青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『日ざかり』 エリザベス・ボウエン

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「しかし彼らは二人きりではなく、それは最初から、けだし恋の初めからそうだった。彼らの時代がテーブルの三人目の席についていた。彼らは歴史の産物で、彼らの出会いそのものが、ほかの日ではありえない出来事だった――その日の本質がその日に内在していた。恋人同士にとってはそれがつねに真実だが、それがわかるのはもっと後になるかもしれない。人と人との相互関係は、各自が抱えている時代との関係に左右され、起きつつあることに左右される」

一般に恋愛というのは二人の男女の間に起きる個別的な問題であるように思われるが、ことはそれほど簡単なものではないようだ。この小説が扱っている時代は、第二次世界大戦のさなか、しかも主たる舞台は灯火管制下のロンドンである。主人公のステラは早くに結婚したが、その後離婚。亡き夫との間に二十歳になるロデリックという息子がいる。現在ステラには、ロバートという年下の恋人がいる。ある夜ステラのフラットにハリソンという男が姿を見せ、ロバートには情報漏洩の嫌疑がかかっている、危険だから即刻手を切れ、という。どうやらハリソンはステラに気があるようだ。

英国の小説らしく、アッパー・ミドルに属する主人公、ミドルに属する恋人、ロアー・クラスのルウイ、コニー、と異なる階級に属するもの同士が出会うことで生じる途惑いや軋轢、憧憬やコンプレックスが人間関係に深みと厚みを与え、立体的な空間を現出する。ステラは離婚後、持ち家を売り、家具つきのフラットを借りているが、亡夫の従兄弟がアイルランドに所有するビッグ・ハウス、モリス山荘は遺言によりロデリックが相続することになる。それに比べるとロンドン郊外に建つロバートの家は、一見豪邸だが、実は売りに出されている。

社会階層が影響を与えるのは、住む家だけではない。そこに暮らす人間の流儀、社交のあり方、言葉の使い方などすべてに渉る。実際、ステラという女性は頭がよく、容姿も魅力的で近づく男を虜にしてしまう。夫との過去に何があったかは謎として伏せられているが、息子にとっても魅力的な母である。ステラのフラットを訪れるロバートとロデリックが一枚のガウンを共有するのが象徴的である。ロデリックにはフレッドという友人がいつも連れ添っているが、オックスフォードの学友らしいところから見て同性愛の関係が仄めかされている。

戦時中、夫を戦地に奪われた妻が内地でどのような生活をしていたのか。ルウイは寂しさを紛らすために男との出会いを求めていた。小説の冒頭でルウイが見つけたのが、ステラに事実を話すべきか悩むハリソンだった。ハリソンの目にはルウイは見えないのも同様だった。同じ事態の下にあっても、階層の差は異なった恋愛事情を生む。ステラとロバートの恋愛は本物であったが、ダンケルクからの撤退で脚を負傷して実戦から遠のいたロバートは対独戦争に熱を上げる国民感情を冷ややかに見ていた。

国家への忠誠と敵に通じつつある恋人との間で揺れ動く心理という主題は戦争中、英国情報部に勤務していたこともあるボウエンならではの問題意識でもあろうか。あとがきで訳者も触れている同じ時代、よく似た主題を持つ、イアン・マキューアンの『贖罪』、カズオ・イシグロの『日の名残り』、そしてボウエンの友人でもあったイーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッド再び』などを既読の読者にはひときわ感興の深い読書体験になろうかと思われる。

近年、この訳者によるボウエンの新訳が相ついで出版され、手軽に読めるようになったのはありがたいのだが、訳者の言葉にもあるように、原文に可能な限り忠実な訳というのが難物で、日本語の文章としてはとっつきにくい感がある。吉田健一訳があると聞いたのだが、古本でもめったに出ないらしく、ネットで検索をかけるとかなりの高額だった。近くの図書館で検索しても所蔵しているところはなかった。読み慣れれば最初ほどひっかかりはなくなるが、さすがに流麗な訳とは言いがたい。どこかで『ブライヅヘッド再び』の時のように、吉田健一訳の復刊は出ないだろうか。情景描写、心理描写ともに素晴らしい小説であるだけに、好きな訳者の翻訳で読んでみたいと切に願うものである。