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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『吉田健一』(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集20)

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あるとき朔太郎を読んでいて、文学とはまず第一に批評である、と書かれていて驚いたことがある。それまで文学といえば真っ先に思い浮かべるのは小説だったから、なぜ批評がその上に位置するのだ、と疑問に思ったものだ。当時、批評とは「他人の書いたものをあれこれ論じて価値を定めるその時々のジャッジ」のことだと思っていたからだ。しかし、それは文芸時評(review)というもので、批評(criticism)ではない、と解説を読んではじめて腑に落ちた。それでは批評とは何か。池澤によれば「批評は文学の原理を明らかにし、文学を導くもの」だそうだ。なるほど、それならよく分かる。朔太郎のいう批評とは、(criticism)のことだったのだ。

当時すぐにそう思えなかったのは、こちらが未熟だったことは勿論だが、そう言われて思いつく批評(criticism)らしきものを読んだことがなかったからでもある。じゃあどんなものがそれにあたるのかといえば、この本の巻頭に置かれた「文学の楽しみ」を読めばいい。これこそ、文学の原理を明らかにし、文学を(本来そうであるべき方向に)導いてくれる文章というもので文学といえば何故小説を思い浮かべてしまったのか、そのわけが説き明かされるだけでなく吉田健一特有の思考の流れを丹念に追いつづける悠揚迫らない息の長い文章が、丸谷才一が言うところの女が着物に帯を合わせるように絶妙に配された絢爛たる引用と綯い交ぜになって読むものを文字通り「文学の楽しみ」に導いてくれる。

日本で文学といえば小説、それも自然主義の小説や私小説が主流となり、詩や批評が中心の位置に来なかったのか、なぜ世界を苦しいものと見たり、文学の中に思想その他何か別のものを求めたがるようになったのか、それを一口で言うのは簡単だが、レシピを読んでも料理の味が分からないのと同じで、早急に答えを求めるのでなく、古今東西の文学に深く親しみ、その詩をフランス語や英語の原文で諳んじることを日常とした文士の語りに耳を傾けるのが最もよいのではないか。文章には独特のリズムというか調子があって、一度その調子に乗ることができれば苦もなく長時間の講義を聴きつづけることができる。ときにはその辛辣なヒューモアに思わず噴きだし、次々と繰り出される名詩に酔い、意気軒昂たる啖呵に胸のすくのを覚える。

「文学の楽しみ」と並べるように置かれた「ヨオロッパの世紀末」も日本の近代文学成立とヨオロッパの19世紀とのかかわりの深さについて鮮やかに説き明かしてくれる。吉田によれば、ヨオロッパは18世紀にその絶頂を迎え、英国ヴィクトリア朝が代表する19世紀は偽りの世紀である。ボオドレエルやワイルドが代表する世紀末芸術が興ったことにより、ヨオロッパは再び息を吹き返す。こういう考え方や見方を身につけた文学者はその当時の日本には皆無であった。つまり、何も知らない日本の文壇を相手にギリシアにはじまりユダヤ教キリスト教)を経由して生まれたヨオロッパというものを説くと同時に表層的な理解によって輸入した文学なるものの本来の根源を指摘したものである。

吉田健一ひとりで一巻としたところに池澤夏樹編の日本文学全集がいかに画期的な試みであるかが明らかになっている。これは池澤本人も書いているが、丸谷才一吉田健一を指標としてこの文学全集は編まれている。旧来の小説偏重の文学全集とは批評重視という点で一線を画しているというわけだ。重量級の批評二篇に続いては、自身の翻訳書について触れた「『ファニー・ヒル』訳者あとがき」と「ブライズヘッド再訪」(小説そのものではない)が控えている。初めての読者はここから読み始めることを編者はすすめている。肩の力が抜けて気楽に読めるからだろう。

酒と食味随筆でも知られる吉田である。「食い倒れの都、大阪」や「酒談義」などの読んでいるだけで酒が飲みたくなってくる軽めのエッセイや「酒宴」「辰三の場合」などの短篇小説もちゃあんと用意されている。晩年に到ってようやく全開される「金沢」等の本格的な小説世界に導くための心遣いというものであろう。全集中の一巻という縛りのあるなかで、吉田健一という日本には稀な贅沢で幸福な文学者を紹介するという容易ではない仕事をさすがに若い頃吉田健一全集編纂に携わった経験を持つ編者ならではの目配りでやりとげていると思う。「ロンドン訪問紀」のなかでさりげなく触れられているイアン・フレミングとの交遊など読むほどにケンブリッジ帰りの文士のあの顔をくしゃくしゃにした笑顔を思い浮かべ陶然となる。

批評の中にも自身の翻訳によるラフォルグやディラン・トオマスの詩が引用されているが、「君を夏の一日に喩へようか」で始まる「シェイクスピア詩集 十四行詩抄」が原詩つきで末尾に付されているのは嬉しい。先に訳詩集『葡萄酒の色』を愛読していたが、原詩を読みたく思っていた。因みに冒頭部分原詩では“ Shall I compare thee to a summer’s day? ”である。シェイクスピアがぐっと身近に迫ってくるのを感じないだろうか?