青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『アヴィニョン五重奏Ⅳセバスチャン』ロレンス・ダレル

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アヴィニョン五重奏』も四巻目。前作「コンスタンス」で予告された「手紙」が物語の鍵を握ることになる。アッファド宛のその手紙とは、グノーシス主義の供犠としての「死」が許されたことを示すもので、本人だけが知ることができる死の日時が記されている。ところが、宛先人の不在の所為でめぐりめぐってコンスタンスのところに送られてきたことから、悲劇は起きる。

前作でコンスタンスと恋に落ちたアッファドは、結社から脱退する由の手紙を出す。結社がすでに死を告げる「手紙」を投函済みであることを王子から聞いたアッファドは、届かなかった手紙がコンスタンスのもとにあることを知る。アッファドと王子は、事情を知るコンスタンスが故意に破棄したと考え、事態収拾のため王子とともに飛行機でエジプトに向かう。アレクサンドリアに着いたアッファドは、博物館の地下にある「墓地劇場」で三人の審問官による査問を受けることになる。

手紙はコンスタンスの本棚の聖書の中に挿まれていた。本を読みたいという患者に貸した際、あやまって持ち出されてしまったのだ。しかし、不思議なことにいくら探しても手紙は見つからなかった。ムネミディスというその患者は、精神鑑定のためカイロからジュネーヴに送られてきた重警備を要する犯罪者であった。明晰な頭脳を有する役者でありながら、一方では極度の被害妄想狂患者であるムネミディスは、医者を警察と思い込み、監禁や投薬を怨み復讐を計画していた。

フロイト派の優秀な精神分析学者であるコンスタンスと、グノーシス主義を奉じるシリア人の銀行家アッファドというおよそ相容れぬ者同士が激しく惹かれあうことによって起きた化学反応のような恋愛が周囲を巻き込んで、二人を愛する者や憎む者によって引き起こされるいくつもの衰弱や死。いつになく、ミステリー・タッチで描かれるピカレスク・ロマン風のグラン・ギニョール。例によってユダヤ系イギリス人の銀行家ゲイレン卿が、今度は大戦後の文化振興に携わることになり、それについてはもっと社会勉強が必要という理由で売春宿に繰り込んで巻き起こすどんちゃん騒ぎの、滑稽でそれでいて奇妙に哀れな場面。ジョイスの『ユリシーズ』をめぐるブランフォードとゲイレン卿の議論もふくめ、シェイクスピアフロベールからの引用といった文学好きの読者に向けたダレルお約束のサーヴィスもおさおさ怠りない。

一方で、第二次世界大戦が終焉を迎えようとする時代を背景とする第四巻において、大戦後の世界や人間一般に向けるペシミズムが色濃くその影を落としている。ナチスによるユダヤ人に対する「ショアー」、物質主義の横行による精神的なものの軽視、或は無視、西洋的な論理、物質主体の思想の蔓延が東洋の叡智に対する無理解を生んでいることへの苛立ち等々が、コンスタンスの同僚で助言者の位置にある老シュヴァルツを中心に、全篇を覆いつくしている。一度は、戦争が終わることにより、新しい人間や世界が生まれることを夢見た人々の大戦後の絶望の深さが、この真摯な精神分析医に体現されているようだ。

トビーとサトクリフ、フェリックス・チャットーといったお馴染みのビリヤード仲間の顔ぶれに、ゲイレン卿のお抱え運転手だったマックスがヨガ行者になって再登場したり、第一巻『ムッシュー』で狂言回し役をつとめていたブルース・ドレクセルやシルヴィーが最後のところに顔を見せるなど、五重奏としての重層的な構成を垣間見させてくれる。

すべての男性や女性を虜にする魅力的なヒロイン、コンスタンスを中心に、物語はいよいよ佳境を迎えることになるのだが、今回ジュネーヴを中心に繰り広げられてきた物語の舞台は、やはりアヴィニョンに帰るようだ。ゲイレン卿やブランフォード、サトクリフ、トビーらは、アヴィニョン方面に向かう古い急行列車のプラットホームで顔を合わせる。

「『カンタベリー物語』ばりじゃないか?」とオーブリー・ブランフォードは言った。「巡礼者たちの旅立ちだな?」だが、サトクリフが冷ややかに指摘した通り、それはむしろ亡命者たちの出国だった。「夫婦のように完璧に一つになった者たちなどおらず、みな壊れてばらばらになり、離散していく。何かの再始動か、終焉だな。こうして種は人の手から蒔かれていく」

松岡正剛だったか、ロレンス・ダレルの外連味溢れる作風を評して歌舞伎に喩えていたが、この一文など、いかにも道行きに似つかわしい。プラットホームに現われた、自閉症からの劇的な回復を見せた少年アッファドも交え、これからこの人々が置かれることになるそれぞれの境遇と、懐かしいアヴィニョンの変貌は、いかばかりか。最終巻『クインクス』の翻訳が待たれる。