青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『終わりなき道』 ジョン・ハート

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まあ、確かに償いや贖いに終わりはないのかもしれないが、ずいぶんと突き放した邦題になったもんだ。原題は<REDEMPTION ROAD>。ここは、あっさりと『贖い(贖罪)への道』と訳した方が、作者が意図した主題に沿っている気がするが、あまりにも露骨すぎるので、より文学的なというか、情緒的な表題を採ったのだろうと推察する。けれども、主人公の父親は牧師であり、彼女は幼いころから厳格な宗教教育を受けてきている。さらに、犯罪現場には教会が使われている。宗教的な意味を持つ単語を使用しているのは、意図してのことだろう。その意は酌まなくてもいいのだろうか。

<redemption>には、買い戻し、質受け、償還、身請け、救済、(キリストによる)(罪の)贖(あがな)い、救い、(約束・義務などの)履行、補償などの意味がある。Wikipediaによると、旧約聖書の「贖い」には

  1. 人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すこと
  2. 身代金を払って奴隷を自由にすること
  3. 家畜や人間の初子を神に捧げる代わりに、生贄を捧げること。犠牲の代償を捧げることで、罪のつぐないをすること。

等の意味があるらしい。この三点ともに小説の主題に深くかかわっているのは明らかで、評者が題名にこだわるのも、それが重要だと思うからである。

主人公が敬愛する警察官エイドリアン・ウォールは、殺人罪で十三年を刑務所で暮らし、小説冒頭で釈放される。主人公のエリザベス(リズ)は少女の頃、レイプされ自殺しようとしたところをエイドリアンによって未然に察知され、結果的に救われる。リズが警官になろうと決めたのはそれがあったからだ。リズはエイドリアンに大きな借りがある。債務の返済を意味する「償還」という表題はリズにとって重い意味を持っている。

冒頭でリズ自身も苦境に立たされている。監禁レイプされていた少女を独りで救助した際、十八発もの銃弾を黒人兄弟の二人に発砲したことが問題になっているのだ。白人警官による黒人への過剰な暴力は喫緊の社会問題である。少女は助かったが、そのためにリズは人に指弾される立場に陥った。これは新約のイエスの贖いの解釈にあてはまる行為といえる。本当は、ここに書けないもっと深い意味があるのだが、ネタばれになるので、これ以上は書けない。

エイドリアンは、刑務所内で生きていく術を教えてくれた同房者のイーライが所長の拷問によって死ぬ前に、ある秘密を聞いている。原題にも<redemption>が共通しているように、『ショーシャンクの空に』(原題:The Shawshank Redemption)によく似た話で、金がからんでいる。エイドリアンは、所長の拷問によく耐えて刑務所を出るが、所長は釈放後も看守に命じて彼を見張らせている。

そんな中で事件が起きる。かつて、エイドリアンが罪に問われた事件と同じ現場、同じ手口で殺人事件が起きる。警察はエイドリアンを疑い、彼を別件で逮捕。リズは何とかエイドリアンを助けようとするが、自身も内部調査中でバッジを取り上げられている。おまけに、どうしたことか頭脳明晰で優秀な警官だったリズは、レイプ事件以後、人が変わったように神経を苛立たせ、集中力を欠いている。相棒のベケットはそんな彼女に忠告するが何を言っても聞く耳を持たない。

エイドリアンの無実を晴らすためには真犯人を突き止めねばならない。しかし、自身が裁判を受ける側になるかもしれないリズは思ったように事件を捜査することができない。信用できそうなのは、ベケットと古参のランドルフくらい。ほとんどの警察官を敵に回しながら孤軍奮闘する女性警官の活躍を描く警察小説のはずだったのに、途中から様子が変わる。

冒頭から字体を変えた文章が挿入されるのは犯人の視点で描かれていることを示している。エイドリアンの釈放を妨害し刑務所に送り返すために行われた殺人なら一度でいいはずなのに、犯人は何度も同じ現場、同じ手口で執拗に女性を殺し続ける。これはもう、サイコパスによる殺人事件だ。疑わしい人間が少なくとも三人読者にも想像できる。ただ、サイコパスはふだんは善良な市民の皮をかぶっているので、手がかりは字体の変わった文章だけだ。

手がかりは与えられているので、鋭い読者なら犯人を当てるのは難しくないかもしれない。評者はまさかこれはないだろう、と思ったが。犯人が分かっても事件は終わらない。例の秘密を追って所長たちが迫ってくるからだ。手に汗を握る展開をしっかり描き切るあたり、この作者の筆力を感じる。ただ、主題である「贖い」を意味づける終わり方は本当にこれでいいのか。刑務所やレイプ事件が人間を変えてしまうこともあるだろうが、エイドリアンもリズも他と比べようがないほど優秀で模範的な警官だったはずだ。意外な犯人のサイコパスへの豹変ぶりとご都合主義的な結末に不満が残った。

『ヌメロ・ゼロ』 ウンベルト・エーコ

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薔薇の名前』で一躍世界中で知られることになったウンベルト・エーコは、今年二月に亡くなったばかり。つまり、これが最後の小説ということになる。博識で知られ、一つの物語の背後に膨大な知識が蔵されていて、それらのサブ・テクストを読み解き、主筋に折りこみながら物語の森と化したテクストを追うことが必要となるため、読むにはそれなりの時間と体力を要した。さすがに、最近は『バウドリーノ』や『プラハの墓地』のように、よりエンタテインメントを意識した作風に変わってきていたが、『ヌメロ・ゼロ』は、さらにその傾向を強め、誰でも楽しく読める小説になっている。

1992年のミラノ。コロンナは、シメイという男にデスクとして雇われ、新しい日刊紙『ドマーニ』の発刊に向け、準備作業に追われていた。出資者はコンメンダトール(イタリアの勲位)・ヴィメルカーテという業界では名を知られた人物。真実を暴く新聞を作りたいというのが表の理由だが、本音は業界の裏話を書くぞ、と脅せば関係者が手を回し、自社株を安く回してくれたり、名士仲間に入れてくれたりするだろう、というのが読みだ。つまり、新聞は日の目を見る前に発刊取りやめになることが予想される。

そこで、シメイは発刊準備から発刊中止に至るまでを小説に書いて売り出すことを思いつく。前評判をあおっておけば、いざ中止となった時の保険になる。自分には本を書く力はないので、ゴーストライターとしてのコロンナの腕を見込んでの抜擢だ。他に六人の記者を雇うが、彼らには本当のことは伏せておき、見本として作る創刊準備号の編集会議を開く。会議の内容がそのまま本になるわけだ。パイロット版の名前がタイトルの『ヌメロ・ゼロ(ゼロ号)』。

ジャーナリズムを舞台に、その内幕を暴くのがエーコの狙いだ。労働騎士勲章を叙勲し、支持者にはイル・カヴァリエーレと呼ばれるベルルスコーニ元首相を髣髴させる、コンメンダトーレが考える新聞だから、左翼やインテリ向けではない。ふだん本など読まない読者が興味を持つような記事の作り方を話し合う毎日の編集会議はぶっちゃけ抱腹絶倒の怒涛の展開。エーコの饒舌が乗り移ったかのように、どの記者もトンデモない話をぶちあげる。それに駄目出しをしてシメイの言うのが…。

新聞の役割は、真実から人々の眼をそらすことだ。重要な事件が起きたときは煽情的な記事を一面に載せ、人々の目に留まらない紙面にその記事を載せる。また、正義の告発をした人物をひそかにつけねらい、彼が公園で何本もタバコを吸って足下に吸い殻を落としているところや、中華料理屋で箸を上手に使って食べているところ、テニス・シューズにエメラルド・グリーンの靴下を履いているところなどを撮影し、それを発表する。そうすると読者はその人物を信用できない人物としてみるようになる等々。

訳者あとがきによれば、靴下の色や中華料理の箸云々のエピソードはエーコ自身の実話だそうだ。語り口調は、いかにもあり得ない話をしているようで、随所に(笑)マークが入りそう。しかし、ことはイタリアに限らない。下っ端のやっている白紙領収書問題はテレビや新聞も採り上げるが、大臣クラスになると、ほとんど採り上げない。それでいて、政府や政権与党に不都合な人物だと、終わった事までほじくり出しては騒ぎ立て、ついには政治的生命を終わらせる。

つまり、裏返しなのだ。不真面目に見えるように書きながら、実は大真面目。それは、もう一つのテーマである「陰謀論」にも当てはまる。編集者仲間のブラッガドーチョは、何かというとコロンナを飲みに誘っては自分がずっと追いかけているネタを延々と話すのがくせである。そのネタというのが、ムッソリーニ替え玉説だ。背後に秘密組織があり、時機を見て南米あたりに隠しておいたムッソリーニを擁し、クーデターを起こそうとしていた、というもの。

現代イタリアに起きた数々のテロ事件や法王の暗殺騒動など、実際にあった事件を列挙しながら、それらすべてに関係するのが、ステイ・ビハインド、CIA、NATO、グラディオ、ロッジP2、マフィア、諜報部、軍上層部、大臣、大統領だと説く。この手の陰謀論は掃いて捨てるほどあり、いちいち本気にしていると頭がくらくらしてくるが、一つ一つの事件を子細に検討していくと不審な点が多く残っているのも事実。それでは、なぜ追及されずに放置されてしまっているのかといえば、我々の記憶が、そうは長持ちしないからだ。

「記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う」とエーコは言う。事実、主人公とその周辺の人物は架空だが、話の中に出てくる事件、組織、かかわった人物はすべてイタリア史に残る事実である。エーコは、ともすれば忘れてしまうことを本に書くことで記憶に残そうとしている。ブラッガドーチョの仮説が事実なのか、それともただの妄想なのか、エーコのすることだから、これが本当ですよと力説するはずもなく、真偽については読者が自分で考えるしかない。

どう考えてもおかしい事件が、まともに取り上げられることなくうやむやに終わってしまっている事は今のこの国にいくらもある。正常な判断力をなくしてしまったような国に、ほとんど絶望しかかっている者としては、小説の最後、危険を感じて逃げようとした主人公が恋人の言う、中南米のようにすべてが白日に下にさらされている国ならかえって安全かも、というのに答えて返す言葉が心に響いた。文中のイタリアを日本に入れ替えてみて、そこに何の不都合があるだろう。

イタリアも少しずつ、君の逃亡したいという夢の国になりつつあるんだよ。(略)汚職にはお墨付きがあり、マフィアが堂々と議会に入り、脱税者も政府にあって統治する。(略)良心的な人たちは悪党たちに投票し続けるだろう。(略)あとはどうにでもなれだ。待てばいいだけだ。この国が決定的に第三世界になれば、住みやすいところになるよ。まるでコパカバーナさ。歌にもある。女は女王。女は君主って