青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『世界終末戦争』 マリオ・バルガス=リョサ

世界終末戦争
ずっと絶版だった小説が、作者のノーベル文学賞受賞によって新たな版として刊行された。これまで読みたくても手が出なかった読者には何よりの吉報だろう。それほどに、この小説は面白い。忽然と現れた「聖人」によって、ブラジルの奥地に共和国の支配の及ばぬ独立国家が誕生する。それを倒すために次々と繰り出される正規軍と「聖人」に従う者たちの知略をつくした戦いを描く。二段組み700ページというヴォリュームだが、一度読みはじめたら途中で投げ出すことは難しい。二十世紀小説を読むというよりも、デュマかセルバンテスでも読んでいるような気分である。

干魃による飢餓や伝染病に苦しむバイア州の奥地サルタンゥを青い長衣を纏った長身の行者が放浪している。コンセリェイロ(教えを説く人)と呼ばれるその男は村人にキリスト教の教えを説いて回っているのだ。この世の地獄を経験している民衆にとって、貧しい者こそ幸いであるという教えは干天の慈雨のように響く。付き従う人の数は次第に増え、やがて、一団は周囲を丘に囲まれたカヌードスという土地に腰を据える。私有財産を放棄し、共同生活を送るカヌードスという「地上の楽園」の噂を聞きつけた人々が近隣の村から大挙をなして流入する。

無断で人の土地に住み着き、政府の法に従わぬ一団を放置できなくなった当局は少人数の警備隊をカヌードス制圧に送りこむ。しかし、最初の部隊は物の見事に敗退する。続いて送り出した部隊も破れたことで、ついに共和国陸軍一の将軍モレイラ・セザル大佐が精鋭部隊を率いてカヌードス鎮圧に乗り出すことになる。

実は、カヌードスには、カンガセイロと呼ばれる名だたる盗賊たちが帰依しており、彼らのゲリラ戦が近代兵器を擁する共和国陸軍を散々に苦しめる。このあたりベトナム戦争を思い出し、ついカヌードス側に肩入れしてしまう。圧倒的に無勢な寄り集めの軍隊が多勢の正規軍をやっつけるという話が面白くないはずがない。大部隊が登場するまでの戦闘場面は、残酷な殺戮場面はあるが、概ね明るい色調で描かれる。

しかし一旅団が動員され大砲まで持ち出されては、さすがのゲリラ戦法も敗色濃厚となる。怖いのは宗教がからんでいることだ。死ねば天国に行けると聞かされている民衆は女、子どもまで投入して徹底抗戦する。大砲の弾の飛び交う集落の中を逃げまどう人々の様子は悲惨としか言いようがない。次々と仲間が倒れる中、カヌードスの人々はどうなるのか。この興味一つで最後まで、この長い物語を読ませてしまうのだから、並大抵の筆力ではない。

カヌードスに社会主義の理想郷を見た骨相学者で自称革命家のガリレオ・ガル。荘園領主の貴族でカヌードスの持ち主でもある王党派政治家カナブラーヴァ男爵。共和国派のブルジョア政治家エパミノンダス・ゴンサルヴェス。子殺しの贖罪の果てについに聖女となった「全人類の母」マリア・クアドラード。生まれついての奇形児ながらあらゆる文字を読み書くことができる男ナトゥーバのレオン。己の中に居座る悪魔のために悪逆非道の行為をなすが、コンセリェイロによって救われた盗賊、ジョアン・サタン。対立する両陣営の間を蝙蝠のように往ったり来たりする近眼の新聞記者。小人や髭女といった奇形ばかりのサ−カス芸人。

いかにもリョサの小説らしく、実に多くの政治的立場や主義主張、階層の異なる人物が登場し、その来歴を語り、自分の思いをてんでに披瀝する。全く無関係に見えていた人物同士が、いつか絡まり合い複雑な人間模様を描き出すとともに、物語はダイナミックに動き出す。時間は行きつ戻りつを繰り返しながら、しだいしだいに終末に向かって突き進む。カヌードスの運命と、幾組もの男女の宿命的な出会いと愛憎が交差し、徹底的な暴力と破壊の果て、硝煙の煙が晴れた後の青空にも似た結末が用意されている。

あえて主人公と言えるような人物はない。すべての登場人物がそれぞれの物語の主人公なのだ。ただ、しいてあげるとすれば、最後まで生きのびた近眼の記者と、眼鏡を壊してしまってほとんど視力をなくした記者を庇護するジュレーマだろうか。マチスモ的世界で戦う男たちの中で唯一人、臆病で逃げまどうばかりの記者と、二人の男を決闘させ、さらに名うての盗賊までが殉情を捧げる女ジュレーマ。この二人の愛と性の成り行きの意外さが悲惨な最後に一抹の明るさを添えてくれる。

物語の舞台となるブラジル北東部バイア州は、サボテンや茨しか育たない乾燥地帯で、19世紀後半には二度にわたる大干魃に苦しめられ、大量の死者を出している。そこに住む人たちは、旧大陸から移ってきたヨーロッパ人と現地インディオの混血をはじめ、出自も皮膚の色も様々だが、近代ヨーロッパの洗礼を受けた華麗な建築が建ち並ぶ海岸部とは裏腹に、ヨーロッパ中世や原住民の土着文化が混在する、いわば新生ブラジル共和国の「内なる他者」のような存在であった。

海岸部から遠く離れたバイアは、荘園領主である貴族層の力が強く、新勢力の共和国派と覇を競っていた。そこに持ち上がったのがカナブラーヴァ男爵の領地カヌードスで起きた反乱である。これをイギリスに支援された王党派の陰謀に見せかけようとするのが共和派の領袖エパミノンダス。もともと敵対関係にあったカナブラーヴァ男爵との間にバイア州の権益をめぐる権力争いが勃発する。

この小説の一つの主題は異なる世界の衝突を描くことである。男爵やエパミノンダスにとって、カヌードスの反乱は、いつに変わらぬ権力争いの口実に過ぎない。事態をどう収め、どちらが権力を把持するかが問題なのだ。モレイラ・セザルのような軍人から見ればカヌードスは狂信者の反乱で制圧の対象でしかない。一方、カヌードスに集まる人々にとって、共和政体の行う戸籍調べや法律婚は奴隷制の復活や神による結婚を否定するものと映る。彼らから見れば共和国政府やその陸軍はアンチ・クリストであり、「魔の犬」である。戦争相手などではなく滅ぼされるべき悪魔なのだ。コルネットの合図で整然と軍を進める洋式軍隊と、蕃刀片手に忍び寄って性器をや睾丸を切り落とす盗賊あがりの兵では殺し合いはあっても戦争にはならない。三者三様、同じ物を見ていながら、全く異なった世界に生きているのだ。

もう一つの主題は、性による解放である。男爵はヴィクトリア朝のモラルに縛られ、自分の欲望を押し殺しながら生きてきた。ガリレオ・ガルは、革命の大義のために禁欲を守ってきた。ジュレーマは、男性原理の社会の中、夫の知人に犯された後、その男に従って生きざるを得ない。夫を裏切った女に他にとるべき道はなかったからだ。それが、カヌードスの反乱をきっかけにして変化する。男爵は農園を焼かれたショックで正気を失った妻とその下女と同衾する。ガルは、道案内に雇ったルフィーノの留守にその妻のジュレーマを犯す。ジュレーマは、カヌードス崩壊の最中、近眼の男の愛撫を受け、性の喜びをはじめて知る。マチスモという男性原理の社会にあって抑圧されていた欲望が、それまで盤石に見えた世界の崩壊をきっかけにして解き放たれる。死(タナトゥス)の氾濫する中に生まれた性愛(エロス)の饗宴である。

途方もない話のようであるが、この小説は実話に基づいている。エウクリダス・ダ・クニャのノンフィクション『サルタンゥ』がそれで、コンセリェイロその人はもちろん、その参謀格の商人であるアントニオ・ヴィラノヴァ、カンガセイロのジョアン・アバージ、パジェウ等々、皆実在の人物である。もちろん、その中で引き起こされる人間同士の愛憎劇は作家の想像力の賜物である。同じラテン・アメリカの作家でノーベル賞作家であるガルシア=マルケスと比較されることが多いが、リョサの本分は「マジック」のつかないリアリズムにある。見てきたようなカヌードスの反乱を存分に愉しまれたい。