青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『鍵のかかった部屋』ポール・オースター

f:id:abraxasm:20130928140132j:plain

作家オースターの礎を築いた、『ガラスの街』、『幽霊たち』に続くニュー・ヨーク三部作の掉尾を飾る長篇小説。探偵小説の枠組みを借りて、「不在の人物を めぐる依頼を引き受け」た主人公が、探偵役となって謎を追うという構成は前二作と共通している。通常の探偵小説が、謎が解かれることでカタルシスを得られ るのに対して、ニュー・ヨーク三部作では、謎を追求するにつれて、追い込まれてゆくのは犯人ではなく探偵役の主人公の方で、最後には主人公のアイデンティティが崩壊の憂き目を見ることになる。

『鍵のかかった部屋』という、いかにも探偵小説を思わせる表題には、犯人が閉じこもる部屋を指すとともに、自分の頭の中にある一隅を示す、二重の意味がある。自分の頭の中にあっても鍵がかかっていて勝手に入ることのできない部屋とは何か。

「われわれは主人公の立場にわが身を置き、自分自身のことを理解できるのだから主人公のことだって理解できるはずだという思いを抱く。だが、それは欺瞞である。おそらくわれわれは自分自身のために存在しているだろうし、ときには自分が誰なのか、一瞬垣間見えることさえある。だが結局のところ何ひとつ確信でき はしない。人生が進んでゆくにつれて、われわれは自分自身にとってますます不透明になってゆく。自分という存在がいかに一貫性を欠いているか、ますます痛切に思い知るのだ。人と人とを隔てる壁を乗りこえ、他人の中に入っていける人間などいはしない。だがそれは単に、自分自身に到達できる人間などいないからなのだ。 」

主人公は新進気鋭の批評家という設定、引用文は主人公の内的独白である。鍵がかかっているのは、他人の内部だけではない。人は自分自身の内部を知ることもできないという認識がそこにはある。「鍵がかかった部屋」とは、自分自身のことだったのだ。フェルナンド・ペソアを最愛の作家の一人と嘯く作家にとって、 自分という存在の複数性は自明のことであるだろう。しかし、一般的に、人は自分を自分であると信じて疑わないのではないだろうか。

失踪した親友ファンショーの妻ソフィーから、未発表原稿の出版の当否を委ねられた「僕」は迷った末にそれを出版させる。小説は好評を呼び、ソフィーと「僕」は互いに惹かれあい結婚する。しかし、失踪中の親友から手紙が届き、すべては彼の目論見通りであったことを知った「僕」は、伝記を書くという言い訳の下に情報を集め、彼の捜索を始める。

幼い頃からファンショーは、「僕」のアルテルエゴだった。「僕」がなりたいと憧れる、もう一人の自分だったのだ。成人してからはすっかり疎遠だった「もう 一人の自分」が、批評家として出発した自分の前に人気作家として登場するだけでも衝撃であるのに、出版するか廃棄かの判断を委ねられることが、「僕」の存在理由を揺るがすほどの事件であったことはまちがいない。

「僕」は批評の仕事を食い扶持稼ぎのためと割り切っている。本当にやりたいのは創作なのだ。ファンショーの原稿の出現は、自分を偽っている「僕」に対する、もう一人の自分からの告発である。ファンショーについて、洗いざらい調べ上げ、彼の瑕疵を見つけ、それを暴くこと。それが傷ついた自分を回復させる唯一の策である。ところが、いくら調べてもファンショーには隙がなかった。相手を追っているはずが、追いつめられたのは自分の方だった。死の一歩手前まで行き着いた主人公はようやく悟る。「鍵のかかった部屋」は自分の頭蓋の中にあることを。

自分と、もう一人の自分の対決という主題は、三部作の第一作『ガラスの街』の主人公の筆名にもなっている、ポオの『ウィリアム・ウィルソン』から借りている。また、失踪した夫が、自分の去った後の妻の様子を近所に暮らしながら観察するという設定は、同じく敬愛するホーソーンの『ウェイクフィールド』由来のものであることは前作『幽霊たち』の中でブルーが言及していることからも明らかである。

ニュー・ヨーク三部作は、ポオやホーソーンメルヴィルといったアメリカ文学の先人たちにオマージュを捧げながら、自己の文学的野心を達成しようとする新進作家オースターの果敢な試みであった。作家は自分の思考や関心を素材にしながら作品を創りあげてゆくものである。執筆中は、四六時中自己内対話を繰り返しているわけで、外から見れば孤独な作業だが、自分の中で作家は複数の自分を追いかけ、観察し続けている探偵でもある。その間、妻子は顧みられることなく放って置かれる立場となる。

生活者としてのオースターは、作家オースターであるときの自分を、妻子を放り出して失踪したり、放浪し続ける孤独者として見ているのだろう。一つのことに 執して他を顧みることなく自分の思いに浸りきる人物と、その人物の代わりに妻子を見守り、ともに暮らすことを愛する人物との乖離が鮮やかに描き分けられ、 その分裂が遠からず回避されることが暗示されている点が本作の特徴である。一つの主題の周りを回る円環的な構造を持ったニュー・ヨーク三部作の完結編としてまことに相応しい。ニュー・ヨーク三部作とは、作家が、作品世界を創造してゆく秘密を小説として提示して見せたもの。云わば、書くことの隠喩である。