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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『日夏耿之介の世界』 井村君江

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思いもかけぬところで、日夏耿之介の名を目にすることがある。この間も『教皇ヒュアキントス』という新刊書の訳者あとがきで、芥川から日夏に原著者に関する本が贈られた挿話が記されていた。こんなところにも、と感じ入ったことであった。一般には難解な漢字に自在にルビを振った、世にいう「ゴスィック・ローマン詩體」による象徴詩集『黒衣聖母』他の著者で、学匠詩人として知られる日夏耿之介だが、澁澤龍彦云うところの魔道の先達として、悪魔学(デモノロギア)に先鞭をつけ、モンタギュー・サマーズの著作を纏めた『吸血妖魅考』はじめ、諸文献を日本に紹介し、後に続く人々に道を啓いた功績は、余人をもって代えがたい。

著者は大学院生時代、阿佐ヶ谷にある日夏宅で直接講義を受けることを許された三人のうちの一人で、河出書房新社版全集の仕事に携わり、晩年に至るまで隠棲先の飯田市を訪れ、その謦咳に接している。全集の月報その他に書き続けてきた、師である日夏耿之介に触れた自身の文章を集めたものである。学生時代、師のお供をして銀ブラを楽しんだ思い出や、日夏を慕う人々との交わりやら、若い頃の思い出は、選ばれて近くに身を置いたものだけが持つ矜持が其処此処に潜み、懐かしくも愉しい気分が伝わってくる。

師の勧めでイェイツの妖精学に親しむことになり、それが現在に繋がるが、英国留学中も全集の仕事はついて回るなど、師との関係は深いものがあったようだ。思い出の他には、詩人日夏耿之介についての評論、随筆、それに師の周囲にいた人々についてのポルトレ、年譜を付している。本人も書いているように、あまりに畏れ多いという思いが先に立つのか、門人を含め本格的な日夏論は、あまり書かれていない。「ゴスィック・ローマン詩體」の由縁等、晩年の弟子による詩人論、詩の解説は貴重なものといえる。

硯をはじめ書画骨董の目ききでもあった日夏の詩集は銅版画家長谷川潔の挿画入りの美麗な造本で知られている。著者秘蔵の書影、詩人の在りし日の写真、デスマスク等の図版も多く、日夏を愛する者には何よりの資料である。しかし、それにもましてうれしいのは、身近にいた者だけが知ることができる詩人に纏わる逸話の存在である。芥川との交友は先に触れたが、同時期に処女詩集を発刊した萩原朔太郎との交遊、雑誌の同人でもあった堀口大学との確執等々、成程そういうことだったか、といちいち頷かされる。

一つ二つ紹介すると、パリ在住の長谷川潔の部屋を訪れたとき、電気をとめられていたため暗く、なぜ日本はこの芸術家を支援しないのかと、同道した息子が涙した話が書かれた後に、その死後、大々的に回顧展が開かれた矛盾が書き添えられている。回顧展は記憶に残っているが、長谷川潔の窮乏については全く知らなかった。日夏耿之介の詩集といえば、長谷川潔抜きには語れないと思っていたが、渡仏したまま帰国しない画家のことなど誰も気にも留めなかったということか。

また、一時は互いにエールを送りあう仲であった堀口大学と絶好状態に至った経緯が、おそらくはじめて明らかにされている。後継者と目されていた詩人平井功が、堀口の帰国で日夏の関心がそちらに向かうのを怖れ、繰り返した讒言がその理由であったろうというものだ。新たな資料、証言がでてこない限り、夭折した詩人には名誉挽回の機会はないだろう。閉じられた世界での師弟愛は深みにはまると傷ましいものがある。堀口大学の方は、日夏宅に残る自分の書簡の有無を著者に尋ねているところから、憾むところはなかったようだが、燃やされてしまった書簡に何が書かれていたか今となっては知ることもできない。

日夏といえば、送られてくる詩集その他の新仮名遣いの本を書斎の窓から下に流れる川に流し、「新仮名が流れてゆく」と呵呵大笑したと伝え聞くように、狷介孤高の人という印象が強い。朔太郎に対しても、詩は大好きだが、詩論は嫌いだ、と手厳しい文章を書いている。芥川の書いたもののなかにも青臭いものがあると門人に語るなど、自ら恃む所頗る厚く、たとえ友であっても是々非々を貫く、潔いといえば聞こえはよいが、友人にしたらつきあいにくいタイプではなかったか。一方で、慕ってくる者には気遣いを見せる優しい面もあったようだ。晩年に近くにいた若い女性ということもあったのだろう。著者の語る日夏耿之介は、まるで好々爺である。書くべき人を得た本といえよう。かねがね一度は飯田市を訪れ、黒御影石の詩碑を拝したいと思っていたが、季節もよし、そろそろ足を運ぼうかと思っている。