青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『フィルムノワール/黒色影片』 矢作俊彦

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十年ぶりの二村永爾の帰還である。『THE WRONG GOODBYE』の一件で神奈川県警を辞めた二村は再雇用プログラムの一環で嘱託となり、被害者支援対策室で詐欺被害者の愚痴を聞く毎日。そんな二村に、映画女優の桐郷映子のところに行くように命じたのは元上司で捜査一課長の小峰だった。父で映画監督だった桐郷寅人が香港で撮った幻のフィルムを買いにいったはずの男が帰らない。捜してほしい、というのが依頼の内容だ。

本業に戻った二村は殺人を目撃した老女の家に出向く途中、対象者を尾行する男を見つけ後を追う。男は二村の制止をきかず一人の男を銃で撃って逃走した。現認しながら犯人を取り逃がした二村に、小峰は香港へ飛ぶよう命じる。支援対象者は吉林省長春出身、父親は満映で働いていた。映子の父の寅人も元満映、二つの事件はつながっていると見るのが筋だろう。

帯に「日活映画100年記念」とある。タイアップというのか、今回は映画ネタが満載で、二村がこんなに映画に詳しかったのか、と首を傾げてしまった。のっけから、日活時代に桐郷寅人の撮った映画タイトルに“地獄へ10秒”というのが登場する。トリュフォーが絶賛し、ゴダール映画の登場人物が映画の中で褒めちぎっているという代物だ。もちろん、そんな映画は実在しない。アルドリッチの戦争映画『地獄へ秒読み』の原題「TEN SECONDS TO HELL<地獄へ10秒>」の引用である。

宍戸錠が実名で登場し、エースのジョー役で香港映画に出演するなどというサービス満点の設定は、日活への配慮なのだろうが、それだけではない。宍戸の代名詞である「エースのジョー」だが、殺し屋役は三作しかないのだ。なんでも香港には同じ綽名を持った本物の殺し屋がいたらしく、クレームがついたというのがその理由。桐郷寅人が撮った幻のフィルムとは実録物で、香港のエースのジョーを描いたものだった。

本編は香港を舞台にしたハードボイルド小説。横浜、中華街の近くで育った二村が中華街の親玉、ノワール色溢れる香港を縦横無尽に走り回る。黒社会のボスや、映画のスポンサーといった湯水のように金を使う男たちを相手に、幻の映画に隠された秘密を奪い合う。そのフィルムには何が映っていたのか、というのが謎だ。その謎を追う二村の行く先々に死体が転がりだす。幻の映画というのが、ヒッチコックの言うマクガフィン。それ自体に意味はなく、話を先に進める契機となるもののことだ。

サービスといえば、香港を舞台にしたル・カレの『スクールボーイ閣下』に出ているジェリー・ウェスタビーまで登場するのには驚いた。なんと「サーカス」の一語までおまけつきだ。空を飛べなかった頃のクリストファー・ウォーケンだとか、メルヴィル以後のフィルム・ノワールはクソだ、とか映画ファンにはたまらない科白が続出の今回の作品、チャンドラーの『大いなる眠り』を思わせるジャングルのような温室まで登場させている。どうせ遊ぶのだったら徹底的にやろうと思ったのか、映画のみならず、スパイ小説やハードボイルド小説といった、エンタテインメント色の強い読み物好きには堪えられない趣向になっている。

車に拳銃、英領の名残りを残す香港ならではの料理、酒、葉巻、といくつになってもこういうものが好きな男たちにはたまらない薀蓄の総ざらい。ここしばらくハードボイルド小説から遠のいていた鬱憤を晴らすつもりか、或はまた、卒業したつもりでいたハードボイルド小説を書くことに対する開き直りなのか、二村はいつになく饒舌。宍戸錠とのやりとりも含め、ファン・サービスに徹している。本場の中華料理を楽しみに香港に渡った二村がなかなか中華料理にありつけないという、焦らしもまた、お約束ながら、読者を最後まで引きつけて離さない。複雑に入り組んだプロットは、旧満州国八路軍毛沢東などにより、時代の刻印を押されながら、日本と中国の二つの国を渡り歩く運命を負わされた人々の苦渋の人生を照射する。

相変わらず、センチメンタルで、簡単なことでは女に手を出さない、近頃稀なダーティーでないヒーロー像だが、舞台を香港という魔都に取ったことで、スマホで小峰と連絡は取りながらも、日本の湿った空気から解放された二村永爾が、のびのびと動き回るところは好印象。前作『ロング・グッドバイ』は相手役に不満が残ったが、今回は男性陣に魅力的な人物が用意されていて満足した。美人女優が三人も登場するのだが、心に残るほどのヒロインとは言い難い。二村の相手をするに相応しい年齢ではなかったのかもしれない。まだまだやれそうな二村永爾。次回の登場まで、今度は何年待たされるのだろうか。