青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『サリンジャーと過ごした日々』 ジョアンナ・ラコフ

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恋人と別れ、留学先のロンドンから故郷に戻ったジョアンナは、ニュー・ヨークの出版エージェンシーで働き始める。仕事は、ボスがディクタフォンに録音した手紙をタイプすること。それとジェリー宛に届く手紙に定型文の返事を書いて出すことだった。採用にあたり、ボスからは厳重に注意されていた。ジェリーについて質問してくる相手には、住所も電話番号も絶対に教えては駄目、すぐに電話を切ること、と。指示に対して「はい」と答えたジョアンナだったが、彼女にはジェリーとは誰のことなのかよくわかっていなかった。

無理もない。ファクスもコンピュータもなく、ディクタフォンとタイプライターで仕事をしている1950年代を思わせるオフィスだが、舞台となっているのは1996年で主人公は二十三歳だ。J・D・サリンジャーは、新作を発表しなくなって長かった。人前に姿を現すこともなく、引退した作家のように思われていた。それに、「難解な本質を追求しようとする小説」が好きな彼女にとっては「サリンジャーの作品は耐えがたいほどキュートで、やりすぎなほど捻りを効かせ、そして気取っている。なんの興味も持てなかった」。

それが、実際にサリンジャーの電話を受けてみると、思っていたのとはちがって、気取ってもいなければ偏屈でもない。それどころではなく、詩を書くことをすすめられ、仕事は朝早くからするに限ると教えられる。慣れてくると、サリンジャー宛の手紙のなかに定型文の返信を返すだけではすまないような気がして、作家に代わり、自分の署名で返事を書くようになる。少しずつサリンジャーとの距離がちぢまってゆくのだ。

先に言っておくと、主人公の名が作家と同じであることからも分かるように、これは純然たるフィクションではない。ジョアンナはエージェンシーであった時、あのサリンジャーと電話で話をしただけでなく、実際に顔を合わせるという貴重な経験を持つ。作家になってから、若かった当時を思い出し、できるだけ事実に忠実に書き上げたのがこの作品だ。そういう意味で、フィクションとしての価値は括弧に入れなければならないが、サリンジャーの「ハプワース」という作品を新しく本にして出すという降ってわいたような企画に振り回される顛末を、自身の当時の恋愛や友人関係を絡ませ、小説仕立てにしてみせた意欲作だ。

小説家を目指すものなら、サリンジャーとの出会いというネタを使わないという手はない。事実なのだから、できるだけ手を加えず、そのまま提出する方がより価値を持つにちがいない。そうはいっても、そこは作家。読ませるに足るものに仕上げなくては出す意味がない。そこで、ジョアンナという若い女性の成長に光を当てる。人間として人を見る目。その目が育つに連れ、すぐ傍にいる恋人の姿がだんだん遠ざかってゆくのが痛いほど分かる。もうひとつは、サリンジャーとの関係だ。今まで読んでこなかったサリンジャーの作品を読むうちに、その評価が変わってくる。評価というのではない。読者を客体としてではなく、主体として扱うのが、サリンジャーの小説だ。そこでは、誰もが人物に自分を重ねる。そして、作家に手紙を書きたくなるのだ。この人なら分かってくれるにちがいない、と思って。

ニュー・ヨークを舞台にした洒落た小説はいくらもある。そういう外見は借用しているが、内実は学費の借金返済に追われ、アルバイトで食いつないで小説を書いている男と、暖房設備すらないアパートで同棲中の女の話。どうしたって暗くなりがちな題材を、エージェンシーとして働く若い女性のスキルアップという面で撥ね返し、いきいきとした日常をすくいとってみせる技術はたしかなものだ。特に、人物を描くのがうまい。どう見てもダメ男のダンと何故一緒にいるのか分からないまま同棲を続けるジョアンナの葛藤はリアルだ。ボスや先輩の人物像もシャープで、実際に人物が見えるように描けている。モデルがあるのだからという意見もあるだろうが、それを文章で表すことができるかどうかはまた別だ。ここには魅力的な人物が多数登場する。

訳には少し注文がある。若い訳者なので知らないのだろうが、ウディ・ガスリーの息子はアルロではなく、アーロ・ガスリーだ。それと何度も出てくる「ゆいいつ」は、漢字で「唯一」と書くか、別の訳語をいくつか試した方がすわりがいいのではないか。全体的には、きびきびしたテンポのある訳になっているように思う。書棚のどこかに埋まっているサリンジャーの小説。久し振りに探し出して読んでみたくなった。