青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『書楼弔堂 破曉』京極夏彦

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うらやましいような身分である。労咳を疑い、妻子を残して家を出たものの、実は風邪をこじらしただけで、恢復後もせっかく借りたのだからと、そのまま賄いつきの田舎家に独り暮らし。御一新以来四民平等とはいえ、もとは旗本高遠家の嫡男。少しばかりなら蓄えもあり、働かずとも食っていける世にいう高等遊民。国家建設の大志もなければ、不平士族の恨みもさらさらない。廃り者と自嘲しつつ無為に日を送る、至って泰平楽な人物が狂言回しの役をつとめる。

行きつけの本屋の丁稚に教えられて訪ねて以来常連客となったのが、野末の寺の参道に立つ三階建ての街燈台のような「弔堂」という変わった名前の本屋。間口の割に奥行きの深い店内は明り取りとて天窓よりなく、和蝋燭の灯りに浮かび上がるのは書架に並ぶ数知れない本ばかり。主人龍典は還俗した僧侶らしく無地無染の白装束に前掛け姿というから、同じ作者による一連のシリーズ物の探偵役である黒衣の古本屋「京極堂」こと中禅寺秋彦の裏返し。

人にはその人のためにただ一冊の本がある、という考えを持つ主人はそれを求めて自分が読み漁った大量の本を、死蔵するのでなく、本来の持ち主に出会わせるために本屋になったのだという。弔堂を訪れた客は、主人と語るうちに、その一冊に出会うという仕掛けだが、訪れる客は、幽霊だとか妖怪だとかのいずれもネガティブなものに取り付かれている。主人がカウンセリングよろしく客と交わす問答は、その該博な知識と論理のアクロバットをもって行う「憑物落とし」に他ならない。

百鬼夜行」シリーズからおどろおどろしい殺人やら、スラップスティックじみた笑いの部分を取り去り、「本」との出会いをメインに据えた、一種の謎解き小説といえるだろう。解かれる謎というのが、弔堂を訪れた客の正体である。山田風太郎の「明治もの」に範をとったのか、幕末から文明開化期にかけて活躍した有名人を客に迎え、人口に膾炙した事件の裏面を暴いたり、世に知られぬ逸話を紹介するなかに、辛口の文明批評や社会批判を潜ませた工夫が見所。主人の説き聞かす話にはソシュール言語学や、ウラジーミル・プロップの昔話の形態学やらに想を得た新知識が紛れ込み、まことに幻惑的な説法と化す。

コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズに、盟友ワトソン博士がホームズに初めて出会う場面がある。名探偵は、相手の靴についた泥からその経歴をあてる神業めいた推理を披瀝するのだが、弔堂の主人の得意技がまさにそれである。読者は凡人の代表である「ワトソン君」ならぬ高遠の若様の目を通し、耳を通じて、主人の奇跡とも思える名推理を堪能するというわけだ。その厚さから、俗に「煉瓦本」と称される「百鬼夜行」シリーズとちがい、主に起承転結の結にあたる「憑物落とし」の場面に焦点を当て、連続短篇集の体裁をとった今回のシリーズは、組版も大きく読みやすい。

外連味たっぷりの京極堂とはちがって、得体の知れないところはあるものの弔堂は穏やかな性格に見える。ただ、世の中の仕組みが大きく変化した明治維新から二十年たった頃の話。文明開化の掛け声に元武士も町民もおどらされ、何もわからぬうちに大きな波に流され、日本中が自分を見失っているようにも見える。覚者はそれを憂い、時代に乗り切れないものは自信を失い途方にくれる。エンタテインメントの小説に、思想だの主義だのというのは野暮だが、今の時代もグローバル化の波に呑まれ、右往左往するばかりで、相も変わらずこの国は結局何も変わっちゃいないのではないか、という憂慮が色濃く漂うように見える。御一新の時代の波を真っ向からかぶった人々が、憂い、憤り、迷う。いつの時代も変わらないこの国の人々の「憑物落とし」を新しく買って出たのが弔堂だろう。

「凡ての言葉は呪文。凡ての文字は呪符。凡ての書物は経典であり祝詞」である、と弔堂は言う。時代が変わり、合理的、科学的な世界観が世を蓋うようになり、幽霊や妖怪はもとより、心や魂のように手にとって見せることのできないものは、ないことになってしまっている。だからといって「ない」、では立ち行かない。「ない」ものを「ある」ように見せ掛けるのが言葉である。神も仏ももともとありはしない。あるように思うのは、図像や言葉で創られているからだ。ならば、嘘を嘘と知ったうえで今の世に合うように新しく創ればよいではないか。どこかで聞いたような科白である。それもそのはず、この弔堂に説教されている人こそ誰あろう、武蔵晴明社十七代宮司中禅寺輔その人である。六篇の連続短篇小説中最後の「未完」が、新旧のシリーズを繋ぐミッシングリンクになっている。なかなかの趣向ではないか。