青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『湯けむり行脚』池内紀

二月の声を聞き、寒さがひときわ厳しくなってきた。足もとは厚手の靴下の上からオーヴァーシューズ形のスリッパで固め、膝掛をかけ、キーボードを叩くため、指先だけは切り取った手袋をはいても、そこから出た指さきの凍りつくような冷たさだけはどうにもな…

『ミッテランの帽子』アントワーヌ・ローラン

80年代のパリを舞台にとった、往年のフランス映画を見ているような、小粋で洒落たコントになっている。近頃の小説は、どこの国のものを読んでも大差がなく、深刻で悲劇的、ネガティヴな印象を持つものが多い。時代が時代なので仕方がないこととは思うが、…

『償いの雪が降る』アレン・エスケンス

原題は<The Life We Bury>.。「私たちが葬る人生」とでもいうような意味で、こちらの方が中身に似つかわしい。というのも、主人公で探偵役をつとめるジョーも、彼が伝記を書こうとしている末期癌を患っている死刑囚カールも、ともに人には言えない過去を自…

『ブルーバード、ブルーバード』アッティカ・ロック

輸入盤で手に入れたミシシッピ・ジョン・ハートのレコードを擦り切れるまで聴いてフィンガー・ピッキングをコピーしていた頃を思い出した。『ブルーバード、ブルーバード』というタイトルは、ブルースの名曲から採られている。事実、文中にはライトニン・ホ…

『橋の上の天使』ジョン・チーヴァー

村上春樹が新しく訳したジョン・チーヴァーの『巨大なラジオ/泳ぐ人』がよかったので、「訳者あとがき」の中で紹介されていた川本三郎訳の『橋の上の天使』を探してきた。村上訳と、どこがどうちがうとはいえないのだが、いかにも川本三郎らしい文章で語ら…

『何があってもおかしくない』エリザベス・ストラウト

しっかり二度読み返した。とはいえ難しい話ではない。各篇に一人の話者がいて、ほとんどモノローグで、自分とそのすぐ近くにいる人々について語る、ただそれだけの話だ。特に何があるというわけでもない。貧しい暮らしを送ってきた中西部、イリノイの田舎町…

『ライオンを殺せ』ホルヘ・イバルグエンゴイティア

この国は今や独裁国家である。ちょっと前まではラテン・アメリカ文学によく登場する独裁者小説を面白がって読んでいたけれど、今では面白がってなどいられない。何もちがわないからだ。日本は民主主義国家で、人権が保障されている先進諸国の仲間入りを果た…

『鐘は歌う』アンナ・スメイル

旅の土産にその街のランドマークになる建築をかたどった小さなモニュメントを買って帰ることにしている。ロンドンで買ったそれはロンドン塔をかたどったもので、ビーフイーターや砲門に混じって、ちゃんと大鴉(レイヴン)もいた。言い伝えには「レイヴンが…

『巨大なラジオ/泳ぐ人』ジョン・チーヴァー

ジョン・チーヴァーの作品は読んだことがなかったが『泳ぐ人』というタイトルには見覚えがあった。バート・ランカスター主演の映画ポスターを見た記憶があるのだ。1968年の映画だ。たしか、次々と他人のプールを泳いでいく話だった。奇妙な話だという印…

『自転車泥棒』呉明益

作家自身を思わせる男が台湾の中華商場界隈に生きる日常を描くリアリズム部分と、訳者が「三丁目のマジック・リアリズム」と呼んだ非日常的で不思議な出来事が起きる物語部分とが違和感なく融けあって一つの小説世界を作っている点が呉明益という作家の特長…

『淡い焔』ウラジーミル・ナボコフ

旧訳の『青白い炎』は筑摩書房世界文学全集で読んだことがある。例の三段組は読み難かったが、詩の部分は二段組で、上段に邦訳、下段に原文という形式は読み比べに都合がよかった。新訳は活字が大きく読みやすいが、英詩は巻末にまとめてあるので、註釈と照…

『カササギ殺人事件』アンソニー・ホロヴィッツ

1955年、田舎町に住む家政婦が鍵のかかった家の中で階段から落ちて死んでいるところが庭師によって発見される。不慮の事故のようだったが、その三日前、死者は息子に「死ねばいい」という意味の言葉を浴びせられていた。近くのパブで、その喧嘩を聞いた…

『不意撃ち』辻原登

五篇の短篇というには長い作品で構成された、いわば中篇集。辻原登は間口が広い。今回は時代的には現代に的を絞り、新聞や週刊誌に取り上げられた事件を物語にからませてリアルさを醸し出している。『不意撃ち』という表題作はない。突然、登場人物たちに降…

『帰れない山』パオロ・コニェッティ

体力に自信がないので、本格的な登山はしたことがない。ただ、山に対する憧憬はあり、旅をするときは信州方面に向かうことが多かった。落葉松林や樺の林の向こうに山の稜線が見えだすとなぜかうれしくなったものだ。子どもが生まれてからは八ヶ岳にある貸別…

『数字を一つ思い浮かべろ』ジョン・ヴァードン

デイヴ・ガーニーは四十七歳。いくつもの難事件を解決してきた超有名な刑事だが、今はニューヨーク警察を退職し、デラウェア近郊の牧草地に十九世紀に建てられた農館で暮らしている。事件解決以外に興味を持たない夫と二つ違いの妻マデリンとの間にはすき間…

『ブラック・スクリーム』ジェフリー・ディーヴァー

リンカーン・ライム、シリーズ第十三作。今回の相手はコンポーザー(作曲家)を名乗る犯罪者。特別に繊細な聴覚を持つが、統合失調症を病んでいる。脳内で音が異常に増殖する、ブラック・スクリームという症状が現れると、自分を制御できなくなる。チェロ用…

『洪水の年』マーガレット・アトウッド

<上・下巻併せての評です> ディストピア小説の傑作『侍女の物語』の作者マーガレット・アトウッドによる「マッドアダムの物語」三部作のひとつで、やはりディストピア小説。近未来のアメリカが舞台。疫病が蔓延し、人々は感染してほぼ死に絶えた中で、奇跡…

『両方になる』アリ・スミス

読み終わって気になることがあり、書棚の展覧会の図録や画集の並んでいるスペースの前に立った。ルネサンスに関する本を片端から手にとってみるのだが、記憶に残っている一枚になかなかたどり着けない。最後に手にとったのが中山公男監修の『初期ルネサンス…

『エリザベス・コステロ』J・M・クッツェー

人は、基本的に自分の考えを率直に発言することができる。しかし、当然のことに批判や非難がつきまとう。ところが、作家は小説の中で自分の作り出した人物に好きなことをしゃべらせることができる。しかも、自分の代わりにしゃべらせるばかりでなく、自分の…

『インヴィジブル』ポール・オースター

詩人を目指す大学二年生の「私」はパーティの席上でフランス人男女と知り合う。次に会ったとき、そのボルンというコロンビア大学の客員教授は「私」に雑誌編集の話を持ちかける。新雑誌の内容から運営まですべてを任し、資金は援助するという嘘みたいな話で…

『ジャック・オブ・スペード』ジョイス・キャロル・オーツ

人は自分の見たいものだけを見て、見たくないものは見ないで生きているのかもしれない。ごくごく平凡な人生を生きている自分のことを、たいていの人間は悪人だとは思っていないだろう。でも、それは本当の自分の姿なのだろうか。もしかしたら、知らないうち…

『監禁面接』ピエール・ルメートル

原題は「黒い管理職」という肝心の中身をバラしかねない題だ。邦題の方は、まさにピエール・ルメートルといったタイトル。しかし、カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの持つ嗜虐趣味と謎解きの妙味はない。仕事にあぶれた中年男が持てる力を振り絞って、…

『モラルの話』J・M・クッツェー

「犬」「物語」「虚栄」「ひとりの女が歳をとると」「老女と猫たち」「嘘」「ガラス張りの食肉処理場」の八編からなる、モラルについての短篇集。はじめの二篇を除く六篇は、一人の年老いた老作家エリザベス・コステロをめぐる、ある一家の物語。時間の推移…

『ヴェネツィアの出版人』ハビエル・アスペイティア

『ポリフィルス狂恋夢』という絵入り本の話を初めて読んだのは澁澤龍彦の『胡桃の中の世界』だった。サルバドール・ダリの絵の中に登場する、飴細工を引き延ばしたように細長い足を持ち、背中にオベリスクを背負って宙を歩く象のイメージも、この本の中に収…

『英国怪談珠玉集』南條竹則編訳

ただ「怪談」と聞くと川端の枝垂れ柳や、枯れ薄の叢の中の古沼、裏寂れた夜道といった妙に背筋が寒くなる風景を思い描いてしまいそうになる。それが、前に「英国」という二文字が着くと、急に座り心地のいい椅子や、炉端に火が用意された落ち着いた部屋のこ…

抜け毛の始末

前よりは量が少なくなったけど、やはり、カーペットに抜け毛が点々と落ちているのが気になっていた。朝、起きると妻が 「ニコ、やっぱりお医者さんに行かなきゃいけないみたい」 「えっ、どうして」 「首の後ろが地肌が見えてるの」 そう言って長い毛をかき…

『ガルヴェイアスの犬』ジョゼ・ルイス・ペイショット

家の外にある便所でローザがビニール袋に自分の大便を落とす。ローザは袋の口を閉じて廊下の冷凍庫にそれをしまう。スカトロジー? いや違う。これには訳がある。ローザの夫は従弟の妻ジョアナと浮気をしているという噂がある。ローザは溜めておいた自分の大…

抜け毛

ヒマラヤンは長毛種なので、ニコは一月半ごとに動物病院に併設されているグルーミング・ルームにシャンプーとカットをしてもらいに行く。以前は嫌がっていたブラッシングも、させてくれるようになったので、毛がからまることもほぼなくなったのだが、顎の下…

『文字渦』円城塔

中島敦に『文字禍』という短篇がある。よくもまあ同名の小説を出すものだ、とあきれていたが、よく見てみると偏が違っていた。『文字禍』は紀元前七世紀アッシリアのニネヴェで文字の霊の有無を研究する老博士ナブ・アヘ・エリバの話だ。同じ名の博士が本作…

お久しぶりニャ

最近玄関の煉瓦タイルがお気に入りのニコ。 毎日の暑さで体を冷やすのにちょうどいいらしい。いつでも、買い物から帰ってくる車の音を聞きつけてドアの開くのを待つのだが、晩御飯の買い物では、北に向いた玄関には西日が差していて、せっかくのタイルは熱く…