青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ボウエン幻想短篇集』 エリザベス・ボウエン

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掌篇といえるような短いものも含む短篇小説が十七篇。いずれも、ごくごく普通の男女が日常のなかで出会うべくして出会ってしまった類稀なる非日常の一コマを鮮やかに切り取り、すくいとって見せる、短篇小説の名手ならではの技巧の冴えを見ることができる名篇ばかり。それに加えて、アングロアイリッシュという出自、少女から老女へと成長・変化する女性心理の細やかな書き分け、二人の男と一人の女というちょっとバランスを欠いた「三人組」の関係、戦争時代が手繰り寄せる幽霊譚、といったボウエン独特のモチーフが他の作家に代えがたい魅力を添えている。

幽霊とはいっても、ボウエンの書く幽霊はあまり怖くない。知らない場所で自転車や自動車が故障し、助けを求めた先がそこにあるべきはずのない家であったり、いるべきはずのない人であったり、家の廊下に足音がしたり後姿が見えたり、という程度のものが多い。ボウエンのゴーストーストーリーは、師と仰ぐヘンリー・ジェイムズ譲りの心理的な存在。M・R・ジェイムズの書く物に出てくるやたら人を怖がらせる幽霊とは別物である。

人が一人で、あるいは複数の人と暮らしてゆく中で、不満や納得できない感情が募っていくあまりに、何か箍が外れるように日常に間隙が生じるとき、そのひずみに乗じて現れるのが幽霊である。人と人との気持ちのすれちがいやわだかまりが、誰の手によっても救われることがなくなったとき、人ではなく幽霊が現れるのだ。ボウエンの描く幽霊は、救いのない状況の中で、かなえられない願いや救いを求める心の反映である。それだけに最も怖いのは、知らぬ間にそうした状況を生みなし放置してはばからない人間であるといえる。

少女の持つイノセンスについても触れておきたい。ボウエンの作品にはよく少女が登場する。その年頃によって微妙に異なるものの、愛らしいだけの存在などでは全くない。むしろ、冷めていてときには非情なまでに残酷である。「ラッパ水仙」や「森の中で」に登場する少女がそうだし、「あの薔薇を見てよ」の少女の諦念にも似た透徹した怜悧さも印象的である。少女期に友人に告げた一言が年経て、わが身に降りかかる「林檎の木」も怖い。ただ、「林檎の木」には救いがある。年配の女性の捨て身の看護により悪魔祓いがなされるからだ。

このある程度の年齢になった女性の持つ力もまた。ボウエン作品の魅力である。「林檎の木」のミセス・ベタスレーがその一人。二度までも「オオカミ」と形容されているくらいだから、普段は厄介な人格なのではと思わせる。しかし、結びの段落にある「虚栄心にひそむ情熱は、その根底を突きつめれば精神力であり、強靭な攻撃力となる」という言葉通り、一ケ月というものその毒舌を武器に若い女性にとり憑いた悪霊と戦い、勝利する。

「闇の中の一日」は、ある夏の一日を描いた一篇。少女が女性に変わろうとする羽化にも喩えられる一夏を描いて美しい。十五歳の少女バービーは、叔父に恋している。叔父の方も少女といる夏を楽しんでいるようだ。少女は叔父の使いでテラス・ハウスに住むミス・バンテリーを訪ねる。本を返すのとアザミを刈る道具を借りるのが言いつかった事だ。叔父とミス・バンテリーの関係には何やらあやがあるようだ。この老いたミス・バンテリーはまさに女家長であり、有能な実業家でもある。人を見抜く力にも優れ、バービーの恋心もあっさり見通している。初めて会う女のぶしつけな言葉に内心を見透かされ戸惑う少女の心の揺れを描く筆が秀逸。ピクチャレスクな風景に囲まれた観光地の夏。オールド・ミスが少女を自分の秘めた恋のライヴァルと認知する。その少女に寄せる辛辣ではあるがおおらかな好感がなんとも心地好い。ジブリ映画に登場する女家長を思い出す。ボウエンの長篇に音をあげた経験を持つ読者も、この掌篇はお気に召すことまちがいなしである。

「幻想短篇集」と銘打たれているが、どちらかといえば「傑作短篇集」。そのなかに、比較的ゴースト・ストーリーが目立つ、というところだろうか。長篇小説では、二つの大戦をはさむ異常な時代、階層によって異なる文化・慣習を持つ英国人社会が生み出す複雑で多様な人間関係を、鋭利かつ分析的な視点と晦渋とさえ感じられる精妙な文体を駆使して描き出すボウエンだが、短篇小説には、全く異なった切り口で取り組んでいる。長篇小説と短篇の違いについては併せて収録された四篇の自著に付した序文に詳しい。批評家としてのボウエンを味わえるという意味でも、よく考えられた編集であるといえる。