青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『林檎の木の下で』 アリス・マンロー

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短篇集といってまちがいはないのだけれど、通常のそれとはいささか様子がちがう。本文に附された「まえがき」によれば、二部構成の第一部は、スコットランドで羊飼いをしていた一族が新天地を求めてアメリカ(カナダ)に移住し、原野を切り拓いてゆく、いわばレイドロー一族の年代記。第二部は著者が「自分自身の人生を探求する」つもりで書いた、「通常の場合と比べると人生の本当のところにいっそう注意を払っている」限りなく自伝に近い短篇小説集である。

ある程度の年になると、誰でも自分の血筋のことが知りたくなるものだが、特別な家でもなければ、たいしたことは分からない。系図や書物が残っているのは一部の階級に限られている。辺境の地の羊飼い一族についてこれだけの小説が書けるには理由があった。いかにもアリス・マンローの先祖らしく、「一族にはどうやら世代ごとに、率直で、ときにはけしからぬ手紙や、詳細な回想録を長々と書き綴ることを好む人間がいたらしい」のである。

直系の祖先は十七世紀末のウィル・オファープにまで遡る。妖精と話をすることができ、川をひと跳びで越えることができた、という伝説上の人物。その子孫の中から海を越えてアメリカで一旗上げようと考える者が出てくる。一家の航海の様子は「キャッスル・ロックからの眺め」に詳しい。しっかり者の嫁のアグネスや引っ込み思案ながら内に知性を秘めた姉メアリ、寡黙で責任感の強いアンドリュー、といった人物像はマンローの短篇集に度々登場する人物の原型だろう。弟のウォルターが書き残した「航海日誌」他の資料をもとにした創作である。

第一部の最後に収められた「生活のために働く」には、ヒューロン郡にある農場裏の植林地で毛皮獣を捕獲する著者の父が登場する。祖父というのが、なかなかの人物だ。冬になると仕事を全部片づけて本を読んだという。「必ずしも稼げるだけの金を稼ごうとはしていなかった」「生活水準を上げるため、生活を楽にするためにより多くの金を稼ごうとするのはみっともないことだと思われていたのかもしれない」。著者の母親はちがったようだ。父の獲った動物の毛皮を加工し、自分で町へ売りに行き金を稼いできたという。清貧をよしとしながらも進取の気性に富む、著者は一族の多様な気質を受け継いだようだ。

「家」と題された第二部は、少女時代から六十歳を過ぎた現在に至る半生を一人称形式で語る。これまでいくつもの小説に、ちょっと自意識過剰で、取り扱いが困難な、それでいて周囲の目を引く賢い女性が登場したが、その原型はここにいたと思わせる、ある意味非常に魅力的なヒロインが、すべての短篇に共通して現われる。著者の自画像である。

表題作「林檎の木の下で」は、ゴールズワージーやL・M・モンゴメリの本の影響で「自然」に傾倒し、田舎道を自転車で走り回り、木の下に寝そべって下から花を見上げたいという願望を抱く少女に訪れた初々しい恋を描く。日曜日の午後になると自転車を走らせ、人目につかない田舎の学校でのデートを繰り返していた「わたし」は、とある夕暮れ時、少年が働く馬小屋に誘われる。突然響いた銃声が、少女の恋愛観を決定してしまう。微笑ましくも残酷な初恋譚。

十七歳の夏、お手伝いさんとして避暑客に雇われた島での一夏の経験を描いた「雇われさん」。読書経験豊かな年頃の女の子が、遊興客を相手に感じる屈折した心理と、自我の安定を図るために耽る妄想が、ナウシカアーに関する知識とアイザック・ディネーセンの本という小道具を用いて鮮やかにまとめられている。短篇小説の名手の手にかかると、事実あったであろうアルバイト先での出来事の一つ一つが、まるで典型的な小説の素材ででもあったかのように見えてくるから不思議だ。

「チケット」は、結婚を前にした女性の心理をスケッチした一篇。父や兄は、善良ではあるが貧しい家の暮らしについて無理解な婚約者をからかう。異なる環境で生きてきた家族の出身者が共に暮らす結婚というものが本来的に有する不条理を冷めた目で見つめる話者。「うちの家族には(略)自分たちより上の人間、上だと思っているんじゃないかと感じられる人間を戯画化しようとする習性」があった、と「わたし」は言う。「地位にふさわしい以上の知性を負わされた貧しい人間」は、相手を戯画化することで自分を優位の位置に置き、無理にでも均衡を保とうとする、というのだが。自己を含む一族を客観視してしまうこの視線もまた、地位に見合わぬ知性の賜物ではある。

虚構であるが、かなりのところまで実人生に沿って書かれていることもあって、小説巧者の手際を見せるという点では他の短篇集に比べ物足りない。その一方で、作家が創作の基礎とする自分を含めた人間心理の探究、一人の作家を創り上げるために一族の果たした役割、移住者の目から見たカナダ開拓秘史等々、カナダ人作家アリス・マンローを知る資料として非常に興味深いものがある。