青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

書評

『結ばれたロープ』フリゾン=ロッシュ

登山の経験もなく、山の近くに住んでもいないのに、何故だか山の生活を書いた小説を見つけると読まずにいられない。自分には出来ないことをする人々への憧憬があるのだと思う。最近読んだものの中ではローベルト・ゼーターラーの『ある一生』やパオロ・コニ…

『夜の果てへの旅』L=F・セリーヌ

それでは、これがあの悪名高いセリーヌの代表作なのか。読み終えて意外な気がした。おそるおそる手に取ったせいかもしれないが、若い頃の作品ということもあり、まだ反ユダヤ主義は顔をのぞかせてもいない。それどころか、主人公はこんなことまで言っている…

『あの本は読まれているか』ラーラ・プレスコット

表題にある「あの本」というのが、ノーベル賞作家、ボリス・パステルナークの長篇小説『ドクトル・ジバゴ』。ソ連が出版を許可しないので、イタリアで出版され、瞬く間に世界中で翻訳され、ノーベル賞を受賞する。しかし、反革命的であることを理由に、ソ連…

『あなたを愛してから』デニス・ルヘイン

ヒトは、生まれてすぐに一人で立ったり、ものを食べたりすることができない。誰かの世話を受けることが予め定められている。それだけではない。その誰かが問題だ。ヒトは可塑的な存在で、オオカミの中で育つと、オオカミのようにしか生きられない。つまり、…

『靴ひも』ドメニコ・スタルノーネ

父と母、兄と妹の、どこにでもいるごく普通の四人家族の話なんだけど、読んでいると、だんだん胸のあたりが痛くなってくる。普通の小説はここまで本音を書かない。人って、普通、本音で生きていない、だろう? ちがいますか? あなたは本当にしたいことをして…

『ザリガニの鳴くところ』ディーリア・オーエンズ

二つの小説がひとつに縒りあわされている格好になっている。一つは一九六九年に沼地で起きた一人の男の死の謎を追うミステリ仕立ての小説。もう一つは、その十七年前の一九五二年に始まる稀有な生き方を強いられた一人の女性の人生を追った物語である。 アメ…

『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー

安楽椅子ならぬ車椅子探偵、リンカーン・ライム・シリーズ九作目。四肢麻痺で動かせるのは首から上と右手の指だけだが、警察にもない機器を自宅にそろえ、公私ともにパートナーのアメリア・サックス、ルーキーのロナルド・プラスキーを手足として駆使し、微…

『天使は黒い翼をもつ』エリオット・チェイズ

愚かな国民が、およそ史上これほどまでに無能で、人間性のかけらもない最低の屑を為政者として長年放置していたために、伝染病を蔓延させることになり、人々は為すすべもなく、家に閉じこもり、手洗い、うがいより他にすることのない生活を送る羽目に追いや…

『パストラリア』ジョージ・ソウンダース

ジョージ・ソーンダーズがまだソウンダースだった頃、初めて日本語に訳された短篇集。『十二月の十日』を読んで、その魅力にハマったので、これまでに訳された本を探してきては読んでいる。訳者の岸本佐知子が「登場する人物は、ほぼ全員がダメな人たちだ。…

『流れは、いつか海へと』ウォルター・モズリイ

今のこの国のように、役人や警察が民衆のために働くのでなく、自分たちの利権を守るために働くのが当たり前になってくると、頭の切れる警官なら自分が正規のルールに従って動くことが自分の所属する集団の中にいる他の者の目にどう映るか、だいたい分かるだ…

『リンカーンとさまよえる霊魂たち』ジョージ・ソーンダーズ

歳をとるにつれ、死のことを考えることが増えてくる。それほど頻繁でもないし、それほど深刻でもないのだが、ただ漠然と自分もいつかは死ぬことになっているんだなあ、と思ってみるくらいのことだ。死後の世界については考えたことがない。そんなものがあろ…

『卍どもえ』辻原登

テーマはどうやらユングのいう「シンクロニシティ」らしい。「共時性」ともいう、異なる人物の間で同じことが同時に起きる、いわゆる「意味のある偶然の一致」のこと。更にもう一つ。危険な状態が待ち受けていることを無意識裡に知っているのに、それを避け…

『パリのアパルトマン』ギヨーム・ミュッソ

次々に新作が発表される翻訳ミステリ。純然たるミステリ・ファンではない。というより、根を詰める読書の合間の息抜きとしてミステリを読む。つまらないものは読みたくないのが人情。そんなとき頼りになるのが書評サイト。その中に七人の書評家がその月の推…

『十二月の十日』ジョージ・ソーンダーズ

アメリカ屈指の短篇小説の名手による四冊目の短篇集。作者は「作家志望の若者にもっとも文体を真似される作家」だそうな。この「若者に」というのが曲者で、一例を挙げれば、良識ある親なら子どもの目に触れさせたくないだろう言葉が、次から次へとポンポン…

『パリ警視庁迷宮捜査班』ソフィー・エナフ

アンヌ・カぺスタンはパリ司法警察警視正。同期の中では一番の出世頭だったが、逮捕時に犯人を射殺したことが過剰防衛と見なされ、六カ月の停職処分を受けた。降格、左遷が妥当な線だが、警察局長のビュロンはカベスタンを新設された捜査班の班長にした。そ…

『熊の皮』ジェイムズ・A・マクラフリン

ライス・ムーアはターク山自然保護区の管理人。資産家が周辺の土地を買い集めて私有地とし、みだりに原生林に立ち入ることができないようにしている。しかし、私有地となる以前から住民は森に出入りし、熊猟を行っていた経緯があり、密猟が絶えなかった。ラ…

『11月に去りし者』ルー・バーニー

フランク・ギドリーはニュー・オリンズを牛耳るマフィアのボス、カルロス・マルチェロの組織の幹部。一九六三年、カルロス・マルチェロとくれば、ケネディ暗殺事件がからんでくる。ジェイムズ・エルロイの「アンダーワールドU.S.Aシリーズ」でお馴染みの名前…

『オーバーストーリー』リチャード・パワーズ

まず、ジャケットが出色。巨木の根元に陽が指している写真の上にゴールドで大きく書かれた原語のタイトルがまるで洋書のよう。角度を変えるとタイトル文字だけが浮かび上がる。最近目にした本の中では最高の出来である。表紙、背、裏表紙を広げるとカリフォ…

『昏き目の暗殺者』マーガレット・アトウッド

『昏き目の暗殺者』という表題は、作中に登場する二十五歳で夭折したローラ・チェイスの死後出版による小説のタイトルである。小説の中で売れない物書きの男が女にお話をせがまれて頭の中の小説を話して聞かせる。ウィアード・テイルズのような、扇情的な表…

『タタール人の砂漠』ディーノ・ブッツァーティ

長い間、小競り合いと呼べるほどの戦闘すらなかった隣国と境を接する辺境の砦に新任の将校が赴任する。時を同じくし、今まで微妙な均衡の上に成り立っていた両国間の戦争と平和のバランスにかすかな亀裂が生じ、それがやがて運命的な悲劇を招き寄せることに…

『セロトニン』ミシェル・ウエルベック

私事ながら、読書を除けば趣味というものがない。昔はいろんなことに手を出したが、今は何もする気になれない。猫と暮らすようになってからは、あまり外へも出かけなくなった。仕事以外に人とのつきあいがなく、退職後は年に二度、夏と冬に学生時代の友人と…

『わたしのいるところ』ジュンパ・ラヒリ

わたしたちが通りすぎるだけでない場所などあるだろうか? まごついて、迷って、戸惑って、混乱して、孤立して、うろたえて、途方にくれて、自分を見失って、無一文で、呆然として(傍点四七字)。これらのよく似た表現のなかに、わたしは自分の居場所を見つ…

『レス』アンドリュー・ショーン・グリア

『レス』というのは主人公の名前である。最近では珍しくなったが、『デイヴィッド・コパフィールド』しかり、『トム・ジョウンズ』しかり、長篇小説の表題に主人公の名前をつけるのは常套手段だった。原題は<LESS>。これが「(量・程度が)より少ない」と…

『カーペンターズ・ゴシック』ウィリアム・ギャディス

二〇一九年に日本翻訳大賞を受賞した『JR』は、ウィリアム・ギャディスの第二作。本書は『JR』に次ぐ第三作である。国書刊行会から新刊が出たばかりだが、こちらは二〇〇〇年に本の友社から出されたもので、訳者による記念すべき最初の小説の翻訳である。『J…

『シルトの岸辺』ジュリアン・グラック

皆川博子著『辺境図書館』で興味を持ち、読んでみた。忽ち後悔した。なぜもっと早く読もうとしなかったのか、と。第二次世界大戦が終わって間もない頃に書かれた小説でありながら、まったく古さを感じさせない。原作がそれだけ優れているのだろうが、安藤元…

『パリンプセスト』キャサリン・M・ヴァレンテ

「訳者あとがき」も「解説」もないのは原作者の意図だろうか。冒頭から、いきなり隷書体めいたフォントで「十六番通りと神聖文字通りの角で、ひとつの工場が歌い、溜息をつく」と書き出されたら、慣れない読者は本を投げ出さないだろうか。ここはひとまずざ…

『モンスーン』ピョン・ヘヨン

久しぶりに「不条理」という言葉を思い出した。「観光バスに乗られますか?」など、ほとんどベケットだ。何が入っているのか分からない袋を運ぶように会社から命じられたKとSの二人は、袋をトランクに入れ、タクシーでターミナルに向かう。上司からはD市行き…

『マンハッタン・ビーチ』ジェニファー・イーガン

第二次世界大戦下のニューヨーク。エディ・ケリガンは一時、デューセンバーグを乗り回すほど、羽振りを利かせていたが、株の大暴落があってからは、すっかり落ち目に。今は養護院仲間で港湾労働組合委員長のダネレンに雇われ、裏金の運び屋稼業で辛うじて家…

『カルカッタの殺人』アビール・ムカジー

時は一九一九年。舞台は英領インド、カルカッタ(今のコルカタ)。スコットランドヤードの敏腕刑事だったウィンダムはインド帝国警察の警部として赴任して間がない。第一次世界大戦従軍中、父と弟、それに結婚して間もない新妻を失った。過酷な戦闘で自分一…

『短編画廊』ローレンス・ブロック他

エドワード・ホッパーという画家がいる。現代アメリカの具象絵画を代表する作家で、いかにもアメリカらしい大都会の一室や田舎の建物を明度差のある色彩で描きあげた作品群には、昼間の明るい陽光の中にあってさえ、深い孤独が感じられる。アメリカに行った…