青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『スマイリーと仲間たち』ジョン・ル・カレ

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ジョージ・スマイリーは、元英国情報部の現地指揮官。冷戦時には有能なスパイとして情報部を指揮していたが、世界情勢は緊張緩和(デタント)へと舵を切り、顔ぶれを一新したホワイト・ホールは情報戦も英米協調をうたい、かつてのような英国独自のスパイ網の必要性を認めなくなった。自前で情報をさぐるよりアメリカのいとこ(カズンズ)から聞けばいい。そのほうが安上がりだ。大幅な予算削減の結果、現地協力者は解雇。「首狩人」や「点燈屋」といった特殊な分野を受けもつ工作員グループも解散してしまっては、その指揮を執るスマイリーに出番はなかった。早い話がリストラである。

電話がかかってきたのは深夜だった。亡命エストニア人グループのリーダーだった「将軍」と呼ばれる元工作員が殺されたのだ。事件を穏便に処理したい政府は情報部監視役レイコンを使い「将軍」の工作指揮官であったスマイリーに調査を依頼する。現場に足を運んだスマイリーは、その残虐な手口からソ連情報部(カーラ)の仕業と判断を下す。殺害動機は「将軍」が手に入れた証拠物件の捜索とその隠滅である。調査の結果「将軍」が見つけたものとは、ソ連情報部チーフでスマイリ-の長年の宿敵カーラを失脚させるにたる二つの証拠と判明。カ-ラの弱みを見つけたスマイリーは、政府の暗黙の了解のもと散り散りになっていた工作員を再編成し、カーラの追い落としをはかるのだった。

スマイリー長篇三部作の完結編である。第一部『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』は、カーラが英国情報部(サーカス)内に送り込んだ「もぐら」と呼ばれる二重スパイをあばくスマイリーの推理がさえる推理劇。第二部『スクールボーイ閣下』は、スマイリーの推理に加え、現地工作員ジェリーが香港、インドシナを舞台に大活躍する冒険活劇だった。ただ、どちらも三部作の主人公たるスマイリー自身があまり前面に出ることなく、裏方に甘んじた憾みがのこる。しかし、さすがに完結編である第三部は主人公スマイリーが頭脳だけでなく足を使い、おまけに英国内はもとよりハンブルグに飛び、なんと苦手な自動車まで運転して、謎を追う本格的なスパイ小説になっている。

八月のパリ。黒服を着たマリア・オストラコーワが前髪をひょこひょこさせながらショッピングバッグを肩に街路を行く。冒頭の一見本筋に関係なさそうなシーンから読者は一気にル・カレの世界に引きこまれる。この亡命ロシア女性もそうだが、「将軍」ウラジーミルとその情報源オットー・ライプチヒといった主要人物にかぎらず、ちょっと顔を出すだけの傍役ひとりひとりにいたるまで、人物造形の巧みなことはどうだろう。主人公スマイリーその人にしたところが、度の強い丸眼鏡をかけた風采の上がらぬ小男ときている。そのスマイリーに向けて、側車つきオートバイに乗った長身のファーガソンがすれちがいざま敬礼してみせる場面など一幅の絵のようだ。

ひとつの時代が終わるとき、世界の枠組みもまた大きく変わる。盗聴、尾行、防諜室といった完成されたスパイの技術が古臭く滑稽なものとしてかたづけられるのはまだ許せる。しかし、その技術に習熟し、それをつかって情報をさぐり、受け渡ししていた人間もまたシステムの末端として切り捨てられる。新しいシステムにうまくのれる者は生き残り、そうでないものは葬り去られる。

スパイに限らず、どんな組織にもいえることだが、人と人が接触するとき、そこには人間的なファクターというものが生まれる。敵味方のスパイ同士でさえ監視している者は監視対象に好き嫌いの感情を抱くという。まして同じ仕事を共にした仲間となれば当然のことだ。上層部はシステムの切り替えと同時に不要となった人員を廃棄するが、スマイリーにはできない。どんなときでも冷静でいることはできるが、非情にはなりきれないのがスマイリーという男なのだ。

死んだ「将軍」の部屋を捜索しながらスマイリーは物思いにふける。「われわれ自炊をする男は半人間だなと思いながら、彼はソースパンとフライパンをひっぱりだし、トウガラシとパプリカのなかをかきまわした。家のなかの他のどこでも――ベッドのなかでも――人は自分を周囲から遮断し、好きな本を読んで、孤独が最高だと自分をだますことができる。だが、キッチンばかりは、未完のしるしがあまりに目に立って、それができない。黒パンのかたまり半分。粗悪なソーセージ半分。タマネギが半分。牛乳がびんに半分。レモンが半分。紅茶が袋に半分。生活の半分。」アンと別れてからのスマイリーは「半人間」なのだ。

風采こそ上がらぬものの、スパイとしての能力はとびぬけて高いスマイリーは、一種のスーパーマン。彼に会い彼と話をした者は誰もが彼を好きにならずにいられない。そのスマイリーをして落とすことができなかったただ一人の男がカーラである。何故か。それはカーラはユング心理学でいうスマイリーの「影」だからだ。コニーの喩えをかりるなら彼ら二人は「ひとつのリンゴの半分同士」なのだ。いかに完璧な職業的人格を構築しようと、スパイもまた人間である。スマイリーにとってアンは「幻想を捨てた男に残った最後の幻想」だった。カーラはヘイドンを使い、スマイリーからアンを奪った。友人と妻の裏切りはスマイリーを苦しめ、彼の力を奪うにちがいないと考えたからだ。

いっぽうスマイリーもまた「将軍」がさがしあてたカーラらしくもない不手際に、彼の弱点を発見する。そして、ホワイト・ホールが過去の遺物として葬り去ろうとした、尾行、張り込み、盗み撮りといった諜報技術を駆使し、カーラを落とす。雪が舞うベルリンの壁を背景にしたスマイリーとカーラの再会は三部作のハイライト。カーラの手からすべり落ちるスマイリーのライターが物語の終りを告げる。

ル・グウィンが『ゲド戦記』の主題とした自分の影との戦いを、ル・カレはリアルなスパイ小説に仕立ててみせる。ジグソウパズルのピースをひとつひとつ仮想の絵柄に当てはめながら、最後に残ったピースを追い求めるような理詰めの探索は上質のミステリのよう。登場人物のひとりがスマイリーをシャーロック・ホームズに、カーラをモリアーティ教授に喩えているが、「将軍」の足跡から時代がかった諜報活動であるモスクワ・ルールに則って隠された証拠の品を見つけるスマイリーの捜査は名探偵そのもの。どちらかといえば、アームチェア・ディテクティブ派と思っていたスマイリーがクロフツの刑事のように何度も現場に足を運ぶのが心に残る。老スパイが執拗にこだわったルールの遵守は、人を欺き、弱みに付け込むスパイの世界に残された最後の倫理だったのかもしれない。