青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

書評

『カーペンターズ・ゴシック』ウィリアム・ギャディス

二〇一九年に日本翻訳大賞を受賞した『JR』は、ウィリアム・ギャディスの第二作。本書は『JR』に次ぐ第三作である。国書刊行会から新刊が出たばかりだが、こちらは二〇〇〇年に本の友社から出されたもので、訳者による記念すべき最初の小説の翻訳である。『J…

『シルトの岸辺』ジュリアン・グラック

皆川博子著『辺境図書館』で興味を持ち、読んでみた。忽ち後悔した。なぜもっと早く読もうとしなかったのか、と。第二次世界大戦が終わって間もない頃に書かれた小説でありながら、まったく古さを感じさせない。原作がそれだけ優れているのだろうが、安藤元…

『パリンプセスト』キャサリン・M・ヴァレンテ

「訳者あとがき」も「解説」もないのは原作者の意図だろうか。冒頭から、いきなり隷書体めいたフォントで「十六番通りと神聖文字通りの角で、ひとつの工場が歌い、溜息をつく」と書き出されたら、慣れない読者は本を投げ出さないだろうか。ここはひとまずざ…

『モンスーン』ピョン・ヘヨン

久しぶりに「不条理」という言葉を思い出した。「観光バスに乗られますか?」など、ほとんどベケットだ。何が入っているのか分からない袋を運ぶように会社から命じられたKとSの二人は、袋をトランクに入れ、タクシーでターミナルに向かう。上司からはD市行き…

『マンハッタン・ビーチ』ジェニファー・イーガン

第二次世界大戦下のニューヨーク。エディ・ケリガンは一時、デューセンバーグを乗り回すほど、羽振りを利かせていたが、株の大暴落があってからは、すっかり落ち目に。今は養護院仲間で港湾労働組合委員長のダネレンに雇われ、裏金の運び屋稼業で辛うじて家…

『カルカッタの殺人』アビール・ムカジー

時は一九一九年。舞台は英領インド、カルカッタ(今のコルカタ)。スコットランドヤードの敏腕刑事だったウィンダムはインド帝国警察の警部として赴任して間がない。第一次世界大戦従軍中、父と弟、それに結婚して間もない新妻を失った。過酷な戦闘で自分一…

『短編画廊』ローレンス・ブロック他

エドワード・ホッパーという画家がいる。現代アメリカの具象絵画を代表する作家で、いかにもアメリカらしい大都会の一室や田舎の建物を明度差のある色彩で描きあげた作品群には、昼間の明るい陽光の中にあってさえ、深い孤独が感じられる。アメリカに行った…

『掃除婦のための手引き書』ルシア・ベルリン

作家は小説を書くために波乱万丈の人生を送ってきたわけではないし、過酷な人生を送った誰もがいい作家になって小説を書くわけでもない。ただ、ルシア・ベルリンに関していうなら、彼女がこんな人生を経験していなかったら、そして、魂というか、人間の内部…

『ある一生』ローベルト・ゼーターラー

読ませようという気があるのか、と言いたくなるタイトル。原題が<Ein ganzes Leben>だから、直訳だ。すべてが、ここに集約されている。削りに削りまくった、飾り気とか色気とか、そういうものが一切ない、必要最小限度のもので成立している長篇小説。長さ…

『ヒッキーヒッキーシェイク』津原泰水

タイトルがどっかで聞いたことがあると思って口ずさんだら、曲調を覚えていた。カバー・イラストにあるのと同じ型のベースを持ったマッシュルーム・カットのポール・マッカートニーが『ヒッピー・ヒッピー・シェイク』と歌っていた。「ヒッキー」が引きこも…

『方形の円』ギョルゲ・ササルマン

古い地球儀の極の方に「テラ・インコグニタ」と記された土地がある。誰も足を踏み入れた者がいないため、地名は勿論、地勢も植生も何が棲んでいるのかも分からない、未知なる領域のことである。誰も知らない土地、世に忘れられた世界のことを書いたものには…

『七つの殺人に関する簡潔な記録』マーロン・ジェイムズ

おちょくってるのか。簡潔な記録だと。A5版七百ページ二段組。厚さ五センチ。重さ一キログラム超。まさに凶器レヴェル。放ったらかしにしてあった妻の実家の庭の草刈りをした後で手にしたら、手首が震えて床に落としそうになった。『JR』以来、厚手の本を読…

『イタリアン・シューズ』へニング・マンケル

スウェーデンの冬は寒い。海まで凍りついてしまう。毎朝、島の入り江に張った氷を斧で叩き割って穴を開け、その中につかるのが「私」の日課だ。寒さと孤独と闘う、と本人はいうが、自分に課した懲罰のような行為だ。元医師のフレドリックは六十六歳。昔はス…

『ウェルギリウスの死』ヘルマン・ブロッホ

大学時代、同じゼミにいた友人が、岩波文庫版の『アエネーイス』について話すのを傍で聞いたことがある。ギリシアを代表する詩人、ホメーロスの代表作が『イーリアス』、『オデュッセイア』だとすると、ローマでそれにあたるのが、神々の血を引く英雄アエネ…

『海の乙女の惜しみなさ』デニス・ジョンソン

表題作「海の乙女の惜しみなさ」を筆頭に「アイダホのスターライト」、「首絞めボブ」、「墓に対する勝利」、「ドッペルゲンガー、ポルターガイスト」の五篇からなる短篇集。「私、俺、僕」と作品によって異なる人称に訳されてはいるが、英語ならすべて<I>…

『路地裏の子供たち』スチュアート・ダイベック

古い日本映画を見るのが好きだ。外国映画も好きだが、出てくる風景に見覚えがない。日本の映画なら別に名作でなくても、背景になっているちょっとした風景が、まるで記憶の中にある少年時代のそれと重なって見える。ごくふつうのどこにでもある田舎町の何で…

『翼ある歴史-図書館島異聞』ソフィア・サマター

前作『図書館島』をすでに読んでいたとしても、本作を読むのにあまり役には立たないかもしれない。聞きなれない名前が矢継ぎ早に登場し、あらかじめ何の情報も知らされていない人物が突然行動を起こす。あれよあれよという間に、事態は戦闘状態に入ってゆく…

『ピュリティ』ジョナサン・フランゼン

記憶が定かでないのだが、すべての小説は探偵小説であるという意味の言葉をどこかで読んだ覚えがある。すべてかどうかは知らないが、たしかに面白い小説に探偵小説的興趣があるのはまちがいない。ページターナーと称される作品には、読者の前に必ず何らかの…

『夜のアポロン』皆川博子

76年から96年までに発表されてはいるものの、単行本未収録であった短篇を集めたものである。著者自身は原稿も掲載誌も残しておらず、編者が当時の掲載誌を捜し集めたという。初出は「小説宝石」をはじめとする小説誌で、今では廃刊になっているものもあ…

『飛族』村田喜代子

タイトルを目にしたときは中国の少数民族の話かと思った。まさか、イカロスでもあるまいに、人が空を飛ぶ話になるとは思わなかった。イカロスは羽根をつけて飛ぶのだから、それとはちがう。この小説では人が鳥に変身する。空を自由に飛びたいなどという、ロ…

『ニックス』ネイサン・ヒル

私小説というわけでもないのに、作家が主人公の小説というのがけっこう多い気がする。やはり、自分のことを書くのが作家の基本なんだろうか。読者の方は、別に作家志望とかでもないだろうに、やっぱり作家が主人公の小説が好きなんだろうか。よくわからない…

『みかんとひよどり』近藤史恵

陽のあたる縁側に、何度綿を打ち直してもすぐにぺたんとなってしまう縞木綿の座布団を敷いて、その上に座る一人の老女。庭の奥には亡夫が丹精した蜜柑の木に木守めいて残る黄金色の果実に一羽の鵯がきて止まり、さかんに実をついばんでいる。手にした湯飲み…

『ハバナ零年』カルラ・スアレス

電話を発明したのは誰か、ときかれたら、たとえあなたが図書館で『発明発見物語』を読んでいてもいなくてもグラハム・ベル、と答えられる。「電話のベル」と覚えやすいからだ。ところが実際はそうではないらしい。イタリア人のアントニオ・メウッチなる人物…

『ヒュプネロートマキア・ポリフィリ』フランチェスコ・コロンナ

ハビエル・アスペイティア作『ヴェネツィアの出版人』で小説の鍵を握る出版物として出てくる『ポリフィロの狂恋夢』。澁澤龍彦訳では『ポリフィルス狂恋夢』の初の日本語全訳となるのが、この『ヒュプネロートマキア・ポリフィリ』である。本についての詳し…

『アンダーワールドUSA』上・下 ジェイムズ・エルロイ

<上・下二巻併せての評です> 現金輸送車襲撃事件から始まる。中に入っていたのは大量の現金とエメラルド。犯人の一人が裏切り、仲間の顔を焼いて身元を不明にするなど、計画的な犯行であることがわかる。ミステリなら犯人は誰で、金とエメラルドはどこに消…

『湯けむり行脚』池内紀

二月の声を聞き、寒さがひときわ厳しくなってきた。足もとは厚手の靴下の上からオーヴァーシューズ形のスリッパで固め、膝掛をかけ、キーボードを叩くため、指先だけは切り取った手袋をはいても、そこから出た指さきの凍りつくような冷たさだけはどうにもな…

『ミッテランの帽子』アントワーヌ・ローラン

80年代のパリを舞台にとった、往年のフランス映画を見ているような、小粋で洒落たコントになっている。近頃の小説は、どこの国のものを読んでも大差がなく、深刻で悲劇的、ネガティヴな印象を持つものが多い。時代が時代なので仕方がないこととは思うが、…

『償いの雪が降る』アレン・エスケンス

原題は<The Life We Bury>.。「私たちが葬る人生」とでもいうような意味で、こちらの方が中身に似つかわしい。というのも、主人公で探偵役をつとめるジョーも、彼が伝記を書こうとしている末期癌を患っている死刑囚カールも、ともに人には言えない過去を自…

『ブルーバード、ブルーバード』アッティカ・ロック

輸入盤で手に入れたミシシッピ・ジョン・ハートのレコードを擦り切れるまで聴いてフィンガー・ピッキングをコピーしていた頃を思い出した。『ブルーバード、ブルーバード』というタイトルは、ブルースの名曲から採られている。事実、文中にはライトニン・ホ…

『橋の上の天使』ジョン・チーヴァー

村上春樹が新しく訳したジョン・チーヴァーの『巨大なラジオ/泳ぐ人』がよかったので、「訳者あとがき」の中で紹介されていた川本三郎訳の『橋の上の天使』を探してきた。村上訳と、どこがどうちがうとはいえないのだが、いかにも川本三郎らしい文章で語ら…