青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『元気なぼくらの元気なおもちゃ』ウィル・セルフ

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期待にたがわぬウィル・セルフ本邦初の短篇集。多くの作家の短篇を集めたアンソロジー『夜の姉妹団』で一篇読んだだけだが、妙に心に残るものがあったのがウィル・セルフという作家だった。巻末の邦訳リストにあったこの本が図書館で見つかった。「奇想コレクション」というシリーズ中の一冊である。たしかに、奇想中の奇想といえるだろう。並の「奇想」のレベルではない。ふつう、奇想という名で語られるのは、世にめずらかな話。とはいえ、発想自体はうなづける地点に着地できるものがほとんどだ。具体的にいえば、たいていの話が映画化し得る。ウィル・セルフの発想はぶっ飛んでいる。映画化すればできるだろうが、それを見たいかと問われたら首を横に振る、その種の話。たとえば、

「虫の園」は虫と会話ができる男の話。何十匹ものシミがキッチンの水切りの上で列を組み、文字を形作る。アルファベットを使用する作家ならではの発想ともいえるが、カートゥーンのなかでなら見た記憶がある。雲霞のごとき蝿や蚊が空中で字を書いたり何かの似姿をとったりするやつだ。しかし、誰がアニメーションのネタを本気で小説に使うだろう。しかも、途中まではきわめてシリアスなタッチで主人公の男を取り巻く状況が語られるから、なおさら後半のコミカルかつブラックな味わいとのギャップがたまらない。虫嫌いな人にはお勧めできない。

「愛情と共感」は、過去に傷ついた経験がある男女が、エモートと呼ばれる自分そっくりだが、大きさは三倍もある遺伝子操作で生まれた存在に庇護されることで、無事デートにこぎつけるという話だ。同じ服を着た巨人に抱っこされながらマンハッタンを歩く自分という絵を想像してもらいたい。ウゲッという気がするだろう。それをあっけらかんと描ききるから怖い。「内なる子ども」(インナーチャイルド)という概念がある。誰でも自分のなかに「内なる子ども」を持っているが、それが子どもの時の体験で傷つけられていると、うまく大人に移行できない、よく言われるアダルトチルドレンである。その状態を癒すのが、インナーアダルトという対概念だ。この理論にあるインナー(内なるもの)をアウター(外)化してみせたもの。グロテスクなのは作家の想像力の方か、それとも理論の方なのか。SF的な見せかけの意匠の下にのぞく悪意も露わな風刺。その作風からスウィフトに擬せられることのある作家の真骨頂を示す一篇である。

短篇ながら、同じ人物を主人公にした作品が二つ、つまり四篇ある。この短篇集に収めるつもりで書いたのだろう。「ロンドン北西部でクラックを売買しているふたりの若い黒人の写実的な物語」と二作目の登場人物が言及する「リッツ・ホテルよりでっかいクラック」は、ダニーが地下室の修理中に見つけたクラックを弟のテンベに売らせるというウィル・セルフらしからぬふつうの話。しかし、「書き手は短編小説の正統的な約束ごとをしっかり踏まえて話を進めていたが、途中で急に調子が変わって、魔術的リアリズムの要素が加わっていた」と続くように、クラック・コカインの岩盤が無限に広がっている地下室という千一夜風の発想がマジック・リアリズム風。

巻末の「ザ・ノンス・プライズ」はその後日譚。兄弟の関係が逆転し、クラックに手を出したダニーは昔の売人仲間の罠に落ち、小児強姦犯(ノンス)用の刑務所に入る。所長の印象をよくするため、創作講座を受講し、コンクールに向け小説を書き始める。「リッツ・ホテルよりでっかいクラック」が、その小説という自己言及的な設定。作家修業中のダニーが読みまくるのが、ユイスマンスの『さかしま』はじめワイルドやボードレールデカダン派というのが愉快。薬物中毒の経験を持つ作家でなくては書けないトリップの描写が読ませるのは皮肉。

表題作「元気なぼくらの元気なおもちゃ」と同じ精神分析医ビル・バイウォーターを主人公とするのが「ボルボ七六〇ターボの設計上の欠陥について」。後者は、まだ離婚前の主人公が妻に隠れて浮気をしようと悪戦苦闘する話。結末は皮肉だが、ある意味健康的な話である。それに比べて表題作は気ままな独身の代理精神科医であるバイウォーターが年に数回訪れるスコットランドの農場からロンドンに帰還する旅を描く、つまり現代版「オデュッセイア」である。途中で乗せたヒッチ・ハイカーに対する心理的な優越感が、旅を続けるうちに微妙に変化するその様が精緻にトレースされ、ヒリヒリするような心理的なサスペンスになっている。

人間というものを距離を置いてよく観察し、冷静に分析し、アイロニカルな筆致でもってユーモラスかつ辛辣に描き出す。少し変な設定の話を書かせても、写実的な小説を書かせても、とにかく読ませる。ウィル・セルフはもっと読まれてもいい作家の一人だろう。アンソロジーを別にして邦訳のあるものが後一冊というのはいかにもさみしい。何とかならないものか。