青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『チボの狂宴』 マリオ・バルガス=リョサ

チボの狂宴
2010年にノーベル文学賞を受賞したペルーの作家、マリオ・バルガス=リョサが、2000年に発表した“La Fiesta Del Chivo”の邦訳。直訳すると『山羊の祭』。なるほど、表紙には山羊の角を生やした黒衣の男の姿が描かれたルネサンス時代のフレスコ画『悪政の寓意』が使われている。「チボ」は山羊の意だが、山羊というのは好色漢の隠喩でもある。実は「チボ」とは女好きなことで知られるドミニカ共和国36代大統領、ラファエル・レオニダス・トゥルヒーリョ・モリナのあだ名である。トゥルヒーリョとは何者か。暗殺、大虐殺、国家財産の私有化と、独裁者を排出させることにかけてはどこにも引けを取らないラテン・アメリカ世界においても他に並ぶ者のない最大の独裁者である。

小説は、独裁者の最後の一日を中心に描く。狂言回しを務めるのは世銀で働くウラニア・カブラルという女性。かつてトゥルヒーリョ派の重鎮としてドミニカ共和国の政治を担っていた大臣を父に持つ。1996年、35年ぶりに帰国したウラニアが、永らく疎遠にしていた父を訪ねる場面から第一章は始まる。どうやらこの娘、父を憎んでいる様子。章が変わると場面は35年前に戻っている。その日殺される運命のトゥルヒーリョが悪夢から目覚めたところ。さしもの独裁者も加齢による衰えを感じているが、それを振り切るかのようにして日課通り政務に着く。次の章の場面は同じ日の夜。海岸沿いの道でトゥルヒーリョの乗る青いシボレーを待ち受ける暗殺者たちは焦りを紛らすために世間話に興じている。三者三様、三本取りの綱を撚るようにして、暗殺者たちが殺意を抱くようになった経緯と、その後の思いもかけない展開を物語ってゆく。一つ一つの章の中でも複数の人物の回想場面が挿入されることで、空白であったピースが収まるべき位置に収まり、トゥルヒーリョ殺害前後のドミニカ共和国の実態が浮かび上がる。

独裁者が暗殺される日の朝から夜までの一日を、トゥルヒーリョ自身、彼を取り巻く軍人や政治家、暗殺を企てた将校達という複数の人物の視点で描き出す。同じ場面が語り手を替え、別のアングルから繰り返し描かれることで、当事者以外には窺い知ることのできない事情があぶり出される仕掛けになっている。さらに、当時14歳の少女であったウラニアの回想が挿入される。「秀才」と仲間から呼ばれ、国民や家族からも尊敬を集める父を憎み続けてきたというウラニア。35年前父と娘の間に何があったのか。ミステリではないが、真相を知った後で、それを知るための手がかりが伏線として冒頭からたびたび仄めかされていたことに気づくと、リョサの小説作りの巧さをあらためて思い知らされる。

謎は他にもある。独裁者が殺害されたと同時に蜂起するはずの軍が動かないために英雄になるはずだった将校達は次々と捕らえられては残酷な拷問を受ける羽目に陥る。なぜロマン将軍は裏切ったのか。トゥルヒーリョの娘婿にあたるロマン将軍の視点から事態を見ることで読者はその苦い事実を知ることになる。思いがけない事態に遭遇したときに人間の本質が明らかになるという点で、このロマン将軍と好一対をなす傀儡政権の大統領バラゲールの人物像が秀逸。ディケンズ張りの誇張された外面の素描からはじまり、次第に内面の心理描写に移行することで戯画化された人物がリアルに動き出す。まるで操り人形に魂が入ったように。

人物のリアルさといえば、老いを意識しはじめた独裁者にとどめを刺す。部下の優れた能力を知り、適材適所それを活用しながらも自身の脅威にならぬよう常に手綱を緩めない。安心すると力を抜くから、時には忠誠を試すためわざと邪険に扱ってみせる。誰にも本心は明かさず、汚い仕事は腹心の部下に任せる。部下や国民を思うように操る独裁者の力の源泉が恐怖にあることは当然だが、それだけでは31年間も政権は続かない。配下の者は畏怖しつつもチボを愛しているのだ。いつもパリッとした制服に身を固め、人の心の底を見抜くような視線を持ち、独特の甲高い声音で声をかけられると、誰でも「大元帥」の言いなりにならざるを得ない。そんな超人的な力を持つ独裁者でも、自分の一物が思うようにならないときが来る。前立腺を病んでいるせいで、いつ尿漏れするかを恐れ、常に股間に目をやるトゥルヒーリョの姿は滑稽なようで傷ましくもある。

今の話かと思って読んでいると、突然35年前に連れ戻されるというフラッシュバック的な技法も、自分のことを二人称で呼ぶヌーボ・ロマン風の記述も慣れてしまえば、読むのに支障はない。それよりも、圧倒的な筆力で描き出される独裁政権の裏面が凄い。何かを聞き出すためでなく、ただ苦しめることだけを目的とした拷問の執拗な描写は、目を背けたくなるほど。イザベラ・ロッセリーニ主演で映画化されているというが、この拷問場面など、どのように処理されているのだろうか。3D流行りだが、文章でしか表現し得ないものもあるのだ。

歴史は繰り返すというが、つい先日チュニジアの独裁政権が崩壊したことを告げる報道があったばかりだ。展望の見えない日常に辟易している民衆は力のある指導者を待望するものだ。颯爽と登場した英雄が、あれよあれよと見てる間に独裁者として君臨し、やがては隠してあった財産といっしょに国外逃亡。あるいは、逮捕され死刑宣告。世界は飽きもせず、この幕間劇につきあっていると見える。力のない政治家に政治を任せ、平和で安逸な日常を貪っている国民から見ると、別世界の出来事のようだが、いつまで惰眠を貪っていられることか。たしかに虚構ではあるが、極めてリアルに描かれた作品に触れると、錆びついていた触覚に電気が走ったような衝撃を覚える。時にはこんな刺激が必要なのかもしれない。