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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ある夢想者の肖像』 スティーヴン・ミルハウザー

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ミルハウザーの愛読者にとっては長年の渇を癒す、待望の長篇第二作(1977年)の翻訳。しかも翻訳は柴田元幸氏である。何をおいても手にとらないわけにはいかない。そう勢い込んで読んでみたのだが、ちょっと様子がちがう。夏の月夜の徘徊、自動人形、雪景色といった偏愛のモチーフを多用し、他の作家にはない独特の世界を構築するミルハウザーらしさは横溢しているのだが、執拗に同じフレーズをくり返す、粘着気質っぽい話者の語りが異様なほど強調されていて、訳者あとがきで柴田氏も書いているように、「ミルハウザーらしいと思える面と、およそミルハウザーらしくない、と思える面」がある。訳者の言うとおり、「すべての読者をまんべんなく喜ばせることはなくても、一定数の読者を強烈に魅了する本」なのかもしれない。

原題は<Portrait of a Romantic>。ヘンリー・ジェイムスの『ある貴婦人の肖像』やジョイスの『若い芸術家の肖像』を意識したのだろうか。アーサー・グラムという名の弱冠二十九歳の話者が幼い頃から高校時代までの自分と家族、親しい友達との交友を語る、半自叙伝的小説である。英語の「ロマンティック」は、日本語の語感とは少しちがって「空想的な」という意味で、人を指していうときは「夢想家」。「夢想者」という訳語は耳慣れないが、ちょっとルソーの『孤独な散歩者の夢想』を連想させる。

舞台はコネチカットの田舎町。コンクリートの堤防に囲まれた小川だとか、車体工場だとか、全然ロマンティックでない風景のなかに、工場の簿記係の父と小学校教師の母の間に生まれた一人っ子。仕事より趣味が生きがいの父親とバリバリと家事をこなす母親に育まれたアーサーは、毎日が退屈で退屈でしかたがない少年に育つ。外遊びが嫌いで、家で本を読んでいる方が好きという、典型的な内面活発、外面不活発の少年である。当然遊び相手にも恵まれず、両親相手にトランプ遊びをしたり、年中行事のピクニックや海水浴も家族親戚同伴という生活が高校時代まで続く、というのだから確かに退屈にちがいない。

ミルハウザーらしいのは、このどこといって代わり映えしない田舎町でアーサーが過ごす日常を目に見える物、聞こえる音を壁紙の模様から遠くを走るトラックの音まで端折ることなくとことん精緻に克明に描写していること。この描写魔めいた記述はある種の読者にとっては麻薬めいた魅力を持つといえるだろう。一方で、アーサーのとる行動は終始一貫したパターンから抜け出ることはない。バーベキューで焼くのはフランクフルト。飲み物は母が作ったピンクレモネード、といった具合に。年齢を重ねるに連れ行動半径は広がるが、家を出て、どの場所を抜けて、どこに向かうかは、ほぼ不変といっていい。だから、その行動を追う話者の語る言葉もまた同じ文句の繰り返しになるわけである。

従姉妹のマージョリーを別にすると、アーサーには親しい同年輩の友だちがいない。その代わりに現れるのが「自分の分身」である。七歳の時に登場するのがウィリアム・メインウェアリング。もちろん、ポオの『ウィリアム・ウィルソン』を踏まえている。ウィリアムとはモノポリーや卓球、探検ごっこを毎日やって飽きない。第八学年になると、「第二の分身」、フィリップ・スクールクラフトが現れる。ポオに夢中なこの少年は、級友や教師を蔑視し、本の中に隠した拳銃でロシアン・ルーレットをやるようアーサーを唆す誘惑者である。高校に入ったアーサーを待っていたのが「亡霊(ザ・ファントム)エリナー」ことエリナー・シューマンという女の子。病気で欠席がちな少女の、人形で埋め尽くされた部屋にアルトゥール(アーサー)は入り浸る。

ウィリアムとは家族ぐるみの交際が続くが、後の二人とは当人の部屋を訪れているときだけの付き合いである。その分、濃密で蠱惑的な関係が深まってゆく。二人に共通するのはデカダンスであり、死に対する篇愛である。実は毎日が死にたいくらい退屈な「僕」には小さい頃から自殺願望が付き纏っている。フィリップとのロシアン・ルーレット、エリナーとの薬物による心中ごっこ、と死への傾斜は度を増してゆく。そして、ハックルベリー・フィンとトム・ソーヤーのような関係に見えていたウィリアムもまた…。

退屈な毎日がくり返すだけの田舎の夏休みを少しずつずれを含んだ繰り返しで描いてみせる部分と、エキセントリックな友人と共有する異様で不安に満ちた非日常の世界。この二つが微妙な均衡を保ちながら、少しずつ後者の比重が重くなってゆく。過去のノスタルジックな回想の中に漂う郷愁に満ちた感傷が薄れ、成長した「僕」は次第に倦怠感溢れる日常に押しつぶされそうになってゆく。

個人的な感想だが、幼少期から思春期に賭けての昼間の野外での活動を描いた部分からは自分の少年時代の映像が何度も喚起され、非常に魅力を覚えるのだが、月夜の徘徊やエリナーの部屋での狂態、つまりミルハウザー的なモチーフに溢れた、よりファンタスティックな部分にはいまひとつ満足感が得られなかった。おそらく、後の短篇の完成度が高過ぎて同様のモチーフとして不満足に感じられたのだろう。また、分身三人は文字通りの「分身」であって、現実には存在しなかった、と思える。小さい頃のウィリアムが生き生きとした存在に描かれているのは、子どもの頃は誰もが「夢想者」なのであって、その分ウィリアムにも現実感が賦与されているわけで、歳をとればとるだけ、空想は現実味を失い幻想的なものと化す。フィリップやエリナーが漂わせる不在感は、空想の持つリアリティが減衰してゆくのを表しているのだろう。

訳者によれば「アメリカ小説の一番斬新な流れがリアリズムから、非リアリズムに移行しつつある」のが、現在という。ミルハウザーはその先駆であると訳者はいう。『ある夢想者の肖像』は、その「アメリカ小説の斬新な流れ」を一作の中で体現してみせる小説であるといえよう。本作に見ることのできる、ミルハウザーのリアリズムというものが、非リアリズム的な部分と比べても充分に魅力的であると再確認した上でいうのだが、ミルハウザーによるリアリズム小説というのも読んでみたいと痛切に思うようになった。