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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『映画術』塩田明彦

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現役の映画監督による、「映画と演出の出会う場所から映画を再考する」という視点からの連続講義。映画学校で生徒を前に講義した内容を原稿化したものである。

ところで、『映画術』という表題を持つ本には、すでに晶文社刊『定本 映画術  ヒッチコックトリュフォー』という大著がある。晶文社には、その道の先達による後身に対するガイド本として「○○術」という表題を冠したシリーズがあるが、これはその中でも別格に位置する。フランソワ・トリュフォーによるヒッチコックへの単独ロングインタビューを山田宏一蓮実重彦両氏が訳したもので、巨匠のフィルモグラフィーの時間軸に沿って、五百枚を超える写真を駆使し、その卓越した映画技法を監督自らが明かす、マニア垂涎の一巻である。そのひそみに倣ったのだろう、本書においても、本文に付された写真資料が講義に説得力を増す役割を果たしている。

映画を見るのに理屈はいらない。好きなように見ればいい。しかし、映画を作る立場に立てば、そうも言っていられない。何事につけても物にはやり方というものがある。大工には大工の、料理人には料理人の長年にわたって先人が積み重ねてきた技術や理屈の蓄積というものがあり、それを知らずして一朝一夕にして事がなるわけがない。映画には映画の文法というものがある。先に述べた晶文社の本がまさにそれで、あの本を読んであるのと読まないのでは、監督としてのスタート地点で大きな差がついているだろう。

講義の相手は、役者志望の若者である。それだけに、講義はどこまでも実践的。名作とされる映画の一コマ一コマを取り上げ、比較し、監督の意図や演者の表情、視線がどこにあるかを精細にチェックしてゆく。特に、一つのシーンを分解して選び抜いた十枚、十五枚の写真を時間の順序に配列し、その演出意図を分析するあたりは、さすがに現役監督ならではと感じさせられた。

なかでも、冒頭に置かれた第一回目の講義「動線」が素晴らしい。成瀬巳喜男『乱れる』を例にとり、こえてはならない「一線」が、どのように映像化されているのかを解説する、その手際があざやかだ。その前に予習として取り上げた溝口の『西鶴一代女』における、身分の差のある男女を区切る「一線」とは、座敷と庭を区切る上下の区別だった。知ってのとおり、『乱れる』は、高峰秀子演じる死んだ兄の妻に思いを寄せる加山雄三の愛が成就するのかどうか、という一点に観客の関心はある。そこで、成瀬は高峰秀子に奇妙な演技をさせている。

警察からの呼び出しを受けた高嶺秀子は電話のある場所から店先に移動するのに土間に敷かれた渡り板の上を歩いている。また警察からの帰り道、いっしょに渡ってきた橋の歩道の最後のところで、高峰秀子は反対側に移る。それは何故か、というのが筆者の問いである。答えは、その橋がこえてはならない「一線」を象徴するものだからだ。橋は最後の温泉場のシーンでも再び登場する。戸板に乗せられた加山を追おうとして渡りかけた橋を、高峰は何故か立ち止まり、遠ざかる加山の死体を見送る。

ここでは橋が二人を隔てるものとしての役割を振られている。観客がそれに気づこうと気づかずにいようと、それは構わない。ただ監督としては、観客の無意識に訴えかけるように、何度も渡り板や橋の映像を提示する。われわれ観客は、反復される橋の横断に対する躊躇を無意識の裡に見ることで、はらはらどきどきしつつ、二人の関係の行方に引き込まれてゆくわけである。

評者のように一映画ファンに過ぎない者にも、この講義は面白かった。成瀬巳喜男の映画が好きで、何度繰り返し見ても、そのたびに胸打たれるものがあるのだが、その理由が、こうした演出の一つ一つにあったのだな、とあらためて教えられた。

第四回「動き」では三隅研次監督『座頭市物語』を取り上げている。勝新太郎天知茂の出会いの場面(横並び)、交誼の場面(天知の背に勝)、勝負の場面(勝の背に天知)のそれぞれを見比べながら、二人の位置関係を確認し、二人が互いの顔を見合す位置にないことを指摘する。互いの力量を知る者通し、顔と顔を見合わせること、つまり斬り合いになることへの忌避がそこにある、という分析にも驚かされた。教えられることの多い一冊である。