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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『バン、バン!はい死んだ』ミュリエル・スパーク

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身も蓋もない書名に、少し引いてしまったが、あの『シンポジウム』を書いたミュリエル・スパークである。まず間違いはないだろうと思って読みはじめた。巻頭を飾るのは「ポートベロー・ロード」。過去と現在二つの時系列を平行させ、思春期を共に過ごした男女四人組の人生の有為転変を描いて見せる、傑作の名に恥じない一篇である。

ミュリエル・スパークの語り手は女性であることが多い。それも、少なくとも本人は自分は賢いと思っている、自意識過剰で、周囲から見たら鼻持ちならない女。作家の人生が書くものに影響を与えるというのは当然だとしても、どれだけ苛酷な経験を経てきたらこんなに皮肉な目で自分や世界を見ることができるのだろうと思わされるほど辛辣な人物が、主人公であったり、語り手であったりする。

それでいて後味は悪くない。自己懲罰というのか、そういう人物はあまり幸福な人生を送るようには描かれないからかもしれない。「ポートベロー・ロード」の主人公ニードルは死者である。五年前に世を去ったが、いろいろとし残したことがあって、なかなかあの世でゆっくりもしていられない。そこで、週日は忙しく動き回り、土曜日にはポートベロー・ロードを歩いて気晴らしをしている。そんなある日、旧友の二人連れを見かけ、男の方に声をかける「あら、ジョージ」と。

死人が語り手、などという禁じ手をいけしゃあしゃあと使うところが、ミュリエル・スパーク流。リアルな日常生活のなかに突然幽霊が登場したり、自分がかつて書いた小説の登場人物が現われたりするたび、いちいち驚いていたらこの人の小説は読めない。死人だから、声は届かない。けど、神様の力を借りたら届くらしい。ジョージは真っ青になる。なぜか隣にいるキャスリーンにはニードルの声は聞こえず姿は見えない。当然だ。死人なのだから。では何故ジョージにだけは見えるのか。その謎が解けるのは最後の場面。淡々とした叙述が結末にいたって鮮烈な印象を与えるためのしかけであったことに気づかされる。

第三篇「捨ててきた娘」も、叙述にしかけが凝らされている。仕事を終えてバスに乗り、帰宅しようとして「私」は仕事場に何かを忘れてきたような気がする。頭の中では雇い主のレターさんの吹く口笛の曲が鳴っている。いったい「私」は何を忘れてきたのだろう。バスの運賃を手に握り締めたまま、もういちど仕事場に戻った「私」がそこでみつけたものとは…。ちくま文庫『短篇小説日和』で別の訳者の訳で読んだことがある。訳者によってこんなにも印象が変わるものか、という一例。

タイトルにもなっている「バン、バン!はい死んだ」は、傑作短篇集と名づけられた一冊の標題に採られるに相応しい力の入った名篇。主人公シビルの子ども時代、独身時代、夫人となった現在の三つの時代のエピソードが入れ替わり立ち替わり語られる。ポオの『ウィリアム・ウィルソン』に代表される所謂ドッペルゲンガーのテーマにミュリエル・スパーク風のひねりを加えたもの。

シビルの家の近所にシビルそっくりの女の子が引っ越してくる。容貌こそ似ていたが、シビルはデジルが好きになれなかった。泥棒ごっこのルールを無視して、いつもシビルだけにピストルを撃つまねをして「バン、バン!はい死んだ」とやるからだ。大人になったシビルは勤務先の南ローデシアで、再びデジルに出会う。農園主と結婚したデジルは、独り身のシビルを家に招待しては夫とのあつあつぶりを見せつける。頭の良さを鼻にかけるシビルに対するデジルの挑発だった。

シビルは新しい友人たちと南ローデシア時代のシビルたちを撮った映画を見てくつろいでいる。デジルの夫が送ってきたフィルムは何巻もあり、リールを交換する間に挿まれる小休止のたびごとに過去の記憶が想起する。デジル夫婦とシビル、それにもう一人の男との間に仕組まれた愛憎劇。芝居がかった男女関係がこじれて事件は起きる。頭はいいが冷感症的な人物として描かれるシビルの目を通して見られる植民地の生活、戦争、人種差別。ヒリヒリするような感覚が文章から伝わってくる。皮肉と風刺を利かせた作品世界が好きな人にはたまらない。本邦初訳十篇を含む全十五編。軽いタッチで描かれる喜劇的作風の掌編にもこの作者ならではというスパイスが振り掛けられ、独特の風味を味わうことができる。面白い小説が読みたいというなら、是非。