青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『書庫を建てる』松原隆一郎/堀部安嗣

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『劇的ビフォー・アフター』というテレビ番組がある。狭小住宅や危険家屋で暮らす施主の依頼に応え、その家屋をリフォームする過程を、司会者とゲストがクイズなどに答えながら視聴者とともに見守り、リフォーム前と後の落差に感動する施主の反応を見て楽しむ、というあれである。番組のミソは、設計を担当する「匠」と呼ばれる建築家に、あらかじめ注文はつけるけれど、それがどんな風に具体化されるか、施主は完成するまで見せてもらえないところにある。この本は、ちょうどその書籍版といったら、よく分かるかもしれない。

もちろん設計図や模型は施工前に示されるし、施主はそれに納得して契約するわけだが、それなりに著名な建築家に設計を依頼する時点で、ある程度、建築物が施主の意向に沿っていさえすれば、その具現化は、建築家のアイデアが中心になったものになる。つまり、金を出し、そこに住まうのは施主の方だが、建物は「誰それの(設計した)家」になってしまう、という点で両者はよく似ている。

それでは、施主は満足していないかと言えば、そうではない。自分の希望を深いところで受け止め、とうてい素人ではなしえない造形にまで導くという点がすべてをクリアしてしまうからだ。この「書庫」の凄いところは、施主である松原氏の希望、それは、たとえば浴槽に浸かりながら草花を眺める、とか、屋上庭園だとかいう、いわば通俗的な願望は、あっさりうっちゃって、その心理の深いところにある、祖父の残した「イエ」の継承という本質をズバリとつかみ出し、円筒形の吹き抜けの内側に仏壇と本をすっぽり納めてしまったことにある。

建築家は、アレクサンドリア図書館だとか、納骨堂だとか、その発想のよって来るところを書いてはいるが、円筒形のなかに「仏」を納めるという観点から見れば、この書庫は「経筒」や「厨子」、もしくは「持仏堂」の一種と考えることができる。それかあらぬか、建築家の文章からは、共に記憶を蔵する場所としての書物と墓所の類似に思い至ったことが述べられている。

平行四辺形の形をした八坪ほどの狭小地に書庫を建てる。しかも、そこにはかなり大きな仏壇を納めることが必須条件となっている。なぜなら、この書庫は、祖父の残した実家を売却した費用でまかなわれているからだ。というよりむしろ、祖父の思い出の残る実家とその土地を、そのまま残すことができなかった直系の孫が、新築書庫という形で祖父の位牌の入った仏壇を安置する建物を建てる、というところにこそ深い意味が込められているのだ。

事実、冒頭から書き起こされるのは、松原氏の家の来歴であり、多分にこみいった家庭事情なのだ。裸一貫で事業を起こし、成功者となった祖父は、信頼していた人間や国家にその財を奪われ、最後には魚崎の実家だけが残る。父は資産家であった家の思い出に生き、実態から目を背け、他者と縁を切り、残った資産を独り占めする。しかし、阪神淡路大震災で、その実家も倒壊。父の死後は、兄妹三人で分割相続することになる。

実家にあった石や樹木まで移築、移植しようという、家の継承ということに対する松原氏の強い思い入れには共感する人もそうでない人もいるだろう。評者も長男として仏壇を引き継ぎはしたが、父母の建てた家は白蟻の被害もあり、解体してしまった。狭い土地のことで、庭も木もない。特に思い出に残るようなものもなければ、それを失くしたことで悔いるところもない。所詮は人によるのだろう。

松原氏は、仏壇や庭木に対するほどには、本自体に思い入れは少ないようで、仕事に使う資料として検索、取り出しに適した形で常時一万冊を収納できることに主眼を置いている。写真で見たところ納められているのは、現在公刊されている本に多い白い背表紙が目立つ。所謂書庫というより、アナログのデータベースといった印象を受ける。そのなかで異彩を放つのはなんといっても立派な仏壇であろう。白檀の香の匂いが漂ってきそうな荘厳な佇まいを見せている。文庫や新書も多く並んだ書棚にはそこまでの迫力はない。

建築家と施主が、一つの建築物が完成するまでの思いをそれぞれ語るという形態も興味深く、どこにも直角を使用しない矩形を底面とした躯体内部に複数の円筒形を刳りぬいたRC造の小豆色の書庫、というなかなかお目にかかれない建築の出来上がるまでを、どうぞじっくりと検分されたい。