青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『メモリー・ウォール』 アンソニー・ドーア

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短篇集なのだが、一篇一篇がとても短篇とは思えない重量感を持つ。短篇が高く評価されている作家だが、短篇向きではないのかも。ありふれた人物に起きる些細な出来事を絶妙の切り口ですくいとってみせる、そんな短篇の気安さを期待すると裏切られる。限られた紙数の中に、人の記憶と、そこに生きるしかない人々と世界が抱える問題を投げ入れ、人がどう生きたか、今をどう生きるかを問う。これは長篇小説の書き手に与えられた資質ではないか。

表題作「メモリー・ウォール」は、一見するとSF。ケープタウンを見下ろす郊外住宅地に住む七十四歳のアルマは、深夜家に誰かがいるのに気づく。夫は巨大恐竜の化石発見を妻に伝えるやその場で息を引き取った。昼間は使用人がいるが、夜は一人。アルマは近頃記憶が覚束ない。壁には覚えておきたいことのメモや写真と、四桁の番号とともにカートリッジがピンで留めてある。

記憶を読み取り、保存する技術が開発された近未来。電子レンジ大の機械につながれた三本のコイル状ケーブルがついたヘルメットをかぶると、頭蓋に埋め込まれた四つのポートに接続され、カートリッジに保存された記憶が頭の中に蘇る。記憶は個人のものでなくなり、カートリッジと、ポートさえあれば誰でも閲覧可能になった。化石売買は金になる。妻の記憶から化石の発見場所を探ろうと夜な夜な忍び入る男たち。

記憶は美化されがちだが、機械は嘘をつかない。本人に不都合な記憶が山と保存される。記憶を読み取るために頭にポートを埋め込まれた少年ルヴォが見たアルマは、使用人に冷たく、夫に対する不満を抱えた女だった。近未来SFに見えた小説が、『宝島』を下敷きに、ディケンズ的な解決へと結着する展開は、正直呆気にとられた。新作長篇『すべての見えない光』に顕著な物語性は、この辺りにも顔をのぞかせている。

「生殖せよ、発生せよ」はワイオミングを舞台に最新の不妊治療に賭ける夫婦の愛情と苦闘を描く。教え子によろめきそうになる夫、周囲の何気ない言葉や態度に傷つく妻のリアリティが痛い。

「非武装地帯」は、南北朝鮮国境が舞台。高圧電線に触れて落ちたツルの遺骸を埋めるため、立ち入り禁止の柵をこえ、軍法会議にかけられたアメリカ軍兵士が故郷で待つ父に出す何通もの手紙。クリスマスを迎える準備をする父は、男と逃げた妻のことを息子にどう伝えようかと悩んでいる。この一篇もそうだが、アンソニー・ドーアの視点は常に弱いもの、小さいものに寄り添う。その姿勢は揺らぐことがない。

「113号村」は、中国三峡ダム建設によって水没する村の話。移住話の進む中、種屋の女の一人息子でダムの保安員をしている李慶(リーチン)が帰郷してくる。一人また一人と村を去る人が増える。反対する者を李慶が殺しているという噂に、まさかと思いながらも疑いを捨てきれない母。大規模開発の陰で人々の記憶に残る土地が消されていく。最後まで村に残った種屋と柯先生が蛍の群舞を見る情景が心に残る。

孤児となった十五歳のアリソンは、リトアニアの祖父の家に引き取られる。慣れない土地での生活で唯一の慰めは近所のサボおばあちゃんと行く魚釣りだ。アリソンが狙うのは昔ネムナス川にいたというエルケサス(チョウザメ)だ。古いアルミのボートに乗った少女と老婆、それにプードル。「大きな悲しみ」を抱く孤独な少女の生と格闘する姿が凛として静かな感動を呼ぶ「ネムナス川」。

なぜ自分だけ助けられたのか?「来世」は、収容所送りにされた十二人のユダヤ人少女の中から、一人生き残った少女の晩年を追う。エスターには生まれつき癲癇の持病があった。発作に襲われると汽車がトンネルを通過するときのような轟音に続き、幻視が来る。見えるはずのない世界が見える。その力を惜しんだ医師がアメリカの伯父に手紙を書き、エスターは命拾いをする。

息子夫婦が、双子の養子を引き取るために中国に旅行している間、八十一歳のエスターの面倒を見るのは孫のロバートだ。ロバートは祖母の語る戦争の記憶をICレコーダーに録音する。ロバートは入院中のクリニックで薬づけにされた祖母の願いを聞いて家に連れ帰る。自転車につないだトレーラーに祖母を乗せ、月明かりの野道を行く情景がたまらなく美しい。

現在のエスターの暮らしと十五歳当時ハンブルクのヒルシュフェルト孤児院での暮らしが交互に語られる。外から見れば死に近づきつつあるのだが、エスターにとってはちがう。記憶に残る懐かしい世界の中へ帰ってゆくかのようだ。そのエスターの記憶に蘇るのは、時の経過とともにユダヤ人を取り巻く状況がどんどん悪化してゆく様子だ。

「最初にわたしたちは死ぬの」と女は言う。「そのあとで体が土に埋められる。わたしたちは二度死ぬのよ」(略)「そして」と女はつづける。「生きている世界に折りこまれた別の世界で私たちは待つ。子どもだったころのわたしたちを知っている人が、みんな死ぬまで待つの。その最後のひとりが死んだら、わたしたちはついに三度目に死ぬのよ」(略)「そしてそのとき、私たちは来世へ解放されるの」

幻視の中で語る女の言葉だ。今のオハイオの暮らしと記憶の中にある十五歳当時の過去の暮らし。そして幻視の中で見ている収容所に送られてゆくユダヤの人々の姿。さらに、死んだはずの十一人の少女たちの語らい、といくつもの異なった世界が重層的に描かれることで、現実の穏やかな生活と対比され、大戦下のユダヤ人の悲劇がより強く訴えかけてくる力を持つ。

南北朝鮮問題、ソ連、ロシアという大国に隣接する小国リトアニアの苦悩、躍進する中国が抱える環境汚染、と広く世界に目を向けつつ、過去から現在につながる民族差別の歴史に眼を据える。これが短篇集であることが信じられない。しかも、その一方で、物語性への傾斜は濃厚だ。記憶に残る美しい情景とともに、悲惨な状況下にあっても希望の萌芽を見逃さない、透徹した視線に救われる。長篇になるべき素材を凝縮し、短篇に仕立てた力技の短篇集。一篇一篇、心して読みたい。

『いにしえの光』 ジョン・バンヴィル

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初老の男が遠い夏の日の初恋を思い出す。相手は友だちの母親。美しくも狂おしい過去の回想をさえぎるように、愛する家族を喪った記憶から立ち直れないでいる今の暮らしが挿入される、とくれば、あのブッカー賞受賞作『海に帰る日』を思い出す人も多いだろう。子どもの頃の習慣をなぞるように、大きくなった娘と海岸沿いをドライブする場面などほとんどそのまま使い回しだ。

数年前に発表し、賞までとった話題作に酷似したモチーフをあえて使って書かねばならないほど、材料不足なのか。それともまだ描き足りないものが残っていたのだろうか。たしかに、性への目覚めを主題の一つとした『海に帰る日』では、初めは遊び仲間である少女の母親に寄せていた関心を、早々とその娘に対する欲望へと切り替えることで、成熟した女性との性交渉に至る寸前で、危ういところを免れたような気配が漂っていた。

少年時代に萌した母親と同じ年頃の女性に対する強い執着が一種の強迫観念としてとり憑いているのだろうか。愛する家族と死に別れることへの恐怖が作家を捉えて離さないのだろうか。同一の主題、同種のモチーフに固執する作家は他にもいる。同工異曲というとたとえが悪いが、逆に言えば同じ材料で異なる作品をつくり上げるのだから、かなりの技術が必要となる。自信のない作家なら、まず手を出さない。自分の小説に対する並々ならぬ自負を感じる。

アレクサンダー・クリーヴは引退も考えている老舞台俳優。屋根裏部屋に籠もり、過去の思い出に浸っているところを電話で映画出演のオファーがあったことを妻に知らされる。近頃妻はキッチン、自分は屋根裏からめったに出ない。十年前に学者だった娘のキャスが自殺してからというもの、妻は悲嘆を抱えたままだ。キャスはリグーリア海岸に身を投じた時、妊娠していた。残されたノートにはスピドリガイロフという名で呼ばれる男の名があった。

映画はアクセル・ヴァンダーという言論人を主人公とするもので、「わたし」がその男を演じることになっていた。相手役は今を時めく人気女優。ところが、完成間近になってその女優が自殺未遂を起こす。娘のことを思い出した「わたし」は、気分回復にと女優をイタリア旅行に連れ出す。実は、キャスが自殺したころアクセル・ヴァンダーもまた、リグーリア海岸にいたのだ。偶然の一致といえばそれまでだが、気にはなる。その検証も兼ねてのイタリア行きだった。

傷ついた女優と老優の一風変わった逃避行が現在進行中の物語だが、『いにしえの光』という表題通り、話の主筋はミセス・グレイと「わたし」の出会いから別れに至る「ひと夏の経験」の方にある。町で眼鏡屋を経営する夫がありながら、息子の友だちである「わたし」に、裸でいるところを覗き見させたり、ステーションワゴンの中で「キスしたい?」と誘惑したり、とミセス・グレイは十五歳の少年には刺激的すぎる。

大きな街から引っ越してきたこともあって、田舎暮らしに退屈し欲求不満だったのかもしれない。しかし、グレイ家の洗濯室に敷いたマットの上で一度禁断の味を知ってしまった「わたし」は、ミセス・グレイに夢中になってしまう。それはそうだろう。男の子なら誰だって憧れる境遇だ。ステーションワゴンの後部座席で、後には林の中にある廃屋の中で、二人は愛し合う。性急で一途な少年の求愛に応えてくれる三十五歳のミセス・グレイの態度には、「わたし」ならずとも疑問を感じる。

自分で火をつけてしまったのだから、一度の過ちは仕方がない。しかし、狭い町のことだ。誰が見るかもしれない。夏休みの間中、人の目を盗んで逢い引きし、「わたし」の欲しがるままに体を与えるなど狂気の沙汰だ。しかし、林の中を流れる小川に足を浸し、木漏れ日を浴びて笑う裸のミセス・グレイには背徳の翳りが見えない。その幸せそうな様子を見ていると、夫人もまた二人の情事をただの火遊びとは考えていないのでは、とも思えてくる。

この二人の情交を描く筆は流麗かつ繊細で、何より官能的。文学は言葉でできているのだから当然といえば当然なのだが、雨音や雷鳴、光のうつろい、肌の色、皮膚のざらつき、匂い、それらを伝えるための工夫を凝らした比喩、と数え上げればきりがない描写のなんという美しさ。ポルノグラフィーとは対蹠的な文章によってはじめて描くことのできる性の営みのめくるめくような悦びがここにある。文章家で知られるというが翻訳でどこまでわかるものかと思っていたが、翻訳でも伝わるものは伝わるのだ。無論、村松潔の訳も素晴らしい。

いつまでも見ていたい夢のような夏も、季節がうつろえば、いつかは覚めねばならない。二人でいるところをビリーの妹に見られ、ミセス・グレイは姿を消してしまう。ミセス・グレイのその後を知りたいと思い続けてきた「わたし」の願いは結末近くで適うことになる。あの夏の奇蹟のような光あふれる日々が何故「わたし」に訪れたのか、その謎が解けることで、「わたし」の「彼女を充分に愛さなかった」「彼女はそのせいで苦しんだにちがいない」という思いは少しは癒されただろうか。

年若い読者にこそ読んでほしいのだが、いくら名文とはいえ、少々刺戟がきつすぎるかもしれない。それとも、今の若い人はこれくらいは刺戟とさえ感じないか。老いを迎えた男が、いたずらに過ぎた自分の過去を振り返りながら、滔々と流れる文章に酔い痴れるというあたりが無難なところか。