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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『最後の審判の巨匠』レオ・ペルッツ

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ウロボロスの蛇」というものがある。自分の尾を呑み込もうとする蛇を環状に描いた図像で表され「永劫回帰」や「死と再生」などの象徴として幾多の民族、宗教によって用いられている。本書を読み終えて、そのまま最初のページを繰ろうとしかけ、第一章の標題が「後書きに代わる前書き」となっていることに遅まきながら気づいた。最初から円環構造を意図して書き出されていたのだ。つまり、本書は「ウロボロスの蛇」を体現した小説になっているというわけだ。

一度読んだだけでは、大仰で少々芝居じみた、諸処に綻びの目立つ黴臭い探偵小説としか読めないものが、再読時には、初読時に読み飛ばしたどうということのない記述が、張り巡らせてあった伏線であることに気づかされ、無意味な叙述と思われた部分が撒き散らされたレッドへリングであったことが分かる上出来のメタ・ミステリとして読めるしかけになっている。ちょうど蛇が何度も脱皮して、成長を遂げるように、読者に再読三読をしむける、ペルッツらしい手の込んだ小説世界。あのボルヘスが惚れこんだというのも首肯ける。

舞台となっているのは、第一次世界大戦を間近に控えた一九〇九年秋のウィーン。四重奏曲の演奏のため、知人に誘われて宮廷俳優ビショーフ邸を訪れた騎兵大尉ゴットフリート・フォン・ヨッシュ男爵は、演奏後、余興の芝居の役づくりと称して四阿にこもったビショーフが拳銃を手にして倒れているところに立ち会う。現場は密室状態で、自殺と考えるの自然だが、客の一人で技師のゾルグループは殺人事件だと断言する。当時ウィーンでは密室での「自殺」事件が頻発していたからだ。

死んだ俳優の妻ディナが男爵の昔の恋人であったことから、妻の弟は自殺が男爵の使嗾によるものと考え自白を迫るが、技師は真犯人は別にいると主張する。探偵役の技師が、犯人は部屋から一歩も出ることなく画家や俳優を自殺に追い込む「怪物」であることを突き止めるが、事件は終わらない。果たして「怪物」の正体とは…。

事件の当事者であった男爵が、何年もたってから当時を思い出して書き残した文書を、男爵の死後、編者が「後記」を付し「小説」として刊行したのが『最後の審判の巨匠』と呼ばれる本書である。読めば分かるように、男爵は睡眠薬の常用者で、頻繁に白昼夢や幻覚を見るばかりでなく、友人知人からの人物評もかんばしくない人物として描かれている。つまり、この小説はミステリでいう「信頼できない語り手」によって書かれた物語として読むことが期待されている。

都筑道夫は『黄色い部屋はいかに改装されたか?』のなかで、そのことに触れ「『アクロイド殺人事件』の中心トリックには、ご存知の『スミルノ博士の日記』(中略)のほかに、ハンガリイ生まれの作家、レオ・ペルツが一九二三年にミュンヘンで発表した長篇、『裁きの日の主』という前例がある」と書いている。ミステリとして読めば、叙述トリックの先例という理解になるのだろうが、この作品の場合、そう断定することはできない。というよりむしろ、名古屋名物「ひつまぶし」ではないが、一度目は通常のミステリとして読み、二度目は自己言及を愉しむメタ・ミステリとして読み、三度目は…と読むことが求められているのだろう。

「密室」殺人の被害者の口から二度まで「最後の審判」という言葉が漏れる。『最後の審判』といえば、システィナ礼拝堂の天井画が有名だが、作中に登場する巨匠はミケランジェロではない。小説のなかに作者の異なる別の殺人事件の顛末が入れ子構造のように嵌め込まれており、古イタリア語で書かれたその部分だけを読めば、「最後の審判の巨匠」と称される画工の身に起きた神秘体験を語る幻想怪奇小説とも読める。

久しく埋もれていた作家が復活を遂げるという点から、訳者はペルッツ夢野久作久生十蘭に比しているが、古い文書に書かれた物語が現世の人間を操るというプロットは、たしかに久作の『ドグラ・マグラ』に似ている。しかし、プロットという観点から見れば、ミステリの古典的名作、ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』、そして、最近ならウンベルト・エーコの『薔薇の名前』が同種のものとして思いうかぶ。都筑は叙述トリックに先鞭をつけた一人として、ペルッツの名を上げているが、ようやく日の目を見た『最後の審判の巨匠』には、まだまだ見るべき価値が埋もれているように思われる。単なるミステリとしてだけでなく、広く読まれるにふさわしい一冊である。