青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『川は静かに流れ』 ジョン・ハート

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親友のダニーからの電話でアダム・チェイスは故郷に帰ることにした。五年前、妹の誕生パーティの夜、男が殺され、継母によってアダムの仕業だと証言された。判決は無罪だったが、父は再婚相手の言葉を信じ、アダムに家を出るよう命じた。五年ぶりに帰った故郷は原発誘致の騒ぎの渦中にあった。賛成派と反対派とは敵対し、農場を売ろうとしないアダムの父は賛成派の恨みを買っていた。ダニーのモーテルを訪ねたアダムは、誘致を迫るダニーの父にからまれ、大けがを負う。

町中から総スカンにあっている男が久しぶりに帰郷すると、待っていたのは電話をしてきた親友の死体。ただ一人無罪を信じてくれた昔の恋人ロビンは刑事に昇進していた。そんな時、妹のようにかわいがっていたグレイスがアダムとの再会後、何者かによって暴行される。事件を担当する刑事は、当然のようにアダムを疑い、その元恋人ロビンと対立する。

最新作『終わりなき道』と限りなく似た構図だ。もちろん、こちらの方がもとで、新作がその焼き直し。それにしてもよく似たシチュエーションを何度も使うものだ。アメリカ探偵作家クラブ賞を受賞したこの作品のファンなら、新作を読んで、既視感を抱くにちがいない。結果的には、よく似た設定ながら『川は静かに流れ』の方がすぐれている。家族の歴史に隠された秘密に触れた伏線が、ストーリー展開の中で自然に回収されていて無理がない。

息子の自分より、再婚した妻を信用されたら、実の息子としてはたまったもんじゃない。ただ、それより前に息子と父は問題を抱えていた。アダムが五歳の時、母は自殺をしている。しかも、コーヒーを運んで行った息子がドアを開けると同時に自分の頭に向けた銃の弾きがねを引いたのだ。良い子だったアダムはそれ以後変わった。ダニーとつるんで喧嘩三昧に明け暮れ、成績は下落。父は息子を見放していた。

継母のジャニスにはジェイミーとミリアムという双子の連れ子がおり、母を忘れられないアダムとの間はうまくいっていなかった。一方、家の近くに父の右腕を務めるドルフが孫のグレイスと住んでいた。グレイスはアダムを慕っていたが、五年前に黙って家を出たことを今でも怒っている。二十歳になったグレイスは今ではローワン郡一の美人に育ち、男たちの注目を集めていた。

ダニーが自分を呼び戻した理由は何だったのか。なぜ殺されねばならなかったのか。ダニーの死は三週間前にさかのぼるが、その当時、アダムは仕事をやめ家に引き籠もっていてアリバイがない。アダムの視点で一貫しているので、読者は無実を知っているだけにやきもきするが、刑事でないアダムには捜査権はないので、場当たり式に事件を追うしかない。少しずつ隠されてい事情が明らかになり、アダムが疑われた殺人事件とダニーを殺害した犯人にたどり着く。派手などんでん返しはないが、犯罪に至る動機の説明は納得がいく。

作者自身もいうように、これはミステリであるとともに家族の物語である。問題を含んだ家族の在り方に、歪みが生じ、ひいては人の命にかかわる事件へと発展してゆく。すべては過去に起因していて、時は何の解決にもならない。南部という国柄のせいか家族というものに対する比重のかけ方がかなり重い。これで、ジョン・ハートは二作目だが、個人的に相性が悪いのか、今一つ好印象が持てない。それでいて、けっこう読まされるから力量は感じている。あと一作読んでみて評価を定めたい。



『執着』 ハビエル・マリアス

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ボブ・ディランノーベル文学賞をとって話題になっているが、このハビエル・マリアスも候補に挙がっていた一人。ノーベル賞は政治的な意味合いが強いので、ボブ・ディランにいったのだろうが、今さらという気もする。それよりは、もっと読まれてしかるべきなのに、世界的にはあまり知られていない作家に光を当ててほしいものだ。オルハン・パムクパトリック・モディアノノーベル賞を受賞していなかったら、日本でこんなに翻訳されることはなかったろう。

ハビエル・マリアスを読んでみようと思ったのは、候補に名が挙がっていることを知り、どんな小説を書くのだろうという興味を持ったからだ。なかなか個性的な作家で、特にその文体が特徴的だ。もっともこの一作しか読んでいないので、ほかの作品がどんなスタイルで書かれているのかは知らない。『執着』に関していえば、ページが黒々とした印象を持つほどに、改行が極端に少なく、会話であってさえ、まるで演説かと思えるほどながながと続く。

主人公マリアは三十代の編集者。出勤前に立ち寄るカフェで、<完璧なカップル>と名づけた夫婦を眺めるのを楽しみにしていた。ある日その男性ミゲルが殺されたことを知る。何日かたち、カフェで妻ルイサにお悔やみを告げたことをきっかけに家に誘われ、そこでミゲルの友人ハビエルに紹介される。その後、街で偶然再会したハビエルとマリアはつき合うようになる、というお決まりの展開。ところが、ハビエルには秘密があった。

自分と寝ていても、ハビエルが好きなのはルイサだとマリアは知っていた。そんなとき、寝ていたマリアは、隣室のハビエルと客との話を偶然耳にしてしまう。男はハビエルが誰かにミゲルを殺させるために選んだ仲介者だった。日頃シェイクスピアの『マクベス』やバルザックの『シャベール大佐』、デュマの『三銃士』を引用しながら、「不処罰の不条理」について語るハビエルの説は、自分がやったことについての婉曲的な告白だったわけだ。

愛する男が、間接的にではあるが人を殺したかもしれない。自分はどうするべきか。凄いサスペンスだ。普通のミステリなら、ヒロインがこの難局をどう切り抜け、部屋から逃げ出して警察に駆けつけるか、男はそれをどう阻止するのかという展開になるのだろうが、そうはならない。こんな漠然とした話を警察が信じるかどうか疑問だし、憔悴しきっているルイサが真実を知ったらどう思うだろう。それに何よりマリアはまだハビエルを愛している。

ここまで読んできたあなたは、これではネタバレではないか、と思うかも知れない。心配御無用。これはそんな簡単な話ではないのだ。先行する文学作品や辞書の例文まで使って、訳者の言を借りれば「恋愛と不処罰の不条理」という二大テーマを追った一種の思弁小説だからだ。ミゲルを刺した男は、娘に売春させているのはミゲルだと電話で何者かに使嗾されたという。しかし、寝起きする廃車に置かれた携帯に出るかどうか、ナイフで刺すかどうかは成り行き次第。殺人教唆にあたるかどうかすら疑わしい。

私はじっと時の過ぎるのに任せていた。うやむやに雲散霧消させるか粉々になるのかを待つかするのが、現実世界ではいちばん無難なのだ。頭と心の中では永遠に消えずに居座り、息が詰まりそうな腐臭を放ちつづけるのだとしても、それならなんとか耐えていくことができる。そういうものを抱えていない人がいるだろうか。

全編が「内的独白」を多用したマリアの一人称視点で語られている。「意識の流れ」に倣ったのか、主人公のモノローグは、しばしば脱線し、時には対話する相手に成り代わって、ハビエルの苦しい胸中も吐露すれば、ミゲルやルイサの口にするであろう言葉も自在に駆使する。もともとこのハビエル・マリアスは翻訳家で、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』の翻訳ではスペイン国民翻訳賞を受賞している。『トリストラム・シャンディ』なら、脱線はお手の物である。

すべて、マリアがハビエルから聞かされた話でしかない。マリアがそれをどうとるかで、これから先のマリアとハビエル、ハビエルとルイサの人生が左右されることになる。最後のどんでん返しである、ハビエルの語るところによる、ミゲルを死に至らしめた真実の理由も、伝聞である以上マリア同様、読者も疑わずにはいられない。ハビエルの言う通り、この世の中には処罰されない犯罪など、いくらでも転がっているのかもしれない。

非常に知的で論理的。この目眩くような堂々巡りを、晦澁とまではいえないものの長広舌であることはまちがいない文体で読まされるのは、かなり被虐的快感であり、嫌いな人なら投げ出したくなるだろうが、好きな人にはくせになる。少なくとも評者は、はまった。近いうちにノーベル文学賞をとってもらいたい作家のひとりである。残る唯一の邦訳『白い心臓』もぜひ読んでみたくなった。