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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『天国でまた会おう』 ピエール・ルメートル

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第一次世界大戦後間もない頃の話。戦地で埋められた死体を掘り起こし、遺族の待つ地方の墓地に葬るという施策が立てられた。ところが、それを請け負った業者が、死体が物言わぬのをいいことに、杜撰きわまりないやり方でそれを行なったことが発覚し世間を騒がせたことがあったという。小説の中では、棺桶の料金を値切ったために、棺の寸法をどれも一メートル三十センチにしたことで、死体が折り曲げられたり、寸断されたりした例が挙げられている。もっと酷いのは、ドイツ兵の死体が混じっていたり、中が土だけの棺があったり、と死者を冒涜するにもほどがある。

これをやらせたのは没落した地方貴族の末裔プラデルで、屋敷の修復にかかる金を、この不正によってまかなおうというのだ。この男がやった悪事はそれだけではない。終戦間際、厭戦気分に陥った自軍の兵士を奮い立たせるため、プラデル中尉はドイツ軍の仕業に見せかけ、斥候に出した兵士を後ろから撃ったのだ。たまたまそれを目撃した主人公アルベールは、プラデルに砲撃でできた穴に落とされ、生き埋めになるところをエドゥアールによって助けられる。しかし、エドゥアールは、砲弾の破片によって顔の下半分を抉り取られてしまう。

生き残った二人はパリに帰り、復讐を誓う、というのが考えられるだいたいの筋だろうが、話は『巌窟王』のようには展開しない。それというのも、アルベールはいつも泣いているような顔をした意気地なしで、プラデルに面と向かって反抗などできないし、エドゥアールは、大金持ちの息子のくせに父に反抗して家に帰りたがらない。生活に困った二人は戦死者の記念碑造りを請け負う詐欺を計画する。

戦地に向かった若者が戦争が終わって帰ってみれば、職はもとより、恋人まで他の者に奪われていた。戦友を窮地から救い出した英雄は、顔を失くし、声を奪われ鎮痛薬であるモルヒネのせいで麻薬中毒者に成り果てていた。善人たちは非力で不幸に追いやられ、対する悪人は外見の良さを武器に金持ちの娘と結婚し、財産を手にしてやりたい放題。この不合理に対し、どういう結末をつけるのだろう、という興味で読者は読みすすめる。それしかないからだ。というのも、どの人物も人間としてどこかバランスを欠いており、感情移入してみたくなるような美しさや強さをそなえていない。唯一快哉を叫べそうなのが小役人のメルランだが、風采が上がらない上に臭いときている。

「彼は最初に訪れた墓地で打ちのめされた。年季の入った人間嫌いも、ぐらつくほどに。大量殺戮そのものが、衝撃だったのではない。地球上ではいつだって、災害や疫病でたくさんの人が死んでいる。戦争はその二つが合わさった程度のものだ。メルランの胸を打ったのは、死者たちの年齢だった。災害で死ぬのは誰でも同じだ。疫病でまず死ぬのは、子供や老人だろう。けれども、若者をこんなに大量に殺すのは戦争だけだ。」

メルランの心中を語った部分である。大量の若者の命を奪い、生き残った者の心身にさえ深い傷を負わせる戦争に対する批判、という作品の主題を強く反映している。ただ、違和感を感じるのは、敵役の犯罪を告発する証人ではあるとしても、主人公でも、副主人公でもない人物の心の中まで話者が語ってしまう話法についてである。ふだんあまり読まないのでよく分からないのだが、「冒険小説」(訳者あとがきに、そうある)のようなジャンルでは、話者は傍役の一人に至るまで内部に入りこみ、その心理を語るものなのだろうか。たしかに、そうしてくれれば、限定視点で書かれた作品を読むときのように、視点人物でない人物の心中を読者があれこれと想像したり、斟酌しないですむが、神様じゃあるまいし、そうそう他人の心の中まで分かるというのは、現代小説としてどんなものだろうか。読んでいて、昔の小説のように感じられたのは多分にその辺が作用しているのだと思う。

雨のそぼ降る墓地でメルランが死体を掘り起こすところや、人骨をくわえた犬が出てくる場面、破壊された顔をエドゥアールが次々と繰り出す仮面で仮装するといったあたりにグラン・ギニョールや鶴屋南北に通じる頽廃と酸鼻の気配が濃厚で、強引な結末のつけ方といい、フランス人によって演じられる歌舞伎を見せられたような気がした。