。

沼地に建つ火の見櫓から転落して死んでいたのはチェイスだった。不思議なことに足跡も指紋もないことから、保安官は殺人を疑う。チェイスが死ぬ少し前にカイアと争っているところが目撃されており、保安官はカイアを逮捕する。しかし、カイアはその夜、出版社の人間と会うため、別の町にいてアリバイがあった。後半は、カイアの弁護士と検察側の法廷劇となる。敏腕弁護士によって次々と証言の不備が暴かれていくのは痛快だが、カイアは差別されていて陪審員の出す評決は予断を許さない。

謎の提出で幕が開いた物語は、謎解きで幕を閉じる。そういう意味では通常のミステリのようだが、そうとも言い切れない。ホタルやザリガニをはじめとする湿地の多様な自然、種の保存の為になされる生物の行為、生命を維持するための動物の本能の持つ残酷さ。湿地の中でひとり生きる女の孤独。閉ざされた集団の持つ差別性。孤独な人間の中に育つ、他者との間に一線を画す心情。様々なものが多種多様な色糸で織りなされ、描き出された一枚の大きなタペストリーを思わせる一篇である。

『神前酔狂宴』小谷田奈月

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若い人を主人公にして、一人称限定視点で語られているので、老人としてはなかなか入り込むことが難しかったのだが、そのうちに主人公が何にこだわりを抱き、何を自分の内側に入れることを峻拒しているのかが呑み込めて来ると、ああ、そういうことね、と理解できるようになった。この物語は、自分の世界を創り出すことのでき、そこではじめて息をする人間、安易に既成の世界に身を寄せ、いつの間にやら知らぬ間にそれと狎れ合い関係になってしまうことをしんから恐れる人間を描いた物語なのだ。

十八歳の浜野は時給千二百円という高額につられ、一緒に面接を受けた同い年の梶とともに派遣社員として高堂会館という結婚式場のスタッフに雇われる。高堂会館というのは高堂神社の一部にあたる。明治の軍人、高堂伊太郎を祭神にした神社という設定は、東郷平八郎と彼を祭神とする東郷神社がモデル。同様に椚萬蔵(くぬぎまんぞう)は乃木希典、椚神社は、乃木神社のことだ。

生まれも育ちも全くちがう別世界を生きてきた二人の青年が、切磋琢磨し、友情をはぐくんでいく。そこにやはり同い年の倉地という娘が登場し、互いに微妙な感情を抱きながら、一緒に仕事をする中で、成長をしてゆく。そう言えば聞こえはいいが、実は三人三様にどうにも譲れない部分があり、時にはその部分で衝突し、あるいは今まで気づいていなかった事実について思い知らされる、そのやりとりを三人の出会いから別れまでを見つめてゆく。

浜野は、仮面夫婦を続ける両親から離れたくて、高校卒業後、生家のある松本を離れ、東京にあるシナリオスクールに通い出す。彼には、頭の中で物語を創り上げる癖があり、それを紙の上に吐き出さないと生きていけない。誰に見せるでもない。ただ、蚕が糸を吐いて自分の殻を紡ぐように、そうすることで自分の生を維持している。それは他人には理解しがたい生き方で、一人考え事に耽ってばかりいる浜野は周りからテキトーな人間と見られている。

東京で一人暮らしをするために働き始めた浜野は、初めはクビにならない程度に働くテキトーなスタッフだった。それとは逆に梶はきちんとした仕事に就くことで苦労をかけた祖母を安心させてやりたいと一生懸命に働く。そんな二人は、ある日、結婚式の見積額のあまりにも高額なことを知り、驚き呆れる。キャンドル・サービスが一万円。自分たちの給料が全くの幻の中から生み出されていると知ったのだ。

浜野には結婚式やそれを他人に披露する披露宴の意味が分からなかった、というよりも意味を見いだせなかった。ところが、それが全くの絵空事、虚飾であることが理解できた途端、俄かにやる気が出てきた。茶番であれ、喜劇であれ、それに参加するなら、目一杯真剣にやるべきだ。でないと面白くない。彼はその日を境に最も熱心なスタッフに変貌を遂げる。カサギという派遣会社は結果がすべて、社員の給料は実力次第で上がるシステムだ。二人は競い合うように仕事に励む。

そんな折、出張奉仕に来ている倉地たち「椚さん」と高堂のスタッフとの間に不協和音が立つ。高度にシステム化され、戦場のような披露宴を受け持つ高堂のスタッフは、素人同然の「椚さん」がはっきり言って邪魔だった。梶の一言が火をつけ、高堂スタッフは露骨に椚ボイコットを始める。自分は加担しないものの浜野はそれに心を痛める。倉地もまた、椚のやる気のなさを感じていた。倉地は二人に、高堂のやり方を教わりながら、椚を変えてゆこうとする。浜野は、そんな倉地をモデルに、女戦士が戦いに挑むシナリオを描く。

本作は披露宴を司るキャプテンに登りつめる浜野の活躍ぶりを描く「お仕事小説」でもある。初めは虚飾と思えた披露宴だったが、いつのまにか、完全にその渦中の人となった浜野の結婚というものに対する気構えのようなものが随所にキラキラと眩しく語られる、と同時に華やかな舞台の裏で繰り広げられる、戦場のような現場の様子もたっぷり味わうことができる。さらに、浜野たち高堂が育てた「椚さん」たちに高堂会館の式場が乗っ取られるようになるシビアな顛末まで。

それと同時に神社や神事、神様というものを真正面から受け止める梶や倉地と、戦争で多くの人を殺した軍人を無邪気にあがめることに共感できない浜野との間に、少しずつひびが入り、やがてそれは対決や別離の要因となる。祖母に死なれて、弱みを見せる梶をもっと見てやれ、と話す倉地に、浜野は食ってかかる。他人のことをよく知ろうとせず、ずかずか入り込んでくるな、と。一度口火を切ると、浜野はそれまで口にしてこなかった「椚さん」に対する批判を倉地にぶつけ、決定的な別れが来る。

倉地はもともと神道科の学生であり、右翼的な考え方になじんでいた。ところが、その日をきっかけに同性婚も挙行するという高堂会館への闘いを積極的に始める。死者との間をとりもつ、という神社の存在を梶もまた信じはじめ、それは次第に強いものになる。梶から見れば、両親揃っていて兄弟も帰る所もある浜野は羨ましい身分だ。ところが、浜野はそれを大事にしようとしないで、好き放題を言っているようにしか見えない。

日本の若者の右傾化が止まらないのは、梶のように欠落を胸に抱いた者にありがちな不満ゆえだろうか。親孝行や結婚、家と家の結びつきといった習慣をよく吟味することなく当然視し、その内側にいる一部となることで安心し、それを当然視せず、違和感を持つ輩に対して批判する。浜野はリベラルでも左翼でもない。ただ、その物語をすんなりと呑み込めない。頭だけでなく体もそれを拒否する。なぜなら、彼の居場所は彼が創り出す世界を核としているからだ。そこで、自由に生きることが現実世界と折れ合うために必要なのだ。

何ならそれを文学と読んでもいい。人を十把一からげにしないもの。異を唱える者を拒絶しないもの。自分と異なる他者と共に生きることを快く感じる、そういう世界がある。そして、そういう世界をよしとせず、みんなが同じ考えや感じ方、人種や血筋、といった共通点で繋がる社会を激しく拒否する。簡単にいえば、浜野はそういう世界に生きている。しかも、理屈ではなく、全身全霊でそれを生きている真っ最中だ。今風の意匠の中にどこか古風な人格形成小説風の骨格を隠した一篇。

『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー

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安楽椅子ならぬ車椅子探偵、リンカーン・ライム・シリーズ九作目。四肢麻痺で動かせるのは首から上と右手の指だけだが、警察にもない機器を自宅にそろえ、公私ともにパートナーのアメリア・サックス、ルーキーのロナルド・プラスキーを手足として駆使し、微細証拠をもとに捜査にあたる。犯罪学者としての豊富な知識、これまでの捜査活動を通じて得た仲間の協力が彼を支える。

ホームズにモリアーティ、明智小五郎に二十面相、とシリーズ物に欠かせないのが宿敵の存在だ。ライムの好敵手はウォッチメイカー(時計屋)。神出鬼没の殺し屋だが、ライムと互角の頭脳を持つ逃亡中の天才犯罪者だ。そのウォッチメイカーが空港で目撃され、メキシコ警察の手で逮捕されそうだという連絡が入る。ライムにとっては最重要事件だが、同じ頃ニューヨークでバスが高圧電流による爆発を受けて大破し、犠牲者が出る。

ニューヨーク市警は、ライムに捜査を依頼。FBIをはじめ、捜査員の面々がライムのアパートに集合する。FBIニューヨーク支局長補マクダニエルはテロを疑っていた。最新技術を駆使する急先鋒で、ネットや携帯から得られる情報を分析する捜査を得意にしている。それによると組織の名や首謀者の名が囁かれているらしい。潜入捜査を得意とするフレッドは情報屋を通じて情報を得る自分の方法に自信をなくしかけている。このアナログとデジタルの暗闘がストーリーを裏で牽引している。

今回、犯人が用いる犯罪方法が、電気によるもの。高圧電流を放電したり、建物の内部に密かに電流を流し、金属部分に触れたものが感電死するというおぞましい殺人方法だ。狙われているのはアルゴンクイン・コンソリデーテッドという電力会社。そこのCEOであるアンディ・ジェッセンは太陽光など地球にやさしい発電に消極的で、従来通りの石炭火力から脱却する気がない。犯人は、どうやら環境テロを起こすことで、その姿勢を改めさせようとしているらしい。

電力会社のネットワークに侵入するにはパスコードを取得することが必須だ。それに、犯行を行うには高度な専門知識と技術が必要になる。ライムは内部にいる者の犯行だと目星をつける。アメリアたちが採取した微細証拠から、四十代の金髪男性で病院に通院歴があることがわかり、該当者を絞っていくと、レイ・ゴールトという社員が浮かび上がる。しかし、犯人から次の犯罪予告が送りつけられ、ライムたちは現場の絞り込みに躍起となる。それをあざ笑うかのように犯人は次々と殺戮を繰り返す。

リンカーン・ライム・シリーズといえば、二転三転するどんでん返しが売り物だ。今回もそれはたっぷり用意されている。まず、犯罪動機が表向きの環境問題にあるのではなく、隠された真の動機が明らかにされる。ホワイトボードに列挙された被害者には表面上に現れていない共通点があることにライムは気づく。ひょっとしたらこれは、本当に殺したい人間の関連を隠す目的で無差別テロに見せかけているのではないか、というのだ。

シリーズ物も、何作も続くと常連の人物には新味が乏しくなる。そこで、味つけとして、その作品にだけ登場する魅力的な人物が登場する。今回は、トーマス・エジソンを尊敬する発明家でもあるアルゴンクインのプロジェクト責任者のチャーリー・サマーズがそれだ。ジャンク・フードをドリンクで流し込みながら、紙ナプキンにアイデアを書きまくる、子どもがそのまま大人になったような人物。しかし、電気に詳しいだけでなく、頭脳も意志力も併せ持つ愛すべきキャラだ。

実はチャーリーはCEOであるアンディの方針とは異なる代替エネルギーの開発に熱心で、太陽光発電にも関心を示していた。殺された人物の中に、その事業に関わるビジネスマンが含まれていたことや、微細証拠の中にアンディの物と思われる物が残されていたことから、ライムたちはアンディとその弟の関与を疑う。犯行はこれ以上の代替エネルギーの振興を食い止め、アルゴンクインの軌道を安定させるのが目的なのだろうか。

ルーキーを育てようとするライムの心配りにも関わらず、過去のトラウマから逃れられずに自動車事故を起こしてしまうプラスキーの動揺が傷ましい。ショックを受けるルーキーにあくまでも冷徹に接するライム。一方、フレッドは信じていた情報屋に大金を騙しとられ、すっかりやる気をなくすが、妻に尻を叩かれて潜入捜査に戻り、とんでもない事実に遭遇する。まったく無関係と思っていた事実と事実が結びつき、あっと驚かされる。

追う者と追われる者との間に生まれる一体感というのだろうか。ライムとウォッチメイカーとの間には友情めいた思いすら感じられる。そのウォッチメイカーとライムとの直接対決もラストに用意され、ここでもいつものように読者は一杯食わされる。エピローグである「最後の事件」は、すべて解決された物語の最後に置かれた、いわばおまけのようなものだ。それなのに、周到に用意された伏線と叙述トリックにすっかり騙されてしまう。そうそう簡単に終わらせてなるものか、という作者の思いがたっぷり詰まった渾身の一篇である。