青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『プロット・アゲンスト・アメリカ』フィリップ・ロス

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読み終わる頃に、背中の辺りに冷たいものが流れるような悪寒が感じられた。ホラー小説ではない。「アメリカをテーマにする優れた歴史小説」に贈られる賞を受賞している、というのだからジャンルでいうなら歴史小説なんだろう。第二次世界大戦当時のアメリカ、ユダヤ人社会に生きるひとりの少年の回想録という体裁になっている。しかも、主人公の名がフィリップ・ロスというのだから、ふつうなら自伝小説と思ってしまうところだ。しかし、その作者がロスだとすると、一つやっかいなことがある。ロス作品に登場するロス、或は作家を思わせる人物は必ずしも作家自身ではないからだ。もちろん、自伝的小説の主人公が作家自身でないことはいうまでもないが、ことはそれほど簡単ではない。

ヨーロッパでヒトラーによるナチス政権が台頭し、ユダヤ人に対する迫害を強めていた頃、アメリカはヨーロッパ戦線への参戦を強く求められていた。当時の大統領フランクリン・ローズヴェルトは、参戦に対し前向きであったが、自国の平和を守るという孤立主義を唱える共和党の一派は、三選を狙う民主党の大統領候補ローズヴェルトに対し、対立候補を立て、これを阻止しようとしていた。その対立候補として俄然前評判が高かったのが、大西洋単独無着陸飛行に成功した英雄チャールズ・A・リンドバーグだった。

リンドバーグ夫妻の長男が誘拐され、死体が森で発見されたことは有名な話だが、その後、夫妻が英国に移り、しばしばドイツを訪問し、ヒトラーと接近していた上、ナチスから勲章まで授与されていたとは知らなかった。それだけでなく、反ユダヤ主義者としての発言が世評を動かしていたことも。歴史にイフ(もしも)というのは在り得ない、というのはよく聞く文句だが、もし、国民的英雄リンドバーグが大統領選に臨み、ローズヴェルトを破ってアメリカ大統領に選ばれていたとしたら、アメリカに暮らすユダヤ人の運命はどうなっていただろうか、というのがこの小説の主題である。前置きが長くなった。これはいわゆる歴史改変小説なのだ。

舞台はニューアークユダヤ人が多く集まる界隈。保険外交員の父と、母、それに画才に秀でた兄の四人に従兄を加えた家族は、周りの環境にもなじみ、幸せに暮らしていた。ところが、共和党が次期大統領候補にリンドバーグを指名すると、事態は少しずつ動き始める。主義主張は応援演説の弁士が前もってお膳立てをしておき、聴衆が熱狂的になったところへ、飛行服に身を固めたリンディが、スピリッツ・オブ・セントルイスから降り立ち、簡単な演説をしてみせるだけで国民大衆は歓呼したのだ。この辺の大衆心理を操作する選挙戦術、マスコミ操縦法はどこの国、いつの時代もかわらない。大衆が欲しがるのは理屈ではない。イメージなのだ。

ローズヴェルトを推すロス家でも、母の妹がリンドバーグを応援する高名なラビの秘書となり、やがてラビその人と結婚。その影響で兄が「ゲットーのユダヤ人」である両親から距離を置き始める。ついで、従兄がヒトラーと戦うためカナダ軍に入り、脚を負傷。義足となって帰還する。父はユダヤ人街ではない地区への転勤を命じられるなどユダヤ人に対する風向きの変化を受けて家族の崩壊がはじまる。そんなとき、ラジオでリンドバーグ批判を繰り返していたコラムニストが、次期大統領候補に名乗りを上げ、遊説中暗殺される。各地で暴動の火の手が上がり、死者が出る。

表題を訳せば「アメリカに対する陰謀」。たしかに、小説の終りの方には歴史上の事実として知られていることの、どこまでが真実で、どこからが捏造、もしくは陰謀によるものなのか疑わしく思えるような記述が頻出し、何を信じたらいいのわからなくなる気がする。だが、大文字の歴史は、ある意味いつもそのようなもので、われわれの知らないところで動いている。主人公の父は、必死で情報を集め、対処しようと悪戦苦闘するが、事態は一市民がどうあがいたところでどうにもならないところまでわれわれをさらってゆくのだ。

他人事ではない。毎日の出来事、つまらないような小さな選択を一つ誤れば、事態は確実に思ってもみなかった方向に進んでゆく。少年の眼に映る父や母の、事態に対する態度、問題への処し方、隣人や親戚に対する接し方が、事あるたびに激しく揺さぶられる。全面的に頼りきっていた親の揺らぎは少年の判断を惑わせる。自分の生活を守ろうと、子どもなりに頭と心を働かせ、一生懸命考え行動する、わずか七歳の少年にさえ、取り返しのつかない後悔を一生味わわせるほどに。

極めて特殊な題材のように見えながら、いつでも起きること、どこにでもいる人々の物語である。読んでいて、このあたりの出来事は、つい最近の出来事に似ている、と何度も思わされた。たとえばヘイトスピーチの問題や一部マスコミによる反中嫌韓キャンペーン。日本という国に日本人として住んでいてさえ、居心地の悪さを覚えることがある。この小説は、人として生きることが単に自分ひとりの選択によって可能ではないこと。人は、自分についてまわる民族や国家、出自、習俗と切り離されて生きることがいかに難しい存在であるかということをいやでも考えさせてくれる。

というと、なんだか難しそうに聞こえるが、切手蒐集が趣味の少年の目を通して描かれる「二度と戻れない」1940年代初頭のユダヤ系アメリカ人の暮らしぶりがなんとも懐かしい。地下室に住んでいる死んだ家族の幽霊におびえたり、見知らぬ人の後を電車に乗って尾行したり、自分を孤児だと偽り、他人の服を着て家出をしてみたりする主人公は、いかにも後に作家になりそうな子どもだ。農場体験から帰った兄がベーコンやソーセージ(豚肉)を食べたことに驚いたり、クリスマスツリーを売る十二月の街の賑わいに目を見張ったりするなど、アメリカに住むユダヤ人の子だけが出会う発見がそこかしこにある。柴田元幸の訳は苦い中にもほのかな郷愁を漂わせた原作をよく日本語にしている。