青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『沈むフランシス』松家仁之

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『火山のふもとで』で鮮烈なデビューを果たした松家仁之待望の第二作。期待にたがわぬ出来映え、といいたいところなのだが、前作に比べると、よくできた小品という印象が強い。相変わらず叙述の技巧は冴えわたり、読む快感を堪能できる仕上がりなのだが、前作がオードブルからはじまってデザートに至るフルコースだとしたら、今回の作品はア・ラ・カルトの一品といったところか。しかし、よりいっそう深みを増したその味わいは賞味する価値あり。

東京で会社勤めをしていた桂子は、思うところがあって父の仕事の関係で中学三年間を過ごした北海道に越してきた。人口八百人ほどの小村で非正規雇用の郵便局員としてはたらく。仕事は郵便物の配達だ。ある日、小包を届けた先で、「音」を聴いてみないかと誘われる。寺富野和彦は真空管アンプの製作ではマニアのあいだで知られており、小包の中身はカートリッジだった。

気ままな独り居を楽しむ二人が付き合うようになるのは自然のなりゆきだった。桂子は川岸に建つ和彦の一軒家を訪ねるようになり、ときには泊まることも。二人はそこで和彦の集めた「音」を聴き、手作りの料理を食べ、愛しあう。しかし、せまい村のこと、二人の交際は人の口の端に上るようになり、桂子も和彦のまわりに気になることが増える。そんなある日、事件が起きる。

フランシスとは誰か。それは小説のはじめの方で明かされる物語の鍵を握る大事な名前だ。この話はフランシスにはじまり、フランシスで終わる。前作では浅間山麓の高原地帯が大事な背景として物語を彩っていたが、今回は北海道東部が舞台。湧別川が森を切り裂いて流れる、もともとは原生林であった土地を開拓民が切り拓いたのが安地内村。川にかかる橋を渡り、林道をなおも進んだ川沿いの一軒家に一人暮らす和彦は何をしている男なのか。

北海道の小さな村の四季の移ろいが、結晶のまま降ってくる雪や、エゾシカやヒグマ、ヤマメやアメマスといった獣や魚の生態を通して清冽に浮かび上がる。透明感のある文章は、この作家の持ち味である。不必要なものは絶対に持ちこまない極端なまでに削ぎ落とされた小説空間のなかに、選び抜かれたものだけが座を占める。真空管アンプを中心にしたオーディオシステム、黒曜石の石斧、冷凍でないオックステールで作ったコムタンクッパ。

冒頭、水路を流される人の挿話が唐突に提示される。水路のなかに取りつけられた鉄柵に引っかかって止まったそれの独白のように誰とも知れぬ話者がつぶやく。「ここから先へはもう進めない。進まなくていい」と。おそらく、これが主題提示部にあたるのだろう。

東京から来た女はもちろん、車で一時間ほどの距離にある町から来た男も、この村へ流れ着いた漂着物という点では同じである。過去を捨ててはきたが、ここを終の棲家とするというほどの覚悟はない。だから、身の回りには必要最小限のものしか置かない。動物が生きるためにしなければならないのは食べることと交わること。流れに乗って運ばれてきた魚が柵に行方を遮られたように、二人はただたゆたっていた。

限られた数の人物しか登場しない小説の中で、特別な役割を担う御法川さんという老婦人がいる。目が見えないかわりに、この人には桂子自身も気づいていない心のなかが読める。その言葉を借りれば、桂子は冬眠中に起こされた動物のようなものらしい。冬眠の途中に起こされたシマリスは覚めてもやがて死んでしまう。御法川さんは言う。「無理をして起きあがろうとは絶対にしないこと。どんなに大きな音がしても、どんなに揺さぶられても。だまされてはだめ。あたらしいほんとうの音をきくようにこころがけなさい」。

三十過ぎの女が、男と東京の生活に嫌気がさし、北海道でひとり暮らしをはじめた。それは冬眠に入ったようなものだ。冬眠中に「音」を聞かされた女は一度目覚めてしまう。が、それは「ほんとうの音」なのかどうか。北海道の大自然のなかにひっそりと営まれる「死と再生」のドラマ。手垢にまみれた主題を、今日的な解釈によって洗い出し、磨きぬかれた旋律が、選りすぐりの楽器と楽人によって奏でられた室内楽のような小説だ。その官能的とさえいえる響きに、読者は五感を研ぎ澄ませて対峙しなければなるまい。