青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『新編バベルの図書館3』ボルヘス編

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薄明の書斎に座しながら記憶に残る文章の回廊を逍遥し、世に隠れた幻想怪奇譚の名品を蒐集、バベルの名を冠したビブリオテカに保存し、好古の士の閲覧に供さんと企てられたこのシリーズ。第三巻目はイギリス編その二。ボルヘスの手が掬い上げた作家はスティーヴンソン、ダンセイニ卿、アーサー・マッケン、チャールズ・ハワード・ヒントン、そしてウィリアム・ベックフォードの五人。イギリス編一に収めきれなかった拾遺編、というよりもむしろ大本命の登場といいたいところだ。『宝島』で知られるスティーヴンソンは別格として、残る四人は知る人ぞ知るという面々。光を失ったボルヘスの眼だからこそ見つけることのできた異能の文士ばかりだ。

ロバート・ルイス・スティーヴンソンは、わが中島敦の『光と風と夢』にもある通り、病気療養に赴いた南洋群島サモアにおいて客死する。原住民は、彼のことを「トゥシタラ」(物語る人)という名で呼んでいたことが中島の本に記されている。その南洋の光と風が生んだ夢物語が二篇選ばれているのが嬉しい。英国を舞台にしたものとは異なる趣きを持つゆえに。『ジキル博士とハイド氏』に明らかな一人の人間の中にある善と悪の葛藤という主題は「マーカイム」が引き継いでいる。「ねじれ首のジャネット」の不気味な雰囲気も捨て難いが、「トゥシタラ」の名に相応しいのは愛し合う二人の互いの思いのすれちがいを描く「壜の小鬼」か。スティーヴンソン版『賢者の贈り物』と呼びたくなるような愛すべき佳篇である。

ロード・ダンセイニは本物の貴族である。妖精や太古の神々の物語を書くのは余技のように思われたか、その名は文学史上には埋もれていたといっていい。ボルヘスの称揚はダンセイニ卿の復権に与するものだ。悪夢のように恐ろしい「潮が満ち引きする場所で」ほか、短い物が多く採られているが、短篇らしい結末の切れ味を見せるのが「不幸交換商会」。余韻の残る終わり方が絶妙である。ダンセイニ卿らしさを味わいたいなら中世の面影を残す「カルカッソーネ」。伝説の地を捜し求め彷徨する苦難の旅程は実人生の寓意ともとれ、その徒労感が深く心に残る。

江戸川乱歩も愛したアーサー・マッケンは、「黒い石印のはなし」、「白い粉薬のはなし」、「輝く金字塔」の三篇。いずれもケルトの地に根づいた伝承の古層に今も深く息づく、人ではないものたちの出現を描いた妖異譚。マッケンならではの恐怖をたっぷり味わえる。

チャールズ・ハワード・ヒントンという名は初めて眼にする。その著作『科学的ロマンス集』をボルヘスの言うように幻想物語集と読めるかどうかは読者の力量によるのだろう。ただ、小さい頃、四次元立方体の展開図なるものを科学雑誌で見つけ、しばらくの間ノートの端に落書きめいた図ばかり書き散らしていた身としては、よくぞこれを発掘してくれたものだと、ボルヘスの慧眼に今更ながら畏れ入るばかり。三篇の中では「ペルシアの王」が最も物語らしい。寓話として語られる王の、民の苦痛の一部をわが身に負う所業は、シッダルタ王子の事跡を思い出させる。物語色の濃い諸篇の中で、最も心打たれる一篇。

ウィリアム・ベックフォードは、文学史的には『ヴァテック』ただ一篇で知られるが、金にあかして建設を急がせたフォントヒル・アベイの城主として名を残す。「英国の最も富裕なる公子」と呼ばれた稀代の遊蕩児である。三日と二晩で書き上げたと伝えられる「ヴァテック」は、アラビア物語とある通り、数ある「千一夜物語」の一ヴァージョン。ダンテの『神曲』に端を発する冥界巡りをクライマックスに置いたバイロン卿枕頭の書と噂される奇書。美女と美食を何より好む王が、したい放題、放埓と残虐の限りを尽くした挙句、魔神の誘いに乗ってソロモン以前の宝物を手に入れるため、地の底の火の王国を訪れるという、デカダン極まりない幻想怪奇譚。私市保彦氏の訳は平易で読みやすいが、私蔵の牧神社版、矢野目源一氏の旧訳と読み比べたとき、口語訳聖書を読むときの味気なさに似た思いを抱く。時代に合った訳の必要性を認めるに吝かではないが、試みに冒頭部分を新旧訳で読み比べてみたい。言わんとするところが分かってもらえると思う。

「教王ヴァテックはアッバシィド朝九代の王でモタッセムの息(こ)、ハルゥン・アル・ラシッドの孫に當る。年齢少くして王位にのぼり、まことに英邁の君であったゆゑに人民からも御代の榮は永く、泰平にうちつづくものと望み仰がれてゐた。」(矢野目訳)

アッバース朝第九代カリフのヴァテックは、ムータシムの息子にして、ハールーン・アル・ラシードの孫でありました。若さ誇る男盛りに王位にのぼり、少壮にして英邁な資質に恵まれていましたので、王の御代は末永く栄えるだろうと、人民は熱い期待を寄せておりました。」(私市訳)

訳者のせいにする気はないが、新訳の「です・ます」調は文末にしまりがなく、文章の持つリズムが感じられない。なんだか子ども向けの読み物を読んでいるような気がしてくるのは歳のせいばかりではないと思うのだが。