青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『孤児』ファン・ホセ・サエール

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ホセ・ルイス・ブサニチェ著『アルゼンチンの歴史』(1959)のなかに、フランシスコ・デル・プエルトなる人物に関する次のような記述がある。

「一五一五年、ファン・ディアス・デ・ソリスの率いるインディアス探検船団に見習い水夫として雇われたこの男は、スペインのサンルカール・デ・パラメダ港を出港した後、船団が翌年ラプラタ川へ入ると、数人の仲間とともに陸地へ上がって現地調査に従事した。上陸部隊はそこで原住民の襲撃を受けて皆殺しにされたが、デル・プエルト(スペイン語で「港出身」の意味)だけはなぜか命を救われ、その後一五二七年にセバスティアン・ガボートの率いる船団に救出されるまで、十年以上もの間インディオ部落で生活することになった。」

1979年頃、「ある民族学者が空想のインディオ部族をめぐって行う講演を収録する形」の小説を構想していたファン・ホセ・サエールは、このわずか十四行ばかりの記述に強く惹きつけられ、物語の中心にこの見習い水夫を据えることに決めた。

なかなか興味深い史実ではないか。コロンブスのインディアス発見から二十年ほど。陸ほどもある大海獣やら未開人やら財宝やら、未知なる大陸に関するスペイン人の興味は滾っていたにちがいない。誰も見たことのないインディオと呼ばれる蛮人のなかで、十年間を過ごした男は何を見聞きし、何を思ったのか。作家は想像力を駆使して、その奇異な経験を語ろうと考えた。これは架空のインディアス見聞記である。

物語は、老年にいたったこの男の回想から始まる。例のごとく、不幸な生い立ちから探検船団の見習い水夫として乗り込むまでの経緯が語られる。やがて出港。赤道を越え海岸伝いに陸地の裏側に向かう。そこが目的地だった。船団長をふくむ他の水夫たちは、上陸したとたんインディオの毒矢で射られ即死。なぜか一人だけ生け捕りにされた男は、仲間の死体といっしょにインディたちの集落に移送される。浜辺には火が焚かれ、木を組んで焼き網が用意されていた。

この部族は、年に一度だけ太古の風習に倣い、他部族を襲っては相手の死体を持ち帰り、皆で食べることを習慣としていた。その日だけは人を食い、酒を飲み大乱交を行う。しかし、その狂気の一夜が明ければ、いたってつつましい暮らしにもどるのだ。船団が上陸したのがちょうどその時期にあたっていたのが不運だった。しかし、仲間はその憂き目に会ったのに、なぜ年若い男だけは助かったのか。しかも、丁重な扱いを受け食事まで用意されるのはなぜか。

十年以上もの年月をインディオ部族の中ですごした後、救出された男は、こちら側の世界の中で今一度孤児となる。男にとって人間とはインディオの方であり、こちら側にいるのは醜い生物でしかなかった。生きる実感を失った男を救ったのは一人の神父だった。男は、神父のもとでラテン語やギリシア語を学び、プラトンやテレンティウスを読むことを覚える。その結果、彼はかつての経験を新しい目で見ることができるようになる。物語の後半は、今や引退した老賢者である男が、自分が生かされていた理由や、インディオたちの世界観について思索する哲学的考察となっている。

倫理や宗教、哲学や思想がすでに長い歴史を持ち、自らのなかにはじめから備わっているかのように思ってしまいがちな近代人だが、魔女裁判はほんのひと昔前のことだ。いや、宗教やイデオロギーが異なれば、相手を襲い、命を奪うのは今も変わらない。さすがに人肉までは食べようとしないが。人間とは何か。歴史に刻まれる以前、われわれの祖先はどのようにしてこの地球上に生き残ってきたのか。そんな根源的な疑問にひとつの解を与えるため、原住民とともに十年間生きた西洋人という史実を一粒の種のように空想の畑にまき、丹念な思考実験を繰り返し行うことで、みごとな架空世界を構築することに成功した。

ファン・ホセ・サエールという作家は、ボルヘスコルタサルと並ぶ、アルゼンチン文学における「未邦訳の重鎮」であるという。紹介が遅れたのは、作家仲間と群れることなく、アルゼンチンでも周縁の地に住まい、出版社も大手ではないという事情があったようだ。その佇まいは、作中の神父や、老年の主人公を髣髴とさせる。これ一作しか読んでいないので、まだその持ち味を云々することはできないが、尋常でない出来事を冷静な筆致で淡々と叙述し、時間と記憶、存在と無といった形而上的問題について真摯に哲学的考察を加える作風は他のラテン・アメリカ文学の作家の誰ともちがう。今まで知らなかった未踏の高峰を発見したようなわくわくする出会いである。