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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『イヴォンヌの香り』 パトリック・モディアノ

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冬の夜更け、湖畔の温泉保養地を訪れた話者は、取り壊されたホテルや明かりの消えたショー・ウィンドウをながめ十二年という時の流れに思いを馳せる。季節外れで人影のない街路をぬけ、そこだけは賑わいを見せる駅前広場に足を向けたとき、列車を待つ金髪の若い兵士に身を寄せる男が目にとまった。ベージュの私服を着て首にスカーフを巻き、兵隊たちのからかいを受けている男の名はルネ・マント。あの夏、「ぼく」はイヴォンヌとマントと三人、避暑客で溢れるホテルやカジノを渡り歩いては無為に日を送っていた。

アルジェリア戦争時代、騒然とする世情に不安を感じた「ぼく」はパリを抜け出し、スイスにほど近いサヴォワに宿を取り、逼塞の日々を過ごしていた。そんなある日、映画を撮り終えたばかりの新進女優イヴォンヌに出会う。意気投合した二人は彼女の友人で、医学博士のマントと共に、毎日を享楽的に過ごす。片眼鏡をかけ、ロシア系の伯爵と身分を偽り、イヴォンヌのホテルに移った「ぼく」は日々を共に過ごすうち、いつか二人でアメリカに渡ることを夢見るようになる。

不穏な情勢をしり目に、怠惰な日々を避暑地で送るブルジョワたちに交じって椰子やブーゲンビリアに飾られた人工的な楽園で日がな一日プ-ルで寝そべる安逸な暮らし。傍目から見れば実に安穏な生活だが、三人には人の知らない事情があった。シュマラ伯爵を自称する「ぼく」は、事故死した父の仕事のいかがわしさとユダヤ系の血筋に漠然とした不安を拭い去れないでいる。イヴォンヌとマントはこの地方の出身ながら、早くに町を捨て別世界に生きていた。売り出し前とはいえ女優のイヴォンヌにとっては錦を飾る帰郷だが、頻繁にジュネーブとの往復を繰り返すマントは、何か事情がある様子。

定職に就かず身分を偽り、根無し草のような生活をずるずる送る十八歳の「ぼく」は、いやでも作家その人を思い出させる、モディアノ作品ではお馴染みの主人公だ。少し年上だが、「ぼく」と同棲を続けるイヴォンヌも二十歳を少し過ぎたくらい。二人は、地方の名士で開業医の息子であるマントを介して、高級ホテルで避暑を愉しむ上流階級の仲間入りを果たす。実在の人物やコクトーの『オルフェの遺言』、アラン・レネの『去年マリエンバートで』など、当時上映中の作品名を散りばめて、時代背景を浮かび上がらせる手法は堂に入ったもの。

イヴォンヌの叔父さんに職業を訊かれて、本を書いていると答えてしまう「ぼく」。女優と作家の関係にマリリン・モンローアーサー・ミラーを重ねて、アメリカでの成功を夢見る、いかにも幼い十八歳の青春。金と暇をもてあました若者たちの避暑地の恋を描くかのように見せかけて、若い者には垣間見ることのできない世界の奥深さ、ほろ苦さを、マントをはじめ彼らを取り巻く大人たちが醸し出す、何かはっきりしない後ろ暗い振る舞いや彼らとは異なる退嬰的な香りによって仄めかす。これが四作目というから、その練達の技量は初期のうちから確立されていたもののようだ。

青春時代を回想する者だけに許される、あまやかな悔いにも似た感情が胸の裡に迫り、今となってはとり返しのつかない過去を憧憬する、その感傷性に思う存分浸された『イヴォンヌの香り』の原題は「Villa Triste(哀しみの館)」。深夜になると、どこからかマント宛てに電話がかかってくる。その伝言を聞くため二人が頼まれて留守番をするマントの家の名だが、二度と再び帰らない、ひと夏を過ごした避暑地の隠喩でもある。

「そう、あの夏はたえずあたりに歌や音楽が、しかもいつも同じ曲目が流れていた」。「半分破れた雑誌が、床に散乱していた。琥珀色の香水びんがあちこちに転がっていた。犬は膝掛け椅子に横にまたがってまどろんでいた。そしてぼくたちは、古びたテパーズのプレイヤーでレコードを次々に回した。明かりをつけるのも忘れていた」。夏の思い出は悲しい。しかし、それはいつまでもぼくたちの胸によみがえってきては、帰らないものの名を呼びつづけるのだ。