青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『楽園への道』 マリオ・バルガス=リョサ

楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2)
章が替わるたび、二つの物語が交互に語られる。主人公の一人は画家ポール・ゴーギャン。もう一人は、その祖母にあたるフローラ・トリスタン。ポスト印象派の画家ゴーギャンについてなら、ある程度は知っていた。だが、フローラ・トリスタンという女性については恥ずかしながらこの本を読むまで全く知らなかった。マルクスエンゲルスによる『共産党宣言』が出される四年も前に『労働者の団結』という本を書き、「女たちと労働者は犠牲者であり、団結させるべきだ。団結すれば抑えがたい力となる。そしてそれは国際的な力となり、革命が起きる」と唱えている。フローラは独学者だった。フーリエやサン・シモンの影響を受けているが、書斎にいて理論を語る空想的社会主義者にはならなかった。フローラ・トリスタンはヨーロッパ中を歩き回り、労働組合の設立を呼びかける「スカートを履いた扇動者」であった。

フローラは、1803年、フランス人女性とスペイン軍に属するペルー人大佐の子としてパリで生まれた。四歳の時、父の死によって一家はあえなく没落。若くして石版工房の彩色工として働き、雇い主であったアンドレ・シャザルと結婚する。しかし、女性を性奴隷のように扱う結婚制度に疑問を抱いた結果、夫や子を捨てて国外へ逃亡する。帰国後、トリスタン家はペルーのアレキーパでも有名な一族であることを知り、祖父の遺産相続を求め単身ペルーに渡る。結局遺産相続はできなかったが、ペルーでの見聞はフローラに『ある女賎民の遍歴』(邦題『ペルー旅行記』)を書かせ、夫と子を捨てた「堕落した女」をアジテーターに変えた。アレキーパ生まれのリョサがこの女性の人生に惹かれるのはよく分かる。まして、その孫があのゴーギャンであり、彼も幼い頃ペルーで暮らしていたとなれば、なおさらのこと。それまでにも『世界終末戦争』や『チボの狂宴』といった滅法面白い歴史小説を描いてきたリョサである。史実の周りに残された歴史の空白部分を想像力を駆使して描き出すことを得意とする作家だ。ここでも、奇数章にはフローラの、偶数章にはタヒチに移ってからのゴーギャンの人生を配し、二人の人生を対位法的に描き出すことで主題をより効果的に響かせることに成功している。

『楽園への道』の原題“El Paraiso en la otra esquina”は「次の角の楽園(天国)」という意味で、作家が小さい頃していた遊びに由来する。地面に書いた正方形の外に目隠しされた鬼がいて、正方形の中にいる子どもに「ここは楽園ですか?」と尋ねると、中にいる子たちが「いいえ、楽園は次の角ですよ」と答えるという遊びだ。作家が不可能の追求と呼ぶ遊びの、たどり着けない「楽園」が意味するものとは何か。フローラにとっては、解放された女性や労働者が暮らす理想的な社会であり、ゴーギャンにとっては、文明化される以前の人間の生活する土地がそれであった。時間軸の指す方向は逆だが、どちらも現実には存在しないユートピアであるという点で、祖母と孫の求め続けた世界は一致する。

二人に共通するのは、ユートピアを希求することだけではない。性に関する嗜好、セクシャリティにおいてもこの二人には相通ずるところがあった。フローラは、夫アンドレ・シャザルとのセックスに快感を覚えることがない。むしろ厭わしいと感じる。それは、他の男に対しても同じで、好感を抱いた男性に対しても体を開くことができない。一方、ポールはキリスト教的性道徳に反感を抱いており、人の妻であろうが少女であろうが、遠慮することなく手を出す。妻をデンマークに残しながら、タヒチでもマルキーズでも娘と言っていい年齢の女性と同棲している。セックスに対する禁忌と放埒。二つは相容れないように見える。

しかし、これも相反するように見えながら、その奥では共通する因子があるように思える。それは、男と女という二元論では割り切れないセクシャリティに対してふたりの抱く感情である。実はフローラにはオランピアという同性愛的関係の友人がおり、この女性とは愛し合えるのだ。男たちの中に混じって女一人長い航海をしたり、男装していかがわしい界隈を訪れたりするフローラの中にはある種の「男性」性が同居していたのかもしれない。一方、ポールにはマオリに古くから伝わる両性具有的な男−女「マフー」というセクシャリティへの強い共感が認められる。それはゴーギャンの描く絵の重要なモチーフになっているほどだ。また、彫刻の材料を求めて島の奥地に分け入ったとき樵夫のジョテファに女として抱かれたいと感じる官能的な場面がある。彼の中にある「女性」性の発現と見ることができる。

リョサの書くものには、いつでも男らしくあらねばならないラテン・アメリカのマチスモ社会に生きる男としての葛藤を感じることがある。フローラの男性嫌悪は、それを裏返しにして見せたものだ。女性が虐げられている社会で女性であることは、大きな暴力に蹂躙されることにほかならない。男を嫌うことで、フローラは社会に対して反旗を翻して見せたわけだ。ポールの男−女への執着は、ある文化が共同体の成員に押し付けるセクシャリティに対する反抗である。西洋文化を覆うキリスト教的二元論に侵される以前のマオリ的世界に、多様なセクシャリティの可能性を見ることで、無意識の裡に抑圧し続けてきた性衝動が解放されることを意味している。こう考えてみると、支配的なセクシャリティへの反抗とユートピアの希求とはそう異なったものでもないように思えてくる。

二人の人生は、自分に正直に生きることが、どれだけ周囲との軋轢を生み、困難な状況を作り出すかということの生きた証しである。実際、フローラの人生は不幸の連続といえる。当時のフランスでは如何なる理由があろうとも夫を捨てるという行為は許されるものではなく、夫の元から逃げた女は売春婦並みの扱いを受けた。それだけではない。父に引き取られた娘は実の父親によって近親相姦され、フローラ自身は今でいうストーカーと化した夫に銃で撃たれている。夫が犯罪者となったことで晴れて自由の身となり、労働者の団結を訴えヨーロッパ各地を回ることになったフローラだが、官憲の迫害やら周囲の無理解に苦しめられ、無理がたたったこともあり四十一歳の若さで亡くなっている。

パリの実業界でそれなりに認められていたポールは、ブルジョアの暮らしを自ら捨てて絵の世界に入る。自分の絵を描くために非西洋的な社会を追い求め、ブルターニュからタヒチへと移り住んだポールだが、植民地の白人からは理解されず、現地人にもなりきることはできない。後に絵画史に残る傑作を次々と生み出すポールも、当時は認められず貧乏と持病に苦しめられ惨憺たる暮らしが続く。文明に汚染されつつあるタヒチを捨て、最後に渡ったマルキーズ島で亡くなるまで、彼の人生も祖母のそれに負けず劣らず過酷なものであった。

ただ、リョサの筆は度重なる不幸に見舞われる主人公を描くのに、暗い色彩ばかりを用いているわけではない。スズメバチのような引き締まった腰と美貌の持ち主でもあったフローラは次々と男たちに言い寄られるが、鼻っ柱の強い彼女は洟も引っかけない。何があっても意気軒昂として女性解放と労働者の覚醒を叫ぶその姿は実に雄々しい限りだ。政治的には保守的とされるリョサが、フローラの口を借りて社会の不公正を批判する口吻にはアナルコ・サンディカリストのドン・キホーテよろしく稚気あふれるものがある。ペルー大統領選に敗れた直後に書かれたことも影響しているのか、政治的物言いに対する戯画化が感じられるところでもある。

祖母と孫が生きた二つの異なる時代を往き来することで、若きマルクスやリスト、ドガやピサロ、それにマラルメといった綺羅星のごとき顔ぶれが多数登場し、主人公とからむといった歴史小説ならではの楽しみも用意されている。本の出版のために訪れた印刷会社でマルクスとフローラがすれちがうところなど、史実を料理する際のリョサの手際はいつもながら鮮やかなものである。話者が二人称で主人公に語りかけるスタイルに初めのうちはとまどいを覚えるかもしれないが、読み進めるうち、楽園を求め、傷つきつつも真摯に生きる二人に、いつの間にか肩入れしている自分に気づかされることだろう。