青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

ハワーズ・エンド

少し前に文庫で出た吉田健一の『文学の楽しみ』を読み返していたら、フォースターの『ハワーズ・エンド』をまだ読んでいなかったのを思い出した。この人の文章には中毒性があるらしく一度はまると他の人の文章ではものたりなくなるのだ。そういえば、イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』もこの人の訳で、その翻訳の文章にすっかりまいってしまったのだった。『ブライヅヘッドふたたび』は、読者のリクエストに応えての復刊。『ハワーズ・エンド』は今話題の文学全集所収。今頃この人の文章が新刊本で読めるのはありがたい。吉田健一には熱心なファンがついているようだ。

さて、『ハワーズ・エンド』だが、ジェイムズ・アイヴォリー監督、エマ・トンプソンアンソニー・ホプキンス主演で映画にもなっていて、小説を読む前に映画の方を見てしまった人も多いかと思う。それでも、そんなことはちっともかまわない。「見てから読むか、読む前に見るか」というようなことがよく言われるが、いい小説というものは話の筋を知ってから読んでもおもしろく読めるものなのであって、それが証拠に、おもしろい本は再読を妨げない。それと同じように、いい映画というのも何度でも繰り返し見たくなるもので、一度見たらそれでおしまい、一度読んだら二度と手にとることがない本などというのはそれだけの映画であり、本なのである。

まず、これはイギリスの小説であるということ。イギリス人というのは概して田舎が好きで、昔から変わらない田園風景を何よりも愛し、父祖伝来の家や敷地内にそびえる古木を愛でてやまない。そういえば、先にも書いた「ブライヅヘッド」も貴族の邸宅のことであったが、何も豪壮な家だからというのではない。「ハワーズ・エンド」というのは、作品冒頭に引用される手紙の中で「古くて小さくてなんとも感じがいい、赤煉瓦の家」と紹介されるように小さな家である。代々の家族がそこで暮らしてきた、そのことが大事なので、いわばその家の人々の「魂の容れ物」が、家なのである。

小説はマーガレットとヘレンという二人姉妹の結婚話を中心軸にして進められる。妹のヘレンは美しく、姉のマーガレットは思慮深い。二人には資産があり、文学や音楽を楽しみながらロンドンで何不自由なく暮らすアッパー・ミドル(上流中産階級)に属している。この二人の生活に飛びこんでくるのが、資産はあるが教養を身につける余裕もまたその気もない実業家のウィルコックス家の人々であり、薄給生活を送りながらも教養のある生活に憧れるレオナードである。つまり、歴然とした階級社会の中で人と人は階級差をこえて理解し合えるのかという、これもまたいかにもイギリスならではの問題を扱っているわけだ。

話は旅先で知り合ったウィルコックス家に招待されたヘレンからの手紙で始まる。彼女は、その手紙でロンドン近郊ハートフォード州にあるハワーズ・エンドの素晴らしさにふれ、そこに暮らすウィルコックス家の人々への愛、中でも出会ったばかりのポールとの恋愛関係を知らせてくる。結局その恋は成就することなく、気まずさから両家は疎遠になるのだが、ロンドンに戻ったウィルコックス家が通りの反対側の屋敷に引っ越してくることで小説は新しい局面を迎える。

挨拶の返礼にウィルコックス家を訪れたマーガレットはルース夫人と親しくなる。ウィルコックス家の中でただひとりマーガレットの持つ思慮深さや判断力が理解できる夫人は、自分に似た資質を持つマーガレットをハワーズ・エンドの後継者にと考える。容れ物に相応しい魂が見つかったわけだが、俗物たちに理解できるはずもなく夫人の遺志は握りつぶされてしまう。一方妻を亡くしたウィルコックス家の当主ヘンリーはマーガレットに求婚する。文学や芸術を好む教養人のマーガレットと実務家で現実派のヘンリーというどう考えても相容れない二人が心の深いところで、互いに敬愛の念を深めていくくだりが実によく書けていて、これが三十才の若さで書かれたとは信じがたい。イギリスには風俗小説の伝統というものがあって、それに則って書かれたのだというのが池澤夏樹の説。なるほど、どんな小説も一人で書けるというわけではないのだ。

ヘレンは偶然知り合ったレオナードの境涯に同情し何かと世話を焼く。実業家の話を信じ転職を勧めた結果レオナードは失職する。義憤に駆られたヘレンはレオナードとその妻を連れ、娘の結婚式のため田舎の館に滞在中のウィルコックス氏に会いに行く。メロドラマ的なすれちがいが一組の男女の過去を暴き出し、喜劇的な筆触で描かれていた小説に悲劇的な影が落ちる。弱者を見たら放っておけないヘレンと、立場のちがう相手を受け容れるためには妥協も辞さないマーガレットの対比もまた、この小説の主題のひとつである。主義主張の異なる者同士が理解し合うことは確かに難しい。しかし、だからこそ異なる立場の相手を否定せず、共に生きてゆこうとする姿は美しい。

悲惨な破局を迎えるかのように見えた小説は、ハワーズ・エンドの管理人でウィルコックス夫人の旧友でもあるエーヴェリーさんというトリックスター的人物の登場によってなんとも見事な幕引きを見せる。その予言が成就される様は予定調和的に過ぎると見えるかもしれぬが、終幕部がそのまま冒頭部にオーバーラップして緩やかに環を閉じる構造は、二十世紀イギリス小説の完成度の高さを体現していると言ってもいいだろう。吉田健一は『文学の楽しみ』の中でこの作品に触れ、「確かにこの小説では人間が生きていて、生きているからその存在を通して人生の姿が明かにされ、ただそれが美しいという印象を伴うことも免れなくて、立派な、或は真実の行為は美しいという関係がそこでも成立する」と述べている。「小説を読むのは単に楽しむため。人生だの道徳だのというのはご免こうむりたい」などとうそぶいている貴方にこそお薦めしたい一冊。