青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『べつの言葉で』 ジュンパ・ラヒリ

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『停電の夜に』で、衝撃的なデビューを果たした後も、『その名にちなんで』、『見知らぬ場所』と確実にヒットを飛ばし、つい最近は『低地』で、その成長ぶりを見せつけていたジュンパ・ラヒリ。その彼女がアメリカを捨て、ローマに居を構えていたことを、この本を読んではじめて知った。単に引っ越したというだけではない。英語で書くのもやめてしまい、今はイタリア語で書いているという。ずいぶんと思い切ったことをしたものだ。もちろんこの本もイタリア語で書かれている。もっとも読んでいるのは当然のことながら日本語に訳されたものであるわけなのだが。

コルカタ生まれの作家の両親はアメリカに来てからも家ではベンガル語を話しつづけた。ロンドン生まれで幼い頃アメリカに渡ったラヒリは、小さいころは両親の使うベンガル語をつかっていたが、幼稚園ではまわりの子とまじって英語を話すことを強制された。ずいぶん居心地の悪い思いをしたことだろう。その当時の気持ちは、ここに所収の言語習得に関する自伝的エッセイにくわしい。しかし、成長するにつれ、英語で話したり書いたりすることがあたりまえになると、今度は両親と話すときにだけつかうベンガル語が疎遠になったと感じるようになる。そのへんの喩えを、メタファーの名手であるラヒリは、実母と継母の喩えを用いて説明している。無論、英語が継母である。

しかし、この実母と継母は仲が悪かった。コルカタに帰れば、周りはベンガル語を話す人ばかりで、今や英語で書く作家になったラヒリにとって、そこは父母の祖国ではあっても自分の祖国という気にはなれない。では、アメリカが祖国かといえば、それもちがう。そのあたりのことを作家はこう書いている。

「ある特定の場所に属していない者は、実はどこにも帰ることができない。亡命と帰還という概念は、当然その原点となる祖国を必要とする。祖国も真の母国語も持たないわたしは、世界を、そして机の上をさまよっている。最後に気づくのは、ほんとうの亡命とはまったく違うものだということだ。わたしは亡命という定義からも遠ざけられている。」

そう感じる作家には、「べつの言葉」が必要だった。しかし、イタリア語との出会いはそんなふうに理詰めに進んだわけではない。その美しい出会いについては、本文中に、時系列に沿って、水泳や雷の一撃といった的確かつ美的なメタファーを使用しながら詳しく書かれている。すごい美人ではあるが、どうみてもオリエンタルな印象を与える彼女の外貌のせいで、買い物をした店でイタリア語の発音の流暢さを、スペイン語訛りのイタリア語を話す夫に負けてしまう悔しさなど、笑ってはいけないのだが、つい笑ってしまうようなエピソードもまじえながら。

いくら好きでもラヒリがイタリア人でないのはその外見だけではない。歴史や土地との結びつきそのものがネイティブとは決定的にちがうのだ。パヴェーゼが『ホメロス』の訳について書いている書簡の内容に触れて、その深さ、広さに到底追いつくことのできない限界を感じながら、それでも言葉を覚えはじめたばかりの少女のように、目を輝かせて、新しい世界に飛び込んでゆくことの感動を語るジュンパ・ラヒリにまぶしいほどの感動を覚えずにはいられない。それと同時に、人間というものと言葉との結びつきの深さにも今一度再考させられた。

「小さいころからわたしは、自分の不完全さを忘れるため、人生の背景に身を隠すために書いている。ある意味では、書くことは不完全さへの長期にわたるオマージュなのだ。一冊の本は一人の人間と同様、その創造中はずっと不完全で未完成なものだ。人は妊娠期間の末に生まれ、それから成長する。しかし、わたしは本が生きているのはそれを書いている間だけだと考える。そのあと、少なくともわたしにとっては、死んでしまう」

このような深い省察が、二十年にわたる努力はあったにせよ、まったく自由に選び取られた言語で綴ることのできる才能に呆然とするばかりだ。ただ、その達成のために、自分を世界的に有名な作家にしてくれた英語を捨て、アメリカを捨て、ローマに移住してしまう行動力、意志力にも驚かされる。

はじめは誰にも見せない日記からはじめたイタリア語は、やがて週刊誌に毎週寄稿するにまで至る。原稿はまずイタリア語の先生に見てもらい、その後知人である二人の作家に目を通してもらい最後に編集者の意見を聞くことになる。それを作家はローマ時代のポルティコを支える足場にたとえ、その足場にありがたさを覚えると同時に、今はまだ足場がなくては崩れてしまいそうな段階だが、いずれは足場を外しても建っているだけの文章にしたいと決意を語っている。

イタリア語に惹かれるようになってからこれまでの経緯をつづる短いエッセイが二十一篇。いずれも、この人の手にかかると読み応えのある、しかも端正でみずみずしい筆致にあふれる読み物になっている。それに図書館で突然降ってきたかと思われるようにして書かれた短篇、というより掌編が二篇付されている。英語で書いていたころとはひと味もふた味もちがう新生ジュンパ・ラヒリがそこに息づいている。これからも、この人から目が離せない。そんな思いにさせる一冊である。