青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『幻影の書』ポール・オースター

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妻子を事故で亡くした男が喪失感と罪障感に苛まれ自暴自棄になってしまうが、何かの仕事をすることで、そこから立ち直ってゆく姿を執拗に描き続けることは、ポール・オースターにとって、オブセッションなのだろうか。二番煎じ、三番煎じと言われることは分かっているだろうに、手を変え、品を変え、同一主題に繰り返し手を染めてしまうのは、拭い難い過去の経験の浄化の作業なのか。さほど不器用とは思えない技量の持ち主にして、この度重なる反復は単なる偶然とは到底思えない。

とはいえ、そこは技巧派をもって鳴るオースター。原点ともいえるニュー・ヨーク三部作に纏わりついていたポスト・モダン・ミステリ風の遊戯感のようなものは影を潜め、本作にはむしろ先祖がえりしたような古典的ミステリの風格すら漂う。二転三転する結末のどんでん返しには、かつてミステリと誤読された三部作なんぞより、ずっとミステリらしい謎解きが待っている。

映画に造詣の深いオースターならではといえるのが、作中に登場する映画についての議論である。トーキー化される直前のサイレント映画のスター、ヘクター・マンの監督・主演になる十三本の無声映画。勿論、作者による架空の映画なのだが、一本一本の映画について、カット割からキャメラ・ワークにいたる撮影技術はもとより、マン自身の演技についても、まるで実在する映画を論じているような詳細かつ先鋭な映画論であることに驚かされる。生半な知識ではないのだ。

時は十一年前にさかのぼる。ヴァーモント州で大学教授をしていたデイヴィッド・ジンマーは、一通の手紙を受け取る。差出人はニュー・メキシコ在住のフリーダ・スペリング。当の女性に覚えはないが、括弧書きで付された夫の名前は知っていた。飛行機事故で妻子を同時に亡くし、数ヶ月というものアルコール漬けになって自宅に引き籠っていたとき、唯一笑ったのが、テレビで流されていたヘクター・マンの映画だったのだ。彼は、それから大学を休講し、米国各地やヨーロッパに残るヘクターのフィルムを観て回り、論文を書いた。手紙は、出版された本を読んで、ヘクター自身が会いたいと言ってきたのだった。しかし、問題があった。ヘクターの消息が絶えてから六十年以上たっているのだ。

悪戯ではないかと疑い、招待に応じるのを逡巡するジンマーを訪ねてきたのはアルマという若い女性で、ヘクターの伝記を書いているという。話によれば、ヘクターは失踪後も映画を撮っているが、誰にも見せず保管している。それは遺言で本人の死後焼却されることになっている。同行してくれれば話も聞けるし映画も観られる。ヘクターが会う気になったのは死期が近づいているからだ。迷っている暇などない。今すぐ行こう、というのだった。

ニュー・メキシコを訪れたジンマーは、ヘクターに会うことができるが、老男優はその晩死ぬ。残された時間はわずか。彼が見ることを許されたのは、失踪後に撮った十四本の内の一本『マーティン・フロストの内なる生』だけだった。

ヘクター・マンがなぜ六十年もの間消息を絶っていたのかという謎については、ニューメキシコまでの道中アルマによって語られる。天国と地獄を行ったり来たりするジェット・コースター・ムービーみたいな半生記だが、その話自体も作中作の物語となっていて、同一主題の入れ子構造を持つ。また、焼却前に見ることができた唯一の映画『マーティン・フロストの内なる生』の内容もまた同一主題の変奏曲である。取替えのきかない唯一無二絶対の女性を、自分の過誤のために失ってしまった男が必死の思いで償いの作業に身を投じる。にもかかわらず、その作業の成就と機を一にするかのように最愛の女性は死んでしまう。この悲惨極まりない運命の悪戯を、作家は偏執狂的なまでに執拗に反復せずには置かない。

実は、男が夢中になる、その補償行為は唯に男だけのためのものでしかなく、残された男をめぐる他の女をはじめ、周囲には届かない種類のものなのだ。誰に見られることもない映画の製作。書き上げると同時に燃やされてしまう物語原稿。エトセトラ、エトセトラ…。徹底した自閉空間で演じられるグラン・ギニョール(残酷劇)ともいえる。

回想視点で語りだされた物語は、最後の章で現在時に戻ってくる。一度ならず心臓発作に見舞われた語り手は自分の死について考え、これまでのことを本にしようと思う。数奇な運命に躍らされた男の物語である。本の最後には驚くべき秘密が暴かれている。それと、わずかながらの未来への希望が。小説とは、所詮作り物である。であるのに、この結末に一抹の救いを見てしまうのは、よくできた作り物の中にこそ真実があると、どこかで信じているからかもしれない。