青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『小澤征爾さんと、音楽について話をする』小澤征爾×村上春樹

小澤征爾さんと、音楽について話をする
考えてみれば、この二人の対談は誰かが思いついてもいいはずであった。村上も自分で書いているが、二人には確かに共通する部分があるからだ。何点かの共通点は、実際に村上の文章で読んでもらうことにして、一つ思い出したのは、どちらも日本で権威があるとされている連中にこっぴどく傷めつけられていながら、ちょうどそれとは反対に海外ではたいそうな評価と好意を得ている点だ。

今の人は知りもしないだろうが、小澤は忘れていない。ちゃんとN響からボイコットを受けたことを口にしている。村上にしても日本文学の権威筋からはかなりバッシングを受けている。はっきりと書いているわけではないが、村上はそうした二人の共通する部分をかなり意識しつつ、このインタビューを持ちかけたにちがいない。

小澤がここまで心を開いて音楽について語ることができたのは、村上に対する信頼があってのことである。たしかにかつてジャズ喫茶のマスターであった村上は自分で言うほど音楽の素人ではない。クラシックにしても、そのレコードコレクションがどれほどのものかは、小澤が驚くほどだ。

ではあるにせよ、演奏家でなく単なる聴き手にすぎない作家相手にずいぶん突っ込んだ話をしているし、最後にはセミナーの会場に同席を許してさえいる。音楽と文学という異なる分野で仕事をしてはいても、互いを理解し合える相手を得たという悦びがインタビューから伝わってくる。音楽について話される内容は勿論のことだが、何よりそういう生き生きした前向きな感動があるのだ。

音楽についてだが、個人的には、大好きなマーラーの交響曲一番第三楽章を聴きながらの対談が素晴らしかった。こちらは本を読んでいるだけなのに、小澤の「とりーら・ヤ・った・たん、とやらなくちゃいけない」というような語り口調がそのままマーラーの曲となって頭の中に響いてくる。音楽について書かれた本を何度も読んだが、こんな経験ははじめてだ。

対談の中で村上が文章を書く方法を音楽から学んだと語っている部分にも感銘を受けた。「文章にリズムがないと、そんなもの誰も読まない」「でも多くの文芸批評家は、僕の見るところ、そういう部分にあまり目をやりません。文章の精緻さとか、言葉の新しさとか、物語の方向とか、テーマの質とか、手法の面白さなんかを主に取り上げます」。このあたり、かなり手厳しい日本の文芸批評に対する反論になっている。村上はきっと音楽を聴くように自分の作品を読んでくれる批評家を待っているんだ。そう思った。

でも、日本にも村上の良さを分かる批評家はいる。例えば、清水徹粕谷一希を相手にこう語っている。「普通に書いているようでいて、突然予想外な発展をしていくし、それから文体に魅力というものがある」(『<座談>書物への愛』)。これなど、村上の「しっかりとリズムを作っておいて、そこにコードを載っけて、そこからインプロヴィゼーションを始めるんです。自由に即興をしていくわけです。音楽を作るのと同じ要領で文章を書いていきます」という発言の言い換えのように読める。

村上には小澤の音楽についての話を書き残しておきたいという思いがあったのだろうが、常々作家としての自分の仕事について誰かに心おきなく話しておきたいという気持ちも無意識の裡にあったのではないだろうか。それが、小澤という願ってもない相手と向き合ううちに期せずして顕れ出たのが、このインタビューであったような気がする。まさに、運命の出会いというべきだが、これが小澤の癌を契機として果たされた点が感慨深い。まさに「どんな暗雲の裏も日に輝いている」という英語の表現通りである。